西尾幹二のインターネット日録

歴史
2006年06月30日

帰国してみると梅雨(六)

 次の写真は澤コレクションの所蔵現場である。
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 約15000点に及ぶ一私人による蒐集と所蔵は、それ自体が偉大な仕事で、強い意志と情熱なくしては果し得ない業績である。

 蒐集には日夜古書店その他の渉猟、保存には夏に湿気を防ぎ、冬は乾燥を恐れ、言葉に尽くせぬご苦労らしい。

 今は全冊門外不出である。紙の摩滅と造本の解体が恐れられるからである。しかし永久保存と国民的利用という相容れない要請が迫ってもいる。

 澤コレクションは日本が日本人の心を取り戻し、真に甦るための量り知れないパワーを与えてくれる国民的財産である。

 PDFその他による科学的方法での永久保存と万人への開放とを同時に行うような政策が求められている。そのために必要なのは資金であり、かつ広範囲の各層の関心と声援である。

 これらの本の理解と評価によって、日本人は初めて8月15日の、占領軍によって押しつけられた裂け目を埋めることができ、歴史の連続性を回復することができるのである。

 焚書された7100冊はもとよりのこと、氏によってあらためて蒐められた周辺関連本の約10000冊がことのほかに重要である。たとえ国立国会図書館にそのうちの約7~8割が現存するとはいえ、われわれの日常の視界から消えてしまった本は存在しないに等しい。誰が図書館に通って古書の山を丹念に研究することができよう。

 インターネットで自由に検索し、解読し、あの時代の日本人の心を再体験する人が少しづつ増えてくることが何よりも必要である。

 澤氏はその切っ掛けを与えてくれた。日本人が日本人であるための魂の蘇生に戦後60年にして一番大きな仕事を果したのは澤氏であったということになるだろう。一層のご研鑽と蔵書の維持努力への尽きせぬご配慮を祈りたい。


(了) 
     

2006年06月29日

帰国してみると梅雨(五)

 鎌倉駅に向かう帰路、雨は上っていた。

 澤氏の『総目録GHQに没収された本』によると、GHQが初回に没収した10冊のうち9冊は毎日新聞社刊、1冊が朝日新聞社刊である。また出版社別で一番多いのが朝日新聞社刊140冊、次いで多いのが毎日新聞社刊81冊である。

 あの時代に戦争の旗を振っていたのはどの勢力であったかがよく分る話である。けれどもGHQに真先に、最も敵視されていたのは名誉なことでもある。当時の日本の国家意思を代表した言論機関だった証拠でもある。

 日本は明治の開国以来、近代国家として国際社会を独立独行して歩んだことは間違いない。日英同盟はあったが、英国に外交主権を委ねていたわけではない。たとえ敗戦の憂き目を見たとしても、敗戦の決断もまた自己判断であった。

 しかし8月15日を境いにパラダイムは一変した。日本は目を覚ましたのではなく、目を鎖したのである。自分で判断し、行動することを止めた。主権を外国に委ねてしまったからである。

 8月15日より以前の日本人の心の現実を見直す時代が今来ているのである。遅きに失する嫌いさえある。

 日本人の歴史はいまだ書かれていない。歴史は過去の事実がどうであったかを今の地点から確かめる作業ではなく、過去の人間がどう考え、どう感じていたかを再体験する作業である――少くともそこから始まる。

 私がGHQ焚書本に注目しこれを知りたいと思ったのは、「現代史」を書きたいと秘かに念じたからである。冷戦崩壊後ソ連から一時かなりの資料が解禁され、アメリカの公文書館からも少しづつ(対ドイツ戦に比べれば遅れているが)、戦時資料が公開され、われわれも次第に複眼を得るようになった。

 ここで昭和初年から20年までの日本人の世界認識、日本人の戦争への覚悟がどう表現されたかを知り、三番目に今までの戦後の日本人の思想をこれらに加え、三本柱で歴史は書き直さるべきだと思っている。

 一番目については、2年くらい前から若い友人柏原竜一氏にインテリジェンスの世界を中心に、アングロサクソンの考え方をめぐって、書籍の紹介や知見のご披露をもって私の蒙を拓いてもらっている。私がなかなか呑みこみが悪く、彼を苛立たせているのが現実だが、これは見通しが立っている。

 しかしどうしても接近がむづかしいのが2番目の文献である。GHQ焚書図書がそれである。自分に残された人生の時間と生命力とをも考慮して、どのように解明に当るべきかを思案中である。

 私は歴史家ではない。大きな規模の叙事詩を書きたい。正確をめぐる諸論争にまきこまれたくない。人間として生きた日本人の心の歴史を書きたい。

 例えば焚書図書の中で私が拾い出し、これは本物だと思って今熱心に読んでいるのは谷口勝歩兵上等兵『征野千里――一兵士の手記――』(昭13)という、完全に忘れられた一冊である。私の目指している方向をお察しいただけたら有難い。

つづく

2006年06月28日

帰国してみると梅雨(四)

 私の見た範囲でさえ焚書図書の多くが幕末に日米戦争の起点を見ている話をしたら、澤さんは面白がった。林房雄の百年戦争史観は私より歳上の世代には、戦前・戦中から説かれたむしろありふれた、きわめて一般的な視点であったわけだが、その割に当時の言論人が私たちの世代にこの点を教えてくれなかったのが今思うと不思議でならない。

 私の記憶では、小林秀雄も河上徹太郎もたしか「林君は作家として誠実に振舞ったことを疑わない」というくらいの友情応援の言葉であったように思い出される。福田恆存も何も語らなかった。

