2006年08月01日
この絵にはデューラーやグリューネヴァルトの描いたイエス像にみられる憂悶の表情や精神の翳りもない。
むろん後年の画家たちが好んで崇高化した神秘主義的なイエス美化の片鱗さえない。ここにあるのは「物」である。三日後にこれが復活するなどとは到底おもえない。
後年ドストエフスキーはこの絵を見るためにわざわざバーゼルに立ち寄った。そしてこの絵の前に立ったとき、彼はあやうく持病の癇癪の発作を起こしそうになったと言われる。それほど凄まじい絵である。
彼は『白痴』の中でムイシュキン公爵にこう言わせている。
「あの絵を!いや、あの絵を見ているとなかには信仰をなくしてしまう人もいるかもしれない!」
信仰の生きていた時代こそ、信仰の危機も生きていた時代である。近代人はイエス・キリストを「物体」として描くことさえも出来ないのだ。ドストエフスキーの言いたかったことはそのことにほかなるまい。
言うまでもなく、「物体」という観念が勝手にひとり歩きしはじめ、物を蔽い、目を曇らすからである。
現代は生の不安を蔽い隠すあらゆる遁辞に満ち、外的現象に救いを求める人に満ちあふれているではないか、彼はそうも言いたかったのかもしれない。
それでいて、悲劇の規模は中世末期の混乱の時代の比ではない。悲劇の分量の大きさに比例して、それを糊塗する自己回避の言論の規模も大きくなるのが現代の特徴である。
ひとびとはあらずもがなの無用の言論に取り巻かれて、自分を瞞すために思想をあみ出し、不安から目をそらすために理論をこねあげる。こうしてことごとく悲劇の因果関係が説明され、自分の視野に閉じこめることで悲劇を遠斥けたと信じたがるが、そのこと自体が悲劇にもっとも近い地点に自分を立たせているのだということには気がつかない。
つづく
2006年07月31日

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近代というものは、物を見つめる前に、物に関する観念を教えこまれる時代である。まず人間である前に、人間に関するさまざまな解釈に取り巻かれる時代である。
私は物が見える(傍点)ということに対して懐疑的にならざるにはいられない。不安をごまかす観念のはびこる時代に物は見えない。私はバーゼルで見た一枚のホルバインの強烈な印象が忘れられない。
それは高さ30センチ、長さ2メートルの細長い棺のなかに、等身大のキリストの屍体を長々と仰向けに横たえている横断図である。ほかにはなにもない。
キリストを取り巻く群像もいなければ、十字架もない。だが、そのためもあろうか、私はこの絵の懸けてある部屋に入ったときに竦然とした。等身大の屍体は絵の枠をとび出して、あたかも立体的に、私の目の前に実際に置かれてあると思われるほど凄絶にリアルである。
なかば開かれた目の中で眼球がひっくりかえり、白眼が剥き出している。顔は一面に青黒く鬱血し、骨ばった右腕は胴のわきにそって台架の上に無造作に置かれ、手首から先は異様に腐襴している。痩せ細った足首も黒ずみ、釘あとももう血の固まった跡らしく、どす黒い。
これはたんなる屍体、たんなる物体である。ここにはキリストの苦悶をたたえる神話もなければ、秘蹟もない。そう言えば、これに似たものとして思い出されるのは、ダハウの強制収用所跡でみた大型の写真の中の、痩せさらばえたナチスの犠牲者の無残な屍体なのである。
私は現代に比ぶべくもなく信仰心の篤い時代を生きたホルバインが、かかる「物」としてのイエス・キリストを描くことに成功した、その逆説に魅かれたのである。
つづく
2006年07月25日
***西洋名画三題噺――ルソー、クレー、フェルメール***
フェルメールは日本人好みの画工である。鳴り物入りで特別展がハーグで開かれた。大学の同僚のなかで何人かが春休みにわざわざ出かけて行った。むかしセザンヌ展が上野で開かれると、長蛇の列ができた時代と比べて隔世の感があり、日本人の贅沢と余裕もきわまった感じがする。
むかしは泰西名画というと印象派どまりだった。ヨーロッパ旅行が大衆観光旅行の範囲の中に入って四半世紀も経って以来、それまで日本人にほとんど知られていなかったフェルメールの名が浮かび上がった。
繊細で、精妙で、日常市民的で、静かな微光の漂うような明るさのある親しみやすさ、衣裳と器物に注がれた細密画の伝統の目、ヨーロッパ絵画に例の少ない黄や青のコントラストの美しさ、自己主張を抑えた西欧世界らしからぬ慎ましさの詩的小世界――どれ一つとっても、日本人好みではないものはない。
フェルメールはもちろん私も好きな画家の一人である。中庭の幾何学的構成美を示したホーホや、絹や繻子(しゅす)の緻密な再現で目をみはらせるテルボルフなどの同時代のオランダ人画家とともに、ヨーロッパの美術館を訪れるたびに、私の足を立ち停(どま)らせ、私に感嘆措(お)くあたわざる思いをさせつづけてきた作家だ。「一枚の繒」にとりあげるのなら、例にどれを挙げてもいい。アムステルダムの『牛乳を注ぐ召使い』でも、ロンドンの『ヴァージナルの前の女』でも、パリの『レースを編む娘』でも、どれでもいい。
今から30年ほど前、ハーグのマウリツハイス美術館で、フェルメールの全作品を蒐めた展覧会が開かれた。私は偶然オランダ旅行中にこれに出合った。その頃、特別展を訪れる日本人の姿はほとんどなかった。フェルメールの名前と画像が心に刻みつけられたのはそれ以来である。というわけで、私も心と時間に余裕があれば、もう今後半世紀は行われないだろうといわれる今回のハーグの特別展に、同僚と行を共にしたかったという気がまったくないわけでもない。
けれども、あながちその気になれなかったのは、心と時間にゆとりがなかったからばかりではない。フェルメールは西欧美術の代表の位置、西欧精神の中枢を象徴する位置を決して占めていない。フェルメールだけを切り離して、個別に鑑賞しても、われわれは西欧精神の精髄に触れたことにならないだけでなく、明治以来の日本人のとかく陥りやすい間違いを再演することになりかねないからだ。
すなわち、日本人が自分の好みを西欧世界に投影し、自分の自我の反映像のなかに巨大怪異なる中世末以来のあの幾重にも歴史の層を成す西欧美術の全体を閉じこめ、片づけてしまうという誤解を再び演じることになりかねないのである。
ジョットなどイタリア初期ルネサンスの祭壇画から始まる西欧近世・近代美術の、キリスト教神話世界に材を求めた壁画風巨大画像の数々に、ヨーロッパの美術館で、圧倒され、打ちのめされた経験を味わわなかった日本人は恐らくいないであろう。
フェルメールにしてからがレンブラントの切り拓いたオランダ市民階級の肖像画の世界の一部に位置づけられるはずである。そして巨匠レンブラントの前にも後にも、数限りない巨匠が相並んでいる。わずか35点の小品を残したにすぎぬフェルメールの世界が、どんなに宝石箱のように美しくても、ティチアンも、ティントレットも、ファン・ダイクも、フランツ・ハルスも措いて、日本人がわかりやすい、なじみやすい、心地よい小風景にのみ心が傾斜し、吸いこまれるというのは、片寄っているというだけでなく、西欧と対峙する態度としてそもそも間違っているのではないかという気が、私はしている。
私はこの稿に「ルソー、クレー、フェルメール」という小噺三題のような妙な題をつけた。ルソーは日曜画家のはしりといわれた税関勤務のあの純真無垢の魂アンリ・ルソーである。クレーはいうまでもなくパウル・クレー。スイスの画家、版画家で、児童画のように単純な表意的形象で一世を風靡した、『日記』でも知られるあの有名な、色彩と空間構成の巨匠のことである。
この三人の名前を一線上に並べたのは世界の美術史上でも恐らく私が最初だろう。まことに奇妙なくくり方である。かつて例のない系譜のとりまとめ方だと言っていい。けれども、日本人であれば必ずピンとくるに違いない。日本人にだけはああそうかと分かる。“日本人好みの系譜”と言うべきものである。
ルソーは大正時代に白樺派が持ち上げ、クレーは戦後日本が特に熱狂的に愛好した。そしてフェルメールは今や高度産業社会の爛熟した現代日本の人気の的である。それぞれフランス印象派、ピカソなどの20世紀抽象絵画、そして西欧中世・近世絵画が日本人の幅広い層の鑑賞の対象となった時代の動きのなかで、“日本人好み”の代表として立ち現れた。あえて“日本的センチメンタリズム”の代表と呼んでいいかもしれない。
この三者に共通点があることはどなたにでもお分かりであろう。前に「詩的小世界」という言葉を使ったが、「メルヘン的抒情世界」という言い方もできるかもしれない。こういう世界ばかりを好きになる日本人――私にもそういう一面がないわけではないが――を、私は本当は好きになれないのである。
(初出 原題「風景のあるエッセイ ルソー、クレー、フェルメール――日本型感傷の系譜」)「一枚の繪」1996年7月号
2006年01月27日
***買いそびれた一枚***
どうしてもこの一枚のレコードが欲しいという執着が、私には昔からない。だから、所蔵を密かに誇りにしている名盤も持っていない。若いとき、レコードを愛玩する審美的な熱狂家たちに取り囲まれていて、癇に障って、あれは孤独な病だ、などと嘯(うそぶ)いては、抵抗を試みていたスノビズムの結果かもしれない。
