西尾幹二のインターネット日録

随筆
2006年11月10日

アンリ・ルソー

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1888年頃、油彩・キャンパス、46*55センチ、世田谷美術館蔵
「世田谷美術館開館20周年記念、ルソーの見た夢、ルソーに見る夢」展は、12月10日(日)まで、東京・世田谷の世田谷美術館で開催中。休館日は毎週月曜日。お問い合わせはハローダイヤル=03-5777-8600へ。

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「サン=ニコラ河岸から見たサン=ルイ島」
孤独な人影 ここにも

 一瞬パッと見たとき童話の挿絵、子供が一番最初に描いたお父さんの顔、肖像はたいてい正面を向いていて、遠い家も近い家も同じ大きさで、色がきれいな塗り絵の世界、動きがピタッと静止した瞬間の絵、それでいて楽しくて悲しい不思議な物語が絵の奥に伏せられているような詩的世界――それがアンリ・ルソーの印象である。

 遠近法を欠いて基本的に二次元で描かれている。タヒチを描いたゴーガンの画法や装飾化したクリムトの世界も二次元。北斎も火や水をそこだけわざと装飾化している例がある。でも彼らはみな遠近法を承知で壊したのである。ルソーは遠近法を知らなかったのか学ぼうとして学べなかったのかそこが微妙に分らない。

 この絵はパリを描いた風景画だが、彼の風景画には必ず孤独な人影がある。この絵にもある。あたかも近代絵画の流れから無縁な位置にいたルソーの孤独が写されているようにも思える。(西尾幹二・ドイツ文学者)

東京新聞11月2日掲載

お 知 ら せ

11月11日(土)に公開講演をいたします。

「富永仲基の仏典批判とショーペンハウアー」

日本ショーペンハウアー協会第19回全国大会

場所:九州産業大学(1号館2階S201大教室)
    福岡市東区松香台2-3-1
問い合わせ先:日本ショーペンハウアー協会事務局
        (日本大学文理学部哲学研究室内)
         020-4624-9462

午前中は研究発表、午後私の公開講演、そしてシンポジウムがある。

13:40~14:40 公開講演
14:50~17:15 シンポジウムショーペンハウアーと日本の思想

公開講演は無料シンポジウムに私は参加しません

2006年09月28日

「小さな意見の違いは決定的違い」ということ(九)

 言論人は反政府的であるべし、と決まっているわけではない。それは古い考え方である。それでも言論人と政治家とでは役割が異なる。言語で表現するのと、行動で表現するのとの原則上の違いがある。

 昔は言論人は反政府的ときまっていた。福田恆存のような、自分は「保守反動です」とわざということがアイロニーだった時代に文字通りの保守思想界を代表した論客が、選挙で何党を支持するのかと問われて、自民党と答えず民社党と言っていたのを面白いためらいと思ったことを覚えている。

 この原稿を私は私の若い時代、60年安保騒動の思い出から始めたので、もう少し思い出を加えてみよう。さらに6年ほどさかのぼった昭和29年(1954年)に、私は大学1年で、第5次吉田内閣のたしか官房長官だった増田甲子七という人が駒場のキャンパスに来て大教室で講演をしたのを聴いたことがある。

 あの頃保守政党の政治家は学生にとっては「人間」ではなかった。会場は怒声で溢れていた。彼がなんの話をしたのか、まったく覚えていないが、次々と質問に立つ学生が「増田!貴様は・・・・」という調子で呼び捨てにするので、私はひどい連中だと秘かに彼らのほうに腹を立てていた。

 すると会場からひとり「失礼ではないか。呼び捨て止めろ」の声を挙げる者がいて、その一声で会場がサーッと波打つように静かになって、私がホッと安堵したのがはっきり記憶にある。

 当時の学生たちの「非常識」と「常識」の二面を見る思いがしたものだが、要するに保守政党の政治家は学生世論では悪の権化であり、人間の皮を被った化物なのであった。

 そのわずか2年前(昭和27年)の5月に皇居前広場で「血のメーデー事件」が起きていた。米ソ対立の代理戦争が日本の国内で白熱化していた時代だった。昭和35年はいうまでもなく60年安保で、アイゼンハウアー大統領の訪日阻止デモで私の友人の何人もが逮捕されている。

 そんな時代の空気をずっと吸って生きてきた私は、勿論まったく時代の風潮に反対であり、保守サイドに立つ私は彼らにとって裏切者で、悪魔の代弁者であったが、支持政党は何かと公式に聞かれると自民党とはあえて言わないで民社党と言った福田恆存の自己韜晦は非常によく分るのである。

 32歳の頃、私は国立大学の講師だったが、『国民協会』という自民党の新聞に一度だけ署名原稿を書いたことがある。誰かが見つけて来て、ドイツ文学界の中の私の評判はがた落ちになった。

 私だけでなく、政府に与するような議論を述べることに言論人は永い間逡巡し勝ちだった。いつの頃から情勢が変わったのだろうか。アメリカの影響だろうか。左翼が弱くなったせいもあろう。それでも、政府べったりの主張をする人間はみっともないという意識は、学者言論人の世界ではずっと普通だったし、今でも多分そうだろう。

 あの60年安保騒動の渦中にあった首相のお孫さんが総理大臣になったのかと思うと、昔を知る世代には感無量である。そして、知識人や言論人のブレーンの名が新聞に出ると、アメリカ型政治の影響であるとか何とかいわれても、半世紀でこうも変わるものかとこれまた不思議な思いが去来するのである。

 時代がどんなに変わっても、権力と知識人の間にはつねに一定の緊張が昔からある。また、なければいけない。言論人が個々の政策に口を出すのではなく、むしろ言論人が政権に黙って大きな立場から影響を与えるというくらいの存在でなければ意味がないのではないだろうか。

 言論人が政権にすり寄り、虎の威を借りて自説を補強するなどということは、最近の新しい現象かもしれない。それが言論の強化に役立つと考えるのだけは完全な錯覚である。

 それは次のような理由による。言論と違って、政治は無節操に変化するのを常とするからである。例えば安倍政権は拉致事件の解決のために中国と協議する必要上、靖国で妥協するかもしれないと不安がられている。私はそんなことはしない方が得策だという考えである。靖国で妥協してもしなくても、中国の北朝鮮政策は同じで、拉致が解決しないときは何をしてもしない。としたら、妥協したならば安倍氏は両方を失う可能性がある。そう思うからである。

 しかしそう思うのはどこまでも言論人の考え方である。政治家はまったく別の判断をするだろう。別の判断をしても仕方がないだろう。しかもそれを政治家は自分の責任においてやるだろう。言論人はこの種の政治的情勢判断を慎むべきである。民族の「信仰」の問題で他国との妥協はあり得るか否かの原則を応答すればそれでよい。

 新井白石や荻生徂徠が幕府から下問されて儒教の経書に照らして思想上の正否を述べ、それ以上口出ししなかったという態度にもこれは似ている。

 岡崎久彦氏が靖国の遊就館の展示内容をさし換えよという乱暴な発言をしたとき、文化界のある重要な立場にいる人が私に、岡崎氏は米大統領が安倍新政権にテコ入れするために二人で一緒に靖国参拝をする情報を知っていて、米大統領が参拝し易い条件をつくろうとしているのだろう、と言った。私は確かな情報か、と問い質した。すると彼は、いや、岡崎氏ともあろう人がこんな発言をするからにはそれくらいのことがあるのではないか、と、単なる観測気球をあげた。何から何まで人の好い、楽天的な、自分の好む方向を好意的に空想しているだけの話で、文化界にある人のこういう政治的観測、根拠なき情勢判断の甘さは何よりも具合が悪いと私は思った。

 言論人はこの手の政治情勢解釈を、できるだけ慎むべきである。言論人がある程度「反政府的」であらざるを得ないというのは、言論と政治の原則上の相違からくる。政治はどんどん揺れ動く。言論はそうそう揺れ動くわけにはいかないからだ。

 政治家のために言論人が奉仕すべきではなく、奉仕してもそれには自ら限界があるというのはここに由来する。

 竹中平蔵氏の運命をみても、政治に全面奉仕して、彼に残るものは何もなかった。不良債権処理と構造改革において政権の力で自分の理念を実行し得た、という自己満足は十分に残っただろうが、それが客観的に評価されるかどうかはまったく分らない。彼は政界に残っていても、安倍氏に相手にされず、もうやることがないと判明したので辞めたのだと思う。

 しかし彼は言論人であることを中止して政治家となった数少ない成功例である。彼は学者言論人にはもう戻れない。勿論、どこかの職場の一員としては戻れるだろうが、その言論活動は何を唱えても末永く「小泉」の名と結びつけて扱われることを避けることは出来ないだろう。

 学者言論人の政治との関わり方は難しい。前にも言ったが、黙っていてもその影響が政治に静かに作用しつづけるような存在でなければ本当は迂闊に政治について発言すべきではないのかもしれない。しかしその理想形態は孔子と魯国、ゲーテとワイマル公国のようなケースで、現代においてはほとんど不可能かもしれない。

 ここまで書いて9月26日を迎え、安倍新内閣の閣僚名簿が発表された。総じて私は好感をもった。経済閣僚の人選には竹中路線が感じられ、少し先行き不安だが、安倍氏が自分の思想的同志で固めたのは心強い。論功行賞などという必要はない。首相の意志がパッと伝わる陣形がつくられたのは能率的で、「党内党」がつくられたという趣きさえある。

 そこから当然問題が生じる。首相に力が結集するこの「集中力」は安倍氏のパワーに依るものではなく、前首相の野蛮な力の遺産である。前首相と異なる人柄の良さと明るさで野蛮の根はいま覆い隠されている。しかし「集中力」はいつかほどける時がくる。

