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西尾幹二のインターネット日録

過去の著作
2006年08月01日

ハンス・ホルバインとわたしの四十年(三)

 この絵にはデューラーやグリューネヴァルトの描いたイエス像にみられる憂悶の表情や精神の翳りもない。

 むろん後年の画家たちが好んで崇高化した神秘主義的なイエス美化の片鱗さえない。ここにあるのは「物」である。三日後にこれが復活するなどとは到底おもえない。

 後年ドストエフスキーはこの絵を見るためにわざわざバーゼルに立ち寄った。そしてこの絵の前に立ったとき、彼はあやうく持病の癇癪の発作を起こしそうになったと言われる。それほど凄まじい絵である。

 彼は『白痴』の中でムイシュキン公爵にこう言わせている。

 「あの絵を!いや、あの絵を見ているとなかには信仰をなくしてしまう人もいるかもしれない!」

 信仰の生きていた時代こそ、信仰の危機も生きていた時代である。近代人はイエス・キリストを「物体」として描くことさえも出来ないのだ。ドストエフスキーの言いたかったことはそのことにほかなるまい。

 言うまでもなく、「物体」という観念が勝手にひとり歩きしはじめ、物を蔽い、目を曇らすからである。

 現代は生の不安を蔽い隠すあらゆる遁辞に満ち、外的現象に救いを求める人に満ちあふれているではないか、彼はそうも言いたかったのかもしれない。

 それでいて、悲劇の規模は中世末期の混乱の時代の比ではない。悲劇の分量の大きさに比例して、それを糊塗する自己回避の言論の規模も大きくなるのが現代の特徴である。

 ひとびとはあらずもがなの無用の言論に取り巻かれて、自分を瞞すために思想をあみ出し、不安から目をそらすために理論をこねあげる。こうしてことごとく悲劇の因果関係が説明され、自分の視野に閉じこめることで悲劇を遠斥けたと信じたがるが、そのこと自体が悲劇にもっとも近い地点に自分を立たせているのだということには気がつかない。

つづく

2006年07月31日

ハンス・ホルバインとわたしの四十年(二)

holbein_grabe00.jpg
(クリックすると拡大します)

 近代というものは、物を見つめる前に、物に関する観念を教えこまれる時代である。まず人間である前に、人間に関するさまざまな解釈に取り巻かれる時代である。

 私は物が見える(傍点)ということに対して懐疑的にならざるにはいられない。不安をごまかす観念のはびこる時代に物は見えない。私はバーゼルで見た一枚のホルバインの強烈な印象が忘れられない。

 それは高さ30センチ、長さ2メートルの細長い棺のなかに、等身大のキリストの屍体を長々と仰向けに横たえている横断図である。ほかにはなにもない。

 キリストを取り巻く群像もいなければ、十字架もない。だが、そのためもあろうか、私はこの絵の懸けてある部屋に入ったときに竦然とした。等身大の屍体は絵の枠をとび出して、あたかも立体的に、私の目の前に実際に置かれてあると思われるほど凄絶にリアルである。

 なかば開かれた目の中で眼球がひっくりかえり、白眼が剥き出している。顔は一面に青黒く鬱血し、骨ばった右腕は胴のわきにそって台架の上に無造作に置かれ、手首から先は異様に腐襴している。痩せ細った足首も黒ずみ、釘あとももう血の固まった跡らしく、どす黒い。

 これはたんなる屍体、たんなる物体である。ここにはキリストの苦悶をたたえる神話もなければ、秘蹟もない。そう言えば、これに似たものとして思い出されるのは、ダハウの強制収用所跡でみた大型の写真の中の、痩せさらばえたナチスの犠牲者の無残な屍体なのである。

 私は現代に比ぶべくもなく信仰心の篤い時代を生きたホルバインが、かかる「物」としてのイエス・キリストを描くことに成功した、その逆説に魅かれたのである。


つづく

2006年07月25日

むかし書いた随筆(八)

***西洋名画三題噺――ルソー、クレー、フェルメール***

 フェルメールは日本人好みの画工である。鳴り物入りで特別展がハーグで開かれた。大学の同僚のなかで何人かが春休みにわざわざ出かけて行った。むかしセザンヌ展が上野で開かれると、長蛇の列ができた時代と比べて隔世の感があり、日本人の贅沢と余裕もきわまった感じがする。

 むかしは泰西名画というと印象派どまりだった。ヨーロッパ旅行が大衆観光旅行の範囲の中に入って四半世紀も経って以来、それまで日本人にほとんど知られていなかったフェルメールの名が浮かび上がった。

 繊細で、精妙で、日常市民的で、静かな微光の漂うような明るさのある親しみやすさ、衣裳と器物に注がれた細密画の伝統の目、ヨーロッパ絵画に例の少ない黄や青のコントラストの美しさ、自己主張を抑えた西欧世界らしからぬ慎ましさの詩的小世界――どれ一つとっても、日本人好みではないものはない。
v-9.jpg フェルメールはもちろん私も好きな画家の一人である。中庭の幾何学的構成美を示したホーホや、絹や繻子(しゅす)の緻密な再現で目をみはらせるテルボルフなどの同時代のオランダ人画家とともに、ヨーロッパの美術館を訪れるたびに、私の足を立ち停(どま)らせ、私に感嘆措(お)くあたわざる思いをさせつづけてきた作家だ。「一枚の繒」にとりあげるのなら、例にどれを挙げてもいい。アムステルダムの『牛乳を注ぐ召使い』でも、ロンドンの『ヴァージナルの前の女』でも、パリの『レースを編む娘』でも、どれでもいい。

 今から30年ほど前、ハーグのマウリツハイス美術館で、フェルメールの全作品を蒐めた展覧会が開かれた。私は偶然オランダ旅行中にこれに出合った。その頃、特別展を訪れる日本人の姿はほとんどなかった。フェルメールの名前と画像が心に刻みつけられたのはそれ以来である。というわけで、私も心と時間に余裕があれば、もう今後半世紀は行われないだろうといわれる今回のハーグの特別展に、同僚と行を共にしたかったという気がまったくないわけでもない。

 けれども、あながちその気になれなかったのは、心と時間にゆとりがなかったからばかりではない。フェルメールは西欧美術の代表の位置、西欧精神の中枢を象徴する位置を決して占めていない。フェルメールだけを切り離して、個別に鑑賞しても、われわれは西欧精神の精髄に触れたことにならないだけでなく、明治以来の日本人のとかく陥りやすい間違いを再演することになりかねないからだ。

 すなわち、日本人が自分の好みを西欧世界に投影し、自分の自我の反映像のなかに巨大怪異なる中世末以来のあの幾重にも歴史の層を成す西欧美術の全体を閉じこめ、片づけてしまうという誤解を再び演じることになりかねないのである。

 ジョットなどイタリア初期ルネサンスの祭壇画から始まる西欧近世・近代美術の、キリスト教神話世界に材を求めた壁画風巨大画像の数々に、ヨーロッパの美術館で、圧倒され、打ちのめされた経験を味わわなかった日本人は恐らくいないであろう。

 フェルメールにしてからがレンブラントの切り拓いたオランダ市民階級の肖像画の世界の一部に位置づけられるはずである。そして巨匠レンブラントの前にも後にも、数限りない巨匠が相並んでいる。わずか35点の小品を残したにすぎぬフェルメールの世界が、どんなに宝石箱のように美しくても、ティチアンも、ティントレットも、ファン・ダイクも、フランツ・ハルスも措いて、日本人がわかりやすい、なじみやすい、心地よい小風景にのみ心が傾斜し、吸いこまれるというのは、片寄っているというだけでなく、西欧と対峙する態度としてそもそも間違っているのではないかという気が、私はしている。

 私はこの稿に「ルソー、クレー、フェルメール」という小噺三題のような妙な題をつけた。ルソーは日曜画家のはしりといわれた税関勤務のあの純真無垢の魂アンリ・ルソーである。クレーはいうまでもなくパウル・クレー。スイスの画家、版画家で、児童画のように単純な表意的形象で一世を風靡した、『日記』でも知られるあの有名な、色彩と空間構成の巨匠のことである。

 この三人の名前を一線上に並べたのは世界の美術史上でも恐らく私が最初だろう。まことに奇妙なくくり方である。かつて例のない系譜のとりまとめ方だと言っていい。けれども、日本人であれば必ずピンとくるに違いない。日本人にだけはああそうかと分かる。“日本人好みの系譜”と言うべきものである。

rousseau_dream01.jpg ルソーは大正時代に白樺派が持ち上げ、クレーは戦後日本が特に熱狂的に愛好した。そしてフェルメールは今や高度産業社会の爛熟した現代日本の人気の的である。それぞれフランス印象派、ピカソなどの20世紀抽象絵画、そして西欧中世・近世絵画が日本人の幅広い層の鑑賞の対象となった時代の動きのなかで、“日本人好み”の代表として立ち現れた。あえて“日本的センチメンタリズム”の代表と呼んでいいかもしれない。

 この三者に共通点があることはどなたにでもお分かりであろう。前に「詩的小世界」という言葉を使ったが、「メルヘン的抒情世界」という言い方もできるかもしれない。こういう世界ばかりを好きになる日本人――私にもそういう一面がないわけではないが――を、私は本当は好きになれないのである。


(初出 原題「風景のあるエッセイ ルソー、クレー、フェルメール――日本型感傷の系譜」)「一枚の繪」1996年7月号

2006年01月27日

むかし書いた随筆(七)

***買いそびれた一枚***

 どうしてもこの一枚のレコードが欲しいという執着が、私には昔からない。だから、所蔵を密かに誇りにしている名盤も持っていない。若いとき、レコードを愛玩する審美的な熱狂家たちに取り囲まれていて、癇に障って、あれは孤独な病だ、などと嘯(うそぶ)いては、抵抗を試みていたスノビズムの結果かもしれない。

 昭和40年代の初め頃、松本道介君(現中央大学文学部長)がボーナスをはたいて、クナッパーツブッシュ指揮の『パルジファル』を買った。ワーグナーのレコードはまだ珍しく、フルトヴェングラーの『リング』も出ていなかった頃だ。当時松本君は、レコードを聴いていた、というよりレコードを生きていた、と言った方が良いかもしれない。感性的に鋭く、潔癖な彼は、同じ『パルジファル』全曲を二揃い買った、と私に告げた。一つは自分の常用であり、他の一つはレコード針による摩滅を恐れての自分のための永久保存用だ、というのである。私はこれを聞いて、負けた、と思った。孤独な熱狂も、ここまで来れば見事である。

 しかし、間もなくミュンヘンに留学した私は、実際に音楽を聴く、ことにオペラを聴くということが、レコードを頼りにすることとは格段に差違のあることを、あらためて知った。当時ミュンヘンのレパートリーは58あったが、私はそのうち52に接した。毎晩のように出掛けて行ったある冬の経験もあるのだが、毎晩の舞台がどれも満足を与えてくれたとは限らない。素人耳にも歌手の良し悪しは判定がつく。

 一作品に目星い役柄が四人いたとすると、四人揃って歌手が魅力的である、というケースは絶無に近かった。うまいなァ、と思わせる歌手は、通例は四人のうち一人くらいなのだ。そして聴き手はそれを知っていて、拍手の量で歌手を評価している。抜きん出た歌手がアリアを歌い出す寸前には、客席に期待の余りの緊張が走るのを、私は自分の身体で感じとっていた。

 私はこれが本物のオペラに接するということだと思った。凡百の歌手の中にあって初めて本物の歌手は生きてくる。あるいは、本物の歌手は凡百の、才能も乏しい層に支えられて初めて成り立っているのである。名歌手ばかりで配役を組んだ特殊な一枚のレコードは、「抽象的」でありすぎる。私はそんなことを、得々として松本君に書き送ったが、二年後に留学した同君が、やがてこの自明の事実を、何倍もの規模で体験したであろうことは、およそ想像に難くない。

 そんなわけで、音楽が時間の芸術である限り、音楽の保存はあり得ない、は原則的に今でも成り立つと信じているが、しかし、すでに消えてしまった美の記憶を甦らせる手段として、美を仮定的に保存しようとする願いが人間にあることもまた、紛れもない。ことに日本人は帰国してしまえば、本物のオペラを滅多に見られないのだ。

 私の場合、「ベルリン国立歌劇場(東ベルリン)」が1977年に来日したときの『ドン・ジョヴァンニ』がそんな体験である。スウィットナー指揮で、テオ・アーダムが主役だが、とりわけドン・オッターヴィオを唄ったペーター・シュライヤーの全身に沁み入るような明澄な声がいまだに記憶の底に残っている。

 同じ配役のレコードが出ているよ、と友人が教えてくれたのだが、つい買いそびれてしまったのも、愚かなことに例のスノビズムのせいかもしれない。

初出(原題「買い落とした一枚」)「文学界」1986年10月号

2006年01月25日

むかし書いた随筆(六)

 末尾が切れて不完全な掲示となりましたので、完成稿をもう一度掲示します。なお、デューラー四使徒の絵も不完全掲載であったことをお詫びします。

***夜の美術館散歩***

 ヨーロッパの美術館はしばしば夜も開かれている。昨秋、私は久し振りに三ヶ月ほどドイツに行った。夜になると大抵オペラや芝居を見にいったが、毎晩というわけにもいかず、行く処がなくて困る夜もあった。そういうときに美術館が開いているのはじつに有難い。

 例えば、ドイツ中世絵画で名高いミュンヘンのアルテ・ピナコテークは、火曜と木曜の二晩だけ、午後7時から9時まで開かれている。館内には昼間のように団体の観光客はない。森閑とした巨大画面の谷間に、訪れた靴音だけが冷え冷えと響いていた。

 14-18世紀の西欧絵画を主に蒐(あつ)めた、おそらく目下西ドイツ最大のこの美術館に、昔私は飽きるほど足を運んでいたので、デューラーが何処にあり、グリューネヴァルトが何枚くらいあるかまで覚えていた。今度も私は疲れていない元気のいいときには、これらドイツ中世絵画に面と向かった。疲れているときには、どういうわけか、今度は色も線もどぎついまでに勁(つよ)いドイツ的世界を避ける気持が動いた。クラーナハの妖しい美、バルドゥングの怪異さ、グリューネヴァルトの精神性――どれ一つをとっても見る者の心に過度の緊張を強いて来ないものはない。一日の仕事を終えた夜の散歩者の気分にはそぐわない。

 どうせ夜の二時間くらいではこの大きな美術館を回り切れるものではない。私はそう考え、夜入ったときにはあちこち移動せず、一、二の部屋にじっと腰を落ち着けているのがいいように思った。

 そこでドイツの絵を避けた日には、私は好んで17世紀オランダ絵画の、穏やかな室内のリアリズムの傑作が並んでいる側面の小部屋に足を向けた。労働する女性の全身に射す明るい光と影、四角い窓や戸に区切られた室内の落ち着いた空間構成、糸の織り目の一本も見逃さない衣裳の襞(ひだ)の細密描写――フェルメールやテルボルフの代表するあのオランダ市民の日常生活を描いた数々の傑作は、神話や聖書にばかり取材したドイツ中世の、イエス・キリストや受難者たちを残酷陰惨に描いたあのもう一方の暗い世界とは何というへだたりがあるだろう!

 私はグリューネヴァルト、バルドゥング、クラーナハ、アルトドルファーといったドイツ中世画家たちの作品に取り巻かれ、ベンチに座って、独りじっとしていることがあった。すると画家たちの宗教的幻想が、まるで異様な一大音響となって、私の身の周りに飛び交い、もつれ合い、降りかかってくるように思えた。それらの絵は神秘的で、超俗的で、物語性に富み、日常にはないものを現実化してみせる、中世絵画に特有のメルヒェンめいたファンタジーに満ちあふれていた。

 私はそういう画家の幻覚の数々――底知れぬ絵画的豊かさだと言ってもいいのかもしれないが――に当てられ、言いようもない不安を覚えることも少なくなかった。それは形のない玩具を与えられてどう扱ってよいか戸惑う子供の心理にも似ていた。

 そういうドイツ中世画家の中で、明確な形、均斉のとれた即物的描写という点で、私の心にただひとり例外をなす画家がいた。幻想ではなく、厳密に規定された調和と法則の美において秀で、しかも、宗教的情熱を決して表立てては主張しない男性的な禁欲の画家。いうまでもなく、デューラーがその人で、ミュンヘンのこの美術館にも、代表作「四使徒」がある。

 、聖書を手にした四使徒の立像、その忘れ難い眼光は、一度見た者の心を去らないだろう。しかしデューラーは決して分かり易い画家とは言えない。秀(すぐ)れた作品は肖像画に多く、地味で、文学性に乏しい。いま述べたドイツ画家の特有の、宗教的幻想を述べる率直さが彼にはない。『人体比例論』という書物を著した理論家が彼の中には住んでいる。

 初め私も彼にはなじめなかった。オランダの画家のあの家庭的な優しさも彼にはない。イタリアの画家のような絢爛(けんらん)たる色彩美も彼には乏しい。しかし私は今度の旅で、ドイツそのものに疲れたときに、この最もドイツ的な画家にかえって癒(いや)された。「ドイツ的」とは、ドイツ的情緒を否定し、これに打ち克とうとする精神の方向を指しているからであろう。

初出(原題「美術随想 ドイツの美術館」)「産経新聞」1981年9月4日夕刊

2006年01月21日

むかし書いた随筆(六)

  「皇室問題の論じ方」(五)(六)がこの後つづくが、仕事上の時間の都合で、閑話休憩します。

***夜の美術館散歩***

 ヨーロッパの美術館はしばしば夜も開かれている。昨秋、私は久し振りに三ヶ月ほどドイツに行った。夜になると大抵オペラや芝居を見にいったが、毎晩というわけにもいかず、行く処がなくて困る夜もあった。そういうときに美術館が開いているのはじつに有難い。

 例えば、ドイツ中世絵画で名高いミュンヘンのアルテ・ピナコテークは、火曜と木曜の二晩だけ、午後7時から9時まで開かれている。館内には昼間のように団体の観光客はない。森閑とした巨大画面の谷間に、訪れた靴音だけが冷え冷えと響いていた。

 14-18世紀の西欧絵画を主に蒐(あつ)めた、おそらく目下西ドイツ最大のこの美術館に、昔私は飽きるほど足を運んでいたので、デューラーが何処にあり、グリューネヴァルトが何枚くらいあるかまで覚えていた。今度も私は疲れていない元気のいいときには、これらドイツ中世絵画に面と向かった。疲れているときには、どういうわけか、今度は色も線もどぎついまでに勁(つよ)いドイツ的世界を避ける気持が動いた。クラーナハの妖しい美、バルドゥングの怪異さ、グリューネヴァルトの精神性――どれ一つをとっても見る者の心に過度の緊張を強いて来ないものはない。一日の仕事を終えた夜の散歩者の気分にはそぐわない。

 どうせ夜の二時間くらいではこの大きな美術館を回り切れるものではない。私はそう考え、夜入ったときにはあちこち移動せず、一、二の部屋にじっと腰を落ち着けているのがいいように思った。

 そこでドイツの絵を避けた日には、私は好んで17世紀オランダ絵画の、穏やかな室内のリアリズムの傑作が並んでいる側面の小部屋に足を向けた。労働する女性の全身に射す明るい光と影、四角い窓や戸に区切られた室内の落ち着いた空間構成、糸の織り目の一本も見逃さない衣裳の襞(ひだ)の細密描写――フェルメールやテルボルフの代表するあのオランダ市民の日常生活を描いた数々の傑作は、神話や聖書にばかり取材したドイツ中世の、イエス・キリストや受難者たちを残酷陰惨に描いたあのもう一方の暗い世界とは何というへだたりがあるだろう!