 「そうなんです。そこが問題なんですよ。」と澤さんは言った。彼は昭和15年生れで、戦後の記憶は確かである。

 焚書図書の蒐集をしていて、数多くの著者の叙述に触れて、彼が感心した一点は次のようなことだったという。

 「歴史には焚書坑儒の例は数多くありますよね。書いた文章や書籍がいつの日か廃棄され、著者の名が辱しめられるかもしれない。そういうことを予感して、いざというときの難を避けるための口実、弁明できる一言をどこかに挟んでおく――そういうことを誰ひとりやっていないんですよねぇー。」

 「成程、きっとそうですね。敗北を前提にして書いている人は一人もいなかったんでしょうね。そうだと思います。『米英挑戰の眞相』(大東亞戰爭調査會編)という本に、対日包囲陣の規模と内容が詳しく、合理的に書かれてあるのを今度読んだんですが、叙述に恐怖がみじんもないんですよ。」

 「個人としても、国家としても、恐怖やたじろぎがないんでしょう。立派ですよねぇ。今から考えると不思議でもありますが。」

 「私は戦後にむしろこんな経験があるんです。」と私は60年安保より数年前のことを思い出して言った。「私が大学に入学したのは昭和29年ですが、当時は共産主義革命が明日にも起こるかっていう時代で、私は大学のクラスメイトに<人民裁判でお前を死刑にしてやる>と言われたのを覚えています。そういう時代だったんですが、保守系の文学者や思想家の発言のところどころに、いざというときの難を避けるための口実、革命派に媚を売る一言、あとで弁明できるような文言をこそっと入れている例をよく見掛けました。私は、何だ、こいつ卑怯だな、と思ったものです。有名な人にそういう例が多かった。竹山道雄と福田恆存には絶対にこれがなかったんです。」

つづく

2006年06月27日

帰国してみると梅雨(三)

 昭和8年―19年当時の本は私の父の書棚にもあったし、戦後もしばらく古書店ではいくらも目撃されていたはずだが、占領軍によって流通を止められ禁書扱いされたので、私が読書年齢に入ったときにはすでに私の視野の中には入っていなかった。

 今度わずか50冊ほど見ただけでいくつもの発見があった。アメリカとの戦争を主題にした本が7冊あった。うち5冊は歴史を扱っている。面白いことに気がついた。

 戦争に至るまでのアメリカとの交渉を歴史に求めている著者たちは、大抵幕末にまで遡っている。ペリーの浦賀来航に「侵略」の起点を見ている。

 なかには昭和15年10月刊の『日米百年戦争』(アメリカ問題研究所編)という本があって、歴史を見る尺度をもっと大きく取っている。ポルトガル、スペインの地球制覇の野望に欧米文明の危険の萌芽を見ている。アメリカとの百年戦争をヨーロッパとの五百年史の内部に位置づけようとしている。

 今でこそこういう広角度の見方は再び少しずつ広がり、定着しつつあるけれども、戦後和辻哲郎の『鎖国』が評価されていた一方的空気を思い起こしてほしい。歴史の見方は全然逆だった。日本は鎖国していたから科学精神に遅れた。ポルトガル、スペインに門戸を鎖した日本の内向きの姿勢にむしろ歴史の失敗がある。封建主義と軍国主義との悪しき根がここにある、と。

 戦争をほんの少し知っている私の年代でさえ、こういう歴史観を植え付けられていて、長期にわたる欧米の侵略を見ないで、戦争の原因を短い時間尺度に、しかも自国の歴史の内部に求める習慣にならされていた。

 28-29年の頃、林房雄『大東亜戦争肯定論』が幕末からの百年戦争を説いているのを『中央公論』連載時に知って、非常に新鮮で、かつ危ういものに思った。100年という時間の取り方が当時の私には初めて見る大胆な見方だったからである。

 だが、今度GHQ焚書図書の約50冊を見て、「百年戦争」のモチーフは私より歳上の世代には新鮮でも何でもなかったという、ごくありふれた尺度だったことに気がついた。なぜなら日米戦争を幕末から説き起こし、ペリーの来航にアメリカの「侵略」の第一歩を見るのは、以上に挙げた通り、戦前・戦中の本ではごく普通の慣行だったことを今度初めて知ったからである。

 GHQによる焚書はやはり小さくない出来事だったのだ。私の若い頃の歴史を見る目の誤差をすでに引き起こしていたのである。

つづく

2006年06月26日

帰国してみると梅雨(二)

 澤氏によると焚書図書は従来の目録の間違いもあって確かなところは総数約7100冊である。うち6100冊はページ数などを確認ズミ、さらにそのうち約5000冊を所蔵しているという。6100から5000を引いた1100冊は国立国会図書館で確認し得たものである。

 国立国会図書館は焚書図書の約7ー8割を保存していると彼は推定している。焚書を免れたのか、長い戦後史の期間に補充買いしたのか、詳細は分らない。澤さんが所蔵し図書館にないものもあるし、その逆もあるようだ。

 25日午後、鎌倉は雨だった。鶴岡八幡宮から海の方へ歩いて、お宅はすぐに見つかった。日本人の視界から姿を消した昭和20年までの大量の本がご自宅の生活の場につながる空間に、アイウエオ順で整然と収められていた。作りつけられた書棚は天井まで幾つも並び、人間がやっとひとり通れる隙間が何本か通路をなしている。