昭和40年代の初め頃、松本道介君(現中央大学文学部長)がボーナスをはたいて、クナッパーツブッシュ指揮の『パルジファル』を買った。ワーグナーのレコードはまだ珍しく、フルトヴェングラーの『リング』も出ていなかった頃だ。当時松本君は、レコードを聴いていた、というよりレコードを生きていた、と言った方が良いかもしれない。感性的に鋭く、潔癖な彼は、同じ『パルジファル』全曲を二揃い買った、と私に告げた。一つは自分の常用であり、他の一つはレコード針による摩滅を恐れての自分のための永久保存用だ、というのである。私はこれを聞いて、負けた、と思った。孤独な熱狂も、ここまで来れば見事である。
しかし、間もなくミュンヘンに留学した私は、実際に音楽を聴く、ことにオペラを聴くということが、レコードを頼りにすることとは格段に差違のあることを、あらためて知った。当時ミュンヘンのレパートリーは58あったが、私はそのうち52に接した。毎晩のように出掛けて行ったある冬の経験もあるのだが、毎晩の舞台がどれも満足を与えてくれたとは限らない。素人耳にも歌手の良し悪しは判定がつく。
一作品に目星い役柄が四人いたとすると、四人揃って歌手が魅力的である、というケースは絶無に近かった。うまいなァ、と思わせる歌手は、通例は四人のうち一人くらいなのだ。そして聴き手はそれを知っていて、拍手の量で歌手を評価している。抜きん出た歌手がアリアを歌い出す寸前には、客席に期待の余りの緊張が走るのを、私は自分の身体で感じとっていた。
私はこれが本物のオペラに接するということだと思った。凡百の歌手の中にあって初めて本物の歌手は生きてくる。あるいは、本物の歌手は凡百の、才能も乏しい層に支えられて初めて成り立っているのである。名歌手ばかりで配役を組んだ特殊な一枚のレコードは、「抽象的」でありすぎる。私はそんなことを、得々として松本君に書き送ったが、二年後に留学した同君が、やがてこの自明の事実を、何倍もの規模で体験したであろうことは、およそ想像に難くない。
そんなわけで、音楽が時間の芸術である限り、音楽の保存はあり得ない、は原則的に今でも成り立つと信じているが、しかし、すでに消えてしまった美の記憶を甦らせる手段として、美を仮定的に保存しようとする願いが人間にあることもまた、紛れもない。ことに日本人は帰国してしまえば、本物のオペラを滅多に見られないのだ。
私の場合、「ベルリン国立歌劇場(東ベルリン)」が1977年に来日したときの『ドン・ジョヴァンニ』がそんな体験である。スウィットナー指揮で、テオ・アーダムが主役だが、とりわけドン・オッターヴィオを唄ったペーター・シュライヤーの全身に沁み入るような明澄な声がいまだに記憶の底に残っている。
同じ配役のレコードが出ているよ、と友人が教えてくれたのだが、つい買いそびれてしまったのも、愚かなことに例のスノビズムのせいかもしれない。
初出(原題「買い落とした一枚」)「文学界」1986年10月号
2006年01月25日
末尾が切れて不完全な掲示となりましたので、完成稿をもう一度掲示します。なお、デューラー四使徒の絵も不完全掲載であったことをお詫びします。
***夜の美術館散歩***
ヨーロッパの美術館はしばしば夜も開かれている。昨秋、私は久し振りに三ヶ月ほどドイツに行った。夜になると大抵オペラや芝居を見にいったが、毎晩というわけにもいかず、行く処がなくて困る夜もあった。そういうときに美術館が開いているのはじつに有難い。
例えば、ドイツ中世絵画で名高いミュンヘンのアルテ・ピナコテークは、火曜と木曜の二晩だけ、午後7時から9時まで開かれている。館内には昼間のように団体の観光客はない。森閑とした巨大画面の谷間に、訪れた靴音だけが冷え冷えと響いていた。
14-18世紀の西欧絵画を主に蒐(あつ)めた、おそらく目下西ドイツ最大のこの美術館に、昔私は飽きるほど足を運んでいたので、デューラーが何処にあり、グリューネヴァルトが何枚くらいあるかまで覚えていた。今度も私は疲れていない元気のいいときには、これらドイツ中世絵画に面と向かった。疲れているときには、どういうわけか、今度は色も線もどぎついまでに勁(つよ)いドイツ的世界を避ける気持が動いた。クラーナハの妖しい美、バルドゥングの怪異さ、グリューネヴァルトの精神性――どれ一つをとっても見る者の心に過度の緊張を強いて来ないものはない。一日の仕事を終えた夜の散歩者の気分にはそぐわない。
どうせ夜の二時間くらいではこの大きな美術館を回り切れるものではない。私はそう考え、夜入ったときにはあちこち移動せず、一、二の部屋にじっと腰を落ち着けているのがいいように思った。
そこでドイツの絵を避けた日には、私は好んで17世紀オランダ絵画の、穏やかな室内のリアリズムの傑作が並んでいる側面の小部屋に足を向けた。労働する女性の全身に射す明るい光と影、四角い窓や戸に区切られた室内の落ち着いた空間構成、糸の織り目の一本も見逃さない衣裳の襞(ひだ)の細密描写――フェルメールやテルボルフの代表するあのオランダ市民の日常生活を描いた数々の傑作は、神話や聖書にばかり取材したドイツ中世の、イエス・キリストや受難者たちを残酷陰惨に描いたあのもう一方の暗い世界とは何というへだたりがあるだろう!
私はグリューネヴァルト、バルドゥング、クラーナハ、アルトドルファーといったドイツ中世画家たちの作品に取り巻かれ、ベンチに座って、独りじっとしていることがあった。すると画家たちの宗教的幻想が、まるで異様な一大音響となって、私の身の周りに飛び交い、もつれ合い、降りかかってくるように思えた。それらの絵は神秘的で、超俗的で、物語性に富み、日常にはないものを現実化してみせる、中世絵画に特有のメルヒェンめいたファンタジーに満ちあふれていた。
私はそういう画家の幻覚の数々――底知れぬ絵画的豊かさだと言ってもいいのかもしれないが――に当てられ、言いようもない不安を覚えることも少なくなかった。それは形のない玩具を与えられてどう扱ってよいか戸惑う子供の心理にも似ていた。
そういうドイツ中世画家の中で、明確な形、均斉のとれた即物的描写という点で、私の心にただひとり例外をなす画家がいた。幻想ではなく、厳密に規定された調和と法則の美において秀で、しかも、宗教的情熱を決して表立てては主張しない男性的な禁欲の画家。いうまでもなく、デューラーがその人で、ミュンヘンのこの美術館にも、代表作「四使徒」がある。
、聖書を手にした四使徒の立像、その忘れ難い眼光は、一度見た者の心を去らないだろう。しかしデューラーは決して分かり易い画家とは言えない。秀(すぐ)れた作品は肖像画に多く、地味で、文学性に乏しい。いま述べたドイツ画家の特有の、宗教的幻想を述べる率直さが彼にはない。『人体比例論』という書物を著した理論家が彼の中には住んでいる。
初め私も彼にはなじめなかった。オランダの画家のあの家庭的な優しさも彼にはない。イタリアの画家のような絢爛(けんらん)たる色彩美も彼には乏しい。しかし私は今度の旅で、ドイツそのものに疲れたときに、この最もドイツ的な画家にかえって癒(いや)された。「ドイツ的」とは、ドイツ的情緒を否定し、これに打ち克とうとする精神の方向を指しているからであろう。
初出(原題「美術随想 ドイツの美術館」)「産経新聞」1981年9月4日夕刊
2006年01月21日
「皇室問題の論じ方」(五)(六)がこの後つづくが、仕事上の時間の都合で、閑話休憩します。
***夜の美術館散歩***
ヨーロッパの美術館はしばしば夜も開かれている。昨秋、私は久し振りに三ヶ月ほどドイツに行った。夜になると大抵オペラや芝居を見にいったが、毎晩というわけにもいかず、行く処がなくて困る夜もあった。そういうときに美術館が開いているのはじつに有難い。
例えば、ドイツ中世絵画で名高いミュンヘンのアルテ・ピナコテークは、火曜と木曜の二晩だけ、午後7時から9時まで開かれている。館内には昼間のように団体の観光客はない。森閑とした巨大画面の谷間に、訪れた靴音だけが冷え冷えと響いていた。
14-18世紀の西欧絵画を主に蒐(あつ)めた、おそらく目下西ドイツ最大のこの美術館に、昔私は飽きるほど足を運んでいたので、デューラーが何処にあり、グリューネヴァルトが何枚くらいあるかまで覚えていた。今度も私は疲れていない元気のいいときには、これらドイツ中世絵画に面と向かった。疲れているときには、どういうわけか、今度は色も線もどぎついまでに勁(つよ)いドイツ的世界を避ける気持が動いた。クラーナハの妖しい美、バルドゥングの怪異さ、グリューネヴァルトの精神性――どれ一つをとっても見る者の心に過度の緊張を強いて来ないものはない。一日の仕事を終えた夜の散歩者の気分にはそぐわない。
どうせ夜の二時間くらいではこの大きな美術館を回り切れるものではない。私はそう考え、夜入ったときにはあちこち移動せず、一、二の部屋にじっと腰を落ち着けているのがいいように思った。
そこでドイツの絵を避けた日には、私は好んで17世紀オランダ絵画の、穏やかな室内のリアリズムの傑作が並んでいる側面の小部屋に足を向けた。労働する女性の全身に射す明るい光と影、四角い窓や戸に区切られた室内の落ち着いた空間構成、糸の織り目の一本も見逃さない衣裳の襞(ひだ)の細密描写――フェルメールやテルボルフの代表するあのオランダ市民の日常生活を描いた数々の傑作は、神話や聖書にばかり取材したドイツ中世の、イエス・キリストや受難者たちを残酷陰惨に描いたあのもう一方の暗い世界とは何というへだたりがあるだろう!