 ほどけたほうがいい。ほどけて党内不統一が生じるのが自民党らしい民主的なやり方で、もし党内統一がますます強まり、国民を「束ねる」方向へどんどん進んだらまた別の危険が生じるだろう。

 自民党は昔から、陰と陽、明と暗、動と静のカラーの交替で危機を乗り超えて来た。前首相の遺産を受け継ぎながら、前首相とは正反対の仮面を新たに表に出して、世間の目に舞台を替えて見せるのである。

 野蛮の次は今回は礼儀正さである。パフォーマンスの次は地味な実務的効率の良さである。それで目先を替えて今回もうまく行くのかもしれない。

 いずれにせよ、閣僚の中に田中真紀子とか猪口邦子といったわれわれが嘲りたくなるような人物がひとりもいないということだけでも、ホッと一安心できてありがたい。

           (終)

2006年09月13日

「小さな意見の違いは決定的違い」ということ(五)

 いま新聞や週刊誌は誰が大臣になれるかなれないか、幹事長や官房長官の座を射とめるのは誰か、そんな話題でもち切りである。誰が大臣になっても同じだと嘲笑う一方で、誰それは必ず何大臣になりそうだとかなれそうでないとかの情報をまことしやかに、さも大事そうに伝える記事も忘れずに書く。

 マスコミの習性は昔から変わらない。そして学者や言論界の予想されるブレーンの名前を添え書きするのも毎回同じである。ただ今回は、「新しい歴史教科書をつくる会」の紛争記事でおなじみになった名前、岡崎久彦、中西輝政、八木秀次、伊藤哲夫の名前がたびたび登場するのが注目すべき点であろう。

 当「日録」でしばしば扱われてきた方々が新内閣のブレーンとして重職を担うということになるのだそうである。もしそれが事実であるとすれば、「歴史教科書」をめぐって最近起こった出来事、すなわちかの激しい紛争と安倍新政権とがまったく無関係だと考えることは、どうごまかそうとしても難しいだろう。

 「日録」に掲げられた「つくる会顛末紀」「続・つくる会顛末紀」をお読みになった方は、「つくる会」紛争のキーパーソンが日本政策研究センター所長の伊藤哲夫氏であったことに薄々お気づきになったに違いない。旧「生長の家」の学生運動時代において、「つくる会」宮崎元事務局長と同志であり、「つくる会」元会長八木秀次氏とは師弟関係、あるいは兄貴分のような位置関係にあると見ていい人だと思う。

 思えば安倍政権の成立に賭けてきた伊藤氏の永年の情熱には並々ならぬものがあった。それは悪しき野心では必ずしもない。自分の政治信条を実現するうえで安倍氏は最も役に立つ、という判断に立っている。「安倍さんは自分たちの提案を一番聞いてくれる」と伊藤氏はよく言っていた。

 伊藤氏はシンクタンクの代表者であり、アドバイザーである。昭和天皇冨田メモ事件における安倍氏の記者会見の発言は伊藤氏に負う所大であると秘かに伝え聞く。これからも伊藤氏は安倍新内閣を側面から扶助し、相応の権力を分与される立場に立つであろう。

 伊藤氏がそうなることは氏の永年の夢の実現であり、昔の友人として私はそのような状況の到来を喜んでいる。氏は思想家ではないと自分で自認している。氏は言論人でもない。政治ないし政界にもっと近い人である。フィクサーという言葉があるが、そういう例かもしれない。故・末次一郎氏のような役割を目指しているのかもしれない。

 伊藤氏のような仕事を目指す方がこういう補完的役割を果すということは、それ自体はとても良いことなのだが、中西輝政氏や八木秀次氏は学者であり、言論人であり、思想家を自称さえしているのであるから、伊藤氏とは事情を異にしていると言わなければならない。

 中西輝政氏は直接「つくる会」紛争には関係ないと人は思うであろう。確かに直接には関係ない。水鳥が飛び立つように危険を察知して、パッと身を翻して会から逃げ去ったからである。けれども会から逃げてもう一つの会、「日本教育再生機構」の代表発起人に名を列ねているのだから、紛争と無関係だともいい切れないだろう。

 読者が知っておくべき問題がある。八木秀次氏の昨年暮の中国訪問、会長の名で独断で事務職員だけを随行員にして出かけ、中国社会科学院で正式に応待され、相手にはめられたような討議を公表し、「つくる会」としての定期会談まで勝手に約束して来た迂闊さが問われた問題である。中国に行って悪いのではない。たゞ余りに不用意であった。

 折しも上海外交官自殺事件を厳しく吟味していた中西輝政理事に、会としてこの件の正式判定をしてもらうことになった。高池副会長が京都のご自宅に電話を入れた。その日の夕方、中西氏からそそくさとファクスで辞表が送られてきた。電話のご用向きは何だったのでしょうか、の挨拶もなかったので、会の側を怒らせた。

 上海外交官自殺事件その他で、中国の謀略への警告をひごろ論文に書いている中西氏が、八木氏の中国行きを批判し叱責しなかったら、筋が通らないのではないだろうか。書いていることと行うこととがこんなに矛盾するのはまずいのではないか、という中西氏への非難の声が会のあちこちで上ったことは事実である。

 中西氏は賢い人で、逃げ脚が速いのである。けれども「つくる会」から逃げるだけでなく、もう一方の会からも逃げるのでなければ、頭隠して尻隠さずで、政治効果はあがらないのではないだろうか。とすればもう一方の会からは逃げる積りがないことを意味しよう。

 伊藤哲夫氏の日本政策研究センターは安倍晋三氏を応援する「立ち上れ!日本」ネットワークという「草の根運動」を昨年末ごろに開始している。安倍氏もそのパンフに特別枠の挨拶文をのせている。総裁選のための人集めと思われる。中西輝政氏も、八木秀次氏もそこに名を列ねている。

 すべてのこうした複数の名前が鎖につながれるように一つながりになって、「つくる会」を「弾圧」する側に回っていた背景の事情を、私はとうの昔に見通していた。しかし世の中は、安倍政権が近づいて、学者や言論界のブレーンの名前が新聞に出ないかぎり、どういうつながりが形成されていたかをなかなか理解しない。

 伊藤哲夫氏が「立ち上れ!日本」ネットワークのような特定政治家応援の運動を展開することは氏の自由に属する。氏の本来の仕事でもあるから結構なことである。

 私は伊藤氏のそうした政治活動を非難しているのではない。伊藤氏よ、間違えないで欲しい。

 そうではなく、伊藤氏が宮崎元事務局長を死守しようとして「つくる会」の人事権に介入し、八木秀次氏の「三つの大罪」(前回参照)を認めずに八木氏を背後からあくまで守ろうとして、一貫して「つくる会」を「弾圧」する理不尽な行動を強行したことを私は責めている。氏はこの事実をまず認め、反省してほしい。

 そして衆目の見る処、伊藤氏の「つくる会弾圧」の力の源泉は安倍晋三氏にあると考えざるを得ない。そのことが新聞に名が出ることで誰の目にも次第に明らかになってきた。

 総理大臣になる前に安倍氏がかねて最も大切にしていたはずの「歴史教科書」の会を混乱させ、分断にいたらしめたことに自ら関与しなかったにしても、結果的に、間接的に、関与していたという事情が次第に明らかになることは、安倍氏の不名誉ではないだろうか。

 「歴史教科書」と並ぶもう一つのタームである「靖国」に対しても、安倍氏は総理大臣になる前に、その遊就館の陳列の改悪に関して、岡崎久彦氏を使って手を加えさせようとしたのではないかという疑念がもたれている。

 私は今の処この件に関し背後の闇に光を当てる材料をもたない。しかし安倍氏ご本人が忙しくてどこまで自覚しているかは分らぬにせよ、伊藤哲夫氏や岡崎久彦氏のような取り巻きがこのように勝手に動いて安倍氏の首班指名前の歴史に泥を塗るようなことが起こっているのは事実ではないだろうか。

 私は伊藤氏が「歴史教科書」に関して八木氏が犯したような「三つの大罪」を犯しているなどとは全く考えていない。しかし、氏が「八木さんは悪くない。八木さんを支持して下さい」とあっちこっちで言って歩いていたのは間違いない事実である。

 以上のような八木氏の持上げは伊藤氏が安倍晋三氏の指示を受けてやったことなのか、ご自身の勝手な判断で安倍氏の意向を汲んでのことなのか、それともまったく安倍氏とは関係のない自由判断なのか。

 そのことは時間が経つうちに次第に明らかになるだろう。

 私は「つくる会」の紛争に安倍氏が無関係であったどころか、並々ならぬ関与があったのではないのかという疑いに一定の推論を試みているのである。「歴史教科書」と「靖国」という外交上の条件を新政権の成立前にともかく替えてしまいたい。その手先になって働く者は誰でもいいから利用したかったのではないか。

 安倍氏の靖国四月参拝は、小泉八月十三日前倒し参拝と同じ姑息な一手に見えてならない。氏が中国への対決姿勢を捨て協調路線を散らつかせているのも気になる。今さら憲法改正に5年もかけるという気の長さはやらないと言っているに等しい。国民の反応よりも、アメリカの顔色をうかがっているのかもしれない。参議院候補者の見直しは唯一の勇気ある態度表明だが、もう恐いものなしと見ての党内大勢を見縊っての発言であって、総裁選より参院選の方が心配だからである。中国とアメリカへの彼の態度の方はいぜんとして不透明で煮え切らない。