 じつは私も気がついていて、今度の論文で言及しているのだが、焚書はされなかったもののほゞ同質同内容の、周辺関連文献がある。澤さんはそれらも蒐めてこれは約10000点に達していると聞いて、見れば小さな色紙の付箋で区別して保管されている。10000点という数に驚いた。

 例えばある10冊の全集や叢書のうち1冊が焚書され、9冊がそうでないようなケースが見られた。しかし不思議なのは、なぜその1冊が選ばれたか基準が分らない。他の9冊のほうがGHQからみてずっと危険だと思われる場合もあるのだが、占領軍の没収の方針もずいぶんいい加減だったんですね、と二人で話し合った。

 澤氏は『総目録GHQに没収された本』を昨年上梓されたが、『GHQの没収を免れた本』という新しい目録を近く世に出したいとかで、作業中の大冊のノートをみせていたゞいた。

つづく

2006年06月25日

帰国してみると梅雨(一)

 6月5日からイギリスを旅行していた。「続・つくる会顛末記」が毎日少しづつ掲示されていた間、スコットランドをゆっくり見て南にくだり、(七)の2で全部終った日に私はロンドンにいた。

 イギリスの旅の印象についてはまた機会を別にしたいが、季節外れの猛暑で、16日午前9時に成田に着いてみると、予想していた通り雨が降っていた。

 午後3時家に帰り、30時間眠らないで時間差をやりすごした。それから9時間寝て、17日から20日の午前6時まで寝たり起きたりしながら、『諸君!』8月号に反論論文を書いた。題は編集部がつけた。「八木君には『戦う保守』の気概がない」(32枚)

 もうこれで勝敗はついたと思う。すべてを終りにしたい。こんな仕事にいつまでもかまけている時間はもうない、と不図気がついた。

 論争文はこれまで数多く書き慣れて来たが、旅から帰った直後であるから気力と体力への不安が少しあった。

 留守中のネット情報を読むのに一日かかったし、〆切り時間制限が絶対だからどうなるかと心配だったが、まだ今回は大丈夫だったことが保証された。私は私の体力に(知力にではない)、お前よくやるなァ、とそっと呼びかけている。

 旅に出る前に「続・つくる会顛末記」の原稿をたくさん書いて長谷川さんに託して行ったわけだが、じつは同じ時期にちょっと新しい仕事に手を付けている。22枚の論文「GHQが隠蔽した『戦前の日本人の世界認識、戦争への覚悟』」を、みなさんはびっくりすると思うが、小林よしのり編集『わしズム』夏号(7月19日発売)に書いて、旅行中にゲラが組み上がっていた。小林さんにはまだ会っていないが、彼からの依頼原稿に応じたのである。ここにも私が「つくる会」から離れた行動の自由が現れている。

 GHQによる焚書図書は約7100冊あると推定され、うち約5000冊は澤龍氏のコレクションに所蔵されている。

 これとほゞ等量の、焚書からは漏れたが、大略同内容の、昭和8年頃から19年頃までの、今は誰も省みない図書が同氏のコレクションに蒐められている。帰国すると同氏から葉書を頂き、後者をどう考え、どう扱ったらよいか相談にのってもらいたいというので、早速電話し、25日(日)鎌倉のお宅のコレクションの現場に伺うことになっている。

 氏のコレクションとは別にGHQ焚書図書を今までに約600冊蒐集しておられる方がいる。私が『わしズム』原稿に利用させてもらったのはこのうちの約30冊である。他に私自身が国会図書館からのコピーで約20冊分を持っている。

 焚書と非焚書の両方で合計10000点以上になるこれらの本を私ひとりで探求できるわけがない。私が可能な限り検証し、この未知の、日本人が置き去りにした歴史の秘宝の山への登山口を切り拓くくらいのことしか出来ないだろう。これにはある出版社がすでに本にしたいという声をあげてくださっている。

 私を取り巻く環境は最良の条件で整っているのだが、今度『わしズム』に書くために少し勉強して、私はにわかに不安になっている。なにしろジャングルに無防備で単身わけ入るような暴挙に思えてならないからだ。この夏600冊のコレクションをまず徹底的に読みこんで、それからゆっくり案をねろう、と今考えている。はたして理想的なことができるかどうかが不安である。チーム編成で組織的に取り組まないと解明は難しいと思う。個人でどれくらいのことが出来るかなァ、と予想もつかない規模に戸惑っている。

 日本人はなぜこんな大事な文献を放棄してきたのだろう。とりあえずは『わしズム』夏号をお読み頂きたい。

つづく

 6/26 一部改変

2005年09月18日

ヨーロッパ人の世界進出(一)(二)(三)

 昨年2月から毎月1回のペースで10回行われた『歴史教科書 10 の争点』という連続講座が本になった(徳間書店刊)。

 聖徳太子(高森明勅)、大仏建立(田中英道)、ヨーロッパの世界進出(西尾幹二)、江戸時代(芳賀徹)、明治維新(福地惇)、明治憲法(小山常実)、日露戦争(平間洋一)、二つの全体主義(遠藤浩一)、昭和の戦争(岡崎久彦)、占領下の日本(高橋史朗)が10の講座の内容で、人選とテーマ設定のコーディネーターは藤岡信勝氏であった。

 私は昨年4月8日に文京区シビックホールで300人くらいの会衆の前で上記テーマについて話をさせてもらった。その内容が今度の本に収録される。

 それに先立って、つくる会機関誌『史』(ふみ)の平成16年にこのときの講演の要約文がのせられた。要約文とはいえ、きちんと手をいれ、これはこれで独立した文章としてまとまっているように思うので、ここに再録する。