私はグリューネヴァルト、バルドゥング、クラーナハ、アルトドルファーといったドイツ中世画家たちの作品に取り巻かれ、ベンチに座って、独りじっとしていることがあった。すると画家たちの宗教的幻想が、まるで異様な一大音響となって、私の身の周りに飛び交い、もつれ合い、降りかかってくるように思えた。それらの絵は神秘的で、超俗的で、物語性に富み、日常にはないものを現実化してみせる、中世絵画に特有のメルヒェンめいたファンタジーに満ちあふれていた。
私はそういう画家の幻覚の数々――底知れぬ絵画的豊かさだと言ってもいいのかもしれないが――に当てられ、言いようもない不安を覚えることも少なくなかった。それは形のない玩具を与えられてどう扱ってよいか戸惑う子供の心理にも似ていた。
そういうドイツ中世画家の中で、明確な形、均斉のとれた即物的描写という点で、私の心にただひとり例外をなす画家がいた。幻想ではなく、厳密に規定された調和と法則の美において秀で、しかも、宗教的情熱を決して表立てては主張しない男性的な禁欲の画家。いうまでもなく、デューラーがその人で、ミュンヘンのこの美術館にも、代表作「四使徒」がある。
、聖書を手にした四使徒の立像、その忘れ難い眼光は、一度見た者の心を去らないだろう。しかしデューラーは決して分かり易い画家とは言えない。秀(すぐ)れた作品は肖像画に多く、地味で、文学性に乏しい。いま述べたドイツ画家の特有の、宗教的幻想を述べる率直さが彼にはない。『人体比例論』という書物を著した理論家が彼の中には住んでいる。
初め私も彼にはなじめなかった。オランダの画家のあの家庭的な優しさも彼にはない。イタリアの画家のような絢爛(けんらん)たる色彩美も彼には乏しい。しかし私は今度の旅で、ドイツそのものに疲れたときに、この最もドイツ的な画家にかえって癒(いや)された。「ドイツ的」とは、ドイツ的情緒を否定し、これに打ち克とうとする精神の方向を指しているからであろう。
初出(原題「美術随想 ドイツの美術館」)「産経新聞」1981年9月4日夕刊
2005年10月13日
いったいヨーロッパは何であるのか、荷風以来その認識はそれほど進んではいないし、ただわれわれがなにかを探すためにあそこに行かずにはいられないという衝動だけは依然としてつづいているのである。だが、考えてみれば、こうして探してばかりいる姿勢が健康である筈もなく、それはいつでもあの「教育視察団」の物欲しげな、話題さがしの経験崇拝に転落する危険をもうちに秘めていることは明らかである。
じっさい私の二年間の生活を占めていた多くの部分が、あのカメラ狂の好奇心に類するものであったことは、残念ながら認めないわけにはいかない。そしてまた、私はすこしもそれを後悔していないのだが、ヨーロッパの短い滞在では、そうしなければたちまち自分の小さな我のうちに閉じこめられてしまい、何のために行ったのか分らないことにもなりかねないからである。
われわれをふところの中にかんたんに飛びこませてくれない冷たい壁がこの社会にはあり、それは同化力のはげしいアメリカ社会との相違点であり、またアメリカ留学とヨーロッパ留学とは形式が変ってこざるを得ない所以であるともいえるかもしれない。われわれは自分の経験狂を笑いながら、それをつづけるほかはない。そして笑っているうちに探しているもの(傍点)をやがて見つけることだってあり得るだろう。
思いがけないときに、思いがけないところで、探しあぐねているものにふとぶつかる。そういうときは嬉しいというよりあっけない。私がバーゼルの秋の日の午後、ニーチェが昔住んでいた家をついに見つけたのもそんな具合だった。それは余りにもあっけなかった。
私はもう4時間も探し歩いてすっかり諦め公園を散歩していた。坐高の高い白髪の婦人が、ベンチで本をよんでいた。本をよんでいるくらいだから、ひょっとすると知っているかもしれない、私は半ば諦め半ば期待し乍ら同じ問をくりかえした。老人は多くを語らず、先に立って案内してくれた。ほとんど感動のないその無表情に、娘時代以来いく変転したニーチェ像へのどんな感慨がこめられていたのか私には分らない。
さっき何度か通った覚えのある通りのひとつ、古いギムナジウムの建物を角にもつシュッツェングラーベン・シュトラーセの47番地だった。シュッツェンマット・シュトラーセとほんの一字違いだったのだ。そこからはあのギムナジウムのすぐ裏がみえる。
通りは幅広く、真中がカスタニエンの枯葉に蔽われた中道公園になっていて、ベンチもあった。私はここを何度も通っていたのだが、立木に遮られて、気がつかなかったのだ。同じ形をした二階建ての、長屋形式のつづくとある中ほど、やや草色がかった灰色の壁がそこだけすこし古く、黒ずんでいる一軒があった。白い窓枠は汚れていた。壁のなかほどに、黒い石板に白文字で、
Hier wohnte
Friedrich Nietzsche
von 1869-1875
と張り出されてあった。
あっけない結末だった。
勿論なかには誰かが住んでいるとみえ、壁掛が窓からみえた。7、8メートル四方の小さな庭には、玄関口まで石畳が敷きつめられ、紫陽花が季節にふさわしくない狂い咲きをみせていた。庭の中ほどに、かなり丈の高い棕櫚が植えられ、周囲を手入れよく芝が取りかこみ、そのまた外縁を名も知らぬ蔦が円く、縁どるように匍っていた。
すこし湿っぽい庭から家の方をみても、寂として物音もなく、道路をへだてる鉄の垣根の端にある小さな鉄の門には、かたく錠がおろされていて、びくともしない。折角のことで見つけたのだから、せめて写真だけでも写して行こうとして位置を考えていると、通行人はじろじろ私を見ていくし、私につられて鉄の垣根ごしに不思議そうに内部をうかがう通行人もいた。じっさい不思議そうにみえたのは私の方であったのに違いない。
しかし私はさいごに、ここに今どういう人が住んでいるのかという無意味な好奇心に動かされはじめていた。なにしろ門には鍵がかかって、静かで、物音ひとつしない。だからこそ一層好奇心にかられたのかもしれない。
私はしばらく躊躇したのち、思い切って隣家の鈴をならした。若い感じのいい娘が戸口を開いた。私は日本から来た者ですが、隣家のことについてお訊ねしたいのですが・・・・そう言うと、娘はにわかに怪訝な表情を顔にうかべた。
「ニーチェの家についてお訊ねしたいのです。」
「ああ、」
と娘はすぐ納得のいったような表情にもどった。
「今この家は何に使われているのですか。」
「お婆さんがひとり住んでいます。」
そう言ってから娘は身を一歩のり出し、私がそれ以上まだ何もきいていないのに、急に興に乗ったようにしゃべり出した。
「それがね、とっても不思議なお婆さんなんですのよ。そのお婆さんのすがたを、私たちまだ見たことがないのです。白い髪をし、赤黒い顔をした老婆だって聞いていますけれど。一人にしては家が大き過ぎるのに、ほかには誰もいないらしく、夜になると窓を開け、昼間はけっしてカーテンを上げたことがありません。」
「ずいぶん童話風のお話ですね。買物にも出ないのですか。」
「それが、私たち、とにかく見たことがないのですから。家のなかでも、何をし、どんな生活をしているのか誰も知らないのです。」
そう言って娘はすこし笑い、退屈そうな表情にもどった。
私は丁寧に礼を言って、その家の玄関口から立ち去った。娘はすぐ扉をしめてしまった。隣家のニーチェ・ハウスはやはり前と同じように、しんとして、物音ひとつしなかった。私はバーゼル駅の方へ向って歩き出した。時計を見て、すこし慌てて、思いなしか私は歩調を早めていた。
2005年10月12日
自分が日本からもちこんできたある観念を打ちこわすためには、やはり未知のものへの畏敬のこころ、少くとも正直なこころがなくてはならないだろう。私がミュンヘンにきた前の年に、指揮者のクナッパースブッシュが死亡したが、あるレコードファンの日本人は、あの人の演奏がきけなければもう私はミュンヘンに定住する気がしませんよ、などとひどく落胆の体をしめし、私の顰蹙を買った。そんな言い方は嫌味である。なにもミュンヘンの芸術はひとりの指揮者によって左右されているわけではなく、その気になれば、まったく経験したこともない別の新しい世界に触れることができるはずなのである。どういうわけか日本のレコードファンにはこの種のモノマニアックなひとが多かった。
バイロイト音楽祭で出会ったある日本人は、わざわざこの聖地を訪れるためにヨーロッパにやってきた。ワーグナーを生できくのは初めてのはずだった。それなのにいろいろ専門的な批評をして私を驚かせたが、しまいに歌手のアニア・シリアの生の声はどうもレコードのように美しくないといって不平を洩らすような始末だった。
ある幻想をいだいてヨーロッパを訪れ、その幻想のなかにとらわれたままで帰国するような日本人が意外に多い。が、たいていの日本人はむしろ経験崇拝型であり、これとは反対に、無我夢中でなにかを探し求めて歩き廻るような人がごく普通で、いかに滑稽な失敗をつみ重ねたとしても、私にはこの方がむしろ自然なことに思える。
経験は夢であり、同時に、現実である。夢をみないものは、経験をただ分量の大きさによって測ることしか出来ず、未知の現実にぶつからないものは、日本でみていた夢からさめずに、夢にとらわれたままに帰国するのみである。
じっさい目の色を変えてヨーロッパの新しい経験を探し求める日本人は、ただ単に滑稽というだけではすまされない。幕末開国期の、欧州視察団以来の本能がなおわれわれのうちに生きていると言えなくはない。
例えば、18年の長きにわたってフランスに滞在した森有正氏の経験に関する省察に、最近、まるで煙にまかれたように衝撃的に反応した日本の論壇は、あたかも私の拙い経験談に日本人旅行者がふりまわされていくときの、不安定にして、ナイーブな、暗示にかかり易い心理状態に似ていたところがあったようにも思えるのである。むろんそれは森氏の省察のある深さを否定するものではない。しかし、一片の論文に対する反応の大きさは、日本とヨーロッパの間に横たわる百年来の心理的惰性に由来していると思われるふしが私にはかんじられたのである。
そのことの善し悪しを問うているのではない。ただ、要するに、ヨーロッパに来て経験を探し求めて狂奔する日本人の心理と行動を簡単に笑うことは出来ないということであり、多かれ少かれ、そのようなあり方にしか日本人のヨーロッパ経験の様式はないのではなかろうか?