 「歴史教科書」を新米色に塗り替え「靖国」の陳列にアメリカへのへつらいを公言した岡崎久彦氏への干渉は、安倍氏の意向の反映でなかったと言い切れるか。

 12月末中国を不用意に訪問し、定期会談を約束し、慰安婦や南京で朝日新聞を失望させない教科書を書くと「アエラ」発言をした八木秀次氏の軽薄な勇み足は、安倍氏の外交政策の本音をつい迂闊に漏らした現われでなかったと果して言い切れるか。

つづく

2006年09月09日

「小さな意見の違いは決定的違い」ということ(四)

 7月2日の「新しい歴史教科書をつくる会」総会の終了後にいつものように懇親会があった。櫻井よしこさんその他が挨拶をした。櫻井さんはいつも来る顔である。この日は珍しい来賓があった。岡崎久彦氏である。

 岡崎氏は私が名誉会長であった間は総会に来たことがない。多分気恥しいひけ目があったからだろう。(彼は「つくる会」創設時には脛に傷もつ身である。)私が姿を見せなくなったら突然現われ、紛争について叱責調で、「つまらない争いはやめろ、一体何で争っているのか分らない。怪メールが非難されているが、自分には何が悪いことなのかまったく分らない。八木氏の中国訪問に何も問題はない」と語ったそうだ。

 伝え聞きなので正確を欠くかもしれないが、ともかくそういうことを言ったそうだ。櫻井よしこさんも「子供みたいな喧嘩は止めなさい」というたぐいのお説教を述べたそうである。

 櫻井さんの動機はよく分らないが、岡崎氏がここへ出て来て、偉そうにして、参集した「つくる会」会員を叱ったのは今からみるととても奇怪な話なのである。なぜなら、岡崎氏は内紛の一方の味方になって彼らにピタッと張り付いた、実は紛争の当事者の一人であることが次第に分って来たからである。

 子供たちが喧嘩をしている場に先生がやって来て、もう争いは止めなさいと喧嘩両成敗のふりをして、じつは先生が一方に勝たせるためにきれいごとを言っていたというケースにも似ている。

 先生はA君を勝たせたい。B君が勝つと先生の職員会議での立場がなくなる。放って置くと必ずB君が勝つ。B君の主張のほうが正義であり、A君は汚い手を使っているからである。A君の汚い手は世間に知られると学校の名誉が傷つきまずい。そんなものはなかったことにしてしまいたい。

 というわけで先生はB君の仲間が集っている教室にやって来て、「お前たち、子供みたいな喧嘩はやめなさい」と叫んだ。B君とその仲間を黙らせることがA君を救うことになり、結果的に学校を救うことになる。岡崎先生は校長からそういう指示を受けていたに相違ない。櫻井先生もあるいはそうだったかもしれない。小田村四郎先生はその長い教員生活で間違いなくそういう指令を敏感に受け取って忠実に実行することでよく知られている人だった。

 B君たちはどこまでも自分を貫きたい。しかしそう出来ない事情がある。学校をやめさせられると明日から困るという事情がある。本当はやめてしまいたいのだが、B君たちは学校から「歴史教科書を出版してもらう」という業務資格を与えられているからである。退学したいが、退学してしまうとその業務資格をも失う。

 岡崎先生はB君たちのその弱点を知っている。人の弱味につけこんで居丈高に振舞うのは卑劣の徒のすることだが、平成も18年に及ぶと、卑劣は正義の仮面をつけて大通りを歩む。

 岡崎先生の後に学校長がいる。そのまた後に誰かがいるのではないか。

 その誰かに秋波を送るために学園あげてせっせと卑劣の技を磨いているのではないか。多くの人はだんだんその全体事情が分るようになって来た。

 じつは昨日「つくる会」に関係する件で、ここでは語れない非常に不愉快な別件が起こった。私が信頼している地方の会員さんが悩んで、長いメールを下さった。(私は会を辞任して久しいのだが、今でも切実な言葉を訴えてくる方が後を絶たないのである。)

 その方が、どんな不愉快な出来事が新たに起こっても、八木秀次氏(いわずと知れたA君のこと)の会に対して犯した「三つの罪」に比べれば取るに足りない、と、次のように書いてこられた。

 「今問題になっているこの件ですが、再びつくる会の混乱を招くことは避けたい、というのが現在の私の心境です。八木氏の三つの大罪、つくる会会長の身分で勝手に訪中し、定期会合まで約束した。藤岡先生の共産党脱退の期日を公安の名まで出して偽り、陥れようとした。(これは刑事告発されるような問題と思います)。雑誌「アエラ」につくる会にとっては不倶戴天の敵朝日新聞に批判されない歴史教科書をつくると公言した。

このようなことが、なんら咎められることなく、日本教育再生機構の代表に祭り上げられる。そして多くの識者が臭い物に蓋をして平然と祝辞を述べる。正に虚偽の集合体と言うほかない。しかし、これが目の前にある現実なんだ、と肯定はしませんが認識せざるを得ない。今起こっている新しい問題は、これに較べれば軽いものです。


 B君のグループはこうして教室の中で静かに膝をかかえて、じっと忍耐し、推移を見守っている。つまらない喧嘩はやめろ、と岡崎先生も、櫻井先生も、小田村先生も言うけれど、「三つの大罪」を正すことがどうしてつまらない喧嘩だといって切り捨てられるのだろうか、と生徒たちは腑に落ちない。

 どうも何か新しい事態が起こりそうなのだ。新しい理事長が学園にやってくる。A君も、岡崎久彦先生も、小田村四郎先生も、伊藤哲夫先生も、否、学園の組織全体が妙な雰囲気になり、歯車が狂い始めているのはそのせいらしいのだ。

 常識では考えられないことが相次いで起こっている。紛争のどちらの側にも味方しないと言っていた新聞社がA君の仲間の記事だけを目立つ場所に掲げる。B君たちの大集会のあった「総会」の日に合わせてA君の新聞コラムを載せた。出版社はA君の本や岡崎先生の本をこれ見よがしに出すことも忘れない。

 と、そうこうするうちに岡崎先生は勢い余って、靖国にまで手を出し、B君たちの歴史観は正しくないと大見栄を切ることさえやってのけた。やがて手ひどい竹箆返しを食らう日もくるだろう。

 一番バカバカしいと思ったのはA君たちの「日本教育再生機構」のこの「日本教育再生」という文字が新理事長の赴任後の方針に出てくる文字と符合していること、集会の日に配られたパンフの表紙に大きな字で「美しい日本の心を伝える」とあり、これまた何処かで聞いたことばなんだ・・・・・・

 え?「美しい日本」・・・・・・「美しい国」・・・・・・どっちが先なの?どっちが真似したの?自分を新理事長に似せようとするこの涙ぐましい生徒達の愚行。新しい権力者に平然とすり寄る羞恥心の欠落!

 新理事長が学校に赴任したらいい大人たちが手に手に旗をもって歓声を挙げて走り寄るのであろう。美と、健康と、清潔を掲げるスローガン。ハイル!ハイル!何とか。

 学園内部の紛争は新理事長の自ら関知しないことだったかもしれない。しかし、その人の着任を知って、ありとあらゆる学内の組織と人事が「おべっか」の組織的自己調節を始めた。

 「歴史教科書の出版権」という業務資格はB君たちに対する生殺与奪の権である。「おべっか」の組織がこれを振り翳して理不尽な圧力を加えればそこに必死の抵抗が始まる。三つの大罪を犯した者に理由もなく(まったく理由もなく)一方的に特権を与えようとすれば、必然的に混乱と争乱が始まる。

 「新しい歴史教科書をつくる会」の内紛の真の原因はこうして次第に明らかになりつつあるといってよいだろう。

 たとえこれから何が起こっても、A君の「三つの大罪」への追及の手がゆるむことはないだろう。A君が権力者に取り入り何らかの目立つ地位に就いた暁には、「三つの大罪」はそれだけかえって大きくクローズアップされ、ひときわグロテクスな輝きを放つことになるであろう。

2006年09月05日

「小さな意見の違いは決定的違い」ということ(三)

 

 9月10日発売『Voice』10月号「安倍総理の日本」の中で、私が「まずは九条問題の解決から」を担当しています。6枚の短文ですが、『正論』の拙論「安倍晋三氏よ、〈小泉〉にならないで欲しい」の補説になっていると思いますので、ご一読賜り度。   西尾 

 7月2日に「新しい歴史教科書をつくる会」第9回定期総会が行われた。私は勿論出向いていないが、後に報告を受けている。

 「つくる会」執行部はその日ある文書を参加者全員に配布する用意をしていた。それは会の内外に波紋を呼んだ紛争の経緯を、会が責任をもって説明するための「総括文書」である。

 私も後で読んだが、冷静によくまとめられていた。勿論「つくる会」の立場から書かれたもので、会をそろって「辞任」した八木秀次氏以下六人の元理事たちの立場を反映したものではなかったかもしれない。だが、それがもし必要なら、六人が別個の「総括文書」を他の機会に出せば済むことであろう。

 双方言い分があって対立し、主張し合い、袂を別ったのであるから、立場の異なる二つの「総括文書」が作成され、世間の便に供されればそれでよいであろう。お互いの立場を理論的に明確にすることは大切なことである。

 私はそう考えるし、良識ある者はそう考えるのが普通であると思う。話に聞けば文書を用意した「つくる会」サイドの理事諸氏は新しいステップを踏んで、会を再建するためにも過去の足取りを再確認し、広く会員に理解を求めて、流布している誤解や勘違いの類を一日も早く取り除きたいと願っていたそうである。

 というわけで、件の「総括文書」は参集した約200人の会員に受付で他の資料と共に配られた。パラパラと中をめくって読みかける人もいたそうだ。

 総会が終わりにさしかかった頃タイミングを見計って、元官僚の小田村四郎氏が起ち上がった。そして言った。仲間割れしている場合ではない。左翼を喜ばせるだけである。二つの勢力が仲良くするためにはこの「総括文書」は邪魔になる。もうこんなことはやらないで欲しい。いま配られたものを回収してもらいたいと強い調子で主張したのだった。