 『国民の歴史』第15章の「西欧の野望・地球分割計画」が念頭にあるが、後半で同書にも、教科書にも書かれていない新しいテーマに触れた。ヨーロッパの世界進出がまだ終っていないのは政治的理由によるのではなく、後半で述べられたこの新しいテーマによる。

ヨーロッパ人の世界進出

ヨーロッパ近代の本質とガリレオ・デカルト的思考の恐怖
名誉会長 西尾 幹二

■西洋はなぜアジアを必要としたのか

 15世紀まで無力だったヨーロッパはなぜかくも急速にアジアへ進出することが可能だったのでしょうか。

 ポルトガルはアフリカの南海岸を南下してアジアをめざし、スペインは大西洋を西へ西へと回って西インド諸島を発見、コロンブスがその代表としてアメリカ大陸発見ということになった。なぜポルトガルは南に行き、スペインが西へ行ったのか。

 彼らはジパングやインドを求めてきたのですから、地中海を東へ渡って陸路を来るのが近道だと思うのですが、それができなかったのは、当時、地中海がイスラム勢力に完全に制圧されていて、通行不能だったためです。しかし、全ての教科書はヨーロッパの進出をヨーロッパ文明の世界への展開という見地で書いており、扶桑社版の『新しい歴史教科書』のみが、ヨーロッパはイスラム勢力を迂回し南と西へ進んだという事実をはっきり書いています。

 当時の世界の中心は東南アジアでした。スペインやポルトガルがこの地域一帯を支配していたなどという事実は全くありません。それもまた多く誤解されている点で、ヨーロッパの世界制覇ということは現実には行われていなかったのですが、彼らの観念、頭の中では世界征服の地図はでき上がっていました。それがトリデシリャス条約で、大西洋の真中に南北に線を引き、ポルトガルとスペインが地球を二つに分割する協定をローマ教皇庁が承認しています。

 当時、ヨーロッパは本当に狭い地域におさえこまれていました。イベリア半島のイスラム勢力をやっとの思いで追い出した年が1492年、ちょうどコロンブスがアメリカ大陸を発見した年です。
ヨーロッパはたいへん遅れた地域でした。14、5世紀、生産性は低く、科学技術は遅れ、内乱と宗教的迷信に支配される、考えられないほど野蛮な地域でした。「ローマの平和」と言われた古代の時代が過去にありましたが、それが過ぎてから千年にわたるヨーロッパの歴史の中で十年以上平和だったことは一度もありません。

 なぜヨーロッパ人はかくも戦うことを好み、武器の開発に凌ぎを削り、順次東へ進出してきたかというと、故国にお金を送るため、ヨーロッパの中で果てしない戦争を繰り広げるための戦費が必要だったからです。そのために、アジアに進出してアジアの富を攻略することが急務だった。

 当時、ヨーロッパの横にはロシアのロマノフ王朝、西アジアのオスマントルコ帝国、インドのムガール帝国、そして東アジアの清帝国という四つの大帝国があり、それぞれが大きな枠の中に安定して存在していて、一種の世界政府でした。このうちロマノフ王朝だけはヨーロッパ文明側にくっついていきますが、オスマントルコ、ムガール、清は一六世紀から一八世紀くらいの間に次々と西ヨーロッパの餌食となってしまうのです。アジアの大帝国は西洋よりも遙かに豊かで進んでいた国であり、近代を生み出したとされる三大発明、火薬、羅針盤、印刷術は中国を起源とします。中国科学の方がはるかにヨーロッパに優越していました。

 つまり、西洋はアジアを必要としていたのに、アジアは西洋を必要としていなかった。物は豊富で政治は安定し、帝国の基盤は盤石で何一つ不足はないかに見えたその三つのアジアの大帝国。しかし、何故に遅れていた西ヨーロッパがアジアに勝る状況を生み出してしまったのか。

ヨーロッパの世界進出(二)

■ヨーロッパの二重性

 まず政治的・社会的な原因を考えてみましょう。アジアの四つの帝国は大きな世界政府がそれぞれブロックをなして、静的に存在していたという風に考えられる。

 ところが、ヨーロッパはひとつではなかった。ヨーロッパは内部で激しい戦争を繰り返し、経済・軍事・外交の全てを賭けて覇権闘争がまずヨーロッパという所で行われ続け、その運動がそのまま東へ拡張された。

 中心に中国があり、周りの国が朝貢して平和と秩序が維持されているという古い東アジアの支配統治体制においては考えられない出来事が起こってきました。ヨーロッパでのヘゲモニー(主導権)を巡る争いと、他の地域への進出のための争いとが同時並行的に運動状態として現れ、それが18世紀の中頃以降さらに熾烈を極め、終わりなき戦いは地球の裏側にまできて、決定的果たし合いをしなければ決着がつかなくなるまでになった。19世紀になって帝国主義と名付けられる時代となり、今まで動かなかった最後の砦である中国を中心とする東アジアに争奪戦は忍び寄ったというのが、今まで私たちが見てきた歴史です。

 1800年には地球の陸地の35%を欧米列強が支配しており、1914年、第一次世界大戦が始まる頃にはその支配圏は84%にまで拡大しました。日本の明治維新は1800年と1914年の第一次世界大戦とのちょうど中間にあたる時期に起きた出来事です。拡大するヨーロッパ勢力に対する風前の灯であった日本の運命が暗示されております。

 戦うことにおいて激しいヨーロッパ人は、戦いを止めることにおいても徹底して冷静です。利益のためには自国の欲望を抑え、相手国と協定や条約を結ぶことも合理的で、パっと止めて裏側に回って手を結ぶ。そういうことにも徹底している。しかし、日本人にはこの二重性が見えない。実はこれが国際社会、国際化なのです。