なにしろわずかな滞在期間に比して、ヨーロッパ全土はあまりにも豊富な経験の宝庫である。日本人は大抵、ひまがある限り夢中で旅行する。ヨーロッパ人が一生かかってする旅行範囲を1、2年で走破する。まるで物欲しげな飢えた表情で、花から花へ飛び移る蜜蜂にように、町から町へ、国から国へ、美術館から美術館へ、そうしないではいられないものを秘めているヨーロッパとは何だろうかと考える余裕もなく、次々に行動を起さずにはいられない日本人の旅行の仕方を評して、ドイツ人の某友人は、“Typisch japanisch”(典型的に日本人風だ)とからかったが、彼が出会った日本人はみなそうだったという意味なのである。
日本人とアメリカ人の好奇心の強さはドイツ人の間ではすでに定評がある。なにかを探し求めて止まないそういう慣い性はもうわれわれの骨の髄まで犯しているのかもしれない。しかしそういう仕方ではとうてい自分自身というものにめぐり会えることはないのである。にもかかわらず、そうしなければまた自分自身にめぐり会えるよすがさえ摑めないのがヨーロッパなのであろう。
ヨーロッパがアメリカと違って、各国文化の豊富な多様性によって成り立っている以上、ヨーロッパへの留学生が大学生活などをそっちのけにして、自分を多様性そのものにゆだね、そこから無意識のうちに入ってくるものの音を静かに聞きとろうとするのは避けがたいことだろう。
イタリアのアッシジで出会ったある日本人女性は、半年もヨーロッパ各地をひとりで旅行し、とりわけイタリアの美術や自然を見て歩いている間に、毎日のように出会う「中世」の顔に感動し、その感動をだれにも日本語で打明けられない孤独な旅の空しさにほとんど耐えられなくなる思いだ、と漏らしていたが、私もまたそのころ、同じ気持で同じ事をかんじていた。
今はそのときの感覚がどうしても鮮やかに、具体的に思い出せない。あのときでさえ言葉にならなかったあの感動の数々がどうして今ことばになろう。私自身、旅の一日で見た物の余りに多くをだれかに伝えたいという気持に駆られて、夜、ホテルで家族や友人にあてて手紙を書き出すが、伝えようとすると、伝達の機能が経験の量に及ばないという思いにいくたびもほぞを噛んだ。
こういう孤独なたびの空しさに耐えて黙々と歩いている日本人が、これまでどの位の数にのぼったことだろう。
荷風の『新帰朝者日記』のあの明治の新文明への憤りは、そういう空しさをかんじていた彼が、言いがたい感動をいだいて日本に帰って、だれも分ってくれない今浦島の思いなのに違いない。いったい彼は何を探してきたのだろうか。かれの絶望がはげしかったのは、孤独の空しさに耐えて味わった感動もまた深く、はげしかったからに違いない。観光バスでローマを一巡して帰る人たちの方がきっと確信をもってイタリアを批評することが出来るだろうと私は思った。じっさい荷風もまた、確信をもってヨーロッパの新文明を語る知識人に、帰国後、ただちに取巻かれている自分自身の始末に困ったのである。
2005年10月11日
第三節
自然の成り行きとしてかように浅薄にならざるを得ないのが外国経験の宿命ではあろうが、しかしまたよく考えてみると、人間のおこなうどんな種類の経験も、そのそもそもの始まりは未知の事実への既知の心理の不確かな反応なのであるから、いつの場合にも経験とは、浅薄な誤認に陥る可能性をつねに伴っているものなのだとも言えるだろう。
だからむしろ外国経験は、そういう経験一般のもついささか喜劇的な性格をもっとも赤裸々なかたちで剥き出してみせてくれるものだと考えてもよいのかもしれない。傍の目にはどんなに愚かな、滑稽な経験も、それをおこなっているひとりびとりにとっては、動かせない真剣な現実なのであり、その瞬間、瞬間において、彼のささやかな経験は、経験に関する人類の智恵の総量と等価だと言ってもいいのである。
もとよりここでいう「経験」は1、2年もしくはそれ以下のヨーロッパ滞在中の生活の仕方というほどの意味なのであって、哲学的な意味内容のものではない。しかしまたこの不安定にして、暗示にかかり易かった自分自身の心理的現実を度外視して、いかなるヨーロッパ論、体験談も成り立つわけがないだろう。善かれ悪しかれ、われわれは自分に与えられた条件のなかで、自分の既知の経験を土台に、未知の経験をひろげていくという生き方以外のことはなし得ないからである。
いや、それどころか、既知の経験内容を欠いては、未知の経験をもなし得ないし、経験内容はそもそも量によって保証されるものではない。われわれが、未知のある土地にいくら長く滞在しても、既知の尺度でしか反応しえてないという部分が巨大な量をなすことは明らかであり、一方、高台から臨んだ見知らぬ街の風姿や、ひとわたり町を一巡したときの初印象が意外にももっとも正確であり、場合によっては、これのみが未知の事実との本当の出会いなのであって、その後経験を重ねるにつれ、この最初の印象をこえることがだんだんに難しくなってくるというような事情に、経験のもつ不思議な性格が横たわっているともいえるであろう。
いったい経験とは何だろうか?それは西洋体験とは何だろうか?というあの容易には答えがたい、古くて新しい本質的な問と同じなのである。ヨーロッパの土を一度も踏んだことのない者は西洋を「理解」していないなどと言えるだろうか?経験の量の豊富さが、逆に経験の質をおとすというようなこともないわけではなかろう。
私の属していたゼミに、18歳でドイツに渡って、以来8年間、ドイツ文学の初等コースを踏んで大学院にまで進んできた26歳のインド人学生がいた。彼はほとんどドイツ人と同じように読み書きができるし、教養は並みのドイツ人学生と共通している。だが、妙なことだが、彼を混じえた座談の場で、ドイツ人学生と話が通じるのはむしろ私の方なのであった。私は共通する話題においてははるかに彼より劣勢であったが、書物や教授などの評価にあたって、私の判断力がより多くのドイツ人学生の共鳴をよんだのは興味深かった。
文化的にインド青年は、知識や学力はいくら豊富であっても、ドイツ書やドイツ人教授に対して一種無差別な反応しかできないため、批評力においていちじるしく欠けたところがあるように見うけられた。青年としてのある大切な自己修練の一時期を、外国ですごすことが何を意味するかは、明らかである。自国文化の土台を欠いて、いかなる外国文化の吸収もありえないとよく言われるのは、既知の内容を欠いて、新しい、未知の経験もありえないということのひとつの例証にほかならないだろう。
そう考えれば、傍目にはどんなに滑稽な、愚かしい行動であってもよい、日本から来たばかりのその戸惑いそのものが外国で新しい現実にふれたときの新鮮な驚きの表現なのであり、なにも長期に滞在し、外国生活に馴れることばかりが経験の内容を豊富にするとはいえないだろう。
それどころか、愚かな失敗や錯誤が、経験そのものであるといえるかもしれない。経験は夢と現実の交錯のなかにしかない。外国に長く生活しすぎて、日本が観念的にしか感じられなくなれば、それは日本人の経験であることを止めたことを意味するのだし、逆に、日本で考えていたヨーロッパ像を打ちこわすことをせずに、既成の観念の殻に閉じこもって、妙に安定した表情で外国をひとわたり経験することも、けっして経験したことにはならないだろう。
ドイツではイタリア・オペラを観ないことにしています、と見識ぶった人がいたが、ミラノのスカラ座に行ってふんだんにイタリア・オペラを楽しめる金と時間に余裕があるのならいざ知らず、さもなければすでにドイツ・オペラが自家薬籠中のものにしているヴェルディやプッチーニをドイツで観て有効でないはずはないし、それどころか、ドイツの居住地で多くのイタリア・オペラを観ておかなければ、たまたま1、2日滞在するスカラ座のヴェルディやプッチーニをどう評価することも出来ないだろう。
私が驚いたのは、ヨーロッパにやってくる日本人のなかには、西洋の芸術一般に悪い意味でペダンティックな「通」が多過ぎることだった。「モスクワ芸術座をみてからというもの、私はもう日本の新劇はみないことにしています」などと口走るスノッブは、われわれの周辺にいくらもみかけるが、こういう人がヨーロッパに行くと、厄介なことには並みの西洋人より知識が豊富だから、素直にたのしんだり、感動したりすることがなかなか出来にくくなってしまうのである。
2005年10月10日
ヨーロッパにやって来る日本人は、いつでもなにかを探しているのだ。なにか面白い経験、有意義な証拠物件、あとで話題になる事件や出来事をもとめてうの目たかの目になっている。バーゼル時代のニーチェの住居をみつけようという私の動機にしたところで、この種の話題さがしの一つに過ぎまいから、写真狂の教育視察団を私はどうして嗤うことが出来よう。
じっさい私はバーゼルでほかにすることはなかったのだろうか。美術館を観てしまえば、これほど退屈な町はなく、意地でもニーチェの下宿を捜し出すでもしなければ時間のうめようがなかったが、それにしても、これを見つける難しさを種にして、あとで日本の読者に「話題」を提供しようなどと計算していたわけではなかったから、外国旅行中は少しの時間も無駄にせずに何かを探したずね、歩きつづけずにはいられないというのは、もう動機を抜きにしても私の習性となっていたのかもしれない。
私にはその習性がにわかに不思議なものに思えて来たのだった。私は外国経験の不思議さを考えた。先に来た者は後から来た者に、長く居る者は短く居る者に、心理的な暗示を掛け易い。前者が確信を以て言うことばを覆すには、後者もかなり長く滞在し、それに見合ったある程度の経験を自分でも積んでみなければどうにもならないのである。
私は通訳などで出会う短期旅行者が、年齢にかかわりなく、私の拙い経験談を熱心に、面白がって耳を傾けるのを見るにつけ、ふとした私の言葉が暗示になって、かれらのドイツ観なりイタリア観なりがある一定の方向へ動き出して行くさまを恐ろしいものを見るような思いで見つめることが幾度もあった。
外国ではそれほど感情がナイーブになり、稚気に返ることがあり得る。ただ大抵の人は帰国すると、忽ちそのことを忘れてしまうだけである。