 会場は騒然となったそうである。小田村氏は人も知る「日本会議」の最高幹部の一人である。執行部はうろたえた。ひきつづき西東京支部のある女性会員が起ち上がって、涙声で小田村氏支持のスピーチをした。

 その女性は、この資料が一人歩きをしてしまうので「総括文書」は抹殺して欲しい、もうこれからは先生方全員、週刊誌など一切の報道機関に内紛の経緯を書いて欲しくないなどと言ったらしい。この女性の発言にその場の空気は一遍に「総括文書」を否定的にとらえるものとなり、日本会議の重鎮である小田村氏の意見を尊重することこそ全員の意見であるかのようになってしまったという。

 後日判明したが、この女性会員は元「生長の家」活動家で、日本青年協議会のメンバーであり、つまりは全部組織的につながっているのであったが、そのときは誰も知る由がない。

 もはや会場は収拾がつかなくなった。執行部は大急ぎで鳩首会談を開いた。小田村氏の権威(?)と女性の涙の訴えに気押され、いったん配布していた「総括文書」を回収する決定に追いこまれたのだった。

 私の知るのは以上のような事実である。鳩首会談の内容は知らない。ただ、小田村氏に賛同した人々の声は私の耳にも届いている。「『つくる会』の内紛はもうやめてくれ。徒らに左翼を喜ばせるだけではないか。仲間割れしている場合ではないのだ。」

 私は内紛をきちんとやめるためにも、「総括文書」の配布は必要であったと考える。会員の多くが過去の「事実」を正確に知ることから再建が始まる。「歴史」を知ることから未来が拓ける。

 すべてをうやむやにしてしまえば皆が再び仲良く一つになれると思う小田村氏の考えは甘いし、紛争の実体を彼は余りにも知らない。(今ここでその実体を再説することはもうしない。)

 加えて、仲間割れは利敵行為になるから、保守勢力の「全体」のパワーの結集のために「小異を捨てて大同につけ」といわんばかりの小田村氏の号令は、日本会議を中心に据えたいわば軍令部司団長の発想である。政治主義的な発想である。教科書作成の会になじまない。

 私は半世紀前の、60年安保の日の大学のキャンパスを思い出していた。大学院生も学部の学生も区別はないと私は言った。大学院生である自分が国会デモに参加するかしないかだけが問われているのであって、自分以外の、学部の学生のデモ参加を声明文で支持するか否かが問われているのではない、と。

 すると柴田翔君は「君の考え方は〈政治的思考〉に欠けている」と言った。誰かが「西尾、お前の考え方は〈敗北主義〉だ」と叫んだ。

 小田村四郎氏は私には柴田翔に見える。保守のありとあらゆる種類の会合に熱心に顔を出すこの老運動家は、60年安保の左翼革命インテリの顔に重なって見える。

 小田村氏は号令を発した。柴田翔君も号令を発していた。私は政治的な内容のどんな号令にも従う気はない。

 私だけではない。こと教科書作成に携わるような人は、内発の声にのみ従い、どんな号令にも従うべきではない。

つづく

2006年09月03日

「小さな意見の違いは決定的違い」ということ(二)

 以上に見た通り、「政治的思考」とか「敗北主義」とかいう言葉は当時左翼革命シンパたちがとかく他人を罵倒するときに使う常套句であった。政治的集団の力を少しでも高めて革命のための政治効果をあげることが何を措いても大切で、それが「政治的思考」だという考え方に発する。

 半世紀後の今では「保守運動」とかいうものを信じている連中が「小異を捨てて、大同につけ」とよく言うが、この言葉は「政治的思考」とまったく同質、同根である。仲間をみんなかき集めて一つになれ、という方向を「宥和」という言葉で形容することもある。

 みんな同じ左翼革命シンパの常套句の裏返しなのである。

 その証拠に、彼らは二言目に、「敵は左翼だ。仲間割れしている場合ではない。一つにまとまれ。団結の力を示せ」とまるで人間を兵隊扱いする。昔の左翼の言い分そっくりである。

 敵は左翼でも何でもない。敵はそういうことを叫ぶ人の心の中にある。左翼なんか今はどこにもいない。保守の名を騙(かた)る集団主義者の方がよっぽど昔の左翼に近い。

 ある保守を騙る人間が、黒い猫も白い猫も鼠を取ってくれゝばみな同じ、渡部も小堀も岡崎も西尾も、鼠退治をしてくれゝばみな同じ、と言っていたことばを今思い出す。腹立たしいほどに間違った言葉である。

 どうも今保守主義と称する人間にこの手の連中が増えているように思える。保守は政治的集団主義にはなじまない。保守的ということはあっても保守主義というものはない。保守的生活態度というものはあっても、保守的政治運動というものはあってはならないし、それは保守ではなくすでに反動である。

 「日本政策研究センター」とか「日本会議」はそこいらを根本的にはき違えている。保守は政治の旗を振るために団体をつくってはいけないのだ。それは左翼革命シンパのやり方、その模倣形態である。

 戦後余りに左翼が強かったので対抗上保守側も組織をつくった。それがだんだん巨大化して、自分たちがいま、昔憎んだ左翼革命勢力と同じようなパターンにはまり、同じような集団思考をしていることに気がつかなくなっているのである。

 「小異を捨て大同につけ」はこういうときの彼らの陳腐な合言葉である。

 もしどうしても集団行動がしたいのなら、政党になるべきである。自民党とは別の保守政党をつくる方が筋が通っている。

 ところが「日本政策研究センター」や「日本会議」と自民党との関係は相互もたれ合いであり、関係が切れていない。一番いけないのは彼らは権力に弱いことである。彼らは独自の保守運動をしているのではなく、いよいよになると自民党の政策を追認するのみである。

 自民党がはたして今、伝統と歴史を尊重する保守政党かという疑問が私にはある。小泉政権より以後、ますますその疑問が強まっている。自民党は共和制的資本主義政党でしかない。今の資本家たちに国境意識はなく、愛国心もない。

 「小異を捨てて大同につけ」と言っている保守運動家たちがせっせとそんな資本家に奉仕している図は滑稽というほかはない。

 小泉政権が安倍政権になって、事態が新しくなるとはとうてい思えない。

 尤も「日本政策研究センター」と「日本会議」を同一視するような言い方をしたが、組織を握っている事務局が旧「生長の家」出身者であるという以上の共通点はないのかもしれない。「日本会議」は皇室問題で小泉政権の方針に反対する大集会を開いた。必ずしも権力に弱いわけではない一端を証明した。

 しかし「日本政策研究センター」は小泉政権の事実上の継承者である安倍晋三氏にぴったり張りついていると聞く。新しく出来る安倍政権の行方は未知数である。ことにアメリカとの関係が見えない。経済政策が見えない。

 権力に対し言論人はつねに批判的である必要はなくときに協力的であってもよいが、まだ動き出してもいない新しい権力にいち早く協力的で、批判的距離意識を放棄するのは言論人としての自己崩壊である。

 安倍氏のアメリカとの関係、経済政策がはっきりして、一定の見通しが立つまで協力的態度は慎むべきである。

 権力は現実に触れると大きく変貌するのが常だ。安倍氏の提言本に「美しい国」という宣伝文句が使われているのが、正直、私には薄気味が悪い。「美しい国」とか「健康な国」とかいう文字を為政者が弄ぶときは気をつけた方が良いことは歴史が証明している。

 安倍氏本人はこの危険について案外気がついていないのかもしれない。「所得倍増」とか「列島改造」とか言っていた時代の方がずっと正直で、明るく、むしろ実際において健康だったのである。

つづく

2006年08月31日

「小さな意見の違いは決定的違い」ということ(一)

 昭和35年(1960年)私は大学院の修士二年に在学中であった。本郷のキャンパスは興奮に包まれた。樺美智子さんという一学生が「虐殺」されたというのである。実際には国会正門になだれこもうとしたデモ隊に踏みにじられて圧死したのである。

 しかしそんなことが聴き入れられる雰囲気ではなかった。酩酊していたのは学生たちだけではない。ほとんどの教室は休講だった。教授たちもこういう日には授業なんかしていられない、一緒に国会デモに参加するという人が多かった。

 手塚富雄教授(ドイツ文学)は保守的学者だと思われていたが、翌月の文芸誌『群像』に「学生たちのニヒリズムは終った」とかいう題のデモ讃美の評論を書いていた。

 私はおかしいと思っていた。安保改訂はそれまでの「不平等条約」の日本からみての一歩前進なのである。今でこそこれは通り相場になっているが、そういう常識が評論の世界でさえ言えるようになるのにもそれから20年はかかっている。

 私とて確信があったわけではない。大学の内も外も、新聞も雑誌(当時の代表誌は『中央公論』)も、私の考え方に相反する内容に満たされていた。私はまだ若い。「おかしい、変だな」と思うだけで、それ以上言葉にならない。

 大学で私は黙っていた。デモには一度も行かなかった。気になるから本郷の構内にまでは行くが、私と同じ少し斜にかまえているごく少数の友人とひそひそ語り合い、「冷笑派」に徹していた。

 その少数の友人たちとも政治的議論を詰めて語り合ったのではない。デモの旗を振っている同級生のリーダーを「あいつはアナウンサーみたいにペラペラ喋る奴だな」と嘲りの言葉を口走って、憂さ晴らしをしていただけだった。