 私はグリューネヴァルト、バルドゥング、クラーナハ、アルトドルファーといったドイツ中世画家たちの作品に取り巻かれ、ベンチに座って、独りじっとしていることがあった。すると画家たちの宗教的幻想が、まるで異様な一大音響となって、私の身の周りに飛び交い、もつれ合い、降りかかってくるように思えた。それらの絵は神秘的で、超俗的で、物語性に富み、日常にはないものを現実化してみせる、中世絵画に特有のメルヒェンめいたファンタジーに満ちあふれていた。

 私はそういう画家の幻覚の数々――底知れぬ絵画的豊かさだと言ってもいいのかもしれないが――に当てられ、言いようもない不安を覚えることも少なくなかった。それは形のない玩具を与えられてどう扱ってよいか戸惑う子供の心理にも似ていた。

 そういうドイツ中世画家の中で、明確な形、均斉のとれた即物的描写という点で、私の心にただひとり例外をなす画家がいた。幻想ではなく、厳密に規定された調和と法則の美において秀で、しかも、宗教的情熱を決して表立てては主張しない男性的な禁欲の画家。いうまでもなく、デューラーがその人で、ミュンヘンのこの美術館にも、代表作「四使徒」がある。

 、聖書を手にした四使徒の立像、その忘れ難い眼光は、一度見た者の心を去らないだろう。しかしデューラーは決して分かり易い画家とは言えない。秀(すぐ)れた作品は肖像画に多く、地味で、文学性に乏しい。いま述べたドイツ画家の特有の、宗教的幻想を述べる率直さが彼にはない。『人体比例論』という書物を著した理論家が彼の中には住んでいる。

 初め私も彼にはなじめなかった。オランダの画家のあの家庭的な優しさも彼にはない。イタリアの画家のような絢爛(けんらん)たる色彩美も彼には乏しい。しかし私は今度の旅で、ドイツそのものに疲れたときに、この最もドイツ的な画家にかえって癒(いや)された。「ドイツ的」とは、ドイツ的情緒を否定し、これに打ち克とうとする精神の方向を指しているからであろう。

初出(原題「美術随想 ドイツの美術館」)「産経新聞」1981年9月4日夕刊

2005年10月13日

ヨーロッパを探す日本人(九・最終回)

 いったいヨーロッパは何であるのか、荷風以来その認識はそれほど進んではいないし、ただわれわれがなにかを探すためにあそこに行かずにはいられないという衝動だけは依然としてつづいているのである。だが、考えてみれば、こうして探してばかりいる姿勢が健康である筈もなく、それはいつでもあの「教育視察団」の物欲しげな、話題さがしの経験崇拝に転落する危険をもうちに秘めていることは明らかである。

 じっさい私の二年間の生活を占めていた多くの部分が、あのカメラ狂の好奇心に類するものであったことは、残念ながら認めないわけにはいかない。そしてまた、私はすこしもそれを後悔していないのだが、ヨーロッパの短い滞在では、そうしなければたちまち自分の小さな我のうちに閉じこめられてしまい、何のために行ったのか分らないことにもなりかねないからである。

 われわれをふところの中にかんたんに飛びこませてくれない冷たい壁がこの社会にはあり、それは同化力のはげしいアメリカ社会との相違点であり、またアメリカ留学とヨーロッパ留学とは形式が変ってこざるを得ない所以であるともいえるかもしれない。われわれは自分の経験狂を笑いながら、それをつづけるほかはない。そして笑っているうちに探しているもの(傍点)をやがて見つけることだってあり得るだろう。

 思いがけないときに、思いがけないところで、探しあぐねているものにふとぶつかる。そういうときは嬉しいというよりあっけない。私がバーゼルの秋の日の午後、ニーチェが昔住んでいた家をついに見つけたのもそんな具合だった。それは余りにもあっけなかった。

 私はもう4時間も探し歩いてすっかり諦め公園を散歩していた。坐高の高い白髪の婦人が、ベンチで本をよんでいた。本をよんでいるくらいだから、ひょっとすると知っているかもしれない、私は半ば諦め半ば期待し乍ら同じ問をくりかえした。老人は多くを語らず、先に立って案内してくれた。ほとんど感動のないその無表情に、娘時代以来いく変転したニーチェ像へのどんな感慨がこめられていたのか私には分らない。

 さっき何度か通った覚えのある通りのひとつ、古いギムナジウムの建物を角にもつシュッツェングラーベン・シュトラーセの47番地だった。シュッツェンマット・シュトラーセとほんの一字違いだったのだ。そこからはあのギムナジウムのすぐ裏がみえる。

 通りは幅広く、真中がカスタニエンの枯葉に蔽われた中道公園になっていて、ベンチもあった。私はここを何度も通っていたのだが、立木に遮られて、気がつかなかったのだ。同じ形をした二階建ての、長屋形式のつづくとある中ほど、やや草色がかった灰色の壁がそこだけすこし古く、黒ずんでいる一軒があった。白い窓枠は汚れていた。壁のなかほどに、黒い石板に白文字で、

  Hier wohnte
  Friedrich Nietzsche
  von 1869-1875
 と張り出されてあった。

 あっけない結末だった。

 勿論なかには誰かが住んでいるとみえ、壁掛が窓からみえた。7、8メートル四方の小さな庭には、玄関口まで石畳が敷きつめられ、紫陽花が季節にふさわしくない狂い咲きをみせていた。庭の中ほどに、かなり丈の高い棕櫚が植えられ、周囲を手入れよく芝が取りかこみ、そのまた外縁を名も知らぬ蔦が円く、縁どるように匍っていた。

 すこし湿っぽい庭から家の方をみても、寂として物音もなく、道路をへだてる鉄の垣根の端にある小さな鉄の門には、かたく錠がおろされていて、びくともしない。折角のことで見つけたのだから、せめて写真だけでも写して行こうとして位置を考えていると、通行人はじろじろ私を見ていくし、私につられて鉄の垣根ごしに不思議そうに内部をうかがう通行人もいた。じっさい不思議そうにみえたのは私の方であったのに違いない。

 しかし私はさいごに、ここに今どういう人が住んでいるのかという無意味な好奇心に動かされはじめていた。なにしろ門には鍵がかかって、静かで、物音ひとつしない。だからこそ一層好奇心にかられたのかもしれない。

 私はしばらく躊躇したのち、思い切って隣家の鈴をならした。若い感じのいい娘が戸口を開いた。私は日本から来た者ですが、隣家のことについてお訊ねしたいのですが・・・・そう言うと、娘はにわかに怪訝な表情を顔にうかべた。

 「ニーチェの家についてお訊ねしたいのです。」
 「ああ、」
 と娘はすぐ納得のいったような表情にもどった。
 「今この家は何に使われているのですか。」
 「お婆さんがひとり住んでいます。」
 そう言ってから娘は身を一歩のり出し、私がそれ以上まだ何もきいていないのに、急に興に乗ったようにしゃべり出した。
 「それがね、とっても不思議なお婆さんなんですのよ。そのお婆さんのすがたを、私たちまだ見たことがないのです。白い髪をし、赤黒い顔をした老婆だって聞いていますけれど。一人にしては家が大き過ぎるのに、ほかには誰もいないらしく、夜になると窓を開け、昼間はけっしてカーテンを上げたことがありません。」
 「ずいぶん童話風のお話ですね。買物にも出ないのですか。」
 「それが、私たち、とにかく見たことがないのですから。家のなかでも、何をし、どんな生活をしているのか誰も知らないのです。」

 そう言って娘はすこし笑い、退屈そうな表情にもどった。

 私は丁寧に礼を言って、その家の玄関口から立ち去った。娘はすぐ扉をしめてしまった。隣家のニーチェ・ハウスはやはり前と同じように、しんとして、物音ひとつしなかった。私はバーゼル駅の方へ向って歩き出した。時計を見て、すこし慌てて、思いなしか私は歩調を早めていた。

2005年10月12日

ヨーロッパを探す日本人(八)

 

 自分が日本からもちこんできたある観念を打ちこわすためには、やはり未知のものへの畏敬のこころ、少くとも正直なこころがなくてはならないだろう。私がミュンヘンにきた前の年に、指揮者のクナッパースブッシュが死亡したが、あるレコードファンの日本人は、あの人の演奏がきけなければもう私はミュンヘンに定住する気がしませんよ、などとひどく落胆の体をしめし、私の顰蹙を買った。そんな言い方は嫌味である。なにもミュンヘンの芸術はひとりの指揮者によって左右されているわけではなく、その気になれば、まったく経験したこともない別の新しい世界に触れることができるはずなのである。どういうわけか日本のレコードファンにはこの種のモノマニアックなひとが多かった。

 バイロイト音楽祭で出会ったある日本人は、わざわざこの聖地を訪れるためにヨーロッパにやってきた。ワーグナーを生できくのは初めてのはずだった。それなのにいろいろ専門的な批評をして私を驚かせたが、しまいに歌手のアニア・シリアの生の声はどうもレコードのように美しくないといって不平を洩らすような始末だった。

 ある幻想をいだいてヨーロッパを訪れ、その幻想のなかにとらわれたままで帰国するような日本人が意外に多い。が、たいていの日本人はむしろ経験崇拝型であり、これとは反対に、無我夢中でなにかを探し求めて歩き廻るような人がごく普通で、いかに滑稽な失敗をつみ重ねたとしても、私にはこの方がむしろ自然なことに思える。

 経験は夢であり、同時に、現実である。夢をみないものは、経験をただ分量の大きさによって測ることしか出来ず、未知の現実にぶつからないものは、日本でみていた夢からさめずに、夢にとらわれたままに帰国するのみである。

 じっさい目の色を変えてヨーロッパの新しい経験を探し求める日本人は、ただ単に滑稽というだけではすまされない。幕末開国期の、欧州視察団以来の本能がなおわれわれのうちに生きていると言えなくはない。

 例えば、18年の長きにわたってフランスに滞在した森有正氏の経験に関する省察に、最近、まるで煙にまかれたように衝撃的に反応した日本の論壇は、あたかも私の拙い経験談に日本人旅行者がふりまわされていくときの、不安定にして、ナイーブな、暗示にかかり易い心理状態に似ていたところがあったようにも思えるのである。むろんそれは森氏の省察のある深さを否定するものではない。しかし、一片の論文に対する反応の大きさは、日本とヨーロッパの間に横たわる百年来の心理的惰性に由来していると思われるふしが私にはかんじられたのである。

 そのことの善し悪しを問うているのではない。ただ、要するに、ヨーロッパに来て経験を探し求めて狂奔する日本人の心理と行動を簡単に笑うことは出来ないということであり、多かれ少かれ、そのようなあり方にしか日本人のヨーロッパ経験の様式はないのではなかろうか?

 なにしろわずかな滞在期間に比して、ヨーロッパ全土はあまりにも豊富な経験の宝庫である。日本人は大抵、ひまがある限り夢中で旅行する。ヨーロッパ人が一生かかってする旅行範囲を1、2年で走破する。まるで物欲しげな飢えた表情で、花から花へ飛び移る蜜蜂にように、町から町へ、国から国へ、美術館から美術館へ、そうしないではいられないものを秘めているヨーロッパとは何だろうかと考える余裕もなく、次々に行動を起さずにはいられない日本人の旅行の仕方を評して、ドイツ人の某友人は、“Typisch japanisch”(典型的に日本人風だ)とからかったが、彼が出会った日本人はみなそうだったという意味なのである。

 日本人とアメリカ人の好奇心の強さはドイツ人の間ではすでに定評がある。なにかを探し求めて止まないそういう慣い性はもうわれわれの骨の髄まで犯しているのかもしれない。しかしそういう仕方ではとうてい自分自身というものにめぐり会えることはないのである。にもかかわらず、そうしなければまた自分自身にめぐり会えるよすがさえ摑めないのがヨーロッパなのであろう。

 ヨーロッパがアメリカと違って、各国文化の豊富な多様性によって成り立っている以上、ヨーロッパへの留学生が大学生活などをそっちのけにして、自分を多様性そのものにゆだね、そこから無意識のうちに入ってくるものの音を静かに聞きとろうとするのは避けがたいことだろう。

 イタリアのアッシジで出会ったある日本人女性は、半年もヨーロッパ各地をひとりで旅行し、とりわけイタリアの美術や自然を見て歩いている間に、毎日のように出会う「中世」の顔に感動し、その感動をだれにも日本語で打明けられない孤独な旅の空しさにほとんど耐えられなくなる思いだ、と漏らしていたが、私もまたそのころ、同じ気持で同じ事をかんじていた。

 今はそのときの感覚がどうしても鮮やかに、具体的に思い出せない。あのときでさえ言葉にならなかったあの感動の数々がどうして今ことばになろう。私自身、旅の一日で見た物の余りに多くをだれかに伝えたいという気持に駆られて、夜、ホテルで家族や友人にあてて手紙を書き出すが、伝えようとすると、伝達の機能が経験の量に及ばないという思いにいくたびもほぞを噛んだ。

 こういう孤独なたびの空しさに耐えて黙々と歩いている日本人が、これまでどの位の数にのぼったことだろう。

 荷風の『新帰朝者日記』のあの明治の新文明への憤りは、そういう空しさをかんじていた彼が、言いがたい感動をいだいて日本に帰って、だれも分ってくれない今浦島の思いなのに違いない。いったい彼は何を探してきたのだろうか。かれの絶望がはげしかったのは、孤独の空しさに耐えて味わった感動もまた深く、はげしかったからに違いない。観光バスでローマを一巡して帰る人たちの方がきっと確信をもってイタリアを批評することが出来るだろうと私は思った。じっさい荷風もまた、確信をもってヨーロッパの新文明を語る知識人に、帰国後、ただちに取巻かれている自分自身の始末に困ったのである。

2005年10月11日

ヨーロッパを探す日本人(七)

第三節

 自然の成り行きとしてかように浅薄にならざるを得ないのが外国経験の宿命ではあろうが、しかしまたよく考えてみると、人間のおこなうどんな種類の経験も、そのそもそもの始まりは未知の事実への既知の心理の不確かな反応なのであるから、いつの場合にも経験とは、浅薄な誤認に陥る可能性をつねに伴っているものなのだとも言えるだろう。

 だからむしろ外国経験は、そういう経験一般のもついささか喜劇的な性格をもっとも赤裸々なかたちで剥き出してみせてくれるものだと考えてもよいのかもしれない。傍の目にはどんなに愚かな、滑稽な経験も、それをおこなっているひとりびとりにとっては、動かせない真剣な現実なのであり、その瞬間、瞬間において、彼のささやかな経験は、経験に関する人類の智恵の総量と等価だと言ってもいいのである。

 もとよりここでいう「経験」は1、2年もしくはそれ以下のヨーロッパ滞在中の生活の仕方というほどの意味なのであって、哲学的な意味内容のものではない。しかしまたこの不安定にして、暗示にかかり易かった自分自身の心理的現実を度外視して、いかなるヨーロッパ論、体験談も成り立つわけがないだろう。善かれ悪しかれ、われわれは自分に与えられた条件のなかで、自分の既知の経験を土台に、未知の経験をひろげていくという生き方以外のことはなし得ないからである。

 いや、それどころか、既知の経験内容を欠いては、未知の経験をもなし得ないし、経験内容はそもそも量によって保証されるものではない。われわれが、未知のある土地にいくら長く滞在しても、既知の尺度でしか反応しえてないという部分が巨大な量をなすことは明らかであり、一方、高台から臨んだ見知らぬ街の風姿や、ひとわたり町を一巡したときの初印象が意外にももっとも正確であり、場合によっては、これのみが未知の事実との本当の出会いなのであって、その後経験を重ねるにつれ、この最初の印象をこえることがだんだんに難しくなってくるというような事情に、経験のもつ不思議な性格が横たわっているともいえるであろう。

 いったい経験とは何だろうか?それは西洋体験とは何だろうか?というあの容易には答えがたい、古くて新しい本質的な問と同じなのである。ヨーロッパの土を一度も踏んだことのない者は西洋を「理解」していないなどと言えるだろうか?経験の量の豊富さが、逆に経験の質をおとすというようなこともないわけではなかろう。