 ある時、欧米人は満州の国際化ということを言い出しました。「満州は日本政府だけが独占すべきものではなくて、各国の利益の共同管理下に置くべきだ」と。国際化というのはそういう意味なのです。では、日本の国際化というのはどういう意味ですか。日本人は無邪気にずっと「日本の国際化」と言い続けていますが、「どこかの国が占領してください」「どこかの国が共同管理してください」と言っているようなものです。間が抜けて話にならない。つまり国際化というのは、西洋が運動体として自分の王家の戦争のためにやっていたあの植民地獲得戦争が、もうヨーロッパの中で手一杯になってしまったから外へ持っていく。それが彼らの言う国際化、近代世界システムなのです。

ヨーロッパ人の世界進出(三)

■自然の数学化というデカルトとガリレオの考え方

 しかし、それだけが全てでしょうか。ここには社会学的、政治学的、心理的、宗教的な原因だけでは説明できない何か別のものがある。私は心の中でどこかやはり西洋に恐怖がある。この程度の政治的な自我葛藤闘争の巧みさに恐怖を抱いているのではありません。実は私がずっと西洋を勉強してきて抱いている恐怖は、ガリレオとデカルトです。

 ガリレオとデカルトは、全ての自然物から感覚上の性質をはぎ取ってしまい、物体というものを大きさと形と位置と運動という幾何学的、数学的な方程式に置き換えることで世界を説明しました。この思考形式がものすごいスピードで発展してきました。そして臆面もなく今日の社会、世界に君臨しています。
ガリレオはある物体をイメージとして描く場合に、大きさ、形、位置、運動、このことだけで全て説明できると言っている。その物質が白いか赤いか、音を出すか出さないか、甘いか苦いかなど、そういう性質は人間の感覚主体の中に存在するに過ぎず、感覚主体が遠ざけられると、それらの諸性質は消え失せてなくなってしまうという。それは人間が生きているから、そういうものを感受する主体があるから存在するのであって、真に実在するものは、数学的、幾何学的な数値に還元されるもので、それ以外のものは存在しない、と。

 これは、ガリレオがデカルトと共に発見した世界を数学の方程式に置き換えるもので、デカルトに至っては、人間の身体もまた物であって、身体の感覚、例えば手足の痛みも手足の中にあるのではなく精神の中にあるとしている。

 しかし哲学的には、バークレー、ヒューム、カントが出て、デカルトやガリレオの考え方はあり得ないとしてすぐに否定されてしまいましたが、この自然の数学化という思考は哲学的には論駁されたにも関わらず、我々の日常の暮らしの世界にドカっと居座って、独立した自然科学の方法として一人歩きを始めました。

 感覚的、人間的諸性質を人間的あいまいさから切り離して、そういうものは人間の主観の中にあるのだと言って閉じこめて、別個これを切り離してしまう措置は科学にとってこの上ない便利な方法でしたから、かくて自然は死物として線引きされ、数値化されて、その死物世界が客観世界として有無を言わせぬ勢いで人間の目の前に突き戻され、それ自体が知らぬ間にどんどん肥大化して発展していく。最近は宇宙開発どころか、ナノテクノロジーというような訳の分からないものが出現して現実に実用化するという。

 ところが、これは全部目に見えない話なのです。一層の細分化と一層の遠方化へ、そして人間の身体も分解して物体化し、やがて人間の精神もまた脳生理学の対象として物質の法則に還元される。自然、人間の身体、精神などが長い歴史の中でこのように乱暴に扱われたことは、過去において一度もなかった。幾何学的自然科学の専横です。

 ガリレオやデカルトが言っていることは全部間違いだったのですが、実際にはコンピューターのグラフィックデザインが次々と物を作り出している。火薬と羅針盤と印刷術を発見した中国の科学は、ガリレオとデカルトにやられてしまったのです。そういうヨーロッパ人の世界進出の根本の問題がここにもうひとつあるということを、我々は考えておかなくてはいけないのではないでしょうか。

(4月8日、つくる会連続講座「歴史教科書・10の争点」より)

 ガリレオとデカルトと歴史との関わりについて私見をより詳しく知りたい方は、拙著「歴史と科学」(PHP新書)の第2章をご覧ください。この第2章は秘かに自信を抱いている一文である。

2005年08月07日

ヨーロッパ人の世界進出(二)


■ヨーロッパの二重性

 まず政治的・社会的な原因を考えてみましょう。アジアの四つの帝国は大きな世界政府がそれぞれブロックをなして、静的に存在していたという風に考えられる。
ところが、ヨーロッパはひとつではなかった。ヨーロッパは内部で激しい戦争を繰り返し、経済・軍事・外交の全てを賭けて覇権闘争がまずヨーロッパという所で行われ続け、その運動がそのまま東へ拡張された。

 中心に中国があり、周りの国が朝貢して平和と秩序が維持されているという古い東アジアの支配統治体制においては考えられない出来事が起こってきました。ヨーロッパでのヘゲモニー(主導権)を巡る争いと、他の地域への進出のための争いとが同時並行的に運動状態として現れ、それが18世紀の中頃以降さらに熾烈を極め、終わりなき戦いは地球の裏側にまできて、決定的果たし合いをしなければ決着がつかなくなるまでになった。19世紀になって帝国主義と名付けられる時代となり、今まで動かなかった最後の砦である中国を中心とする東アジアに争奪戦は忍び寄ったというのが、今まで私たちが見てきた歴史です。