 私が秘かに個人的に深めていた時流への批判と疑問を、大学のキャンパスで「公論」のかたちで口にすることなどとうていあり得ない情勢だった。

 樺美智子さんが死亡した翌日、構内は「今日のデモは葬い合戦だ」と騒然としていた。法文大教室では社会党の議員が演説をしていた。「虐殺抗議大集会」と張り出されていた。

 私は「虐殺じゃないではないか。自分たちで踏み殺したんではないか」と少し大きな声で言ったら、友人の柏原兵三君――後に芥川賞作家になり38歳で亡くなった――が私の口をぱっと塞ぎ、手を引いて人混みをかき分け、会場の外へ連れ出した。

 私の身に危害が加えられるのを彼は恐れたのである。友情から出た思慮深い行動だった。

 われわれは少し間を置いてドイツ文学科の研究室に行くと、大学院生がほゞ全員集っていた。そして何やら熱心に座の中央で演説をしている同級生がいる。その人の名は柴田翔といい、彼もまた『されどわれらが日々』という学生運動を扱った小説で芥川賞を後日受賞している人物である。その頃のドイツ文学科には多彩な人材が多く、古井由吉君もこの同じ場にいたはずである。

 柴田翔君が次のような提言をした。「今日は午後、大きなデモが計画されている。学部の学生諸君は国会正門を突破すると言っている。警官隊も今日は手強いと思う。何が起こるか分らない。大学院生のわれわれは学部の学生諸君に頑張れ、とエールを送りたい。独文科大学院生の名において独文科の学部の学生諸君の行動を全面支援する声明を出したいが、全員賛成してもらえるか」

 「賛成、賛成」という声があがる。黙っている人もいる。私は変だなと思った。ちょっとおかしいもの言いだと思った。手を挙げて次のように言った。

 「本日の危険なデモに際し学部の学生諸君の行動をわれわれ大学院生が支援するかどうかという問題ではなく、われわれ自身がデモに参加するかどうか、あるいはできるかどうかをひとりびとりが心に問う問題ではないのか」

 「大学院生の声明は学部の諸君を勇気づけることになる」と柴田君は言った。

 「それはおかしい、大学院生の特権意識ではないか。」

 すると柴田君はすかさず次ように言った。
 「西尾君の考え方は〈政治的思考〉に欠けている。」

 そうだ、そうだという声があがり、ある人が大きな声で「西尾、お前の考え方は〈敗北主義〉だ」と言うと、興奮した一団の声は一気に高まり、私の言葉をかき消した。


 今まで黙っていた、平生温和しいM君――後にドイツ中世語の研究家となった――が「西尾君の言う通りだと自分は思う。自分がデモに参加するのかしないのか、参加できるのかできないのか、それが問われるべき問題なのだ。」

つづく

2006年08月18日

ハンス・ホルバインとわたしの四十年(十)

『江戸のダイナミズム』第16章西洋古典文献学と契沖『萬葉代匠記』より

 しかし程度の差はあれ、古典のオリジナルの消滅とその再生のテーマはわが国においても同様です。わが国にはヨーロッパとは異なる独自の困難な条件がありました。

 自らの言語の表音体系を表意文字で表していた矛盾が、江戸時代に入って、歴然と口を開けます。

 荻生徂徠は漢文の訓読みを廃して、唐音に還ろうとします。本居宣長は儒仏を排斥し、純粋な古語に戻ろうとします。

 神道、仏教、儒教の三つの神は習合していたようにみえ、かなり自覚的に三すくみ状態になります。それぞれ固有の神を求めるパッションは一挙に高まります。

 その中で契沖は決して排他的ではありませんでした。人々がまだ文字を持たない単独素朴な時代、神々をめぐる口頭伝承のほか何も知らないナイーヴな時代に、表意文字が入ってきて、文字で自らの音体系を表現した「万葉仮名」の解明は、エラスムスを駆り立てた聖書のギリシア語訳の努力にも似た、あるいはそれ以上の困難な謎の探求でした。

 校合に客観的で、内証に科学的であろうとした契沖の情熱は、ほとんど信仰者のそれです。「本朝ハ神國ナリ」の叫びは本然のもので、何の不自然もなかったはずです。

つづく

2006年08月15日

ハンス・ホルバインとわたしの四十年(九)

『江戸のダイナミズム』第16章西洋古典文献学と契沖『萬葉代匠記』より

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エラスムスの肖像画:ホルバイン

 北ヨーロッパ人の人文主義者エラスムスが古代復興を志して真先にしたことは、ヴェネチアに行ってギリシア語を学ぶことでした。不完全なギリシア語の知識で彼は新約聖書のギリシア語訳を完成させようとします。

 そもそも聖書の原典テキストはギリシア語で書かれていたからです。

 彼は四つの古いギリシア語写本を資料として見つけていて、教会が必ずしも好まないことをします。聖書の写本断片と自分の拙いギリシア語の力で聖書のオリジナルを復元し、キリスト教の神に関する真実を知ろうとしたのでした。

 西洋古典文献学と聖書解釈学がその後互いにからみ合って進展するヨーロッパの精神史の発端をなすエピソードといってよいでしょう。

 ヨーロッパ人が自己同一性(アイデンティティ)を確立するのに、15-16世紀には異教徒の言語であったギリシア語の学習から始める――この不条理は日本人にはありません。仏教も儒教も外から来たものですが、日本人はヨーロッパ人のように、仏典や経書といった聖典の書かれた文字の学習を千年以上にわたって断たれた不幸な歴史を知りません。

 ヨーロッパの各国における言語ルネサンスがまずギリシア語の獲得に向かったのは当然です。その後科学的精緻さを駆使して、古典古代の研究が激しく情熱的に燃えあがったのも当然です。

 聖書がばらばらに解体され、文献学的解釈学によって相対化のきわどい淵にさらされたのも当然です。

 彼らの破壊は神を求めるパッションの表現そのものでした。

つづく

2006年08月12日

ハンス・ホルバインとわたしの四十年(八)

『江戸のダイナミズム』第16章西洋古典文献学と契沖『萬葉代匠記』より

 西洋でも中国でも古代文明の崩壊と消滅は日本史では測ることの出来ないほど巨大なスケールで起こり、同じ歴史が連続したとは思えないほどでした。ギリシア・ローマの伝統は地中海が約千年間イスラムの支配下に入った後では、アラビア人の歴史に属するのであって、今日西ヨーロッパと呼ばれる地域の歴史とみなすのはその後の「学習」の歴史以上のものではありません。

 中国史においていわゆる漢唐時代で古代は終わり、それ以後の中国史の連続性には疑問があります。モンゴルの征服による元朝の成立は漢民族の歴史に断絶をもたらしています。

 これに比べると日本史に古代の成立と没落のドラマが本当にあったのかと思われるほどに、変化の規模は小さいのです。

 源平の戦乱があり、承久の変を境いに古代王権に変化が生じますが、民族の同一性の度合いの高さと、神仏信仰を中心とした宗教の融和性の特質が、ある種の歴史の連続性を保証しています。

 西ヨーロッパと呼ばれる地域には、古代はなく――各国の歴史教科書の古代はエジプトからです――、各民族の歴史は中世から始まります。その時期が日本の古代史の後半と中世史にほぼ重なります。

 古代の文献の伝承の流れを跡づけてきた本書では、時間尺の短い日本の条件の有利さと、それにも拘わらず古代文書の原文は消えてなくなり、写本の確実性も保証されないという宿命において、問題の質が同じであることを見届けました。

つづく

お 知 ら せ

靖国神社参拝の後は内幸町ホールへ


8・15にこそ、西尾幹二先生の講演をお聞きください。

8・15国民集会
『保守なる人びとに

       問い質したきこと、これあり』

日 時 平成18年8月15日
     午後2時半~午後4時半(開場午後2時)
会 場 千代田区立内幸町ホール 先着188名

     千代田区内幸町1-5-1  03-3500-5578
  ・「第一ホテル東京」本館隣の東電別館区画広場の地下。
  ・JR新橋駅、東京メトロ銀座線・都営浅草線新橋駅の蒸気機関車側出口歩5分。
  ・都営三田線内幸町駅A5出口歩3分

  ・靖国神社からは、東西線九段下(進行方向後ろ乗車)→大手町で都営三田線乗り換え(進行方向後ろ乗車)→内幸町駅A5出口が便利です。約30分。

  ・平成17年5月1日に、人権擁護法案反対銀座デモの前に、集会を開いた会場です。

参加費 ¥1500- 
主 催 人権擁護法案を考える市民の会 代表 平田文昭
     jpn.hirata@nifty.com
http://blog.goo.ne.jp/jinken110/

次 第
□1430~1500
第一部 提言 人権全体主義との対決 
(平田文昭より問題提起)
・国際人権法、人種差別撤廃条約、女子差別撤廃条約、児童権利条約、障害者差別禁止条約(案)などに連動する国内法、条例や関連政策は、人権を名として国家・社会を全体主義化する道具となることで、我が国の独立と文明を蝕んでいます。加えてこれらにかかわる「反日諸団体」の「ACk+C+U人権包囲陣」は我が国のみならずアジア・太平洋諸国の自由と民主主義を脅かしています。
・アジア太平洋人権協議会設立について 


□1500~1600
第二部 西尾幹二先生講演 

「真昼の闇」の時代に目を開け

~安倍氏よ、
        小泉にならないで欲しい~

・我が国の「保守」のあり方を、西尾幹二先生が根底的に問います。

①インターネットと活字の言論
②新聞の無力の時代
③意見の小さな違いこそ決定的違い
④言論人は政権ブローカーではない
⑤政権は盲目的従米のままでいいのか
⑥言論誌は中韓の単なる悪口屋でいいのか
⑦親中になりやすい「右翼」の体質
⑧日本会議は正式の政党になれ
⑨自由と民主主義を再確認したい