 私の属していたゼミに、18歳でドイツに渡って、以来8年間、ドイツ文学の初等コースを踏んで大学院にまで進んできた26歳のインド人学生がいた。彼はほとんどドイツ人と同じように読み書きができるし、教養は並みのドイツ人学生と共通している。だが、妙なことだが、彼を混じえた座談の場で、ドイツ人学生と話が通じるのはむしろ私の方なのであった。私は共通する話題においてははるかに彼より劣勢であったが、書物や教授などの評価にあたって、私の判断力がより多くのドイツ人学生の共鳴をよんだのは興味深かった。

 文化的にインド青年は、知識や学力はいくら豊富であっても、ドイツ書やドイツ人教授に対して一種無差別な反応しかできないため、批評力においていちじるしく欠けたところがあるように見うけられた。青年としてのある大切な自己修練の一時期を、外国ですごすことが何を意味するかは、明らかである。自国文化の土台を欠いて、いかなる外国文化の吸収もありえないとよく言われるのは、既知の内容を欠いて、新しい、未知の経験もありえないということのひとつの例証にほかならないだろう。

 そう考えれば、傍目にはどんなに滑稽な、愚かしい行動であってもよい、日本から来たばかりのその戸惑いそのものが外国で新しい現実にふれたときの新鮮な驚きの表現なのであり、なにも長期に滞在し、外国生活に馴れることばかりが経験の内容を豊富にするとはいえないだろう。

 それどころか、愚かな失敗や錯誤が、経験そのものであるといえるかもしれない。経験は夢と現実の交錯のなかにしかない。外国に長く生活しすぎて、日本が観念的にしか感じられなくなれば、それは日本人の経験であることを止めたことを意味するのだし、逆に、日本で考えていたヨーロッパ像を打ちこわすことをせずに、既成の観念の殻に閉じこもって、妙に安定した表情で外国をひとわたり経験することも、けっして経験したことにはならないだろう。

 ドイツではイタリア・オペラを観ないことにしています、と見識ぶった人がいたが、ミラノのスカラ座に行ってふんだんにイタリア・オペラを楽しめる金と時間に余裕があるのならいざ知らず、さもなければすでにドイツ・オペラが自家薬籠中のものにしているヴェルディやプッチーニをドイツで観て有効でないはずはないし、それどころか、ドイツの居住地で多くのイタリア・オペラを観ておかなければ、たまたま1、2日滞在するスカラ座のヴェルディやプッチーニをどう評価することも出来ないだろう。

 私が驚いたのは、ヨーロッパにやってくる日本人のなかには、西洋の芸術一般に悪い意味でペダンティックな「通」が多過ぎることだった。「モスクワ芸術座をみてからというもの、私はもう日本の新劇はみないことにしています」などと口走るスノッブは、われわれの周辺にいくらもみかけるが、こういう人がヨーロッパに行くと、厄介なことには並みの西洋人より知識が豊富だから、素直にたのしんだり、感動したりすることがなかなか出来にくくなってしまうのである。

2005年10月10日

ヨーロッパを探す日本人(六)

 

 ヨーロッパにやって来る日本人は、いつでもなにかを探しているのだ。なにか面白い経験、有意義な証拠物件、あとで話題になる事件や出来事をもとめてうの目たかの目になっている。バーゼル時代のニーチェの住居をみつけようという私の動機にしたところで、この種の話題さがしの一つに過ぎまいから、写真狂の教育視察団を私はどうして嗤うことが出来よう。

 じっさい私はバーゼルでほかにすることはなかったのだろうか。美術館を観てしまえば、これほど退屈な町はなく、意地でもニーチェの下宿を捜し出すでもしなければ時間のうめようがなかったが、それにしても、これを見つける難しさを種にして、あとで日本の読者に「話題」を提供しようなどと計算していたわけではなかったから、外国旅行中は少しの時間も無駄にせずに何かを探したずね、歩きつづけずにはいられないというのは、もう動機を抜きにしても私の習性となっていたのかもしれない。

 私にはその習性がにわかに不思議なものに思えて来たのだった。私は外国経験の不思議さを考えた。先に来た者は後から来た者に、長く居る者は短く居る者に、心理的な暗示を掛け易い。前者が確信を以て言うことばを覆すには、後者もかなり長く滞在し、それに見合ったある程度の経験を自分でも積んでみなければどうにもならないのである。

 私は通訳などで出会う短期旅行者が、年齢にかかわりなく、私の拙い経験談を熱心に、面白がって耳を傾けるのを見るにつけ、ふとした私の言葉が暗示になって、かれらのドイツ観なりイタリア観なりがある一定の方向へ動き出して行くさまを恐ろしいものを見るような思いで見つめることが幾度もあった。

 外国ではそれほど感情がナイーブになり、稚気に返ることがあり得る。ただ大抵の人は帰国すると、忽ちそのことを忘れてしまうだけである。

 自分の二年間の生活をふり返ってみても、最初の時期にはどれほど感情が動揺し、他人の言葉に左右されていたかを思い返すことが屡々ある。だからわれわれは「経験」をもとめることが慣い性になるのだとも言えよう。自分の経験で、自分の不安定な裸心に保護膜をできるだけ早くつけようとする姿勢は、安定を得ようとする生物的本能なのかもしれない。

 そしていったん安全なヴェールを纏って、現実感覚を手に入れてしまうとそれに落ちつく人もいれば、さらにそれを破って、新しい現実のイメージをさらに獲得しようと努めなければ不安でたまらぬ人もある。前者は大抵ひとつの町に落ちついて日本人社会との交際に寧日なき有様になるし、後者は、次から次へと旅行プランを考え、与えられた僅かな滞在期間中に、狂気じみた衝動で、次から次へと押し寄せるさまざまな経験に身をゆだね、統一感覚がなくなり、自分でも何をしているのか判らないような気持で、なにものかを探し求める(傍点)習性に引きずられて暮らすようになる。二年ていどの留学期間では、たいていこのどちらかの型に属する人が多いように思える。

 通訳などで出会う短期旅行者を笑うことは易しいが、また私は、私よりも多く経験している人に笑われはしまいかという不安におびえていた自分をこそ笑わなければならなかった筈なのである。他人を笑うこころと、笑われまいとするこころとは同じ精神構造なのだが、しかし、こうした不具な感情から完全に自由な日本人というものは、私の知るかぎりひとりもいなかった。

 日本人が数人あつまってレストランに入った場合、年齢にかかわりなく、先に来ている者がボーイに注文し、あとから来た者は遠慮してドイツ語を口にしないというのは、単に言葉に対する自信のなさから来るのではないだろう。現実感覚のうすさに対する自分への不安から来ているのに違いない。そしてそういう不安にいったん取り憑かれたが最後、人間は不安をうめようというバランスへの生物的本能から、経験の量を重ねようとする一定路線をまっしぐらに走りはじめることになるのである。それは仕事の量、旅行の量、外国人との交際の量、観劇の量、その他いろいろな形態をとる。

 日本では厳格な顔をしている老先生が外国ではすっかり童心に返り、旅先の町々で動物園まで見学してくるようになるのは、それがまさしくその人の現実感覚のバランスを支える「生活」の内容と化しているからである。だから日本では映画館以外に劇場というものに入ったことのない人が、帰国までに大のオペラ・ファンになっているという珍現象も、それだけではいかにもおかしいものにみえるが、外国にいた期間中は、それが彼にとって動かせない現実の重みを備えていたこともまた否定できないのである。

2005年10月08日

ヨーロッパを探す日本人(五)

 

 いつであったか、「教育視察団」をつれてミュンヘンの女子職業学校を訪れたことがある。

 日本の中学校、高等学校の校長先生や教頭先生などを主体にした老人ばかりの団体視察旅行だが、私が引受けたのはそのうちの15人ほどで、出かけた学校は「帳簿記帳と管理業務のための女子商業学校」、簡単にいえばBG養成所とでも言うべきところだろう。だが、なぜあんなに写真をとりたがるのか。女の校長先生に案内されて、機械の置いてある部屋で説明を受けたが、そのまわりに集ったのはほんの4、5人で、ほかの者はカメラをあちこちに向けていて説明をきこうとしない。

 やがて授業中の教室にわれわれは這入ったが、そこでもカメラのフラッシュをたく人がいる。窓の外を写している人もいる。だが、たったいま私に深い感銘を与えたのは、われわれが教室に這入った瞬間、13、4歳の少女たちはお客さんを迎えて一斉に立ち上がったことだ。だれからの指示もない。担任の先生はノックした校長先生の方に歩み寄っていて、ドアのそばに来ていたため生徒に指示を与える暇もなかったことは先頭にいた通訳の私がこの眼でよく見ていたからはっきりとそう言えるのである。

 校庭に出たとき、そこでこの一団は校舎を背景に女の校長先生を撮影したいと言い出した。通訳の身だから、仕方がないのでそのむね伝達した。校長さんが「どうぞ(ビッテ)」と言った瞬間である。驚くべきことが起った。約10-15メートル四方に、15人がぱっといっせいにくもの子を散らすようにグランドにひろがって、女の校長さんに向って、あるいは立ったままで、あるいは中腰でそろってカメラを構えたのだ。彼女はどう思ったろう。飛行機のタラップを降りて来た有名女優に新聞社のカメラマンが一斉にカメラの放列を布いたのとちっとも変らない。

 ひとりが代表して撮影するのならそれも御愛嬌だが、15人がひとりの例外もなく、とつぜん目の色を輝かせ、さっと校庭にひろがって思い思いの姿勢でカメラを向けたのだ。私は顔から火の出る思いがした。なにしろ日本から来た先生たちの代表なのであり、校長職など老人が多いのだから尚更である。

 しかし、そのあとでさらに驚くべきことが起ったのだ。

 12時過ぎになって、校門を三々伍々、女生徒たちが出てくる。日本人の一団のなかの、陽気な、大柄な先生のひとりが女生徒を3人つかまえて、校門の前に立たせ、自分がさらにそのうしろに立って、同僚の一人に自分のカメラを渡し、女生徒といっしょに立っている自分の姿をカメラに収めてもらおうとしたのである。無邪気といえば無邪気だから、女生徒も笑っているので、それだけならむろんなにもとり立てておかしいわけではない。

 問題は、その大柄の先生が終ると、次から次へ、われもわれもと同じことを真似しはじめ、15人全部が完全に同じことを繰返し終るまで、3人のドイツ人の女生徒がじっと立っていなければならなかったことなのである。私は見ていられなくなってその場を離れかかった。それは見事というほかはない行動の連鎖反応だった。ひとりぐらい真似しないという人があったっていいのに、彼らを完璧なまでの模倣衝動にかり立てたものは旅の心のいたずらか、はたまた老人の痴呆症か、いずれにせよ、日本人であることに屈辱を覚えたいくつかの瞬間のひとつに属する出来事ではあった。

 私が通訳として外国で付き合った日本人のなかで一番立派だったのは、若い警察官僚F氏だった。F氏はまだ28歳の若さだが、質問は要領を得ていて鋭く、礼儀も正しく、たちまちミュンヘン市警の本部長の信頼を買って、約束の時間が過ぎても歓談は止まなかった。

 F氏は自動車の交通違反に現場罰金制度を日本にも取り入れるため、それが理想的に行われているバイエルン州の実情をしらべに来たのだが、日本では警察官の不正が起り、罰金がネコババされる怖れもあるのでその点を質問しようとした。

 「しかし、その通り>ストレートには質問しないで下さい。」
と彼は私に注意を促した。

 「19**年にアメリカのカリフォルニア州でこうした警察官の不正が大規模に起って問題になったことがあります。そこで、ミュンヘン市警ではこうした憂いを防止するためになんらかの手を打っているかどうか、そういう訊ね方をして下さい。」
さもないと失礼に当るというのである。

 こういう細かい日本人的な心遣いは、たいてい外国に来るとたちまち失われ、バランスを破った非礼、破廉恥を平気で犯す日本人旅行者があまりにも多いなかで、私はF氏が際立った存在にみえたものだった。

 「教育視察団」のなかのひとりの如きは、女の校長先生に、
 「あなたの月給はいくらですか」
という質問を呈したので、私はただちに訂正して、
 「教師の給料は平均いくら位ですか」
と言い直したものだった。

 それでもこのひとたちは日本に帰れば、職員会議あたりでドイツの教育制度について一席ぶち、ドイツの女生徒といっしょに写したフィルムを同僚、下輩に御披露して、大いに滞欧経験の有意義であったことのお土産にするだけの下心は持ち合わせていよう。いや、そういう下心がつねにあるから、なにかの機械に恥も外聞も忘れて、「証拠写真」をあつめようとしているのに違いない。

 あれは痴呆現象でも模倣衝動でもなく、計算ずくの行動かもしれないのだ。いや、そう考えた方が筋が通っているし、少くとも私の感じた屈辱感の半分位は減殺される。

2005年10月07日

ヨーロッパを探す日本人(四)

 

 もうひとり別の老人は、そうさな、覚えがありますよ、どこかで確かにそう書いてある家を見た覚えがある、間違いありません、まあ、一緒にお出でなさい、そう確信をもって私をつれて歩き出した。だが、私がもう何度も往き来した同じ場所を歩くだけで、あっちに立ち停り、こっちに首を曲げしてみせるのだが、どこだったかどうしても思い出せないらしい。

 そうこうするうちに、さっき交番へ行けばよいと言ったおっさん風の老人が、通りの向う側で手を振って、私の方に歩みよって来た。判ったのかもしれない。老人は通りを横切って、こちら側に渡ると、大空を指さして、いい天気だ、と言う。私の肩に手を置いて、見ろ、飛行機が飛んでいる、ワハハと笑う。ビールに酔っていい御機嫌である。見れば、たしかに澄み切った秋の青空に、飛行機が爆音も小さく、高く飛んでいる。

 私は急に馬鹿馬鹿しくなった。だが、なぜか愉快で仕方がないという気持にもなった。今日という日が、なんとも言えず愉快になってきたのだ。第一、百年前の異国の哲学者の昔の下宿をさがして歩いている日本人というのがまことに愉快な存在だし、それに、飛行機が飛んでいるといって子供のように両手をひろげて、私の質問をすっかり忘れてしまっている愉快な老人を前にして、当惑した微笑を浮べていたに違いない私という存在ほど剽軽な人間はまたとないであろう。

 いったい私は何をさがしていたのだろうか?私はニーチェのバーゼル時代の下宿の住所をさがしていたのである。だが、私はなぜそんなものをさがしていたのだろうか?よく考えてみると、これは無条件に当り前なこととは必ずしも言えないように思えるのだった。

 私はニーチェを愛読しているからだろうか?だが、私はなぜニーチェを愛読しているのだろうか?ニーチェの文章を読んでいると、思想的にも、生理的にも、いや、確かに頭の訓練としても快適だからである。私は快適なことをするのが好きだからである。そして私は、不快なことをするのが嫌いだから、バーゼルでニーチェの昔の下宿をさがしているのだろうか?それがなかなか見付からなくて苛々しているのは不快なことではないのだろうか?私には不快なことが結局、愉快なことなのだろうか?それとも愉快なことが、不快なことなのだろうか?

 じっさい私は、笑いたかった。だが誰にたいしてこれは笑うべきことなのだろうか?私は私自身を笑って気が済むということをやっぱり笑うべきではないだろうか?それとも私はもう笑ってしまえば、もう笑うべき存在ではなくなるというのだろうか?