自分の二年間の生活をふり返ってみても、最初の時期にはどれほど感情が動揺し、他人の言葉に左右されていたかを思い返すことが屡々ある。だからわれわれは「経験」をもとめることが慣い性になるのだとも言えよう。自分の経験で、自分の不安定な裸心に保護膜をできるだけ早くつけようとする姿勢は、安定を得ようとする生物的本能なのかもしれない。
そしていったん安全なヴェールを纏って、現実感覚を手に入れてしまうとそれに落ちつく人もいれば、さらにそれを破って、新しい現実のイメージをさらに獲得しようと努めなければ不安でたまらぬ人もある。前者は大抵ひとつの町に落ちついて日本人社会との交際に寧日なき有様になるし、後者は、次から次へと旅行プランを考え、与えられた僅かな滞在期間中に、狂気じみた衝動で、次から次へと押し寄せるさまざまな経験に身をゆだね、統一感覚がなくなり、自分でも何をしているのか判らないような気持で、なにものかを探し求める(傍点)習性に引きずられて暮らすようになる。二年ていどの留学期間では、たいていこのどちらかの型に属する人が多いように思える。
通訳などで出会う短期旅行者を笑うことは易しいが、また私は、私よりも多く経験している人に笑われはしまいかという不安におびえていた自分をこそ笑わなければならなかった筈なのである。他人を笑うこころと、笑われまいとするこころとは同じ精神構造なのだが、しかし、こうした不具な感情から完全に自由な日本人というものは、私の知るかぎりひとりもいなかった。
日本人が数人あつまってレストランに入った場合、年齢にかかわりなく、先に来ている者がボーイに注文し、あとから来た者は遠慮してドイツ語を口にしないというのは、単に言葉に対する自信のなさから来るのではないだろう。現実感覚のうすさに対する自分への不安から来ているのに違いない。そしてそういう不安にいったん取り憑かれたが最後、人間は不安をうめようというバランスへの生物的本能から、経験の量を重ねようとする一定路線をまっしぐらに走りはじめることになるのである。それは仕事の量、旅行の量、外国人との交際の量、観劇の量、その他いろいろな形態をとる。
日本では厳格な顔をしている老先生が外国ではすっかり童心に返り、旅先の町々で動物園まで見学してくるようになるのは、それがまさしくその人の現実感覚のバランスを支える「生活」の内容と化しているからである。だから日本では映画館以外に劇場というものに入ったことのない人が、帰国までに大のオペラ・ファンになっているという珍現象も、それだけではいかにもおかしいものにみえるが、外国にいた期間中は、それが彼にとって動かせない現実の重みを備えていたこともまた否定できないのである。
2005年10月08日
いつであったか、「教育視察団」をつれてミュンヘンの女子職業学校を訪れたことがある。
日本の中学校、高等学校の校長先生や教頭先生などを主体にした老人ばかりの団体視察旅行だが、私が引受けたのはそのうちの15人ほどで、出かけた学校は「帳簿記帳と管理業務のための女子商業学校」、簡単にいえばBG養成所とでも言うべきところだろう。だが、なぜあんなに写真をとりたがるのか。女の校長先生に案内されて、機械の置いてある部屋で説明を受けたが、そのまわりに集ったのはほんの4、5人で、ほかの者はカメラをあちこちに向けていて説明をきこうとしない。
やがて授業中の教室にわれわれは這入ったが、そこでもカメラのフラッシュをたく人がいる。窓の外を写している人もいる。だが、たったいま私に深い感銘を与えたのは、われわれが教室に這入った瞬間、13、4歳の少女たちはお客さんを迎えて一斉に立ち上がったことだ。だれからの指示もない。担任の先生はノックした校長先生の方に歩み寄っていて、ドアのそばに来ていたため生徒に指示を与える暇もなかったことは先頭にいた通訳の私がこの眼でよく見ていたからはっきりとそう言えるのである。
校庭に出たとき、そこでこの一団は校舎を背景に女の校長先生を撮影したいと言い出した。通訳の身だから、仕方がないのでそのむね伝達した。校長さんが「どうぞ(ビッテ)」と言った瞬間である。驚くべきことが起った。約10-15メートル四方に、15人がぱっといっせいにくもの子を散らすようにグランドにひろがって、女の校長さんに向って、あるいは立ったままで、あるいは中腰でそろってカメラを構えたのだ。彼女はどう思ったろう。飛行機のタラップを降りて来た有名女優に新聞社のカメラマンが一斉にカメラの放列を布いたのとちっとも変らない。
ひとりが代表して撮影するのならそれも御愛嬌だが、15人がひとりの例外もなく、とつぜん目の色を輝かせ、さっと校庭にひろがって思い思いの姿勢でカメラを向けたのだ。私は顔から火の出る思いがした。なにしろ日本から来た先生たちの代表なのであり、校長職など老人が多いのだから尚更である。
しかし、そのあとでさらに驚くべきことが起ったのだ。
12時過ぎになって、校門を三々伍々、女生徒たちが出てくる。日本人の一団のなかの、陽気な、大柄な先生のひとりが女生徒を3人つかまえて、校門の前に立たせ、自分がさらにそのうしろに立って、同僚の一人に自分のカメラを渡し、女生徒といっしょに立っている自分の姿をカメラに収めてもらおうとしたのである。無邪気といえば無邪気だから、女生徒も笑っているので、それだけならむろんなにもとり立てておかしいわけではない。
問題は、その大柄の先生が終ると、次から次へ、われもわれもと同じことを真似しはじめ、15人全部が完全に同じことを繰返し終るまで、3人のドイツ人の女生徒がじっと立っていなければならなかったことなのである。私は見ていられなくなってその場を離れかかった。それは見事というほかはない行動の連鎖反応だった。ひとりぐらい真似しないという人があったっていいのに、彼らを完璧なまでの模倣衝動にかり立てたものは旅の心のいたずらか、はたまた老人の痴呆症か、いずれにせよ、日本人であることに屈辱を覚えたいくつかの瞬間のひとつに属する出来事ではあった。
私が通訳として外国で付き合った日本人のなかで一番立派だったのは、若い警察官僚F氏だった。F氏はまだ28歳の若さだが、質問は要領を得ていて鋭く、礼儀も正しく、たちまちミュンヘン市警の本部長の信頼を買って、約束の時間が過ぎても歓談は止まなかった。
F氏は自動車の交通違反に現場罰金制度を日本にも取り入れるため、それが理想的に行われているバイエルン州の実情をしらべに来たのだが、日本では警察官の不正が起り、罰金がネコババされる怖れもあるのでその点を質問しようとした。
「しかし、その通り>ストレートには質問しないで下さい。」
と彼は私に注意を促した。
「19**年にアメリカのカリフォルニア州でこうした警察官の不正が大規模に起って問題になったことがあります。そこで、ミュンヘン市警ではこうした憂いを防止するためになんらかの手を打っているかどうか、そういう訊ね方をして下さい。」
さもないと失礼に当るというのである。
こういう細かい日本人的な心遣いは、たいてい外国に来るとたちまち失われ、バランスを破った非礼、破廉恥を平気で犯す日本人旅行者があまりにも多いなかで、私はF氏が際立った存在にみえたものだった。
「教育視察団」のなかのひとりの如きは、女の校長先生に、
「あなたの月給はいくらですか」
という質問を呈したので、私はただちに訂正して、
「教師の給料は平均いくら位ですか」
と言い直したものだった。
それでもこのひとたちは日本に帰れば、職員会議あたりでドイツの教育制度について一席ぶち、ドイツの女生徒といっしょに写したフィルムを同僚、下輩に御披露して、大いに滞欧経験の有意義であったことのお土産にするだけの下心は持ち合わせていよう。いや、そういう下心がつねにあるから、なにかの機械に恥も外聞も忘れて、「証拠写真」をあつめようとしているのに違いない。
あれは痴呆現象でも模倣衝動でもなく、計算ずくの行動かもしれないのだ。いや、そう考えた方が筋が通っているし、少くとも私の感じた屈辱感の半分位は減殺される。
2005年10月07日
もうひとり別の老人は、そうさな、覚えがありますよ、どこかで確かにそう書いてある家を見た覚えがある、間違いありません、まあ、一緒にお出でなさい、そう確信をもって私をつれて歩き出した。だが、私がもう何度も往き来した同じ場所を歩くだけで、あっちに立ち停り、こっちに首を曲げしてみせるのだが、どこだったかどうしても思い出せないらしい。
そうこうするうちに、さっき交番へ行けばよいと言ったおっさん風の老人が、通りの向う側で手を振って、私の方に歩みよって来た。判ったのかもしれない。老人は通りを横切って、こちら側に渡ると、大空を指さして、いい天気だ、と言う。私の肩に手を置いて、見ろ、飛行機が飛んでいる、ワハハと笑う。ビールに酔っていい御機嫌である。見れば、たしかに澄み切った秋の青空に、飛行機が爆音も小さく、高く飛んでいる。
私は急に馬鹿馬鹿しくなった。だが、なぜか愉快で仕方がないという気持にもなった。今日という日が、なんとも言えず愉快になってきたのだ。第一、百年前の異国の哲学者の昔の下宿をさがして歩いている日本人というのがまことに愉快な存在だし、それに、飛行機が飛んでいるといって子供のように両手をひろげて、私の質問をすっかり忘れてしまっている愉快な老人を前にして、当惑した微笑を浮べていたに違いない私という存在ほど剽軽な人間はまたとないであろう。
いったい私は何をさがしていたのだろうか?私はニーチェのバーゼル時代の下宿の住所をさがしていたのである。だが、私はなぜそんなものをさがしていたのだろうか?よく考えてみると、これは無条件に当り前なこととは必ずしも言えないように思えるのだった。
私はニーチェを愛読しているからだろうか?だが、私はなぜニーチェを愛読しているのだろうか?ニーチェの文章を読んでいると、思想的にも、生理的にも、いや、確かに頭の訓練としても快適だからである。私は快適なことをするのが好きだからである。そして私は、不快なことをするのが嫌いだから、バーゼルでニーチェの昔の下宿をさがしているのだろうか?それがなかなか見付からなくて苛々しているのは不快なことではないのだろうか?私には不快なことが結局、愉快なことなのだろうか?それとも愉快なことが、不快なことなのだろうか?