□1600~1630 質疑 等

注意事項
◆録音、撮影、中継等は一切禁止です。

2006年08月09日

ハンス・ホルバインとわたしの四十年(七)

『江戸のダイナミズム』第16章西洋古典文献学と契沖『萬葉代匠記』より

 契沖は仏僧でありながら、儒教をよく知り、他方また空海の影響も受け悉曇(しったん)――サンスクリットのこと――に通じていたことが、彼を音に敏感にしました。

 漢字の世界に梵語という表音文字がクロスしてきたことは、漢代の中国語をも揺さぶりますが、万葉仮名を解読し、歴史的仮名遣いを確立することに成功した契沖の場合にも、表音文字であるサンスクリットの漢字化の問題には無関心でいられたはずはありません。

 いずれにせよ彼は、古代日本に流入したものの何かにこだわって何かを拒否したことはないのです。宣長のように儒教や仏教に対し外来の思想として敵意を示すたぐいのことはありませんでした。

 文字を持たない素朴な古代日本人の生き方を彼はそのものとして認め、受け入れ、そこに自ずと道、古道、神の道の成り立つさまをみたのでした。しかもそれは歌の姿に現れるのであって、歌こそ彼には神の御業なのです。

 『萬葉代匠記総釈』の冒頭に次のようにあります。

 

「本朝ハ神國ナリ。故ニ史籍モ公事モ神ヲ先ニシ、人ヲ後ニセズト云事ナシ。上古ニハ、唯神道ノミニテ天下ヲ治メ給ヘリ。然レドモ、淳朴ナル上ニ文字ナカリケレバ、只口ヅカラ傳ヘタルマヽニテ、神道トテ、儒典佛書ナドノ如ク説オカレタル事ナシ」

 契沖が客観性を重んじ、科学的であろうとしたことと、「本朝ハ神國ナリ」と断じたこととは少しも矛盾しておりません。

つづく

お 知 ら せ

靖国神社参拝の後は内幸町ホールへ


8・15にこそ、西尾幹二先生の講演をお聞きください。

8・15国民集会
『保守なる人びとに

       問い質したきこと、これあり』

日 時 平成18年8月15日
     午後2時半~午後4時半(開場午後2時)
会 場 千代田区立内幸町ホール 先着188名

     千代田区内幸町1-5-1  03-3500-5578
  ・「第一ホテル東京」本館隣の東電別館区画広場の地下。
  ・JR新橋駅、東京メトロ銀座線・都営浅草線新橋駅の蒸気機関車側出口歩5分。
  ・都営三田線内幸町駅A5出口歩3分

  ・靖国神社からは、東西線九段下(進行方向後ろ乗車)→大手町で都営三田線乗り換え(進行方向後ろ乗車)→内幸町駅A5出口が便利です。約30分。

  ・平成17年5月1日に、人権擁護法案反対銀座デモの前に、集会を開いた会場です。

参加費 ¥1500- 
主 催 人権擁護法案を考える市民の会 代表 平田文昭
     jpn.hirata@nifty.com
http://blog.goo.ne.jp/jinken110/

次 第
□1430~1500
第一部 提言 人権全体主義との対決 
(平田文昭より問題提起)
・国際人権法、人種差別撤廃条約、女子差別撤廃条約、児童権利条約、障害者差別禁止条約(案)などに連動する国内法、条例や関連政策は、人権を名として国家・社会を全体主義化する道具となることで、我が国の独立と文明を蝕んでいます。加えてこれらにかかわる「反日諸団体」の「ACk+C+U人権包囲陣」は我が国のみならずアジア・太平洋諸国の自由と民主主義を脅かしています。
・アジア太平洋人権協議会設立について 


□1500~1600
第二部 西尾幹二先生講演 

「真昼の闇」の時代に目を開け

~安倍氏よ、
        小泉にならないで欲しい~

・我が国の「保守」のあり方を、西尾幹二先生が根底的に問います。

①インターネットと活字の言論
②新聞の無力の時代
③意見の小さな違いこそ決定的違い
④言論人は政権ブローカーではない
⑤政権は盲目的従米のままでいいのか
⑥言論誌は中韓の単なる悪口屋でいいのか
⑦親中になりやすい「右翼」の体質
⑧日本会議は正式の政党になれ
⑨自由と民主主義を再確認したい

□1600~1630 質疑 等

注意事項
◆録音、撮影、中継等は一切禁止です。

2006年08月07日

ハンス・ホルバインとわたしの四十年(六)

 私は『国民の歴史』の中にもう一項目書きたい、と計画し、担当者に打明け、時間切れで不可能になったテーマがある。すなわち「西洋古典文献学・清朝考証学・江戸の儒学国学」である。古代の聖典の探求と復元、その挫折と懐疑、そのとき三つの場所で歴史意識が試され、確かめられた。

 私は別名でこれを「言語文化ルネサンス」と呼んでいる。16世紀から19世紀にかけて地球上のこの三地域に発生した古代の呼び戻し運動、あるいは古代精神の現代への奪還、分り易くいえば神の再生のドラマを指している。再生の前には必ず神の破壊のあるのが特徴である。

 平成12年9月16日、東京杉並公会堂で「つくる会」主催の二度目の私の四時間独り語りが行われ、その題名は「江戸のダイナミズム――古代と近代の架け橋」であった。『国民の歴史』(平成11年10月刊)に盛り込みたくて時間切れで諦めたテーマを語った。この日は田中英道氏の「葛飾北斎とセザンヌ」のスライド比較紹介もあったので、それも入れると延べ5時間をこえる催しとなった。

 それでも、一講演のモチーフはそんなに大きくはない。まとめれば小さくなる。『諸君』平成13年7月号に講演の一部を転載し、連載を始めてから、小さい入り口からどんどん大きくふくらんだ。断続連載で平成16年9月号までに20回を数えるに至って、(しかも終りごろは1回に60~70枚もゆるしていたゞき)終わってから2年近くたってやっと整理の最終段階を迎えている。

 なぜ整理にそんなに時間がかかったのか――勿論小泉選挙や「つくる会」混乱に気を散らしたのがいけないのだが――理由はあまりにテーマが広く、多方面に及んでいることにある。なにしろヨーロッパと中国と日本における古代認識と「古代ルネサンス」のテーマである。古代と近代の衝突の問題である。渉猟した文献は数百を越えた。あちこちに、それぞれが大きな主題を内蔵した複数の重い房を垂らしたような、異様な形態の一冊になりそうである。

 ところで第16章「西洋古典文献学と契沖『万葉代匠記』」にロッテルダムのエラスムスが登場する。この肖像画を描いたのがハンス・ホルバインである。

 第16章の末尾の小部分を以下に四回に分けて掲示するが、勿論、叙述の中心は契沖である。

つづく

2006年08月06日

ハンス・ホルバインとわたしの四十年(五)

 エラスムスとルターの論争は西洋精神史における最も深刻、かつ最も影響の大きい思想のドラマの一つである。追及するのを忘れてしまった私がいけない。まだ人生に時間は残っているので追いかけるかもしれないが、私の関心はご承知の通りその後ニーチェに向かった。

 ニーチェは24歳でバーゼル大学の教授になり、ブルクハルトに出会い、ワーグナー夫妻と交流し――バーゼルから夫妻の住む同じスイスのルツェルン近郊トリプシェンへ行くのは難しくない――、そして『悲劇の誕生』をバーゼルで書いた。

 私は29-30歳で『悲劇の誕生』を翻訳した。以来、この天才に呪縛されたのは紛れもない。ある人から「先生の『国民の歴史』は『悲劇の誕生』の影響を受けていますね。」と言われて、考えてもいないことだったのでハッと驚いた。「そうだったのか。ウーン、そうなのかもしれない」と思った。表立ってニーチェの名はほとんど出てこない本なのだが・・・・・・。

 ニーチェは文献学者だった。しかし文献学を破壊する文献学者だった。すべての歴史は文献学に行き着く。しかし文献学にとどまる限り、歴史たり得ない。

 仏陀にせよ、イエスにせよ、孔子にせよ、いくら文献を追求してもその実像は把えられない。仏陀のことばなどはごく一部の経典に記されたのは仏滅から500年も経った後である。すべては口から口へ伝承されたにすぎない。

 『論語』が孔子の実像を伝えているという保証はない。あれは聖人のばらばらの発言集である。門人たちの覚え書きである。『聖書』も使徒たちの編集と改修の手を免れていない。

 歴史とは何か? 
 歴史とは神話である。歴史と神話との境界線は定かではない。

 近い歴史を考えるわれわれでさえ「神話的」思考をしている。イラク戦争の原因について、われわれはすでに薄明の中にあり、トロイ戦争の時代の人よりもっと神話的かもしれない。

 それでも人は言葉を求める。言葉による説明や解釈なしでは人間は生きていけないからだ。たちまち不安になる。歴史の成立は矛盾を孕んでいる。

 ハンス・ホルバインの「死せるキリスト」を前に私は、恐らくネットの読者の皆さまも、言葉を失った。言葉の無力を感じた。それでも言葉を求めたであろう。私の言葉を大急ぎで読んで、納得したり、納得しなかったりしたであろう。あるいは自分の言葉をまさぐり、唱えては、心の奥深くにしまいこんだであろう。

 歴史とはそういうものではないか。言葉は無力でもやはり必要なのである。文献学がなくてはどんな学芸も、どんな哲学も、どんな叡智も成り立たない。文献学は自覚のやり直しの場といってもいい。それを別のことばでいえば「歴史意識」ということになる。

 この地球上で歴史意識が存在した場所は地中海域と中国と日本列島の三個所しかない。文献学が誕生し、展開したのもこの三個所である。

つづく

2006年08月04日

ハンス・ホルバインとわたしの四十年(四)