 私はこれまでもヨーロッパにやって来る日本人の、あのいつも物欲しげな、それでいてお人好しの顔付きがおかしくてならなかった。それは私自身をも含めてのつもりだったが、やっぱり今まで、どこかこころの片隅では、私は私自身をも含めていなかったのかもしれない。

 つい一週間前、私はローマにいた。ローマのレストラン・トーキョーにあつまっていた日本人の、あのいかにも間伸びのした、ちょっとはしゃいだ、きょろきょろ辺りを見廻して落ちつかない、それでいて俺は日本人だという傲然とした張りのあるところをも失うまいとする一群の表情を部屋の片隅からじっと眺めていて、ああ、日本人はこんな顔をしていたのか、久しく忘れていたな、東京にいたとき日本人はたしかにこんな顔をしていただろうか、そう気を張るなよ、のんびりし給え、あんまり緊張しすぎるから、刺身の食べられるレストランに来て、にわかにそんなにこやかな顔になってしまうのだ・・・・・・じっさい私はあのとき悪意の塊になって、日本人観光団の野放図なおしゃべりを冷笑し、ひそかに優越感をかんじ、それでいて自分も刺身が食べたくてレストラン・トーキョーをさがしにさがしあぐねた末ようやくたどり着いたという事実の方は好都合にもすっかり忘れる技術をも習得していたのである。

 旅行中日本人観光団に会うとぞっとしますよ、といつか私に真顔で言ったひともやっぱり日本人だったが、そのひとも私に言わせれば、やっぱりぞっとする日本人の一人だったのである。なにしろその人はドイツ語が一言もしゃべれないのに、日本の某大学から派遣されてミュンヘン大学の経済学部の某教授と会談するためにやって来たのだが、私は通訳をたのまれたので、至急経済学部の研究室に連絡をとってみたところ、うかつにも会談の約束なんかまるっきり取りつけてもいなかったからである。

 研究室の親切な秘書嬢が気を利かし、その日偶然ドイツ人教授が出講日だったので運良く会談は成立したからいいようなものの、ああ世話は焼き切れないなと腹を立てつつ通訳の場にのぞんだところ、日本人教授はドイツ人教授の前のソファーに坐りながら、相手の顔を正視して物を言うことが出来ないのである。

 しゃべっているのは易しい日本語である。それなのに日本人教授ははじめから終りまで、横に坐っている通訳の私の顔ばかり見ながらしゃべっている。ドイツ人教授は堂々とした長身で、悠々とソファーに坐し、にこやかに微笑をうかべつつ応対するその小憎らしいほどの落ちつきに調子を合わせようとすると、私の下手なドイツ語は、しだいしだいにヒステリックに上ずってきて、これほどの羞ずかしい、みじめな思いをさせた日本人教授に対し私はいささか恨みを抱いたものだった。

 それに別れるときになって、日本人教授は鞄の中から土産物のつつみを取り出して、ドイツ人教授からは代りに著書を一冊贈呈されたところまでは良かったが、彼の鞄のなかにはまだまだ沢山お土産の品が入っているらしく、隣室の秘書嬢にまでそのうちの一つを差出そうとする素振りをみせたので、私は「ああ、止めて下さい、その必要はありません、却っておかしいですよ。」と思わず手で制しつつことばに出していたのだった。これまでいくたびも日本人来客の通訳を頼まれて来たのだが、はらはらしたり、腹を立てたり、しまいには逃げ出したいと思う場面に出くわすことも一度や二度ではなかったのである。

2005年10月06日

ヨーロッパを探す日本人(三)

第二節

 私はバーゼルのレストランの女主人に礼を言って、ふたたび探索に出発した。

 秋の空には雲ひとつない。

 中世の城門シュパーレントールは、澄んだ青空に、特徴のある三角の彩色の尖塔をつき立てていた。人通りは少い。だが、自動車はひっきりなしに通る。並木の葉はまだ九月だというのにすでに黄ばみ、落葉が明るい通りをかさかさと風に運ばれていた。バーゼルにも意外に観光客が多いのに気が付いた。城門にカメラを向けたのは私ひとりではなかった。しかし、日本人の姿はこの日は町中どこにも見掛けなかった。

 いろいろたずねて、古い「学校」をシュッツェンマット・シュトラーセに見つけた。大きな四辻の一角に立っているこの学校は、黄とくすんだ赤の帯模様に塗られた明るい、派手な建物だった。

 「古い学校ならあれですよ。でも、ニーチェが住んでいたとか、そういうことは知りませんわ。聞いたことないですよ、そんな話。」

 ある中年の婦人がそう言っていた。

 「この辺りに、哲学者が住んでいた建物なんてい言うのはほかに御存知ありませんか。」
 「ありませんね。」

 学校のあたりをぐるぐる歩いていたが、どうもそれらしい様子はない。ニーチェは当時、大学を教えるかたわら、ギムナジウムで語学の先生もしていた。非情に厳しい教師であったので、生徒に人気がなかったと語り伝えられている。このギムナジウムが、いま私の前に立っている建物だろうか?だが、詳細を調べずにバーゼルに来てしまった迂闊さから、確認するすべもないのである。

  「あれが学校ですよ。でも、あんなもの見て何になるのです?なにも価値のない建物ですよ。」

 もうひとり別の婦人は、そう言って不思議そうな顔をして行ってしまった。ミシュランのスイス版を手にしているフランス人夫妻をつかまえて調べてもらったが、記載されていない。私のもっているポリュグロットには勿論載っているはずもない。私はシュッツェンマット・シュトラーセを綿密に、幾度も行き来してみた。インテリらしい人もつかまえてきいてみた。大抵知らない。この辺りに住んでいる人でなければいけない。そうは言っても、前にも述べた通り、日曜日なので、シュッツェンマット・シュトラーセの住人に話し掛けるチャンスがないのである。この通りはみなかたく扉をおろして、窓から顔を出したり、玄関口から出て来たりするような人さえひとりもいない。

 丁度、自動車が一台、四辻のガソリンスタンドの前に停った。ガソリン屋の女の子がとび出して来た。私も飛んで行った。

 「知らないわ、そんなの。」

 彼女は肩をすくめて、それから私の方を見て、うすら笑いを浮かべた。いかにも、なんてつまらん事を聞く人だろうと言わんばかりの様子である。

 乳母車を押して散歩しているインテリらしい若い夫婦がやって来たので、これはいい、とばかりに待ちかまえていて訊ねた。夫妻は、私がすべてを言い終わるまで黙ってきいていた。そして、私がこれまで多くの人に訊ねても分らなかった苦心の有様まで語り終ったとき、若い夫の方が、じっとわたしの顔を見て、じつは自分達はフランス人なのでドイツ語が全然わからないのです、とたどたどしい英語で答えてきた。それから困ったような笑いを浮べて、妻をうながすようにしつつ、乳母車をまたゆっくり押しはじめた。

 私はもうすっかり苛々してきた。どうせ訊ねるなら老人の方が良いかもしれない、なにせ若いひとはもうニーチェのことなぞ知らないのだ、そう思ったから、小肥りの、人の好さそうなおっさん風の老人をつかまえて同じことを訊ねてみたが、交番へ行って聞けばよいなどと言う。なんとも付合いの悪い答え方である。

2005年10月05日

ヨーロッパを探す日本人(二)

 

 私はそのへんを歩いている二、三の人に訊ねてみるしかなかった。だが、日曜というのはこういうときまったく不便なのである。日曜の午前中、土地のひとをつかまえようと思ってもなかなかそれらしき人に出会えないのだ。ここがイタリアとの違いの一つであろう。イタリアでは、用もないのに閑をもてあましたひとびとが街頭に屯し、無駄話をし、がやがやと陽気に、賑やかにくだを巻いている。スペインもそうだ。スペインでは交通の邪魔になるほど街角に人間が溢れ出している。バーゼルはバールというフランス読みの名ももっているとはいうものの、たしかにゲルマン系の町なのだ。

 それに、もう一つ困ったことは、土地の人と旅行者との区別が容易につけにくいことである。日曜の午後になって、ようやくバーゼルでも散歩をする人がぼつぼつ通りを歩きはじめたが、しかし、日曜日には正装して散歩するのがこうした静かな中型都市の習慣だから、旅行者との区別がつけにくい。イタリアあたりでは、観光客は一目でそれとわかったのに、と私は困惑した。乳母車を押している夫婦者、一人で杖をついて歩いている老人――これは絶対に旅行者ではあるまい、そう当りをつけて尋ねてみるしかなかったのである。

 昼食どきなのでレストランに這入った。早速ボーイにきいてみた。勿論ボーイが知るわけもないから、なかなか立派な高級レストランでもあるし、だれか店の人にきいて下さいと頼んだのである。ボーイはニーチェの名前も知らなかった。店の中年の女主人が出て来て、調べてあげますと言って奥に入り、しばらくして地図と紙切れをもって出てきた。

 かくて、バーゼル大学のそばに残っている中世の城門シュパーレントール付近の、シュッツェンマット・シュトラーセに古い学校の建物がある。そこにニーチェは住んでいた、あるいはその隣の家かもしれない、だからその辺りに行ってひとに聞けば近所の人が教えてくれるでしょう・・・・・ということだった。

 「本屋さんに知合いがいますので、電話でいまきいたのです。」
 「それはどうも御親切に有難う。」
 「でも、どうしてそんなことを知りたいのですか。」

 こういう質問をこれまで私は何度うけてきたことだろう。こういう小うるさい質問を一言で片づけてしまう名答をおぼえるまでにも、私はすでに一年ぐらいかかっていたと言えるのかもしれない。

 「Ich bin Germanist.」
 「ああ、そうですか、でもいまニーチェを読む人はいないでしょうに。私は以前にはドイツ人でしたのよ。ニュルンベルグの出です。兄は子供の頃、ニーチェを読む研究会に入っていました。兄は建築技師で、戦死しましたが、あの頃はゲルマニストでなくともニーチェを読む研究会は町にいくつもあったのですのよ。」

 そんな話はほかにも私はきいたことがあった。

 東ドイツのライプチヒ近郊レッケンの、ニーチェの生家であった村の牧師館に私は墓参したことがある。

 ニーチェの墓は小奇麗に手入れされ、季節の花で飾られていたが、それは年老いた寺男の世話であったから、私はなにがしかの金をこの親切な寺男に握らせなければならなかった。

 「昔ワイマールからここに墓が移されてきた除幕式の日はとても賑やかでしたよ。ヒットラー総統は来ませんでしたが、代理の偉い人が来ました。村長さんも張り切ったものです。あの頃は、なにしろお墓は国営で、管理の費用もぜんぶ国費でした。ですが今は、こうして私が手入れして、花を飾ってやるほかないのです。」

 だからなにがしかの金を置いて行けというのがこの77歳の寺男の言いたかったことなのである。

 「西ドイツから墓を見に来るひとがいますか。」
 「いません。」
 「日本人は?」
 「十年前にひとりいました。ほかにはフランス人がときどき来ます。自動車で東ドイツを旅行中にちょっと立寄るらしいですよ。」

 新しい決定版ニーチェ全集の編纂をしているイタリア人学者モンチナリ氏をワイマールに訪ねたときのことである。

 氏は不便な東ドイツでこの難事業にとりかかってすでに七年になるが、ワイマールのシラー・ハウスの前の古本屋にナウマンのツアラトゥストラ註釈本が出ていたはなしをしていたので、私はさっそく買いに行った。店の主人にそれが欲しいと言うと、
 「ニーチェ?そんなものはありません。」

 それから急に居丈高に、声をたかめて、
 「ニーチェ、いけません、いけません、(シュレヒト、シュレヒト)あれは悪い思想家です。あんなものを読んではいけません。」

 あんまりはっきりそう言うものだから毒気をぬかれて引き下がった。あとでモンチナリ氏に再会したときにその話をしたら、
 「なに、書庫にあるのですよ。あなたが外国人なので本屋は警戒したのですね。現に一週間前、あそこの主人は私に買わないかと持ちかけて来たくらいですからね。」

 私はルツェルン近郊のインメンゼー湖畔でスイス人の小学校の先生夫妻に会った。バーゼルのニーチェ・ハウスはミュンスター教会のそばだろうと間違えて教えた人だが、ニーチェはスイス人には好かれていませんね、あの過激思想はわれわれの肌には合いませんよ、顔をすこししかめながらそう言っていたのを思い出す。

 「でも、ニーチェの方はスイスを愛していましたね。」
と私は答えたものだった。
 「それに、ニーチェは死ぬまでスイス国籍でしたよ。」
 「あら、それ本当ですか?」
奥さんの方が急に目を円くして、びっくりした様子で亭主の方を向いたときの顔が思い出される。

2005年10月04日

ヨーロッパを探す日本人(一)

 私が昭和43年(1968年)4月、ドイツ留学から帰国して半年余しか経っていない時期に、同人雑誌に書いたあるエッセーをご紹介したい。私は当時32歳で、静岡大学の専任講師だった。

 同人雑誌はドイツ文学の仲間で出していたもので、Neue Stimme(ドイツ語で「新しい声」)といい、「しんせい会」という同人会を結成していた。小説を書く者もいた。芥川賞作家も出ている。

 このエッセーは私がまだ著述家としての活動を開始していない習作期の作品である。新潮社から出してもらった最初の評論集『悲劇人の姿勢』(1971年1月刊)に収録されているので、未公開ではないが、この本自体が古書店にももうないので、同エッセーに記憶のある人は今ではほとんどいないと思う。(ただ同書の別の評論から一昨年ある大学の入試問題が出ているので、本を知っている人はまだいるのだと、嬉しかった。)

 「ヨーロッパを探す日本人」は短編小説くらいだと思って読んでいたゞきたい。読み易いと思うが、かなり長い。何度にも分載されると思う。

 途中から読まないで欲しい。面白そうだと思ったら、(一)に戻って読んでいただけたら有難い。

 このあいだ「第二の人生もまた夢」というエッセーを日録に掲示したあとで、スイスのバーゼルに住む若き友人平井康弘さんが出張で来日し、新丸ビルで落ち合い、久闊を叙した。急にバーゼルが懐かしくなって長谷川さんのお手を煩わせること容易ならずと思いつつ、ここに長文の分載をお願いした次第だ。


■ヨーロッパを探す日本人 

第一節

 しらべてから来るべきだった。アドレスがわからないのである。

 ホテルの受付の女性にまず訊ねてみた。

 ニーチェ?さあ、どこかの町角でその名前見たことがあるわ、はっきりしないけど、・・・・・・肥った中年の婦人がそう答えた。駅の案内所に問い合せてみましょう、そう言って電話をその場で掛けてくれたが、生憎日曜で、電話口にはだれも出ないらしい。

 バーゼルは観光都市としてはまことに不完全な町である。

 ベルン、ルツェルン、チューリッヒ、いずれにも、駅のなかに立派な旅行案内所があり、数人の係員が休みなく応対している。チューリッヒなどはいかにも国際空港のある都市らしく、駅構内の案内所でさえ、三方にガラスを張った宏壮な事務所だった。この三つのホテル案内と旅行案内(汽車の時刻などを教える事務も含む)とは、それぞれ別々の場所に別々の事務所をさえもっている。バーゼルの駅の構内にはそれらしきものはなにひとつなかったのである。

 駅前広場に、木製の電話ボックスのような小屋が立っていて、無愛想な女の子がひとりホテルの案内係をしている。私は昨夜、この無愛想な女の子の世話で、いま泊まっているホテルを見つけた。このときよほどニーチェの昔の下宿のことを聞こうかと思った。しかし、なにしろ百年前である。こんな年若い子が知るわけはない、そう思って聞かずに置いた。ホテルの受付の中年女性が電話を掛けようとした相手はこの女の子なのだ。

 私は受付の女性に言った。
「昨日スイスの小学校の先生と話をして、ニーチェの家はたぶんミュンスター教会のそばだろうということを聞きましたが・・・・・」
「ああ、そうそう、ボイムリ・ガッセですよ。ありました。私も見たおぼえがある。むかし哲学者が住んでいたと書いたプレートが壁に打ちつけてありました。」

 午前中、ホルバインの蒐集で名高いバーゼル美術館を見て、その足で早速ミュンスター教会の近くに行ってみた。バーゼルは小さい町である。人口20万、スイスではチューリッヒに次ぐ第二の都会だそうだが、べつに乗物に乗る必要はないのである。

 ミュンスター教会はその濃い赤茶色のゴシックの尖塔を9月末の蒼天につき立てていた。

 ボイムリ・ガッセはすぐ見つかった。左右を見ながらなだらかな坂を降りていくと、そこにあったのは、エラスムスが晩年の一年間を客人として過ごしたというプレートの打ちつけてある洒落た構えの家だった。小学生の先生も、ホテルの受付女も、ニーチェとエラスムスとを間違えていたことは確かだった。エラスムスは16世紀の人で、彼が死んでからすでに四百年以上たっている。この町におけるエラスムスとホルバインとの出会いを誇りに思っている人もいるらしく、美術館で買ったカタログにもそんなことが書かれてあるのをたったいま読んだばかりだった。

 ホルバイン筆になるエラスムスの肖像は有名である。なるほどあれはこの町で描かれたのか、私が合点がいったが、それ以上の感慨はなかった。ボイムリ・ガッセはかなり広い通りで、しかも、目抜きの繁華街とミュンスター教会前の道路とを結んでいる重要な通りだから、町のひとびとはここをたびたび通り、なにやら妙なプレートが打ちつけられてある家をなにかの折に目にし、ニーチェであったか、エラスムスであったか、そんなことまでいちいち覚えていられないというところが真相だろう。

 ヨーロッパの町には大抵、観光案内所という看板を掲げ、地図や絵などを張ったガラス張りの大きな事務所を町角にみかけるが、バーゼルにもそれらしきものは二、三あったから、昨日のうちにそこへ行って置けばすぐにでも分ったかもしれないが、なににしても今日は日曜日で、あらゆる店は扉をかたく閉めていた。どうにも仕方ない。案内所は日曜日にこそ開いているべきなのに、この古い、地味な、ドイツ風の町では、日曜はいかにも日曜らしく商店街はしんと静まりかえっている。

2004年11月24日

福田恆存氏との対談(昭和46年)(八)

解説評論:エゴイズムを克服する論理
(これは私が35歳のときの評論です)

“弱さ”の集団化

 私はここに掲載された福田恆存氏のロレンス論にさらにつけ加えてロレンスを解説する積りはないし、評論を評論したものをさらに評論しても仕方がない。また、ロレンスのこの『アポカリプス論』は右のごとき要約でとうていつくせないほど多様な内容に富み、とりわけ純粋自我たり得ない個人の救済を宇宙の根源に求めた壮大なコスモスへの論及は、福田論文によっても十分に触れられているとはいえない。

 読者がこの貴重な一書を自ら手にし、人生の謎の解明に役立てることを強く希望するひとりだが、ただ以上で、福田氏が日本の現実のこれまで提起してきた主題のある主要部分がロレンスの『アポカリプス論』とどう内的につながっているか、それを私自身の問題意識を通じて暗示してみたかったまでである。福田氏もまた、安易な「純粋」というものにたえず猜疑の目を向けてきた人であった。日本人のエゴの弱さというものも折りにふれ弱点として指摘してきた。受験勉強にかまけていて、デモに参加しなかったことを秘かに「罪」として意識するような心的状態は、日本の知識人の少年期を襲う、ある傾向性の「原型」をなすものである。デモに参加する、しないなどは、政治的判断の問題であって、そもそも個人の罪意識とは関係がないのだが、これはほんの一つの例であって、われわれの社会にはこの種の不可思議な愛他的集団表象が個人に無言の圧力をかけている例は無数にある。その日本的な独特なエゴのあり方に加えて、西洋近代の自由、平等、民主主義の理念がその弱点を助長するかのごとくいわば癒着してあらわれているために、混乱はいっそうひどい。人間の弱さにそのまま善意と誠実をみたがる近代人一般の感傷は本当の意味で個人の純粋とは何であるかを求めてはおらず、あらゆるエゴイズムから自由であろうとする意志の、ほとんど不可能に近い無私への苦しさを自覚した人間の弱さというものから目をむけている結果ではないだろうか。一見、強さを誇示しているかにみえる福田氏の生き方は、むしろ、弱さが集団をなして無言の、強い圧力となって個人をおびやかしている日本の湿潤な精神風土のなかで、真に人間の宿命的な弱さを見つめようとしている人間にのみ特有の強い態度なのである。