じっさい私は、笑いたかった。だが誰にたいしてこれは笑うべきことなのだろうか?私は私自身を笑って気が済むということをやっぱり笑うべきではないだろうか?それとも私はもう笑ってしまえば、もう笑うべき存在ではなくなるというのだろうか?
私はこれまでもヨーロッパにやって来る日本人の、あのいつも物欲しげな、それでいてお人好しの顔付きがおかしくてならなかった。それは私自身をも含めてのつもりだったが、やっぱり今まで、どこかこころの片隅では、私は私自身をも含めていなかったのかもしれない。
つい一週間前、私はローマにいた。ローマのレストラン・トーキョーにあつまっていた日本人の、あのいかにも間伸びのした、ちょっとはしゃいだ、きょろきょろ辺りを見廻して落ちつかない、それでいて俺は日本人だという傲然とした張りのあるところをも失うまいとする一群の表情を部屋の片隅からじっと眺めていて、ああ、日本人はこんな顔をしていたのか、久しく忘れていたな、東京にいたとき日本人はたしかにこんな顔をしていただろうか、そう気を張るなよ、のんびりし給え、あんまり緊張しすぎるから、刺身の食べられるレストランに来て、にわかにそんなにこやかな顔になってしまうのだ・・・・・・じっさい私はあのとき悪意の塊になって、日本人観光団の野放図なおしゃべりを冷笑し、ひそかに優越感をかんじ、それでいて自分も刺身が食べたくてレストラン・トーキョーをさがしにさがしあぐねた末ようやくたどり着いたという事実の方は好都合にもすっかり忘れる技術をも習得していたのである。
旅行中日本人観光団に会うとぞっとしますよ、といつか私に真顔で言ったひともやっぱり日本人だったが、そのひとも私に言わせれば、やっぱりぞっとする日本人の一人だったのである。なにしろその人はドイツ語が一言もしゃべれないのに、日本の某大学から派遣されてミュンヘン大学の経済学部の某教授と会談するためにやって来たのだが、私は通訳をたのまれたので、至急経済学部の研究室に連絡をとってみたところ、うかつにも会談の約束なんかまるっきり取りつけてもいなかったからである。
研究室の親切な秘書嬢が気を利かし、その日偶然ドイツ人教授が出講日だったので運良く会談は成立したからいいようなものの、ああ世話は焼き切れないなと腹を立てつつ通訳の場にのぞんだところ、日本人教授はドイツ人教授の前のソファーに坐りながら、相手の顔を正視して物を言うことが出来ないのである。
しゃべっているのは易しい日本語である。それなのに日本人教授ははじめから終りまで、横に坐っている通訳の私の顔ばかり見ながらしゃべっている。ドイツ人教授は堂々とした長身で、悠々とソファーに坐し、にこやかに微笑をうかべつつ応対するその小憎らしいほどの落ちつきに調子を合わせようとすると、私の下手なドイツ語は、しだいしだいにヒステリックに上ずってきて、これほどの羞ずかしい、みじめな思いをさせた日本人教授に対し私はいささか恨みを抱いたものだった。
それに別れるときになって、日本人教授は鞄の中から土産物のつつみを取り出して、ドイツ人教授からは代りに著書を一冊贈呈されたところまでは良かったが、彼の鞄のなかにはまだまだ沢山お土産の品が入っているらしく、隣室の秘書嬢にまでそのうちの一つを差出そうとする素振りをみせたので、私は「ああ、止めて下さい、その必要はありません、却っておかしいですよ。」と思わず手で制しつつことばに出していたのだった。これまでいくたびも日本人来客の通訳を頼まれて来たのだが、はらはらしたり、腹を立てたり、しまいには逃げ出したいと思う場面に出くわすことも一度や二度ではなかったのである。
2005年10月06日
第二節
私はバーゼルのレストランの女主人に礼を言って、ふたたび探索に出発した。
秋の空には雲ひとつない。
中世の城門シュパーレントールは、澄んだ青空に、特徴のある三角の彩色の尖塔をつき立てていた。人通りは少い。だが、自動車はひっきりなしに通る。並木の葉はまだ九月だというのにすでに黄ばみ、落葉が明るい通りをかさかさと風に運ばれていた。バーゼルにも意外に観光客が多いのに気が付いた。城門にカメラを向けたのは私ひとりではなかった。しかし、日本人の姿はこの日は町中どこにも見掛けなかった。
いろいろたずねて、古い「学校」をシュッツェンマット・シュトラーセに見つけた。大きな四辻の一角に立っているこの学校は、黄とくすんだ赤の帯模様に塗られた明るい、派手な建物だった。
「古い学校ならあれですよ。でも、ニーチェが住んでいたとか、そういうことは知りませんわ。聞いたことないですよ、そんな話。」
ある中年の婦人がそう言っていた。
「この辺りに、哲学者が住んでいた建物なんてい言うのはほかに御存知ありませんか。」
「ありませんね。」
学校のあたりをぐるぐる歩いていたが、どうもそれらしい様子はない。ニーチェは当時、大学を教えるかたわら、ギムナジウムで語学の先生もしていた。非情に厳しい教師であったので、生徒に人気がなかったと語り伝えられている。このギムナジウムが、いま私の前に立っている建物だろうか?だが、詳細を調べずにバーゼルに来てしまった迂闊さから、確認するすべもないのである。
「あれが学校ですよ。でも、あんなもの見て何になるのです?なにも価値のない建物ですよ。」
もうひとり別の婦人は、そう言って不思議そうな顔をして行ってしまった。ミシュランのスイス版を手にしているフランス人夫妻をつかまえて調べてもらったが、記載されていない。私のもっているポリュグロットには勿論載っているはずもない。私はシュッツェンマット・シュトラーセを綿密に、幾度も行き来してみた。インテリらしい人もつかまえてきいてみた。大抵知らない。この辺りに住んでいる人でなければいけない。そうは言っても、前にも述べた通り、日曜日なので、シュッツェンマット・シュトラーセの住人に話し掛けるチャンスがないのである。この通りはみなかたく扉をおろして、窓から顔を出したり、玄関口から出て来たりするような人さえひとりもいない。
丁度、自動車が一台、四辻のガソリンスタンドの前に停った。ガソリン屋の女の子がとび出して来た。私も飛んで行った。
「知らないわ、そんなの。」
彼女は肩をすくめて、それから私の方を見て、うすら笑いを浮かべた。いかにも、なんてつまらん事を聞く人だろうと言わんばかりの様子である。
乳母車を押して散歩しているインテリらしい若い夫婦がやって来たので、これはいい、とばかりに待ちかまえていて訊ねた。夫妻は、私がすべてを言い終わるまで黙ってきいていた。そして、私がこれまで多くの人に訊ねても分らなかった苦心の有様まで語り終ったとき、若い夫の方が、じっとわたしの顔を見て、じつは自分達はフランス人なのでドイツ語が全然わからないのです、とたどたどしい英語で答えてきた。それから困ったような笑いを浮べて、妻をうながすようにしつつ、乳母車をまたゆっくり押しはじめた。
私はもうすっかり苛々してきた。どうせ訊ねるなら老人の方が良いかもしれない、なにせ若いひとはもうニーチェのことなぞ知らないのだ、そう思ったから、小肥りの、人の好さそうなおっさん風の老人をつかまえて同じことを訊ねてみたが、交番へ行って聞けばよいなどと言う。なんとも付合いの悪い答え方である。
2005年10月05日
私はそのへんを歩いている二、三の人に訊ねてみるしかなかった。だが、日曜というのはこういうときまったく不便なのである。日曜の午前中、土地のひとをつかまえようと思ってもなかなかそれらしき人に出会えないのだ。ここがイタリアとの違いの一つであろう。イタリアでは、用もないのに閑をもてあましたひとびとが街頭に屯し、無駄話をし、がやがやと陽気に、賑やかにくだを巻いている。スペインもそうだ。スペインでは交通の邪魔になるほど街角に人間が溢れ出している。バーゼルはバールというフランス読みの名ももっているとはいうものの、たしかにゲルマン系の町なのだ。
それに、もう一つ困ったことは、土地の人と旅行者との区別が容易につけにくいことである。日曜の午後になって、ようやくバーゼルでも散歩をする人がぼつぼつ通りを歩きはじめたが、しかし、日曜日には正装して散歩するのがこうした静かな中型都市の習慣だから、旅行者との区別がつけにくい。イタリアあたりでは、観光客は一目でそれとわかったのに、と私は困惑した。乳母車を押している夫婦者、一人で杖をついて歩いている老人――これは絶対に旅行者ではあるまい、そう当りをつけて尋ねてみるしかなかったのである。