 ほゞ40年前の文章を本の中から取り出してこうして一区切りごとに丁寧に読むと、まるで自分の文章でないような気がしてくる。

 「ひとびとはあらずもがなの無用の言論に取り巻かれて、自分を瞞すために思想をあみ出し、不安から目をそらすために理論をこねあげる」といった一文などは紛れも無く私の文章で、振り返ってみると私は四十年にわたり「あらずもがなの無用の言論」をずっと相手に「黙れ」「沈黙せよ」と叫び続けてきたようにも思える。

 キリストの遺骸の絵について私はいま語るべき新たな言葉もない。たゞインターネットで大きな画像を読者にお届けできる時代になったことが不思議でならない。

 私の本にはこの絵の挿絵は載っていない。また仮りに載っていても小さなモノクロ写真ではイメージを喚起できまい。もっぱら私は文章だけで衝撃を伝えようとしていた。文字は無力である。あらためてそう思う。

 私は格別にホルバインの研究をしてきたわけではなく、彼について知る処は少ない。たゞ私の処女作がこの絵を取り上げ、さらに私がいま出版を前に原稿の整理に入っている『江戸のダイナミズム』がロッテルダムのエラスムスを取り上げていて、ホルバインはエラスムスと縁が深いのである。

 スイスのバーゼルからの友の手紙で本稿は始まった。バーゼルは19世紀の精神史でいうとブルクハルトとニーチェの名がまず出てくるが、ルネサンス期の16世紀の精神史でいうと人文主義者ロッテルダムのエラスムスの名が大きいのである。エラスムスはこの町で幾つもの重要な事跡を残している。逗留した家も残っている。

 『痴愚神礼讃』を書いている。聖書のギリシア語原典の復元を試みている。意志の自由をめぐってルターと論争している。『痴愚神礼讃』の挿絵を描いたのがホルバインであった。また、彼は一枚のよく知られたエラスムスの肖像画――後でこれはお見せする――を残している。

 『痴愚神礼讃』は軽妙洒脱な本である。人間を生殖へと追い立てていく「痴愚神」、人間を戦争に駆り立てる「痴愚神」――いわば人間の狂乱と無思慮に対する痛烈な風刺の書といってよいだろう。どことなくからかい口調であれこれ人間の愚行について例をあげてさんざん言いたい放題。自由に語りかけるおどけた調子もあれば、危険思想ととられかねない激しさを秘めた苛烈な言葉も垣間みられる。若いころ私はすべての人間をバカ呼ばわりするエラスムスのものの言いように多少とも反感を覚え、この人の立脚点は何処にあるのかと怪しんだものだった。

 これに比べルターの『奴隷意志論』は厳粛そのものに見えた。人間の意志には自由はない。神の全能と全知に対し、人の意志の不自由を対比させ、人は罪のうちにあるがゆえに、善を行うことにおいてまったく無能力である。これを救うのはたゞ神の恩寵の独占的な働きのほかにはない。・・・・・・・・

 ルターとエラスムスとの自由意志をめぐる論争は学生時代に私がある友人とたびたび交わした論点の一つであった。互いにまだ知識もなく、わけもなく真摯に考えるべき人生の最大の難問の一つと思えていて、熱心に論じ合ったものだった。その友人はルターの研究家になった。ハイデルベルクに留学した。私はいつの間にかルターも、エラスムスも忘れてしまった。


つづく

2006年07月29日

ハンス・ホルバインとわたしの四十年(一)

 バーゼルに住む若い友人平井康弘さんから家族旅行の写真を添付したメールが届いた。今年はヨーロッパも異常気象で、熱波の襲来らしい。早くも会社を閉めてバカンスへとくり出す人が相次いでいるそうだ。

 ご一家はアイガーやユングフラウを望みながら3時間ほどのハイキングをした後、宝石のように輝くエシュネン湖に出るとそこは断崖絶壁に囲まれ、反対側の湖岸に見える滝に近づくには手漕ぎのボートで湖を横断しなければなりませんでした、と楽しそうに書いてこられた。写真を見るとなるほど絶景である。佳き夏の日々であるようだ。

 そして下欄に追伸として、バーゼル市立美術館が開催したハンス・ホルバイン展を見て来ました、と書いてあった。メトロポリタンやルーブルや大英美術館など至る処から彼の作品を集めての展示ではあるが、バーゼル市立美術館所蔵のものがやはり主流をなす、とも書いてあった。「エラスムス像や死せるキリストの絵は先生のご教示で私にとっても思い出の作品です。案内のパンフレットを後日送らせていただきます。」

 間もなくパンフレットが送られてきた。見覚えのある作品が細長い紙の表にも裏にも並んでいた。あゝそうか、と私は思い出をまさぐるように画像を眺めては独りで合点していた。

 私のバーゼル初訪問の若い日の記録は「ヨーロッパを探す日本人」の名で日録にも掲示させてもらったが、ホルバインを見たのもたしかあの初訪問の折である。そして、死せるキリスト、正しくは『キリストの遺骸』(1521-22)を見て衝撃を受け、文章を認めた。

 私の処女作『ヨーロッパ像の転換』の第11章「ヨーロッパ背理の世界」の結びにこのときの強烈な印象が綴られている。旧著を知っている方はご記憶にあるかもしれない。しかし若い読者はこの本をもう知らないかもしれない。

 昭和43年(1968年)11月号の『自由』に掲載されたと記録にある。バーゼル初訪問から二年ほど経っている。33歳になったばかりの8月か9月かに書いた文章だと思う。少し気負っているのは若さのせいとお許しいたゞきたい。

 ホルバインの世界が私の処女作と今私がやっている著作との二つに期せずして関係していることを友人の手紙は思い出させてくれた。


つづく

2006年07月24日

Paul-Klee パウル・クレー

「赤いチョッキ」1938年、糊絵具、黄昧、65×43ノルトライン=ヴェストファーレン美術館蔵Kunstsammlung Nordrhein-Westfalen, Düsseldorf


東京新聞 7月25日夕刊の記事より (注)

パウル・クレー 創造の物語

日本人好む抒情世界

 「西洋名画三題噺(さんだいばなし)ルソー、クレー、フェルメール」というエッセーを書いたことがある。ルソーは日曜画家のはしりといわれた純真無垢(むく)な魂アンリ・ルソー。フェルメールは十七世紀オランダのデルフトの室内の働く女性たちの衣裳(いしょう)に静かな微光(びこう)の漂うような細密画家。そして児童画のように単純な表意的形象の世界パウル・クレー。この三人を一線上に並べたのは世界の美術史上でも恐らく私が最初であり、最後であろう。

 西欧世界らしからぬ慎(つつ)ましさの詩的小世界。なじみやすい“日本人好みの系譜”といっていい。ルソーは大正時代に白樺派が持ち上げ、クレーは戦後日本が愛好し、フェルメールは海外旅行が普及した現代日本の人気の的である。三者に共通する「メルヘン的抒情(じょじょう)世界」こそ、日本人が自分の似姿を西欧に投影している現れである。

 

西尾幹二 (評論家)

「パウル・クレー創造の物語」展(東京新聞など主催)は、8月20日(日)まで、千葉県佐倉市の川村記念美術館で開催中。詳細はhttp://www.tokyo-np.co.jp/event/bi/klee2006/

注:東京新聞の掲載は当初予定の21日から25日になりました。

2005年09月22日

第二の人生もまた夢

 平成16年6月刊の『文藝春秋』臨時増刊『第二の人生設計図』にたのまれて「第二の人生もまた夢」という3.5枚のエッセーを書いた。書いたのを私はすっかり忘れていた。書いたのは昨年の2月頃である。お目に留めていただこう。

 

 私は65歳で大学を停年になって、この3月でまる3年になる。私の場合、在任中も退職後も、同じ著述活動がつづいていて、明確な切れ目がない。だから「第二の人生の設計図」を描けといわれると、そういうことをきちんと考えていないので、困惑の思いがまず先に立つ。

 けれども70歳を目の前にすると、さすがもう時間は刻々と迫っているのだと、厭でも考えざるを得ない。しかし真先に思いつくのは、仕事の上の新しい計画である。つまり「第一の人生」へのこだわりであり、なにも悟っていない愚かさである。昨年と同じように今年に期待している鈍感さでもある。いつ急変が身を襲うかもしれないのに、永遠の無変化を幻想している自分が、変化への恐怖を一日延ばしにしているだけかもしれないことに薄々感づいている。

 そんな自覚もあってか、生活の上でいくつかの小さな新しい試みをし始めた。若い友人と歩いていて、私が駅の階段を昇るのを見ていた彼が言った。「先生、今のうちですね。」「何が?」「外国旅行には脚力がいるんですよ。先生はまだ大丈夫です。」「そうだなァ。」という会話があって、一大決心をした。年に春と秋の二度、老夫婦で外国旅行をするという多くの人のやっているのと同じ平凡な慰安を考えた。まだ行っていないヨーロッパへ行く。北欧、南フランス、アイルランド、ルーマニア、ブルガリアに私はまだ行っていない。それで、北欧と南フランスの旅はすでに実行した。

 さて、そうこうするうちに、仕事とは別に、私は人生の終らぬうちにやっておきたいと思うことを心に確かめてみると、若い頃い実行していたことをもう一度してみたいという欲求がいま次第に募っている。まだ行っていないヨーロッパもいいが、昔留学していたミュンヘンの、私の住んでいた学生寮はもうないので、付近の街角に宿を得て半年くらい過ごしてみたい。毎晩のようにオペラ座へ行く。ミュンヘンを拠点にイタリアやスイスへ旅行し、またミュンヘンに帰ってくる。ドイツの新聞やテレビだけで世界を考える。酒場で見知らぬドイツ人と口論する。バーゼルやシルス・マリーアの“ニーチェゆかりの地”をとぼとぼ一人で歩いたあの旅と同じコースをそっくり再現したい、等々。