 ロレンスは次のように言っている。「民主主義はクリスト教時代のもつとも純粋な貴族主義者が説いたものである。ところが今ではもつとも徹底した民主主義者が絶対的貴族階級になりあがらうとしている。」「強さからくる優しさと穏和の精神――をもちうるためには偉大なる貴族主義者たらねばならぬのだ。」「ここに問題にしてゐるのは、政治的党派のころではない。人間精神の二つの型を言ふのである。」

 弱さに甘え、それを売り物にする精神は、大衆支配の時代にはもっとも強い。それでいて自分がさほど弱くもなく、弱さに苦しんでもいないことを知りながらなお弱さを口にする。福田氏がロレンスから学び、もっとも忌避したのはそのタイプの精神であったろう。自分の真の弱さを氏っている者は自分の弱みを口にはしない。ただ、自分の弱さに耐えて立ちつくすのみである。

2004年11月22日

福田恆存氏との対談(昭和46年)(七)

解説評論:エゴイズムを克服する論理
  (私が35歳のときの評論です)

近代とエゴの処理

 もとよりそれは日本の近代にのみ特有なことではない。それは自由と平等の理念の調和性を夢みたヨーロッパ近代の大きな特徴でもあった。自由の理念は、厳密に考えれば、必ずしも平等の理念と一致しはしない。自由と平等という相容れない二つの理念を同時にわがものとしようとした個人が、ために自分のエゴイズムの処理の仕方において失敗し、混乱している時代とも言えよう。ロレンスはこうした処理に対しなんらかの解決策を提示したのではない。ただ、問題の所在を明らかにしようとした。彼は個人の生き方の上での「純粋」が不可能だといっているのではない。だが、本当に純粋であるとは、他人や社会のことを自分よりつねに上位に置いてそこに良心を賭ける、というような他者への愛が、厳密にいえばイエスひとりにおいてのみなし得た人間の実現不可能事に近いのではないか、というぎりぎりの問を孕んでいることを確認したかったまでだろう。この世に純粋な個人はなく、イエスといえども、弟子の前で教えを説くときには支配し、支配されるという政治の力学、集団的自我から解放されることはなかった。われわれは純粋な個人たり得ない。われわれは他者を支配しようとする自分の内なる権力意志から自由にはなり得ない人間としての弱さを宿命的に秘めている。本当に純粋であることは、自由ということがほとんど成立不能に近いそうした個人的自我を正視していることであり、その弱さの自覚を通じてはじめて人間はなにほどかの強さを得る。現実の不公平、もしくは仮借なさに耐え得る人間としての生き方の強さの一面に触れることができる。もし最初から人間は愛他的な存在で、権力意志などからは自由な強い精神だという風に考えるとしたらそれは余りに楽天的に過ぎるだろう。また、権力に虐げられ、奪われている弱い人間にはもともと権力意志などは介在する余地はない善意の存在だと考えるとしたら、それはまったくロレンスの言っていることとは逆であって、彼はアポカリプスの「神の選民」のうちにむしろ弱者の自尊の宗教を見る。現世の保証が得られぬために、弱者の秘められた欲望はいっさいの地上権勢を拒否して、理想が満たさぬために理想がいっそう病的に純化された「呪詛の宗教」となってあらわれたのがアポカリプスの精神だと彼は見る。「奥義、大いなるバビロンの地の淫婦らと憎むべき者との母」そういう呪いの言葉は全世界に向って放たれ、黙示録として聖書のなかに忍びこんだ。中世期には、神の名による政治の力学の完璧な体系が成立していて、その歪みが表面に顕在化することはなかった。むしろ近代に入って、解放されたエゴイズムが自由、平等、博愛を掲げた近代のヒューマニズムの裏側にその姿をみせはじめるにつれ、黙示録に秘められていた人類への呪いは、しだいにあらわになる。なぜなら、自由や平等や民主主義は、エゴイズムを調節する政治の原理ではあっても、人間がエゴイズムから脱却するための原理ではなく、むしろそうした解脱をますます困難にする近代病の上に成り立っているからである。

2004年11月20日

福田恆存氏との対談(昭和46年)(六)

解説評論:エゴイズムを克服する論理
  (私が35歳のときの評論です)

罪意識と被害妄想

 先日、筆者はNHKの「十代とともに」という番組に招かれ、六人の高校生と対話を交す機会をもった。いずれも高校紛争などを在学中に経験し、きまじめすぎるほどいろいろな問題について悩んでいる、いわば青春の唯中にある少年たちばかりで、そこで展開される純粋な論議に、私の高校時代とちっとも変っていない、やり切れないほどの罪意識の告白をきく思いがした。彼らは、例外なく、高校生活の間に自分のことばかりにかまけ、自分たちが共同社会への建設的な役割になんら寄与しないで終ってしまったことに独特な罪の意識をいだいている。受験にかまけ、デモに参加しなかったことへの罪意識。定時制高校生がなお少数でも存在する社会のなかで自分たちだけが受験に没頭できる特権への罪意識。私はほとんど口をはさむ余地がなかった。それは他をよせつけぬ一つの妄執のごときものであった。その罪意識はまた、独特な被害妄想と表裏一体をなしてもいる。彼らは優秀なエリート学生たちばかりだった。彼らが口にする、今はやりの「根源的」な問を、成程われわれは青春のはしかのごときものとして笑うことはできるだろう。彼らがまだ大人になっていない若さのせいに帰すこともできるだろう。事実、そういう青年たちに向かって、世間はたいてい、「君たちは若いね」というようなことばを向けるばかりであるが、そういう大人がなぜかふっきれない、後ろめたさのようなものを持ったまま成長しているのが、また日本のインテリの独特な意識構造でもあるのである。

 つまり、このときの高校生の悩みごとのようなものが個人の生き方の問題として論理的に追求されることなく、なぜか曖昧な情緒のうちに、なし崩しにごまかしたまま「大人」になっていく、というのが大方の日本の知識人のあり方ではなかろうか。さもなければ「二十億の民が飢えているいま、文学に何ができるか」というようなサルトルの問のようなものが出されるとその前に呆然と立ちつくし、いじましい後ろめたさと罪悪感に閉じこめられてしまうようなことが起る筈もないのである。「文学に何ができるか」というような問を立てておけば、実際に文学にはなにをする力はなくても、それだけで文学の社会的地位は疑われないですむといった、この種の問のいささか欺瞞めいた、不毛な性格というものに対してどうしても気がつかないのも、こうした罪悪感にいったんとらえられたひとには例外なくみられる心理の弱さなのである。きまじめな高校生が提出したあのようなごく初歩的な問は、決して無意味な、幼稚な問なのではない。ある意味ではきわめて宗教的な問ですらある。人生の探求はそこから始まるのである。だがまた、それは一個人の身をもってただちに解決不可能な問でもある。従って、ときには口に出して、議論をするのもはばかられる問である。世には、口に出すことさえ場合によっては恥かしい問というものがある。それなのに自分の罪を告白するのは、そのことがすでに自己宣伝という別の罪を犯していることになる。定時制高校生が存在する社会の中で受験勉強をしている特権への罪の自覚といったことは、それ自体は幼稚な問かもしれないが、日本ではそう言って簡単に笑ってすませられないものがある。笑ってすませられるならどうして、日本の近代文学で「転向」などがあれほど大きな問題になったりするのだろうか。戦前から戦後へかけてのマルクス主義旋風が政治的な実行力から遠く、その種のヒューマニスティックな動機の善への懐疑をもつことなしに、ただ自分の善意を歌っていれば、それだけで思想や文化の保証が得られるといった安易さに支配されているのはなぜだろうか。大方の知識階級の意識は、高校生の初歩的な問とほぼ同じものを、別の形でさまざまに提出し、それを日本的な情緒のなかに風解させて、なし崩しに大人になった人間の弱さを内に秘めていないだろうか。

 というようなことは、福田恆存氏が生涯をかけて、折にふれ、くりかえし出しつづけてきた問とも密接な関係があるのである。ごく最近にも、私はある日本のカトリック作家のキリスト教劇を見て同じ疑問にとらえられた。キリスト教徒は戦争で人を殺すということは許されるか、という問をこの戯曲は提出する。解答不可能な問である。そして、そういう疑問に悩む弱い人間の絶対肯定と、悪しき時代の圧制への呪いとが全篇を流れている。自分はつねに善である。ただ自分は弱い人間なのである。時代の圧制に抵抗できない弱さのうちにひたすら犠牲者の動機の善を見るところにこの戯曲は成り立つ。キリスト教劇とは言いながら、私には一昔前の転向劇のようにもみえた。それは定時制高校生がいる時代にのほほんと受験勉強をしているのは罪ではないか、という問を立てられ、うまく返答できない気の弱い高校生をおびやかすのとほぼ同じ脅迫的効果をこの道徳的な戯曲はもっているということでもある。それ自体としてはいくら正しくても、解答不可能な問を立て、それによって他人の存在をおびやかすのははたして正しいことだろうか。いつも正しい問を立て、他人の罪や不正をあばき立てているひとびとは自分のエゴイズムというものを見ていないのではないだろうか。

2004年11月18日

福田恆存氏との対談(昭和46年)(五)

西尾――いろいろな論客がいますが、じゃまになるという意識で戦っているか、大義名分のために戦っているかで大きな違いが出てくると思われます。大義のために戦うか、それとも、大義のために戦っている相手に対して戦うかというところに違いがあると思います。ヨーロッパの場合には、いまドストィエフスキーとロレンスの例で挙げられたように、確かに実生活と彼らの頭の中の激しい戦いでは、ものすごく矛盾していて、生活と芸術はいつでも背反概念のような形をとって、芸術をいつも自分の自我の外に提出する。

福田――だから、ロレンスのように現代人は愛し得ないのではないか、ということをいっても始まらない。愛したらいいではないか、愛そうと努力したらいいのだ、ということにならざるを得ない。たとえば、マイホームというと、皆軽蔑するけれども、それならば、自分の女房、子供を、ほんとうに愛せるかということもいえると思う。なかなか愛することはできない。そこで、愛する仕事はまだ残っているといえるのです。“現代人は愛しうるか”という問題では、ぼくはロレンスに、相当影響を受けたが、もはや、そういうことをいっておどかしてもだめである。それは多くの人によってもう出しつくされてしまった。実際は、われわれがほんとうに愛し得るかどうか、一生かけてやってみることだと思う。個人が個人を愛することができるかどうかということを確かめるべきだろう。それから江戸の町人などのような過去の生き方に、学ぶということも考えられる。それが、よくはやる日本回帰かどうか知らないが、私にはある。三島君の言行一致、知行合一と一緒にされては困るけれども・・・・・。

西尾――あれは大義があるわけですね。

福田――ええ、そうではなくて、私にはやはり、生活にまだまだ課題があるという気がする。

西尾――福田さんのお考えの中に脈打っているのは生活人ということですが、こんどは、現在の状況みたいなものに、もう少し極限してお尋ねいたします。いままで述べられたことに全部つながると思いますが・・・・・。いま空虚感とか、生きがい、とかよくいわれているが、いままでは“欠乏の論理”で人生観、社会観が進んできて、何か敵があったほうが安全で、大義名分や反抗ということで何かを必ず敵視してきたが、“欠乏の論理”が近ごろだんだん成り立たなくなってきている。にもかかわらず、まだなんとなく昔の自我のままでいるふっきれぬものがあって、その穴が埋められなくて困っていることがあるのではないか。

福田――そうです。“欠乏の論理”ということは、別のことばでいえば危機感です。危機感をいつも食いものにしている。これはコラムに書いたことがあったのですが、ベトナム戦争の兵器をつくっているから死の商人というのは当然としても、ベ平連も死の商人ですよ。戦争をくいものにしているんだから。ベトナム戦争が終ったら彼らはどうしたらいいか。それをいつもくり返している。だから、危機感を食いものにするということをいわざるをえない。いろいろな危機感が皆なくなり、公害も片づきそうだとなると、いよいよ、それでは、こんどはどうしたらいいかというので、いま持ち出している危機感が西尾さんの指摘された生きがいなき空虚感というお題目です。だから、また始まったか、という気がするだけです。前から、私は、空虚感ということはいっていたんですけれども、いまの場合にそれを持ち出されると、また始まったか、という気がするだけです。前から、私は、空虚感ということはいっていたんですけれども、いまの場合にそれを持ち出されると、また始まったか、という気がする。過去には戦争反対とか何とかいっているときには、むしろ反対に、人間の空虚感、マイホーム主義を指摘しました。それが、だんだんといろんな危機感がなくなって安定してきているわけですが、それをまた逆に危機感をあおるような形で持ち出されると非常に腹が立つ。あまのじゃくという人もあるかもしれないが、私は自分があまのじゃくだとは思わない。空虚感ということを、また新しい一つの危機感にし始めているところがある。それを食いものにして、また文化人なり何なりがめしのタネにしていくことになると困るなあ、ということがあるのです。

西尾――つまり、日本人が、史上初めてというと大げさかもしれないが、近代人としての自由を享受し得る結果として出てくる孤独感を、皆耐えなければならないときがきたということですね。

福田――そういうことです。

西尾――文学者の中で、私がいま興味を持つ生活は、自分の弱さを知っていてじっと忍耐している人であって、弱さを売りものにする人は、自分では弱い弱いといってピエロを演ずる役を演じているだけで、腹の底では自分の強さやずるさを売りものにしているように感じる清潔感がないところがある。

福田――それは、簡単には礼儀なんです。礼儀作法ですよ。弱さを人の前に見せないということは強がるのではない。自分の弱さを人の前に見せられること、それは、うそついて、隠しているのではなくて、その自分が苦しんでいる姿をそのまま人前に見せることになり、自分の苦しみを他人の肩に背負わせることになるから失礼なんですよ。自分の持っている荷物が重いから、重い重いというと、向うの人が持ってあげましょうと、いわざるを得なくなっちゃうんですね。そういうことと同じです。

 話はかわるが、さっきの話と矛盾するようですが、イエスは自分に対する英雄崇拝を拒否したことになるが、逆に民衆の中には、英雄崇拝の気持ちがあるんですよ。だが、それをどうするかという問題は、一つの大きな力を戦後は権力からの縦の構造として否定してきた。みな平等だ、ということになったが、それでは民衆は気がすまない。集団的自我というものは、それでは我慢しない。平等だ平等だといっていて、喜んでいるかというと、そうではなくて、彼らに崇拝する人物を与えたほうが喜ぶところがあるわけですね。ところが、文学でいえば、ちょうど純文学と大衆文学みたいなもので、純文学では英雄を全部捨て、英雄否定になる。ところが、純文学が捨てた英雄を大衆文学が拾いあげた。この大衆文学の読者は相当数いるわけです――。テレビが皆に見られているのは強い者が出てくるからで、これに対する憧れが民衆の中にある。そういうことを考えると、さっきの一人の孤独な戦いということは、やっぱり個人的自我の仕事であって、われわれの中には集団的自我もある。いくら純粋なエリートであろうと、それはある。この始末がつかない限りどうにもならない。やっぱり、一つの縦の流れが、ロレンスじみてくるけれども、太陽系の中にあって、太陽の熱によって、それから太陽系の物理学的な星の運行というもの、太陽中心に行われているという考え、絶対者への、あるいは憧れというものがある。そういうものに対する憧れは肯定しなければならない。それを全部否定してきたのがヨーロッパの近代である。それにロレンスは反撥を感じている。民衆は皆権力に対する憧れを持っている。これをどうしたらいいか、それをロレンスは“古代異郷”の世界にもっていくのだが、これは彼のフィクション、いまさら古代異郷の世界にかえってもどうにもならない。この問題が解決できない限り、どうにもならないですね。だから、個人の一人のひそかな戦いは、それしかないからといっているだけで、実際はそれで解決できるかどうか。やっぱり、集団的自我というものを何とか位置づけないと、だめではないかと思う。それを、平等、平等でいくとエリートも我慢できなくなるし、それからエリートをほしがっている一般民衆も我慢できなくなってくるという状態が起こるのではないかと思います。

2004年11月16日

福田恆存氏との対談(昭和46年)(四)

西尾――近代文学は何か一つ、反権威でもいいし、反市民社会でも、反社会性といってもいいですが、芸術の核をなすものの中にいつもあった。日本も小ながら隠微な形でそういうものがあった。ところが、いま反社会性がまったく成り立たなくなっている。どんな反社会的な事件が起きても、別な価値体系から祭り上げられてしまい、いつの間にか反社会性自体が社会性を獲得する妙な状況が左でも右でも起こっている。そうすると、何もできないし、何もしないほうがいい、すること自体間違っているのではないかと言うような・・・・・。

福田――間違っているかどうか、わからないにしても、しがいがない、徒労だ、という感じがしますね。これはぼくだけでなくて、多少まじめに仕事をしようと思えば、だれも皆感じていることではないかなあと思いますね。で、さっき言いかけたことですが、日本では芸術と実行の問題、それから政治と文学の問題という対立でいつも取り上げられてきました。芸術の中には、自分の純粋自我を表現するが、実行は、そうでない、集団的自我である。だから、芸術のほうを高く評価するという行き方があった。二葉亭四迷のように、芸術と実行の矛盾に悩み、文学を捨ててしまった人もいるわけです。田山花袋のように、自分がふと書いたものが祭り上げられて、あとでどうしようもなく、身動きできず、結局、修生、芸術と実行という問題に悩み通した人もいる。芸術と実行の問題は、ロレンスの個人的自我と集団的自我に関連があると思います。その問題はいまだに日本では解決されていないのではないですか。

西尾――そうですね。

福田――ロレンスがイギリスの中で苦しんだ激しいものでないにしても、芸術と実行という問題は、まだまだ日本の文学では問題になっている。だけど、そのときに、私がいつも素人でいろ、素人を大事にするという考え方と関連があるけれども、私は芸術よりも実行を大事にしてしまうんですね。