昼食どきなのでレストランに這入った。早速ボーイにきいてみた。勿論ボーイが知るわけもないから、なかなか立派な高級レストランでもあるし、だれか店の人にきいて下さいと頼んだのである。ボーイはニーチェの名前も知らなかった。店の中年の女主人が出て来て、調べてあげますと言って奥に入り、しばらくして地図と紙切れをもって出てきた。
かくて、バーゼル大学のそばに残っている中世の城門シュパーレントール付近の、シュッツェンマット・シュトラーセに古い学校の建物がある。そこにニーチェは住んでいた、あるいはその隣の家かもしれない、だからその辺りに行ってひとに聞けば近所の人が教えてくれるでしょう・・・・・ということだった。
「本屋さんに知合いがいますので、電話でいまきいたのです。」
「それはどうも御親切に有難う。」
「でも、どうしてそんなことを知りたいのですか。」
こういう質問をこれまで私は何度うけてきたことだろう。こういう小うるさい質問を一言で片づけてしまう名答をおぼえるまでにも、私はすでに一年ぐらいかかっていたと言えるのかもしれない。
「Ich bin Germanist.」
「ああ、そうですか、でもいまニーチェを読む人はいないでしょうに。私は以前にはドイツ人でしたのよ。ニュルンベルグの出です。兄は子供の頃、ニーチェを読む研究会に入っていました。兄は建築技師で、戦死しましたが、あの頃はゲルマニストでなくともニーチェを読む研究会は町にいくつもあったのですのよ。」
そんな話はほかにも私はきいたことがあった。
東ドイツのライプチヒ近郊レッケンの、ニーチェの生家であった村の牧師館に私は墓参したことがある。
ニーチェの墓は小奇麗に手入れされ、季節の花で飾られていたが、それは年老いた寺男の世話であったから、私はなにがしかの金をこの親切な寺男に握らせなければならなかった。
「昔ワイマールからここに墓が移されてきた除幕式の日はとても賑やかでしたよ。ヒットラー総統は来ませんでしたが、代理の偉い人が来ました。村長さんも張り切ったものです。あの頃は、なにしろお墓は国営で、管理の費用もぜんぶ国費でした。ですが今は、こうして私が手入れして、花を飾ってやるほかないのです。」
だからなにがしかの金を置いて行けというのがこの77歳の寺男の言いたかったことなのである。
「西ドイツから墓を見に来るひとがいますか。」
「いません。」
「日本人は?」
「十年前にひとりいました。ほかにはフランス人がときどき来ます。自動車で東ドイツを旅行中にちょっと立寄るらしいですよ。」
新しい決定版ニーチェ全集の編纂をしているイタリア人学者モンチナリ氏をワイマールに訪ねたときのことである。
氏は不便な東ドイツでこの難事業にとりかかってすでに七年になるが、ワイマールのシラー・ハウスの前の古本屋にナウマンのツアラトゥストラ註釈本が出ていたはなしをしていたので、私はさっそく買いに行った。店の主人にそれが欲しいと言うと、
「ニーチェ?そんなものはありません。」
それから急に居丈高に、声をたかめて、
「ニーチェ、いけません、いけません、(シュレヒト、シュレヒト)あれは悪い思想家です。あんなものを読んではいけません。」
あんまりはっきりそう言うものだから毒気をぬかれて引き下がった。あとでモンチナリ氏に再会したときにその話をしたら、
「なに、書庫にあるのですよ。あなたが外国人なので本屋は警戒したのですね。現に一週間前、あそこの主人は私に買わないかと持ちかけて来たくらいですからね。」
私はルツェルン近郊のインメンゼー湖畔でスイス人の小学校の先生夫妻に会った。バーゼルのニーチェ・ハウスはミュンスター教会のそばだろうと間違えて教えた人だが、ニーチェはスイス人には好かれていませんね、あの過激思想はわれわれの肌には合いませんよ、顔をすこししかめながらそう言っていたのを思い出す。
「でも、ニーチェの方はスイスを愛していましたね。」
と私は答えたものだった。
「それに、ニーチェは死ぬまでスイス国籍でしたよ。」
「あら、それ本当ですか?」
奥さんの方が急に目を円くして、びっくりした様子で亭主の方を向いたときの顔が思い出される。
2005年10月04日
私が昭和43年(1968年)4月、ドイツ留学から帰国して半年余しか経っていない時期に、同人雑誌に書いたあるエッセーをご紹介したい。私は当時32歳で、静岡大学の専任講師だった。
同人雑誌はドイツ文学の仲間で出していたもので、Neue Stimme(ドイツ語で「新しい声」)といい、「しんせい会」という同人会を結成していた。小説を書く者もいた。芥川賞作家も出ている。
このエッセーは私がまだ著述家としての活動を開始していない習作期の作品である。新潮社から出してもらった最初の評論集『悲劇人の姿勢』(1971年1月刊)に収録されているので、未公開ではないが、この本自体が古書店にももうないので、同エッセーに記憶のある人は今ではほとんどいないと思う。(ただ同書の別の評論から一昨年ある大学の入試問題が出ているので、本を知っている人はまだいるのだと、嬉しかった。)
「ヨーロッパを探す日本人」は短編小説くらいだと思って読んでいたゞきたい。読み易いと思うが、かなり長い。何度にも分載されると思う。
途中から読まないで欲しい。面白そうだと思ったら、(一)に戻って読んでいただけたら有難い。
このあいだ「第二の人生もまた夢」というエッセーを日録に掲示したあとで、スイスのバーゼルに住む若き友人平井康弘さんが出張で来日し、新丸ビルで落ち合い、久闊を叙した。急にバーゼルが懐かしくなって長谷川さんのお手を煩わせること容易ならずと思いつつ、ここに長文の分載をお願いした次第だ。
■ヨーロッパを探す日本人
第一節
しらべてから来るべきだった。アドレスがわからないのである。
ホテルの受付の女性にまず訊ねてみた。
ニーチェ?さあ、どこかの町角でその名前見たことがあるわ、はっきりしないけど、・・・・・・肥った中年の婦人がそう答えた。駅の案内所に問い合せてみましょう、そう言って電話をその場で掛けてくれたが、生憎日曜で、電話口にはだれも出ないらしい。
バーゼルは観光都市としてはまことに不完全な町である。
ベルン、ルツェルン、チューリッヒ、いずれにも、駅のなかに立派な旅行案内所があり、数人の係員が休みなく応対している。チューリッヒなどはいかにも国際空港のある都市らしく、駅構内の案内所でさえ、三方にガラスを張った宏壮な事務所だった。この三つのホテル案内と旅行案内(汽車の時刻などを教える事務も含む)とは、それぞれ別々の場所に別々の事務所をさえもっている。バーゼルの駅の構内にはそれらしきものはなにひとつなかったのである。
駅前広場に、木製の電話ボックスのような小屋が立っていて、無愛想な女の子がひとりホテルの案内係をしている。私は昨夜、この無愛想な女の子の世話で、いま泊まっているホテルを見つけた。このときよほどニーチェの昔の下宿のことを聞こうかと思った。しかし、なにしろ百年前である。こんな年若い子が知るわけはない、そう思って聞かずに置いた。ホテルの受付の中年女性が電話を掛けようとした相手はこの女の子なのだ。
私は受付の女性に言った。
「昨日スイスの小学校の先生と話をして、ニーチェの家はたぶんミュンスター教会のそばだろうということを聞きましたが・・・・・」
「ああ、そうそう、ボイムリ・ガッセですよ。ありました。私も見たおぼえがある。むかし哲学者が住んでいたと書いたプレートが壁に打ちつけてありました。」
午前中、ホルバインの蒐集で名高いバーゼル美術館を見て、その足で早速ミュンスター教会の近くに行ってみた。バーゼルは小さい町である。人口20万、スイスではチューリッヒに次ぐ第二の都会だそうだが、べつに乗物に乗る必要はないのである。
ミュンスター教会はその濃い赤茶色のゴシックの尖塔を9月末の蒼天につき立てていた。
ボイムリ・ガッセはすぐ見つかった。左右を見ながらなだらかな坂を降りていくと、そこにあったのは、エラスムスが晩年の一年間を客人として過ごしたというプレートの打ちつけてある洒落た構えの家だった。小学生の先生も、ホテルの受付女も、ニーチェとエラスムスとを間違えていたことは確かだった。エラスムスは16世紀の人で、彼が死んでからすでに四百年以上たっている。この町におけるエラスムスとホルバインとの出会いを誇りに思っている人もいるらしく、美術館で買ったカタログにもそんなことが書かれてあるのをたったいま読んだばかりだった。
ホルバイン筆になるエラスムスの肖像は有名である。なるほどあれはこの町で描かれたのか、私が合点がいったが、それ以上の感慨はなかった。ボイムリ・ガッセはかなり広い通りで、しかも、目抜きの繁華街とミュンスター教会前の道路とを結んでいる重要な通りだから、町のひとびとはここをたびたび通り、なにやら妙なプレートが打ちつけられてある家をなにかの折に目にし、ニーチェであったか、エラスムスであったか、そんなことまでいちいち覚えていられないというところが真相だろう。