 1800年には地球の陸地の三五%を欧米列強が支配しており、1914年、第一次世界大戦が始まる頃にはその支配圏は八四%にまで拡大しました。日本の明治維新は一八○○年と一九一四年の第一次世界大戦とのちょうど中間にあたる時期に起きた出来事です。拡大するヨーロッパ勢力に対する風前の灯であった日本の運命が暗示されております。

 戦うことにおいて激しいヨーロッパ人は、戦いを止めることにおいても徹底して冷静です。利益のためには自国の欲望を抑え、相手国と協定や条約を結ぶことも合理的で、パっと止めて裏側に回って手を結ぶ。そういうことにも徹底している。しかし、日本人にはこの二重性が見えない。実はこれが国際社会、国際化なのです。

 ある時、欧米人は満州の国際化ということを言い出しました。「満州は日本政府だけが独占すべきものではなくて、各国の利益の共同管理下に置くべきだ」と。国際化というのはそういう意味なのです。では、日本の国際化というのはどういう意味ですか。日本人は無邪気にずっと「日本の国際化」と言い続けていますが、「どこかの国が占領してください」「どこかの国が共同管理してください」と言っているようなものです。間が抜けて話にならない。つまり国際化というのは、西洋が運動体として自分の王家の戦争のためにやっていたあの植民地獲得戦争が、もうヨーロッパの中で手一杯になってしまったから外へ持っていく。それが彼らの言う国際化、近代世界システムなのです。

2005年08月05日

ヨーロッパ人の世界進出(一)

 昨年2月から毎月1回のペースで10回行われた『歴史教科書 10 の争点』という連続講座が間も無く本になる(徳間書店刊、定価未定)。

 聖徳太子(高森明勅)、大仏建立(田中英道)、ヨーロッパの世界進出(西尾幹二)、江戸時代(芳賀徹)、明治維新(福地惇)、明治憲法(小山常実)、日露戦争(平間洋一)、二つの全体主義(遠藤浩一)、昭和の戦争(岡崎久彦)、占領下の日本(高橋史朗)が10の講座の内容で、人選とテーマ設定のコーディネーターは藤岡信勝氏であった。

 私は昨年4月8日に文京区シビックホールで300人くらいの会衆の前で上記テーマについて話をさせてもらった。その内容が今度の本に収録される。

 それに先立って、つくる会機関誌『史』(ふみ)の平成16年5月44号にこのときの講演の要約文がのせられた。要約文とはいえ、きちんと手をいれ、これはこれで独立した文章としてまとまっているように思うので、ここに再録する。

 『国民の歴史』第15章の「西欧の野望・地球分割計画」が念頭にあるが、後半で同書にも、教科書にも書かれていない新しいテーマに触れた。ヨーロッパの世界進出がまだ終っていないのは政治的理由によるのではなく、後半で述べられたこの新しいテーマによる。

ヨーロッパ人の世界進出

ヨーロッパ近代の本質とガリレオ・デカルト的思考の恐怖

■西洋はなぜアジアを必要としたのか

 十五世紀まで無力だったヨーロッパはなぜかくも急速にアジアへ進出することが可能だったのでしょうか。

 ポルトガルはアフリカの南海岸を南下してアジアをめざし、スペインは大西洋を西へ西へと回って西インド諸島を発見、コロンブスがその代表としてアメリカ大陸発見ということになった。なぜポルトガルは南に行き、スペインが西へ行ったのか。

 彼らはジパングやインドを求めてきたのですから、地中海を東へ渡って陸路を来るのが近道だと思うのですが、それができなかったのは、当時、地中海がイスラム勢力に完全に制圧されていて、通行不能だったためです。しかし、全ての教科書はヨーロッパの進出をヨーロッパ文明の世界への展開という見地で書いており、扶桑社版の『新しい歴史教科書』のみが、ヨーロッパはイスラム勢力を迂回し南と西へ進んだという事実をはっきり書いています。

 当時の世界の中心は東南アジアでした。スペインやポルトガルがこの地域一帯を支配していたなどという事実は全くありません。それもまた多く誤解されている点で、ヨーロッパの世界制覇ということは現実には行われていなかったのですが、彼らの観念、頭の中では世界征服の地図はでき上がっていました。それがトリデシリャス条約で、大西洋の真中に南北に線を引き、ポルトガルとスペインが地球を二つに分割する協定をローマ教皇庁が承認しています。

 当時、ヨーロッパは本当に狭い地域におさえこまれていました。イベリア半島のイスラム勢力をやっとの思いで追い出した年が1492年、ちょうどコロンブスがアメリカ大陸を発見した年です。
ヨーロッパはたいへん遅れた地域でした。14、5世紀、生産性は低く、科学技術は遅れ、内乱と宗教的迷信に支配される、考えられないほど野蛮な地域でした。「ローマの平和」と言われた古代の時代が過去にありましたが、それが過ぎてから千年にわたるヨーロッパの歴史の中で十年以上平和だったことは一度もありません。

 なぜヨーロッパ人はかくも戦うことを好み、武器の開発に凌ぎを削り、順次東へ進出してきたかというと、故国にお金を送るため、ヨーロッパの中で果てしない戦争を繰り広げるための戦費が必要だったからです。そのために、アジアに進出してアジアの富を攻略することが急務だった。