西尾――あるいは、実行で果たされない部分を芸術で勝負しよう、と。逆にいえば、芸術の中に実行を忍び込ませるようなことはするな、と。ということは、芸術の実現不可能なことかもしれないというところに勝負をしろ、と。さっきの主題に繋がるが、それが実際にやられていなくてマス・プロ条件がますますおかしくなっている。ただ、六〇年代に起こった事象というか、文化現象に見られるように、日本にもようやく、そういうつらさが皆の中へ入ってきている。考え方によれば、ようやく、近代社会になってきたともいえる。

福田――ええ、そういうこともいえますね。だから、ロレンスに影響されたというか、ロレンスを利用した場合には、あくまで、日曜学校の牧師をやっつけるためにやっていたことだともいえる。それは知識人ともいえるし、自分だけ正しいという偽善的正義派を攻撃するときに、ロレンスのアポカリプス論くらい、便利なものはない。ほかにニーチェやドストィエフスキーがいるが、英文学ではロレンスほど便利なものはない。年代からいっても、われわれに近く、ドストィエフスキーよりも近い。だから、私はもっぱらロレンスをやるようになったといえる。

西尾――実際には、
『人間・この劇的なるもの』に展開されている主題も、この本の中に胚胎しているという印象はあるのですが、たとえば個人性と全体性、あるいは自由と宿命の問題ですね。

福田――ええ、ロレンスに影響されたものは、非常に根本的なものだが、もっと表面的にいうと『人間・この劇的なるもの』が売れる部数と、
『平和論に対する疑問』が売れる部数とは違う。表面的には『平和論に対する疑問』のほうにロレンスを多く利用している。『人間・この劇的なるもの』は利用したのではない。ロレンスがもっとはいり込んでいるというだけで、意識的に利用したわけではない。気軽に利用したのは『平和論』のようなときであって、『人間・この劇的なるもの』は書いたときには気軽にとはいかなかった。第一に、利用することを意識していないし、もっと深く入りこんでいたでしょうね。だから、ほんとうにロレンスがはいり込んでいたのは『人間・この劇的なるもの』のほうかもしれない。

西尾――その場合、先ほどの問題に戻りますが、個人の純粋自我と集団的自我の二つの対立は、福田さんが「演劇」と「政治」という二つの世界を活躍の舞台としたということで、いかにもふさわしい。演劇と政治はまさしく個人的自我と集団的自我との戦い合う場でもある。福田さんの行き方あるいは思想が、個人の在り方と、それから他者の在り方、もしくは他者を含めた広い意味の社会とを、どうかかわらせるかをたえず意識しているように思う。つまり、この本に出会うことによって、福田さんの内部にあったものが、触発されたのでしょうが、非常に運命的なものがあるといえる。小林秀雄におけるランボーに似たような性格があったと思う。ロレンス論の最初にも書いていますが、一冊の本に出会うこと、それがだんだんいまなくなってきている。文学や、生き方でも一つのものに自分がのめり込んで初めて人生の目が開かれるということがなくなってきて、水増しのようなジャーナリズムの氾濫の中でアップアップしているのが多い。強い生き方が不可能になってきている感じがある。話は戻りますが、ロレンスは、個人的純粋自我は可能かということをたえず問い続けている精神であるから、場合によっては集団的自我との妥協の仕方、つき合いの仕方、処世の仕方を教えているとも解釈できますね。

福田――ええ、だから、非常に平俗ないい方ですが、結局私がさっきいった自分の自我との折り合いのつけ方ということになる。

西尾――それは結局、自覚に繋がることだが、そういう対決をくぐり抜けていない場合は精神の弱さになる。その場合、問題になるのは集団的自我がつき合っていく外延の世界、他者もしくは集団社会、われわれのコミュニティーですが、これが現代では非常にアモールフ――不定型なものですね。日本の社会自体がもともとアモールフなものなのですが、加えて時代が六〇年代後半からますますそれを強めてきている。非常に厄介な時代をいま迎えていると思いますが、それに対する決意はいかがですか。

福田――たとえば、ロレンスについていえば、彼は最後に結局、愛とか心の温かさとかが一番大事だ、ということをいっている。ところが、実生活では、ほんとうに彼は心の温かさを持つにいたったか。それからドストィエフスキーでいえば、たとえば『罪と罰』では、ソーニャの前におごりたかぶったラスコリニコフの自我がひざまずくということを書いても、ドストィエフスキーは実際には、そういうことができない。それがなかなかできないのが西洋人ではないのか。というより、そこに西洋の近代文学の限界があるのではないか。そこに芸術と実行の問題があるが、西尾さんにいま、現代の状況に対する決意のほどといわれたが、それはあまり、いま考えておりませんね。それよりも、自分がいろいろと書いたり何かしたことが、自分の生活にどれだけのものをもたらしたかということのほうが大事で、ロレンスの影響にまだこだわっていえば、人が人を愛し得るか、という問題を提出するよりは、自分の実生活でそれをやることのほうが、私にとっては大事なことのように思うんです。中世ルネッサンス以来、問題は全部出しつくされて、これ以上、新しい問題は出せっこないと思っている。だから、それを実際自分の生活でどうしたらいいかということが残る・・・・・。

西尾――いままで福田さんは特に大義名分に従った生き方を批判されてきた。逆にいうならば、大義名分があらゆる陣営において、あらゆる思考形式において、むなしいものであることが広く自覚されつつある。大義名分は、また出てくるかもしれない。しかし、そのときはそのときで、いままでは自分の生活のじゃまになるものに対して戦ってきたわけですね。

福田――ええ、そのとおりです。


誤字訂正(11/17)

2004年11月14日

福田恆存氏との対談(昭和46年)(三)

西尾――イエス・キリストに対するそういう考え方は、ドストィエフスキー、ニーチェが似たようなことをいっていますね。ドストィエフスキーでは『白痴』にそれが感じられるし、また、『カラマーゾフの兄弟』の大審問官にもある。ニーチェのアンチ・クリストにも似たような発想がありますね。大審問官と、ロレンスと、福田さんとの三者に共通していえるおもしろい現象は、純粋な自我と、集団的な自我とを分けて、一方では純粋であろうとしながら、他方では純粋であることは原理的に不可能だという自覚がつきまとっている。何人(なんびと)も、集団自我たらざるを得ない瞬間があるとするならば、集団の部分、すなわち、社会的次元における自我を是認しようとする。それを是認できない精神をむしろ弱い精神といい、悪を避けることに一義的な正義をみる精神に弱さをみている。カトリックは巨大な政治体系であるが、福田さん自身は、このカトリックの精神に親近感を持っておられ、あるところでは純粋な自我を一転するところがある。耐えられないのを貴族主義的である、といわれましたが、逆にいえば、ワンマン的なものを是認するところがあるわけで、そのへんをお伺いしたい。

福田――それはいまだに私には、自分で始末つかない問題なんでね。もし、始末がつけば福音を述べるかもしれないけれども(笑い)。

西尾――ただ、それは、背景の文化にかかわっていませんか。個我の純粋は成りたちがたい。そのような個人性は、極限を要求する。ロレンスは、そういう考え方に立ってイエスにすらなし得ないことがあることをはっきり自覚しようとした。したがって、ましていわんや凡人においてをや、と思わざるをえない。他方では大審問官の大衆侮蔑という形で、大衆にはパンでもだまして与えておけばいいのだという発想がある。ですから、個人が他者を愛することは不可能である、という実現不可能性をいつも見続けていくことになり、しかも、実現不可能を知りながら虚偽に耐えようという発想が逆に出てくる。それがカトリックの考え方のように思う。

福田――確かに私が青少年期を送った時代にはそのような背景が日本にはなかったが、私の性格や生い立ちの中にあったように思う。一番つまずくのは、人が人を愛し得るかという、愛と信頼との問題です。これは私が芝居や評論を書いても一番大きなテーマであって、結局、それと同時に実社会においても文学と生活、芸術と実行という関係のなかでいわゆる貴族主義者たちは芸術一辺倒ですましていることを、私にはどうしてもできなかった。それは下町で育つというところにも理由はあるかもしれない。私の学校の友だちは高等学校、大学を通じてほとんどが地方から出てきて寄宿舎や下宿生活をしていた。ところが、そこに成り立っているコミュニケーションは、彼らが故郷に帰れば、父や母や、兄弟とかわすものとはまったく違うわけです。大半の学生たちは大部分の青春を、家庭的なものから切り離されて、貴族的な純粋自我の世界に、あるいは理想の世界に生きていたといってもいい。ところが、私の場合、寄宿舎生活をやったことがない。浦和高校、大学も、家から通った。毎日、家に帰ると親父、お袋がいる。いまでいう庶民ですね。だから、学校で友だちと話し合ってきたことは通じないんですよね。その落差の中に、いつも悩んでいた。寄宿舎の学生みたいに、夏休みのときだけ、親戚づき合いをすればいい、というのではないのです。飽きがきたころ、またのびのびと学校に戻ればいいということは許されず、毎日、毎日その落差に悩んでいた。親戚は、お袋系も親父系も全部職人ですから、もちろん話が通じない。そういうことから純粋自我だけでは生きられない、個人的自我だけでは生きられない。集団的自我というものに目を向けずにいられない状況にはあったとは思う。そこで、個人的自我はどこからきたかというと、外国文学や、外国思想の影響でしょうね、きっと。

西尾――そうですね。だいぶはっきりしたような気がいたします。つまり、福田さんが大学時代に出会った精神的空間を一つの日本の近代化を促進したところの知識世界として象徴すると、もう一つは庶民的レベルでの生活の場という空間があり、そこには常に落差があったということですね。福田さんには前者の部分が持っているゆがみが若いころから非常に鮮明に見えていた、あるいはそれに悩んでいたことが思考の一切の基礎体系になっている。しかし、ロレンスの個人的自我、集団的自我のドラマは、西欧二千年の歴史的な背景をもったすさまじい世界から出ているのではないですか。その場合、このロレンスが福田さんの魂を触発した一面があったとしても、同時にそのままは結びつけることのできない日本の近代の弱さ、にせもの性が別にあった。時代を動かしていると言う日本の知識階級には自己過信がある。それは妄想にすぎない。実際、日本を動かしているのはそういうものでなく、現実の大きな力があるのであって、知識階級は根無し草である。そういう状況の中で、福田さんは職人的日常、もしくは江戸期の町人の生き方、という文化的な考えを措定さrせている。つまり頭脳だけ空疎に走ることに対する戒めがあるわけです。しかし、その基盤をなしている職人的部分も、怪しげになっているのが日本の近代ですね。それを両刃の剣みたいに両方切っていかなければならない。

ところが、ロレンスの場合には、一つの大きな文化体系の中で試みていたから、ロレンスは反逆児たり得た。正統思想の中で異端派可能であった。日本においては、正当なものをつくってからでなければ異端になりえないということで福田さんはシェークスピアをつくり、さらにロレンスをつくり出した。その分裂が自らの中にあったと思いますが・・・・・。ところが、いまの日本のような状況になると、どんな反逆も有効性をもたず、ますますもってロレンスでも生きられない時代になってきたんではないかという感じもしますが・・・・・。まだ、ヨーロッパも怪しげになっておりますけれども・・・・・。それで、自我の支えがうまく調和とれているのですね。

福田――ええ、いいかえれば、一種の集団的自我が成り立っている。別のことばを使えば、個性あるいは個人を放棄している。よくいえば共同体意識がある。これは時間的にも空間的にもいえる。つまり時間的にいえば伝統であり、空間的にいえばコミュニティといえる。ヨーロッパにはそれがまだある。アメリカはもう危うい。そういう意味でいえば、確かにロレンスの生きていた時代には、正統思想がまだはっきりとしていた。いまのヨーロッパでもまだまだそれがあるといえる。日本にはそれがない。いわゆる知識人もにせものなら大衆もにせものと化した。大衆もにせものというわけにはいかないが、大衆の生活をにせもの化してしまった一つの近代化があるということになる。

西尾――大衆の知識人化傾向ですね。

福田――ことに日本は六〇年代にその現象がはっきりと起きている。ぼく自体にもそういう面があって、どうやってもしようがないと思わざるをえない。だから、ものを書くことがぜんぜん徒労だという感じになってきている。

2004年11月12日

福田恆存氏との対談(昭和46年)(二)

 この企画は三部から成り、最初に福田氏と私の対談、次にロレンス「アポカリプス論」の福田訳のまえがき・解説「現代人は愛しうるか」、最後に西尾による解説評論「エゴイズムを克服する論理」である。

 ここには最初の対談と最後の解説評論を掲示する。

 福田訳のロレンス「アポカリプス論」は福田思想のいわば原点で、戦争の直前の昭和16年に訳出されたが、出版は昭和22年5月であった。「アポカリプス」は聖書のヨハネ黙示録のことである。ロレンス「アポカリプス論」の翻訳は筑摩叢書(絶版)、福田氏のまえがき・解説「現代人は愛しうるか」は福田全集に収められている。

 以下に掲示される福田氏と私との対談、及び私の解説評論「エゴイズムを克服する論理」は今まで何処にも再録されていない。

 なお同対談の行われたのは三島由紀夫の自決から約半年後である。

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西尾――ロレンスの「アポカリプス論」は、福田さんが人生に対する見方を教えられた書物、もし、福田さんにとっての“一冊の本”があるとすれば、『現代人は愛しうるか』があがるわけですね。この作品を拝読すると、福田さんのこれまでのいろいろな著作活動の中に出てくる発想の多くが、やはりこのときのロレンスへの傾倒と深く繋がっていることが想像できます。

 たとえば、最初のほうに「民主主義はクリスト教時代のもっとも純粋な貴族主義者が説いたものである。ところが、今ではもっと徹底した民主主義者が絶対的貴族階級に成り上がろうとしている。(中略)強さからくる優しさと穏和の精神――をもちうるためには偉大なる貴族主義者たらねばならぬのだ。(中略)ここに問題にしているのは、政治的党派のことではない、人間精神の二つの型を言うのである」とあります。これはほんとうに偶然拾い出したものですけれども、さならが福田さんの文章のようです。ロレンスの場合は、彼の生きた時代の日曜学校や教会で、毎日のように繰り返されている牧師、もしくは聖職者の説教に対する反感みたいなもの、逆にいえば、宗教教義の問答みたいなものが根強くある伝統的な風土の中で、ロレンスはそれに反抗し、黙示録のうちに弱者の自尊の宗教を見ます。そういうアポカリプスの中に現われた地上の権勢というものを憎悪し、呪詛し、そして弱い人間が肌あたため合って、その中に己のエゴイズムを、復讐のルサンチマンの中に燃えあがらせる。そういう歪みが近代になって、自由・平等・博愛という美しい理念の中に忍び込むというのが、ロレンスの発想にいろいろな形ででてくるわけです。福田さんの著作活動の中で、知識人ということばでしばしばいわれているイデーが、ロレンス、ジイド、ニーチェなんかが発言したときの牧師もしくは聖職者というようなことばで排撃されている内容と、かなり酷似しているという印象を受けるわけです。

 それから、福田さんの場合には、知識人と民衆というもう一つの考え方。この民衆ということは、民衆の素直な心、民衆の生き方、あるいは生活人ということであって――福田さんの思想は、どだい生活人としての生き方を重視するということですね。ですから、いわゆる知的虚栄心を取り払って、生活人に実態をかえして、そこからものを見ていこうとされる。それが、福田さんの発言の一番の強さをなしていると思います。それは、戦前の下町(神田)の風土からくるのではないか。たとえば職人芸をいろいろ勧められたり、いつも素人の心を忘れるなと言われています。実際に職人の仕事に愛情をもっておられ、そういう生活人の側面、それと文筆ということがパラレルの関係をなしていると思われるのです。

 そこでお聞きしたいと思ったことは、いま述べたヨーロッパの現実の中で起こった大きな精神上のできごとについてなのです。強者と弱者の対立が非常に激しく、したがって、ほんとうに弱者は弱者であり、そのために、弱者の自尊の宗教というか、反逆意識というか、裏返された権力意識というか、熾烈なものがあって、そのためパラドクシカルな肉体侮蔑のキリスト教のもっている陰惨さ、そういうものがある風土で起こったロレンスの精神は日本でどう考えるべきか。日本の風土というものは、強者、弱者の対立もなく、けじめもはっきりしていない。それにもかかわらず、ロレンスの中に自画像を、読み取られる。ロレンスが日本人の問題になり得る外的条件は、戦前から戦後にかけての、昭和十年代以降、日本の近代化がある点に達して出てきたことは事実だろうと思います。そのような時代の中でロレンスの精神ドラマが自分の主題になり得たわけですね。しかし、それにも拘わらず主題になりえない部分が依然として残るように思います。つまり、日本の風土は、(『日本および日本人』の中で絶えずお書きになっているところですが)自我の対立がもともと相対的で、曖昧です。その風土性とロレンスのパラドクシカルなドラマとはどう共存しているのか。それから、福田さんの下町っ子気質からくる日本の民衆意識、にもかかわらずとかく福田さんの生き方が貴族主義的な発想だとみられているパラドックスにみられる食い違いはなぜなのか、お聞きしたいと思います。

福田――知識人と日曜学校の先生と同列に並べられたことは確かにそのとおりですが、知識人と権力者とは、明治の初めのうちだけは蜜月時代があった。それもせいぜい十年代だけで、二十年代ごろから、徐々にその分離が始まった。自由民権思想などからもきていると思うが、敗北者は善であるという考え方が、非常に強くなってきた。そういう状況で戦争を迎え、戦後は、さらに激しくなった。ジャーナリズム、あるいはマスコミュニケーションの拡大ということと繋がっていると思うが、すねていて、おれが正しいという段階から、すねる必要もないくらい知識人が強くなってきた。戦前までは弱者天国だったが<(一人一人ばらばらになれば弱者に違いないが)今の知識人などをはたして弱者といえるか疑わしい。権力対反権力、体制対反体制というとき、反体制がそのまま反体制にとどまっているのかどうか。また反権力を主張する人たちが権力なきものであるかどうかというと、すでにそうではなくなってきている。権力を持ってきているのです。これは日本だけでなく、戦後の世界状況も、だいたいその傾向を強めてきている。ヤングパワーの擡頭で権力が弱くなり、反権力がひじょうに強くなっている状況の中で、ロレンスの思想が生きてくるように思う。彼が生きていたならもっと激しく問題を追求したことでしょう。 