ヨーロッパの町には大抵、観光案内所という看板を掲げ、地図や絵などを張ったガラス張りの大きな事務所を町角にみかけるが、バーゼルにもそれらしきものは二、三あったから、昨日のうちにそこへ行って置けばすぐにでも分ったかもしれないが、なににしても今日は日曜日で、あらゆる店は扉をかたく閉めていた。どうにも仕方ない。案内所は日曜日にこそ開いているべきなのに、この古い、地味な、ドイツ風の町では、日曜はいかにも日曜らしく商店街はしんと静まりかえっている。
2004年11月24日
解説評論:エゴイズムを克服する論理
(これは私が35歳のときの評論です)
“弱さ”の集団化
私はここに掲載された福田恆存氏のロレンス論にさらにつけ加えてロレンスを解説する積りはないし、評論を評論したものをさらに評論しても仕方がない。また、ロレンスのこの『アポカリプス論』は右のごとき要約でとうていつくせないほど多様な内容に富み、とりわけ純粋自我たり得ない個人の救済を宇宙の根源に求めた壮大なコスモスへの論及は、福田論文によっても十分に触れられているとはいえない。
読者がこの貴重な一書を自ら手にし、人生の謎の解明に役立てることを強く希望するひとりだが、ただ以上で、福田氏が日本の現実のこれまで提起してきた主題のある主要部分がロレンスの『アポカリプス論』とどう内的につながっているか、それを私自身の問題意識を通じて暗示してみたかったまでである。福田氏もまた、安易な「純粋」というものにたえず猜疑の目を向けてきた人であった。日本人のエゴの弱さというものも折りにふれ弱点として指摘してきた。受験勉強にかまけていて、デモに参加しなかったことを秘かに「罪」として意識するような心的状態は、日本の知識人の少年期を襲う、ある傾向性の「原型」をなすものである。デモに参加する、しないなどは、政治的判断の問題であって、そもそも個人の罪意識とは関係がないのだが、これはほんの一つの例であって、われわれの社会にはこの種の不可思議な愛他的集団表象が個人に無言の圧力をかけている例は無数にある。その日本的な独特なエゴのあり方に加えて、西洋近代の自由、平等、民主主義の理念がその弱点を助長するかのごとくいわば癒着してあらわれているために、混乱はいっそうひどい。人間の弱さにそのまま善意と誠実をみたがる近代人一般の感傷は本当の意味で個人の純粋とは何であるかを求めてはおらず、あらゆるエゴイズムから自由であろうとする意志の、ほとんど不可能に近い無私への苦しさを自覚した人間の弱さというものから目をむけている結果ではないだろうか。一見、強さを誇示しているかにみえる福田氏の生き方は、むしろ、弱さが集団をなして無言の、強い圧力となって個人をおびやかしている日本の湿潤な精神風土のなかで、真に人間の宿命的な弱さを見つめようとしている人間にのみ特有の強い態度なのである。
ロレンスは次のように言っている。「民主主義はクリスト教時代のもつとも純粋な貴族主義者が説いたものである。ところが今ではもつとも徹底した民主主義者が絶対的貴族階級になりあがらうとしている。」「強さからくる優しさと穏和の精神――をもちうるためには偉大なる貴族主義者たらねばならぬのだ。」「ここに問題にしてゐるのは、政治的党派のころではない。人間精神の二つの型を言ふのである。」
弱さに甘え、それを売り物にする精神は、大衆支配の時代にはもっとも強い。それでいて自分がさほど弱くもなく、弱さに苦しんでもいないことを知りながらなお弱さを口にする。福田氏がロレンスから学び、もっとも忌避したのはそのタイプの精神であったろう。自分の真の弱さを氏っている者は自分の弱みを口にはしない。ただ、自分の弱さに耐えて立ちつくすのみである。
2004年11月22日
解説評論:エゴイズムを克服する論理
(私が35歳のときの評論です)
近代とエゴの処理
もとよりそれは日本の近代にのみ特有なことではない。それは自由と平等の理念の調和性を夢みたヨーロッパ近代の大きな特徴でもあった。自由の理念は、厳密に考えれば、必ずしも平等の理念と一致しはしない。自由と平等という相容れない二つの理念を同時にわがものとしようとした個人が、ために自分のエゴイズムの処理の仕方において失敗し、混乱している時代とも言えよう。ロレンスはこうした処理に対しなんらかの解決策を提示したのではない。ただ、問題の所在を明らかにしようとした。彼は個人の生き方の上での「純粋」が不可能だといっているのではない。だが、本当に純粋であるとは、他人や社会のことを自分よりつねに上位に置いてそこに良心を賭ける、というような他者への愛が、厳密にいえばイエスひとりにおいてのみなし得た人間の実現不可能事に近いのではないか、というぎりぎりの問を孕んでいることを確認したかったまでだろう。この世に純粋な個人はなく、イエスといえども、弟子の前で教えを説くときには支配し、支配されるという政治の力学、集団的自我から解放されることはなかった。われわれは純粋な個人たり得ない。われわれは他者を支配しようとする自分の内なる権力意志から自由にはなり得ない人間としての弱さを宿命的に秘めている。本当に純粋であることは、自由ということがほとんど成立不能に近いそうした個人的自我を正視していることであり、その弱さの自覚を通じてはじめて人間はなにほどかの強さを得る。現実の不公平、もしくは仮借なさに耐え得る人間としての生き方の強さの一面に触れることができる。もし最初から人間は愛他的な存在で、権力意志などからは自由な強い精神だという風に考えるとしたらそれは余りに楽天的に過ぎるだろう。また、権力に虐げられ、奪われている弱い人間にはもともと権力意志などは介在する余地はない善意の存在だと考えるとしたら、それはまったくロレンスの言っていることとは逆であって、彼はアポカリプスの「神の選民」のうちにむしろ弱者の自尊の宗教を見る。現世の保証が得られぬために、弱者の秘められた欲望はいっさいの地上権勢を拒否して、理想が満たさぬために理想がいっそう病的に純化された「呪詛の宗教」となってあらわれたのがアポカリプスの精神だと彼は見る。「奥義、大いなるバビロンの地の淫婦らと憎むべき者との母」そういう呪いの言葉は全世界に向って放たれ、黙示録として聖書のなかに忍びこんだ。中世期には、神の名による政治の力学の完璧な体系が成立していて、その歪みが表面に顕在化することはなかった。むしろ近代に入って、解放されたエゴイズムが自由、平等、博愛を掲げた近代のヒューマニズムの裏側にその姿をみせはじめるにつれ、黙示録に秘められていた人類への呪いは、しだいにあらわになる。なぜなら、自由や平等や民主主義は、エゴイズムを調節する政治の原理ではあっても、人間がエゴイズムから脱却するための原理ではなく、むしろそうした解脱をますます困難にする近代病の上に成り立っているからである。
2004年11月20日
解説評論:エゴイズムを克服する論理
(私が35歳のときの評論です)
罪意識と被害妄想
先日、筆者はNHKの「十代とともに」という番組に招かれ、六人の高校生と対話を交す機会をもった。いずれも高校紛争などを在学中に経験し、きまじめすぎるほどいろいろな問題について悩んでいる、いわば青春の唯中にある少年たちばかりで、そこで展開される純粋な論議に、私の高校時代とちっとも変っていない、やり切れないほどの罪意識の告白をきく思いがした。彼らは、例外なく、高校生活の間に自分のことばかりにかまけ、自分たちが共同社会への建設的な役割になんら寄与しないで終ってしまったことに独特な罪の意識をいだいている。受験にかまけ、デモに参加しなかったことへの罪意識。定時制高校生がなお少数でも存在する社会のなかで自分たちだけが受験に没頭できる特権への罪意識。私はほとんど口をはさむ余地がなかった。それは他をよせつけぬ一つの妄執のごときものであった。その罪意識はまた、独特な被害妄想と表裏一体をなしてもいる。彼らは優秀なエリート学生たちばかりだった。彼らが口にする、今はやりの「根源的」な問を、成程われわれは青春のはしかのごときものとして笑うことはできるだろう。彼らがまだ大人になっていない若さのせいに帰すこともできるだろう。事実、そういう青年たちに向かって、世間はたいてい、「君たちは若いね」というようなことばを向けるばかりであるが、そういう大人がなぜかふっきれない、後ろめたさのようなものを持った