 それから、もうひとつ試みてみたい若い日の感激の再体験は何かと考えているうちに、私の場合は映画でもスポーツでもなく、長篇小説を読むことだった。バルザック、ドストエフスキー、トーマス・マン、ハーディ、ディケンズ、スタンダール、フォークナーなど、夢中で読み耽って、夜を明かしたあの忘我の感動を忘れてすでに久しい。違った世界を体験させてくれる唯一のものが世界文学全集だった。忙しさにかまけて若き日のあの感動をもう一度味わうことなしに人生を終るのは惜しい。昔読んだものと同じ作品でよい。学生時代の体験は、老人になってどう変っているかを知るのも得がたい。

 そう思いながら、きっとどれも実行できないだろうな、という不安もかすかに抱いている。じつは一年前に同じことを考え、『チボー家の人々』を用意したのだが、十分の一も読めないで、本は参考文献資料の山の下に押しこめられたままなのである。

後記  その後ルーマニア、ブルガリアにも行った。アイルランドが残っているだけである。

2005年01月17日

野口村の思い出 (三)


 想像するに父は真っ先に野口村役場に行って、村長にかけ合ったのだと思われる。なにしろ戦火の切迫した時代である。疎開者を迎え入れるのは農村の義務でもあった。かくて上郷地区出身の助役で、村の有力者の皆川善次平氏の大きな土蔵の中に我が家の疎開荷物の大半が収納された。そして、氏の分家の一つである道ひとつ挟んだ反対側の高台の上の農家に、一部屋を借り受けることになった。皆川清春さんというまだ若い当主と、その母親の二人っきりの家だった。(ちなみに、平成16年2月、大洗町で行った私の講演会場に皆川清春さんが聞きつけて訪ねて下さり、劇的再会を果たしたことも書き添えておく。)

 私たちの安全を見届けて、父は仕事のために東京へ戻った。水戸市が空襲されたのは一家が野口村に引っ越した四日後の八月一日~二日の深夜であった。住んでいた水戸の家には27本の焼夷弾が落ち、いつも避難に使っていた防空壕には直撃弾が貫通していた。まさに間一髪の危さだったといえる。

 野口村の村道に立っていると、長倉村を目指して、顔のすすけた、着物が真っ黒に焼け焦げた水戸の罹災者が次から次へと歩いて行くのが見かけられた。

 八月十五日の終戦の玉音放送を私は村の農家のラジオで聴いた。父は東京にいた。その秋には洪水があった。台風と大雨の去った後、一気に広がった川幅を濁流が覆(おお)った。県道をひとつへだてた崖下はすぐ川原であり、普段は夏草が茂り、空閑地に芋が植わっていた。しかしそこも、もう一面に逆巻く急流だった。廊下に立って下を見渡すと、洪水は一眸(いちぼう)のもとにあった。村の農地は広域にわたって冠水した。私は冠水芋というのを初めて口にした。蒸かしても硬い芯があるために簡単に食べられない不味い芋だった。米は冠水すると臭気がついて、やはり食べられない。それでも、そんな米や芋であっても、何とか努力して食べた、という記憶がある。食糧難は厳しかった。

 川原から水が引くと、いたるところに小さな池ができて、浅い池に大小さまざまな魚が白い腹をひっくり返して、バタバタとはねていた。私たちは手づかみで魚を拾って、集めた。

 何もかもが私にはもの珍しい初体験であった。芋串といって、ゆでた里芋に味噌を塗って串に刺し、炉端に立てて焦がす、なんとも芳ばしい土地特有の食べ方があった。主屋のおばあさんが持って来て私の手に渡してくれたときのことも忘れられない。

 終戦後しばらくして父は東京から家族の所に戻ってきて、何を考えてかしばらく腰をすえ、那珂川で釣りを楽しむ日々が続いた。国民の大半が茫然たる虚脱状態に陥っていた、米国占領初期の激動期である。あの一時期を両親がどう耐えたかは不明だが、私は子供の長閑な田園生活を楽しんでいた。

 で、例の硯箱になった羊羹の木箱のことだが、あの底板に、筆で父が書いた次のようないたずら書きの文章が残されている。

 「昭和二十年七月水戸ヨリ茨城県那珂郡野口村上郷ニ疎開ス 此ノ地風光明媚ナリ 滾々タル那珂川ノ長流屈曲シテ神龍山峡ニ横ハルガ如クニテ其ノ流水ハ甚ダ駛ク浅瀬石ニ激シテ淙々タル水音高シ 又深淵緑ヲ湛ヘテ其ノ底ノ深サヲ知ラズ 両岸ハ山姿秀麗連山波濤ニ似テ遠ク煙ル 落日迫レバ彩雲水ニ映ジテ紅ノ光ヲ散ス 其美観將ニ自然ノ限リナキ賜物ナリ 我モ又太公望ヲ定メ込ミテ風景ノ中一員トナリタルコト度々也  白箭生」

 白箭は父が句作をしたときの号で、油絵も能(よ)く描き、碁将棋も得意な父だった。右のいたずら書きの型に嵌った美文調は、文学者ではないのだからお許し戴くとして、まさか六十年後に他人の目に触れるとは思わなかったであろうが、私には懐かしい。

 長靴で川の瀬に入って釣り竿を掲げていた父を、私が岸辺で日がな一日眺めていた間伸びした時間は、まさに日本史の激動の歳月なのだが、野口村の風物と共に、昨日の如く静かな風景画となって私の瞼に甦ってくるのである。

2005年01月15日

野口村の思い出 (二)

 我が家の押し入れの片隅に戦前の古い羊羹の木箱が保存されている。あちこち墨で汚れた、なんの変哲もない木箱である。野口村疎開時代に私が学校で使った硯(すずり)箱でもあった。

 箱の中に今は硯は入っていない。平べったい、黄褐色のきれいな石がひとつ蔵(かく)されている。那珂川の川原で記念に拾った手ごろの大きさの石であり、文鎮がわりに使われた。石には父の手で両親と私と私の兄が戦火を逃れて野口村に引っ越して来た日付が書いてある。昭和二十年七月二十八日。いうまでもなく終戦直前である。

 父は東京に勤務し、母と兄と私はそれまで水戸に疎開していた。兄は水戸中学一年生、私は国民学校(当時は小学校をこう呼んだ)四年生だった。

 昭和二十年七月十七日深夜、北関東は轟音に見舞われた。日立市を襲った米英艦隊からの艦砲射撃だった。今も当時の恐ろしさを覚えている人は少なくないと思う。夜11時15分から約一時間ほど、40センチ砲弾など870発が撃ちこまれ、日立の工場地帯は壊滅した。

 それは腹を揺さぶるようなもの凄い音だった。水戸市はまだ空襲を受けていなかったが、もう間違いなく次は水戸だと考えられた。父は地図を広げ、艦砲射撃の弾丸が届かないのは那珂川上流、栃木県境に近いある山村だろう、と当たりをつけ、上水戸駅から茨城鉄道という私鉄=今はもうない=に乗って、終点の御前山駅まで行って、そこはまだキロ数を測るとぎりぎり着弾距離の範囲内にかかるので、そこから那珂川を越えて、対岸の野口村上郷(かみごう)のあたりまで行こう、と言った。鹿島灘が米軍上陸地点とみられていたので、川さえ越えれば、米地上軍に追撃されても行方が遮られていない。もうそこから栃木県の茂木(もてぎ)までは歩いて行けない距離ではない。父は真剣な面持ちでそう計画を立て、家族の避難地を野口村と定めて、直ちに実行に移した。

 しかし勿論、そうして行動することに本当に合理的根拠があったわけではない。敵は海から来る。だから山へ逃げなくてはならない。その程度の判断である。誰にもその頃は何が最も確実かは分らなかった。上水戸駅から御前山駅までわずか二十二キロ走るのに、効率の悪いSL機関車は、石塚での給水時間を入れて三時間も要した。私達四人ははじめて見る土地、御前山駅に降り立った。駅前は閑散とし、桜の樹が緑葉を繁らせていた。蝉の声が静寂さにしみ入るようだった。それほどに何もない長閑な風景だった。

 御前山はこんもり木の茂った、丸い小さな山だった。切り立つ山崖の下の那珂川は濃い翠(みどり)色をたたえ、対岸はそれに反し大小さまざまな石の幅広い川原を形づくっていた。その川原の側が目指す野口村だが、なんとそこに橋がない。驚くべきことに、渡し舟で対岸へ渡るのである。勿論、橋はあったに違いないが、当時は台風のたびに洪水になり、橋は流され、畑も家も冠水した時代で、村の戦時予算には橋を再建する余力がなかったのに違いない。

 対岸に向けて太い鉄の針金が一本ピンと張られていた。船頭は櫂で漕ぐのではなく、手で針金をたぐるようにして小船を前へ動かした。

 景勝の地の風光には清爽とした趣があり、川面に映える夏の光りは小魚の鱗のように輝いていた。日照りの強い午後だったが、私たち一家は涼風に吹かれつつ、渡船場から小船に乗って野口村に渡った。行楽気分といいたいところだが、今でいうなら私たちはいわば難民の一種である。不思議なのは水戸から馬車に山積みされてきた大量の荷物をどうやって渡し船で運んだのかである。また、村の中心の宿場から一里も離れた上郷地区の農家の一室を借りて、わが家がその日のうちにいち早く生活を再開することにどうやって成功したのか、これも不思議である。なぜ