 私がロレンスに一番影響されたということから、さっき西尾さんが言われたように私は貴族主義的だとみなされることが少なくないが、実は、私はそうではないつもりなのです。ロレンスの中にも自我を克服する、あるいは自我を越える過程で、謙遜と同時に傲慢が出てくる逆説的な面がある。ロレンスは、人間の自我の中に集団的な自我と、孤独な、個人的な自我と、二つが必ずあるとしている。これは逆説的です。人間は孤独であって、初めてその人の本来の姿であるともいえるし、人間は絶対に孤独であり得ないともいえる。そこで個人的自我と集団的自我をどういうふうにしたら自分との折り合いがつくかという問題が出てくる。ロレンスのことばを使えば、イエスも弟子たちの英雄崇拝には答えられなかった、といえる。イエスのうちにある貴族主義が、自分を英雄扱いにし、神さま扱いにする弟子たちの態度に対して耐えられない、ということになる。それがイエスの大きなあやまちである、とロレンスはいっている。しかし、イエスが弟子たちの英雄崇拝に耐えられないのはイエスが貴族主義的だともいえますが、むしろ、それはイエスの弱さ、というより優しさによると言えるのです。つまり、イエスにはあつかましさ、図々しさがない。だから、人がよく言う貴族主義とは逆の現象です。人気や、評判や、権力というものを平気で手に握って傲然と構えていられない優しさ、この優しさというのは、見方を変えれば弱さともいえるものですが、単なる弱さとはちがう。人間の弱さに徹底しろという強さから出てきたものだし、またそういう強さを自他に要求するものです。

 普通、貴族主義を定義すれば、傲然と構えている人間を貴族主義といっていると思うのです。たとえば、ワンマンとして部下に君臨しているとか・・・・・・一般にはそれができるのが貴族主義というのですが、ロレンスはそれができないのが貴族主義だといっているわけです。

2004年11月11日

福田恆存氏との対談(昭和46年)(一)


お 知 ら せ
★ 福田恆存歿後十年記念―講演とシンポジアム

日 時:平成16年11月20日 午後2時半開演(開場は30分前)
場 所:科学技術館サイエンスホール
    (地下鉄東西線 竹橋駅下車徒歩6分、北の丸公園内)
特別公開:福田恆存 未発表講演テープ「近代人の資格」(昭和48年講演)
講 演:西尾幹二「福田恆存の哲学」
     山田太一「一読者として」
シンポジアム:西尾幹二、由紀草一、佐藤松男
参加費:二千円    
主 催:現代文化会議
(申し込み先 電話03-5261-2753〈午後5時~午後10時〉
メール bunkakaigi@u01.gate01.com〈氏名、住所、電話番号、年齢を明記のこと〉折り返し、受講証をお送りします。)

★ 新刊、『日本人は何に躓いていたのか』10月29日刊青春出版社330ページ ¥1600


日本人は何に躓いていたのか―勝つ国家に変わる7つの提言
 
★ 新刊、ショーペンハウアー『意志と表象としての世界』
 Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ


意志と表象としての世界〈1〉
10月に完結(中公クラシックス)(中央公論社)
旧「世界の名著」シリーズの再版だが、今回は解説をショーペンハウアー学会会長の鎌田康男・関西学院大学教授におねがいした。


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 しばらく愉しんでいただいた「むかし書いた随筆」は後日の再開を約して、いったん中止する。

 11月20日は福田恆存氏のご命日である。この日「福田恆存の哲学」と題した私の講演を目ざしていま勉強しているが、なかなか容易ではない。勉強の途中で、保存していた貴重な文献を発見した。時宜を得ているので、紹介する。

 季刊『日本の将来』昭和46年(1971年)5月30日発行第1号(潮出版社刊)という大型版の雑誌が保存されていた。総特集「原点からの問い――戦後日本の思想状況」と題した一冊で、扱われた思想家は竹内好、埴谷雄高、加藤周一、鶴見俊輔、小田実、福田恆存、花田清輝の七氏である。七氏の思想の原点を問うという企画である。

 七氏にそれぞれ対談相手と解説者がつく。( )内は解説者。竹内好と松本三之介(松本三之介)、埴谷雄高は対談者なし(菊地昌典)、加藤周一と西川潤(西川潤)、鶴見俊輔と本多勝一(樋口謹一)、小田実は対談者なし(前田俊彦)、福田恆存と西尾幹二(西尾幹二)、花田清輝と竹内実(磯田光一)。

 ご覧の通り、福田恆存氏と私と磯田光一氏を除いて、ことごとく左翼である。当時左翼、そして今ではすでにナンセンスと化した極左といっていい人々である。これが33年前の日本の思想界の実態だった。福田氏は当時60歳、功成り名遂げた大家で、私は36歳、自著を三冊出したばかりの新米だった。

 対談は福田思想の原点であるロレンスの
「アポカリプス論」を中心に展開されるが、対談の前に記されている二人の紹介記事を、最初に掲げておく。紹介のされ方が、あゝ、こんな時代であったのか、と感慨深く思って下さる読者もいるであろう。

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 ●ふくだ・つねあり●
大正元年(1912)東京生れ。東京大学英文科卒。卒業論文は『ディー・エッチ・ロレンスに於ける倫理の問題』中学教師、編集者などを経て日本語教育振興会に勤め、
『アポカリプス論』を訳したのは昭和十六年ころである。昭和十一年「作家精神」の同人となり、「横光利一論」「嘉村磯多論」を発表。他に『シェクスピア全集』現代語訳、

『福田恆存著作集』がある。現代演劇協会「雲の会」の推進者でもあり、広範な活動をしている。このほど戯曲「総統いまだ死せず」で日本文学大賞を受けた。

 ●にしお・かんじ●
昭和十年(1936)東京生れ。東京大学文学部ドイツ文学科卒。昭和四十年より四十二年までミュンヘン大学に客員助手として留学。現在は電気通信大学助教授。専攻はニーチェ及びドイツ精神史。著書に
『ヨーロッパの個人主義』(講談社現代新書)
『ヨーロッパ像の転換』(新潮選書)『悲劇人の姿勢』(新潮社)、訳書に
『悲劇の誕生』(中央公論社、世界の名著「ニーチェ」)などがある。

2004年11月09日

むかし書いた随筆(五)

*** ミュンヘンのホテルにて ***

 最近世界の名だたる豪華ホテルの案内書を企画したので、貴方の推薦できるホテルの名前と内容を報せてほしい、というアンケートがある出版社から舞いこんだ。そう言われてみて、私は人に紹介できる豪華ホテルに泊った覚えのないことに気がついた。一流めいたホテルになら泊った覚えもないではないが、名前も忘れてしまったほどどれも印象に残っていない。

 私の好きなホテルは小じんまりした清潔なミニホテルである。ミュンヘンにはよく行く。必ず泊るのが「オペラ座そばのホテル」という名の、裏小路ぞいの目立たぬ宿である。値段が安い。一泊百マルク前後、現在のレートで七千円弱である。安ければ通例、設備が悪い、バスが付いていない、調度が壊れたりしている、中心街から遠く、交通不便である、などの欠点のあるのが普通だ。ところがこのホテルは入口が小さく、地味なのに、内部は一流ホテルに負けない良い設備で、バス付きであり、しかも名の示す通り、バイエルン州立歌劇場横の大通りから一本奥へ入った小路にあり、じつに足の便がいい。

 オペラの前売券を買う時間の余裕がなかったときや、ふらっと今晩オペラでも見ようかと思いついたときなどに、私はAbend Kasse(当夜券前売り場)に並んで、大急ぎで、その夜の切符を手に入れる。それから開演までには大抵一時間くらい間がある。劇場の前の店でコーヒーを飲んで待つしかない。

 ところが、件(くだん)のホテルに泊ったときには、劇場から至近の距離なので、自室に戻って、一風呂浴びて、服装を整えて――ミュンヘンでは今でもオペラには男性が黒衣正装、女性が長衣正装ときまっているー―、おもむろに心の準備をして、出かけることができる。オペラを見る前のこの一寸した気持ちの調節はとても大切である。ことにワーグナーなどは腹ごしらえをしておかないと、途中で空腹になって困ることがある。私はホテルの自室にバナナやクッキーを用意しておく。まずこれを食べ、髭をそる。ワイシャツを新しくする。

 こうして気持ちを整えて、やっと開演十分前に自室を出ても、それで充分に間に合うこのホテルの便利さは、私のミュンヘン滞在にはいつも欠かすことのできない快適さの条件である。

 あるとき、フロントで、前夜舞台に見た巨体のバリトン歌手が、メイドと無駄口をきいているのに出会った。今夜ミラノへ飛んで、明後日はベルリンだと、彼は大きな声で喋っていた。そういえば、フロアで金髪長身のソプラノ歌手に出会ったこともある。ホテルの従業員は、歌手たちにとてもなれなれしい態度で接している。

 そうだったのか、ここはオペラ歌手たちの常宿だったのだな、と私は合点がいった。私にこのホテルを最初に紹介した日本人の友人が、ここは旅なれたドイツ人のいわば“ミュンヘン通”だけが知っている穴場のホテルで、外国人観光客には知られていないが、結構人気が高く、だから予約は早めに手を打つ必要がある、と教えてくれたのを思い出した。

 ドイツ人は無駄な出費を極力惜しむ。安くて、しかも内容がいい、そういう所に人気が集中する。ブランド名で商品を買ったり、見栄(みえ)で豪華ホテルを選んだり、そういうことはたしかに少ない。彼らがイタリアや南スペインへ大挙して出掛けて行くのは、南国の太陽への憧れもあるが、諸物価が安いというのがじつは最大の動機である。しかも、その安い外国に諸物持参で、バンガローで自炊してホテルに泊らない。それがドイツ流儀である。一流のオペラ歌手といえば、高収入で、どんな豪華ホテルに泊っても不思議ではない、と人は思うが、そこがさすがにドイツ人である。

 「オペラ座そばのホテル」はこのように実質本意で、ドイツ人の趣味に適う宿だが、さりとて貧弱なのではない。ホテルと同経営の附属レストランは高級料理店である。ワインも料理も超一流だし、ボーイもお仕着せをつけ、メイドも優雅で美人が多い。私は民族衣裳をつけてサービスする一人の若い娘さんに注目していた。ドイツ女性に例の少ない、溢れんばかりに笑顔をたたえた愛嬌の良さが気に入っていた。北ドイツ女性は概して突慳貪(つっけんどん)だが、南ドイツの女はやっぱりいいな、と心のなごむ思いがしていた。

 一昨年(1992年)春のことである。ドイツは交通ゼネストを経験した。もう何十年としたことのない大規模ストライキである。統一のために旧西ドイツ市民が強いられた金銭的犠牲に対する償いを求めてのストであって、旧東ドイツの各州はこのストに参加していない。ミュンヘン市街はたちまちゴミの山に埋もれた。私はフランクフルトへの旅を諦めた。空港も閉鎖されて、帰国の日程さえも脅かされかけていた。しかしオペラ劇場はなにごともないかのごとく毎晩開かれていた。ホテルの高級料理店も、毎晩客で賑わっていた。民族衣裳の美人の娘さんの笑顔にも、私は夜ごと接することができた。

 激しいストは間もなく終った。私のミュへン滞在も終わりに近づいていた。ホテルのフロントの男と激しかったストのその後の混乱について話を交わした。そして私は、かの娘さんがストの期間中、市外の村から片道三時間もかけた徒歩通勤でホテルに一日も休まずに通ったのだという話を聞かされた。郊外へ抜けるS電(バーン)が止まったからといって、ホテルの活動は止まらない、と男は言った。私は、このホテルの質実さを支えているのは、お客さんの好みだけではない、例えばこの娘さんの健脚であり、けなげさでもある。「なるほど」と、なにかが分かったような気がして、ひとり呟いた。


  初出(原題「ミュンヘンのホテル」)「小説新潮」1994年2月号

2004年11月07日

むかし書いた随筆(四)

*** 子犬の奇跡 ***

 わが家には一歳二ヶ月の雌の柴犬がいる。中学生になった一人息子が犬を飼いたいと言い出したとき、私が一番反対した。世話をするのは必ず私か家内かになる。子供はすぐ飽きる。愛犬家の知人が一日に二時間は飼犬のために割いていると聞いて、忙しいわが身には不可能だと思った。しかし、一度犬を意識すると、不思議なもので、駅前通りのペットショップの前に立ち止まるようになった。立ち止まると、自然に檻の中の子犬が目に入る。私はこましゃくれた犬が好きではない。いかにも犬らしい素朴なのがいい。生後四十日の柴犬の兄妹が組んずほぐれつしているのを目にして、ほとんど衝動的に飼う決心をした。

 しかしそれでも家内はなおためらっていた。小さな座敷犬でないと持ち運びに大変だというのである。わが家では夏になると必ず軽井沢の山荘に行く。車を運転しないわが家の場合、籠に入れて、提げて運べる程度の犬でないと、成犬になってから手に負えなくなるという、いかにも女性らしい実際的な慎重意見だった。

 私は家内をペットショップに連れて行った。檻の中で一番元気のいいのは一匹の雌だった。雄をもしのぐ勢いだった。私は最近の大学に多い、男子学生をしのぐ活撥な女子学生のことを思い出しておかしかった。家内は内懐にその生きのいい雌を抱き上げた。急におどおどと怯えているその小さな生き物の仕草と手触りが彼女からためらいを取り除いた。大きくなったらどうしよう、などと言いながら、彼女は衣服の内側に包むように抱いて、家に持ち帰った。

 子犬には息子がミミという名を与えた。何だか猫の名前みたいだな、と思ったが、息子の小学校時代の好きな女の子の綽名がミミちゃんだと聞いていたから、まあいいやということになった。後でオペラ『ラ・ボエーム』の悲運のヒロインの名前もたしかミミであることに気がついた。ミミは終幕で哀れな病死を遂げたはずで、縁起でもないと思ったが、時すでに遅い。

 ミミは最初足許も覚束なく、行動範囲はわずか一平方メートルていどだった。顔が可愛いというのでもない。口許がまっ黒で、不細工である。何という珍妙な顔だろう、狸の子みたいだ、と私は言った。いつか外に出すつもりだったが、季節も寒いので、しばらく室内で飼った。やがて家中を走り回るようになるのに多くの時間を要さなかった。スリッパをくわえて廊下で暴れる。洗濯物置場から下着や靴下を引っぱり出すのには弱った。屑入れ箱は何度叱ってもひっくり返した。階段を昇りたくても、最初昇り方が分からず、恨めしそうに見上げていた。三段ほど昇って、用心している期間がわずか一、二日で、あっという間に最上段まで駆け上がれるようになった。私は犬の成長の早さに驚いた。六ヶ月で初潮を見た。最近は食べ物が良くなったので、昔の犬より早いのです、とペットショップの人が言ったのも、人間世界のことを言っているように聞こえて、おかしかった。

 予想どおり息子は犬の世話をしない。家内にはもとより、私にも相当の負担が掛かってきた。毎日の散歩は私の課題、というより義務になった。運動不足の身には決して悪いことではない。私は勤務のない日には、時間の許す限り、犬と歩く。朝起きると、必ず近所の井草八幡宮の境内から善福寺川沿いの道を約三十分歩く。犬は一回の散歩では満足しない。夕方、もう一回連れ出し、しばしば一時間歩く。

 途中で犬好きの人によく声を掛けられる。まだ子犬の頃は道往く人から可愛いと言い寄られ、私は得意だった。帰ると家内に、また今日も誉められたよ、と報告した。路上で若い女性たちに取り巻かれることもあった。彼女たちはミミの周りに群がって、なでたり、抱き上げたりした。私はもとより悪い気がしない。

 ミミはこうして誕生日を迎え、成犬になった。そして、一つの奇跡が起こった。母犬は十五キロほどの中型犬だが、ミミは一年たっても八キロを超えない。大型の猫とさして変らぬサイズである。一体どうしてこういうことになったのだろう。いかなる遺伝のなせる業であろう。ミミは今でも私の膝の上にのる。柴犬は小型の方が良いのだ、と聞いて、大満悦である。勿論、今夏も山荘には手提げ籠に入れ、汽車に乗せて連れて行く。


  初出 時事通信社『内外情勢』1994年5月号
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追記:

 「子犬の奇跡」の後日談をお伝えします。ミミはいま11歳の老犬で元気ですが、体重が8キロ超えなかったのは3歳まででした。その後妊娠し、3匹の子をもうけてから、ブクブク肥って、遺憾なことにいま13キロもあり、運ぶのは容易ではありません。仔犬はもらわれ先で「モモ」「リリ」「ヤヤ」と名づけられてそれぞれ元気です。


11/8加筆修正

2004年11月04日

むかし書いた随筆(三)

*** 私は巨人ファン ***

 私は巨人ファンである。そういうと怪訝(けげん)な顔をする人が多い。ことに大学の研究室や講師控室や出版社の編集室などでそう告白すると、呆れたという顔をする人さえなかにはいる。巨人ファンは知識人、教師、編集者の世界では少数派である。肩身が狭いのである。だから、あまり口外しないようにしている。阪神ファンや中日ファンが大学の建物の中で大口を叩いているとき、巨人ファンは鷹揚(おうよう)に構えて、にこにこ笑って、気に掛けていないというような顔をしていなくてはならない。