 当時、ヨーロッパの横にはロシアのロマノフ王朝、西アジアのオスマントルコ帝国、インドのムガール帝国、そして東アジアの清帝国という四つの大帝国があり、それぞれが大きな枠の中に安定して存在していて、一種の世界政府でした。このうちロマノフ王朝だけはヨーロッパ文明側にくっついていきますが、オスマントルコ、ムガール、清は16世紀から18世紀くらいの間に次々と西ヨーロッパの餌食となってしまうのです。アジアの大帝国は西洋よりも遙かに豊かで進んでいた国であり、近代を生み出したとされる三大発明、火薬、羅針盤、印刷術は中国を起源とします。中国科学の方がはるかにヨーロッパに優越していました。

 つまり、西洋はアジアを必要としていたのに、アジアは西洋を必要としていなかった。物は豊富で政治は安定し、帝国の基盤は盤石で何一つ不足はないかに見えたその三つのアジアの大帝国。しかし、何故に遅れていた西ヨーロッパがアジアに勝る状況を生み出してしまったのか。

2005年04月30日

「大学入試センター試験訴訟」のその後

お知らせ

 月刊誌6月号の私の評論は

(1) アメリカとの経済戦争前夜に備えよ
     『正論』(短期集中連載第4回終篇)45枚

(2) 韓国人はガリバーの小人
     『Voice』22枚

 
 (1)は私にしては珍しい経済文明論である。日本の資本主義は何であったか、またこれからどうあるべきか、というこのテーマは今後さらに切り拓いていきたい。さもないとわれわれの現代史は見えない。政治や外交だけがすべてではない。

 6月号各誌をみると、中国暴動への言及が花ざかりである。毎月みんなと同じ声をあげるのも芸がないから、連載の終回はきちっと自分のテーマで締めた。

 (2)は抱腹絶倒篇である。韓国人は怒髪天を突くかもしれない。でも、真実である。

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「大学入試センター試験訴訟」のその後

 平成16年の大学入試センター試験の世界史の問題で「日本統治下の朝鮮」において「第二次大戦中、日本への強制連行が行われた」を唯一の正答とする出題に対し、それは歴史事実に反し、受験生に不当な思想統制を行うものである、という疑問や批判が提出された事件があったことを覚えている人も多いだろう。

 この件では大学一年生になったばかりの7人の学生が同年7月7日、大学入試センターを東京地裁に提訴したところまでお伝えした。拙著『日本がアメリカから見捨てられる日』(徳間書店)所収の「受験生が裁判所に訴え出た大学入試センター試験」に詳しい説明がある。

 その後の状況を報告すると、裁判所では、原告本人の話を聞くことにしたいと3人の在京の学生を6月7日に召喚し、約1時間発言を許すこととなった。近頃の勇気ある学生の行動に拍手し、幸あれと祈りたい。

 「強制連行」は高校のすべての歴史教科書にのっているから出題は違法ではないと被告の大学入試センターは言い張っていたが、「新しい歴史教科書をつくる会」の調査で29冊のうち12冊の高校教科書に「強制連行」の記述のないことが明らかにされていた。

 すると入試センター側は主張を変え、受験生は中学時代にこの事実を教科書で学んでいたはずである、中学の教科書にはすべてのっている、だから自分らに責任はない、というとんでもない詭弁をひねり出してきた。

 悪いのは中学の教科書の検定にあり、国に責任があり、大学入試センターや出題者には責任がないという、これまた笑うべき遁辞を述べ立ててきているそうである。

 教科書が悪いのは検定のせいで、すべて国の検定に責任がある、とはつねづねの私共の主張ではあるが、それを理由に大学入試センターという「公」の機関が責任逃れを言い出すに至っては、小役人を風刺したゴーゴリの『検察官』をも思い出させる喜劇の一幕を見る思いがする。

2004年09月13日

日本人の自尊心の試練の物語 (六)

 ――戦後世代が陥った「第2の敗戦」――

 戦争が終わって不思議なことが起こった。各地で相当数の日本人が自決したが、内乱はなかったし、大量の集団自決も起こらなかった。米軍進駐が始まっても国民生活は平静で、波乱がない。

 「愛国心」の象徴だった国民服が姿を消す。「夷狄(いてき)」の言葉であった英語が氾濫(はんらん)する。「国体」と相いれないはずのデモクラシーが一世を風靡(ふうび)する。あっという間だった。北海道から鹿児島までの主要都市には民間人殺戮(さつりく)を目的とした執拗(しつよう)な絨毯(じゅうたん)爆撃があったし、二個の原爆投下がありながら、アメリカへの復〈心は燃え上がらなかった。

 これを奇蹟(きせき)としたのは英米など連合軍の側であった。血で血を洗う国内の殺戮混乱なくして日本の降伏は治められまいと、恐怖と緊張をもって上陸した占領軍は、あっ気にとられた。天皇の詔勅の一声で、たちまち林のごとく静かに、湖のごとく冷たく、定められた運命に黙然と服する日本国民の姿を見た。

 占領軍はこの静かなる沈黙にむしろ日本人の内心の不服従を予感した。敗戦の現実に対する日本人の認識の甘さが原因だと読んだ。戦争の動機に対する自己反省の不足が、内的平静さの理由だとも考えた。日本人は白旗を掲げたが、敗北したと思っていないようだ。日本人に「罪の意識」を植えつけなくてはならぬ。現に『タイムズ』はそう論じた。南京とフィリピンにおける日本軍の蛮行という占領政策プロパガンダが、新聞やラジオを使って一斉に始まるのは、終戦から三カ月程経ってからであった。