 巨人が優勝しそうな強いシーズンにはことにそうである。しかし、今シーズンの後半のような、負けがこんできて惨めなときでも、あまり巨人のことは話題にしない方が良い。私の口惜しさを回りの誰も分かち合ってはくれないので、精神衛生上にはなはだ良くないのである。阪神ファンなどは、チームがあんな救いようもない状態でも、ファン同士は結構気脈を通じていて、互いに同情し合い、いちゃいちゃし合っているので、救われている。これに比べ巨人ファンはつねに孤独である。

 巨人ファンの中でも、原のファンだとでも言おうものなら、驚かれるくらいでは済まない。完全に軽蔑されるであろう。幸い私は原の格別な贔屓(ひいき)筋ではない。昨年の日本シリーズで西武に敗れたのは、本塁送球を怠ったクロマティのせいだと思われているし、私もそれを否定しないが、原が打つべきときにきちんと打っていれば、否、三回のチャンスにせめて一回打っていれば、巨人の優勝だった。

 王監督時代を通じ、原と江川に頼って、肝心なところで落とした試合がいかに多かったか。巨人の四番打者は、毎年三冠王が期待されるような本物のスラッガーでなければいけないし、巨人のエースは七、八年で二百勝をクリアーする本格派速球投手でなくてはいけないのである。そういう意味で私は、今の巨人ではなく、王、長島、金田時代の巨人のイメージを守りつづけている懐古派かもしれない。

 しかし、ファン心理というのは不思議なもので、一度なると、取り替えがきかない。よくあちこち浮気するファンがいるが、ああいうのは贋物(にせもの)である。まして、巨人が負けさえすれば嬉しい。あとはどこが勝っても構わないという、いわゆる「アンチ巨人」派という人種がいるが、あれは野球ファンとは言い難い。「アンチ巨人」派はインテリと称する連中に多い。あまり深く考えずに反権力・反政府の方向を何となく「正義」と看做(みな)すあのばからしいインテリ心理と、深層においてつながっているように思える。そして、これが私の身を置く職場や交際社会に、まるでゴキブリのようにごまんといるので、衆寡(しゅうか)敵せず、私はほとんどお手上げである。

 私が巨人ファンになったのは中学生の頃だった。三番青田、四番川上の時代である。川上の赤バット、大下の青バットが子供たちを熱狂させていた時代である。

 私は中学一年のときに“少年ジャイアンツ・クラブ”というファンクラブに入って、写真集などを集めた。ラジオの中継を必死に聴いた。対南海戦で、三対零と負けていた九回裏二死満塁ツースリーで、川上がサヨナラ・ホームランを打った、あのまるで絵に描いたような有名な試合も、私はラジオで聴いていた。そして、興奮して、部屋中を飛び回ったのを覚えている。

 少年の心を燃え立たせた熱い、熱い思い出に、私は一生素直に、忠実でありたいと思っている。インテリぶってわざとお澄まし顔にひねくれてみせるなど、じつに馬鹿げている。そして、原ではなく、川上、長島、王に匹敵する不動の四番打者の出現する日を夢みつづけることにする。


    初出「NEXT」1989年1月号

2004年11月01日

むかし書いた随筆(二)

***やさしさと弱さ***

 テレビ番組で新婚カップルに、プロポーズの言葉は何でしたか、とアナウンサーが質問すると、たいてい「僕と結婚して欲しい」「僕について来て下さい」の男性主導型の答えが多く、「二人で人生を一緒に歩もう」というような男女間の対等と共同の姿勢を示した答えはめったに聞かれない、これは非常に困ったことだ、とある婦人評論家が、近頃の若いカップルに疑問を呈していた。すなおで従順な女を喜ぶ男の身勝手が、結局女を一本立ちの人間にしないで、駄目にしているのだ、と彼女は言いたいのである。

 しかし私に言わせれば、これはまったく逆に考えることもできるのではないかと思う。

 やはりテレビでよくやる若い男女の番組を見ての感想なのだが、女性はどういう夫を望むかと聞かれると、たいてい「やさしい人」「誠実な方」と答えるようである。私にはどうにもよく分からない答えである。まるで雄々しい男性像を望む若い女性はいないかのごとくに見えるからである。

 よく考えてみれば、男のやさしさなどというのは、なにか事が起こるまでは裏に隠れているのが普通なのであって、いかにも外見上やさしそうにみえる、表面的なやさしさは、人生の危難に出遭えば、たちまち女への残酷さに一変してしまわないとも限らないだろう。

 ただのやさしさ、みかけの誠実さは、人間としてのどうにも救いようのない弱さの表れかもしれないのである。男が女を駄目にしているというのなら、みかけの「やさしさ」「誠実さ」を求めたがる若い女性が、今の男を駄目にしているのだと言えないこともないだろう。男女は相関関係なのに、なんでも男のせいにするのはおかしいし、女性がとかく自分の失敗までをも男のせいにしたがるのは、女性が一本立ちの人間になっていないなによりもの証拠のように思える。

 こういう男女が結婚して、いざ子育てという段階になると、互いに都合のいいことは全部自分のせいにし、具合の悪いことはみな相手のせいにして、そういう調子で何年も経るうちに、妻はただ愚痴だけをこぼし、夫は聞かぬふりをして妻の攻撃をかわすだけの、一種独特な、あの不正直な「家庭」という城が出来あがるのである。

 子供は父親をいっこう尊敬せず、母親をできるだけ利用しようとする、「甘え」を武器としたずるい性格を手に入れるようになるであろう。お父さんがしっかりしてないから子供がこんな風になった、もっと厳しくしつけて下さい、とよく夫を責める妻がいる。しかし父親らしくさせるのは、母親の毎日の態度なのである。

 お父さんの職業や収入をいつもお母さんが口ぎたなくののしっているような家庭であれば、子供もやがていつしか父親を軽んずるようになるだろう。しつけなどできるものではない。

 そういう家庭に限って、親子の断絶だなどと大げさに言いたがる。なにか事件が起こって、急にわが子の気持ちがさっぱり分からんなどと言いだすが、両親は子供にだけ正直であることを要求して、つねひごろ自分の方は子供に対してさほど正直であろうとしなかったことに、まるで気がついていないのである。

 いけないのは、なんでも相手に責任をなすりつける、人間としての弱さである。男にも女にもこの弱さはあるが、母親は子供という愛の対象を得ると、この点救いがたい弱さを暴露しがちである。女はたしかに愛において強く、深いが、自分の愛していないものに対しては不公平になりがちである。男だって愛によって盲目にもなるが、自分の敵をも公平に評価する目は、女よりはいくらかましだと、私はつねづね考えている。


初出(現代「ずいひつ『父親たち』(5)人間としての弱さ」)『ベビーエイジ』1978年9月号

2004年10月29日

むかし書いた随筆(一)


お 知 ら せ

★ 新刊、『日本人は何に躓いていたのか』
10月29日刊 青春出版社330ページ ¥1600


★ 新刊、ショーペンハウアー『意志と表象としての世界』
 Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ

意志と表象としての世界〈1〉
10月に完結(中公クラシックス)(中央公論社)
旧「世界の名著」シリーズの再版だが、今回は解説をショーペンハウアー学会会長の鎌田康男・関西学院大学教授におねがいした。

★ 福田恆存歿後十年記念―講演とシンポジアム

日 時:平成16年11月20日 午後2時半開演(会場は30分前)
場 所:科学技術館サイエンスホール(地下鉄東西線 竹橋駅下車徒歩6分、北の 丸公園内)

 特別公開:福田恆存 未発表講演テープ「近代人の資格」(昭和48年講演)
講 演:西尾幹二「福田恆存の哲学」
     山田太一「一読者として」
シンポジアム:西尾幹二、由紀草一、佐藤松男
参加費:二千円    
主 催:現代文化会議
(申し込み先 電話03-5261-2753〈午後5時~午後10時〉
メール bunkakaigi@u01.gate01.com〈氏名、住所、電話番号、年齢を明記のこと〉折り返し、受講証をお送りします。)

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 むかし書いた随筆(一)

 このあいだ友人とカウンターで酒を飲んでいたら、しきりと私の名を口にする人が少し離れた席にいる。気にしないでいたが、気にならないでもない。1時間ほどしたら、先方がやはり二人づれで、帰ろうと立ち上がる。その拍子に一人とひょいと目が合った。

 「西尾先生ですね。」「はい。」「いやあ、さっきからそうだと思っていました。たいてい読んでいます、先生の本は。」「ありがとうございます。もうお帰りですか。」「江東区から来ました。友人のところへ遊びに来たのです。」と、彼は相棒を指さして言った。

 それから席を代わってもらって少し話しこんだ。有名な商社――たしか日商岩井――にご勤務のかたである。そのかたが言うには、私には随筆の才能があるそうで、もっとたくさん随筆を書いてくれという。

 「そう言われても、注文がないと書けないんですよ。ジャーナリズムは私を保守論客ときめつけて、それ以外の活躍をさせてくれません。」「でも、何と言ったかなァ。お見合いのことを書いた面白い随筆がありましたよね。」「あゝ、あれね。」

 私は17年前に『婦人公論』に書いたある随筆を思い出していた。読んだかたもいるかもしれない。最近の新しい読者は知らないだろう。これからしばらく私の「むかし書いた随筆」にお付き合いいただきたい。

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*** 女の夢男の夢 ***

 私の家で一人の若い女性と一人の若い男性が出会った。女性の方は私がむかし若い男性であったとき、地方都市で知り合ったある家族のお嬢さんで、当時は十歳ほどの、快活で利発な小学生だった。私はそこの家族がもう使わない離れに下宿していた。離れは何千坪という宏壮な屋敷の一角にあり、地方の素封家の住居らしい静かな、やや鄙(ひな)びた庭が拡がっていた。私が勤めから帰って来ると、彼女は六つくらいの妹さんと一緒に離れに遊びに来て、取り留めのないお話をしたり広い庭の中で私の周りをくるくるとび跳ねたりした。まだ世に出ない鬱屈した青年の無聊を慰めてくれた彼女には、私が東京に戻って以来、もう十五年も会っていなかった。その間、女子大を卒業し、立派な婦人に成人していることは風の噂に聞いていたが、私は自分の仕事にかまけていたし、向こうもはにかんでいて、出会う機会はずっとなかった。

 ある日、まるで忘れていた思い出がふと甦ったとでもいうように、御母堂から私信があり、田舎にいるとなかなか本人の望みの人物に出会えないので、何処(どこ)かに心身ともに立派な、見識と将来性とを具えた――そう文字通りに書いて来たわけではないが、およそそういう意味になる――男性はいないものか、という依頼を受けた。私には早速一人の青年の姿が思い浮かんだ。私のところに出入りしている、真面目な、堅実な仕事に就いている一人の青年だった。礼儀を弁(わきま)えた、しかも会っているとどこか心の温かくなる、今どき珍しいタイプの青年だった。彼はどうだろうか、という私の問いに、家内も賛成したので、私は彼を口説いて段取りをつけ、事は急速に運んだ。

 私は元来、お見合いなどという他人の運命に関わることをする柄ではないし、そういうことを道楽とする年齢でもない。私も家内も他人の生活にお節介するのをできるだけ慎みたいと、つねづね自戒している。だからこの一件はまったくの例外だったし、気紛れだった。それだけに事柄が順調に動きだすと、私はにわかに落ち着かなくなった。どう考えても、私の一つの無責任な思い付きから発した選択で、賽子(さいころ)が投げられ、この先どうなるか分らないが、ともかく運命が展開し始めている。そのことが私の気を重くした。お二人ともに私の生活圏に関係のあった男女であるだけに、いわば彼らの人生の軌跡は、私という人間において交叉する、そのことだけでも大それた重大事だが、それを私が気楽にお膳立てし、演出家よろしく、面白おかしい舞台まわしをしきりにしている。何ともはや軽率な行動であった、となぜか私は後悔し始めていた。若いお二人がともに相手に好意を持った内意が伝えられると、私の気持ちは逆にはずまず、これでいいのかなァと思い直していた。

 私はこのまま話が沙汰止みになればよい、とにわかに思ったり、いやせっかく私に近寄った二人が自分の周辺からまた遠い処に行ってしまうのは面白くない、と思ったりじつに我儘な感情のたゆたいの中に揺られていた。そばで私の心の動きをじっと観察していた家内が、「あなたは嫉妬し始めているのよ」と言ってのけたので、私はまたあらためてぎくり(傍点)としたのだった。言われてみれば慥(たし)かにそうかもしれなかった。かつて十歳であった明朗な少女は、本当にいいお嬢さんに成人していた。顔立ちもいいし、気品もあり、生活に対し地味で手堅い考えを持っていた。財産家なのに、小遣いを制限されて育った、持ち物なども華美をできるだけ避けた心配りが滲み出ていた。「あれだけの方はそうはいないわよ」と家内もわけ知り顔に言った。確かにそうだった。十五年振りに再会して、私はかつての童女がこんなに美事な婦人に成長していることがにわかに信じられなかった。

 私は、まるで私自身が永年捜しつづけていたタイプの女性にようやくめぐり会えたのではないか、とさえ思え、何度か彼女がわが家に出入りするうちに、なにか陶然とする感情が胸中を包み始めるのを感じた。私はこれはいけないと思った。若い二人の動きがどうなろうとも、この際私自身は意見らしい意見は言わないのが正しい態度なのだと思った。しかし、そう思いながらも、私が推薦した男のことを力不足ではなかったか、などつい口走ってしまう自分を、私はじつに嫌味な人間だと思わずにはいられなかった。私はこのとき彼が失敗することを望んでいたのだった。

 三ヶ月ほどしてこの話は突然破談になった。女性のほうからの一方的な拒否通告だった。誰でも結婚を決める前にはあれこれ考え、最大限のエゴイズムを発揮するものである。この控え目なお嬢さんも、その点では決して控え目ではなかった。相手の学歴とか、収入とか、財産とか、そういうものに彼女は決して欲張りではなかった。ただ、多くの若い女性がそうであるように、彼女もまた、自分の期待(傍点)そのものに対して欲張りだった。見るからに男らしい人がいいと言う。それでいてやさしい人がいいとも言う。これは難しい。安定した生活を望みたいと言う。それでいて型通りの面白味を欠いた人間は厭だとも言う。これはある意味で矛盾である。男の夢も同じで、私にも覚えがあるが、結婚前に女性への要求は過大になり勝ちである。だから彼女の気持ちも分らないではなく、私の推薦した男は、要するに彼女の夢と幻想のお相手には到底なれなかったというだけのことであろう。彼が悪いわけではない。厳密に考えると、彼が失敗したわけでもない。彼女が勝手に独りで踊っていただけである。そう考えると、私は彼に同情的になった。そしてなぜ彼がもっとうまく立ち回れなかったのかと腹立たしく、私は彼の失敗を内心自分が望んでいたということなど、身勝手にも忘れてしまっていた。

 もうあれから何年経つだろう。このお嬢さんも今では二児の母である。

初出『婦人公論』1987年2月号

2004年09月15日

誤解の解消

 8月17日~26日の「緊急公告」の際にある種のトラブルがComments欄とTrack Backと私の間で起こり、「日録」の表面に出ないところで論争があった。この件の誤解を解消するためにある親切な人の仲介を介して、双方のメッセージを相互交換し和解することにした。

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gori氏のメッセージ

 本エントリーは西尾氏の「空白の10分の扱い方」を問う事を目的としておりますが、その目的や議論には不要で根拠に乏しい感情的な文言が含まれております。それにより争点が有耶無耶になり双方にとって無益な混乱を続ける事態を避けるため、その点に付き西尾氏が気分を害されたならお詫びし該当箇所に訂正線を施します。

○「従軍慰安婦問題」とか
○いやー、サヨクっぽいね。やってる事が木村愛二と全く同じ。
○まぁ西尾氏自身、木村愛二のデタラメ裁判(しかも裁判所からはっきり否定されたこと)をblogでさも信憑性があるかの如く取り上げてまで小泉批判を展開した人だから、きっと根っこは同じなんだろうけどさ。
○おいおい、西尾くんよ、アンタが
○この妄想電波野郎め!
○さすが保守論壇のウチゲバに勝ち抜いて重鎮の座を得ただけのことはあって、西尾幹二くんの策謀は手が込んでて素晴らしいね。

 なお、西尾氏の「空白の10分の扱い方」については一連のエントリーで提示した此方の検証を覆すような反論を西尾氏から戴いておりませんので、Irregular Expressionとしての主張に変わりはございません。
 色々ご意見のある読者の方も多いと思いますが、このような騒動に付込んで保守同士の分断工作を狙う腐れサヨク連中が湧き出て跋扈しております。これは当事者含め多くの方が望むところではありませんので事態の早急な解決を図ることにしました。ご了承の上、今後は是々非々で意見の相違は建設的に議論して戴ければと思います。

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西尾のメッセージ
 gori氏の新しい書き込みを見た。この問題に冷静に対処しようという気持ちが読み取れる。私も間違った情報を元に、gori氏とIrregular Expressionについて誤った情報を流してしまった事をお詫びして、以下の内容を削除する。

○小泉純一郎擁護サイトとして知られる
○官僚以外の知り得ない情報がときどき入っているので官邸筋の関与があると推定されているサイトである
○イラクの日本人人質事件で「ヤラセ」だとの噂をいち早く流したのも、また首相再訪朝後の救う会決起大会で救う会は首相に感謝せず文句ばかり言うのは礼を欠く、といった非難の風聞を流す火元になったのも、このサイトなのだそうだ。
○人間は自分のやったこと、又はやりがちなことで人を非難するものである。私をデマの張本人として非難する上記引用文中のもの言いは、いつも自分がやっていること、意図していること、好んで企てることを他人にも当てはめて見ているいい例である。

 このたびの出来事で私もネット上の情報の取り扱いの難しさと煩わしさを改めて知った。この件で少なくない読者の気をもませたことは遺憾である。

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