 日本国民の内心の「不服従」はある程度当たっているかもしれない。大抵の日本人はアメリカ、イギリス、フランス、オランダ、ソ連という主たる交戦相手国に「罪の意識」を抱かなかったし今も抱いていない。日本の戦争が一つには自存自衛、二つにはアジア解放であったことを戦後のマスコミの表にこそ出ないが、あの時代を生きた日本人の大半はよほどのバカでない限り知っていた。

 たとえ歴史の教科書に、平和の使徒アメリカが侵略国家の日本を懲らしめるために起ち上がったのがあの戦争だという「伝説」が語られていても、米ソ冷戦下で、アメリカの庇護に頼っている日本人は、まあ仕方がない、好きなように暫(しばら)く言わせておけよ、という二重意識で生きていて、本気にはしていなかった。

 戦後の経済復興をなし遂げたモーレツ社員、産業戦士はみなその意気込みだった。まさか自分の子供の世代が、日教組の影響もあって、この大切な二重意識を失ってしまうとは思わなかった。子供たちが教科書にある通りに歴史を信じ、日本を犯罪国家扱いする旧戦勝国の戦略的な“罠(わな)”にまんまと嵌(はま)って、抜け出られなくなるなどということはゆめにも考えていなかった。

 1985年頃から日本の社会には右に見た新しい世代が呪縛(じゅばく)された「第二の敗戦」というべき現象が発生し、今日に至っている。

 けれども、問題は戦争が終わってすぐの日本人の「林のごとく静かな」あの無言の不服従の不明瞭な態度にこそ「第二の敗戦」の主原因があるのではないかと、私は最近、やはり「第一の敗戦」の敗北の受けとめ方への日本人の言語の不在をあらためて問題にしなくてはならぬと考えている。

 なぜ日本人は戦後もなお自己の戦争の正しさを主張しつづけなかったのか。不服従は沈黙によってではなく、言語によって明瞭化されるべきではなかったのか。アメリカへの異議申し立ては、60年安保のような暴徒の騒乱によってではなく、日露戦争以後のアメリカの対アジア政策の間違い、たとえ軍事的に敗北しても日本が道義的に勝利していた首尾一貫性の主張によって理論的になされねばならなかった。民主主義はアメリカが日本に与えたアメリカの独占概念ではなく、古代日本に流れる「和」の理念の中により優位の概念が存在することの主張を伴って教導されなくてはならなかった。

 これこそが今後わが民族が蘇生するか否かの試金石である。

2004年09月10日

日本人の自尊心の試練の物語 (五)

 日本人の自尊心の試練の物語(新・地球日本史より)の続きを掲載します。
(一)~(四)まではすでに掲載しています。それらをお読みになっていない方はこちらを先にお読みになり続きをご覧ください。

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 ――一度指した駒は元に戻らない――
 
 昭和16年12月8日、あの開戦の日、高村光太郎や佐藤春夫の国民を鼓舞する高調した詩が新聞を飾ったことはよく知られているが、そういう感情とは何の関係もないように生きていた二人の作家の、次のことばを、われわれはどう考えたらよいだろう。

 「12月8日はたいした日だつた。僕の家は郊外にあつたので十一時ごろまで何も知らなかつた。東京から客がみえて初めて知つた。『たうたうやつたのか。』僕は思はずさう云つた。それからラジオを聞くことにした。すると、あの宣戦の大詔がラジオを通して聞こへてきた。僕は決心がきまつた。内から力が満ちあふれて来た。『いまなら喜んで死ねる』と、ふと思つた。それ程僕の内に意力が強く生まれて来た」(武者小路実篤)。

 もうひとり、開戦のラジオ報道を耳にして、「しめきつた雨戸のすきまからまつくらな私の部屋に光のさし込むやうに、強くあざやかに聞こへた。二度朗々と繰り返した。それを、ぢつと聞いてゐるうちに、私の人間は変はつてしまつた。強い光線を受けて、体が透明になるやうな感じ。あるひは、聖霊の息吹を受けて、冷たい花びらをいちまい、胸の中に宿したやうな気持ち。日本も、けさから、ちがふ日本になつたのだ」(太宰治)。

 二人とも戦争協力などとは何の関係もない、きわめて非政治的な文学者である。二人の反応は国民の普通の受け止め方であったと考えてよい。国民は開戦を容易ならざることと感じたが、これをマイナスの記号で受け止めた者はほとんどいなかった。そう言い出す人が出てくるのは戦後になってからである。

 当時一高教授であった竹山道雄が、「われわれがもっともはげしい不安を感じたのは戦争前でした。戦争になって、これできまった、とほっとした気持ちになった人もすくなくありませんでした」と書いているのは、武者小路、太宰のことばに照応する。

 開戦の日、私は満6歳5カ月。あの日のことは記憶にはあるが、考えて何かを判断する年齢ではまだない。ならば8、9歳まで私は日本と世界の関係についてまったく何も考えないでいたのかといえばそうではない。昭和十九年十月以来、神風特別攻撃隊の出撃が報じられだした。三年生の二学期が始まって間もなくである。私は将来特攻隊に志願するつもりだと親にも、先生にも伝えた。それは当時の子供の多くが口にした当然のことばだった。

 今の知性は、戦時体制が幼い子供たちまでをも欺き、犠牲にしようとしたとわけ知りに言いたがるだろう。純情無垢(むく)な心ほど色を染めるのが簡単だ、と。けれども幼い無垢な心といえども、道理に合わない事柄をそうやすやすとは受けつけないものなのだ。子供でも理性を納得させない事柄には進んで参加しようとはすまい。幼い心は幼いなりに、自分と国家、国家と世界の関係について、漫然と何が正義であり、何が不正であるかを、教えられてきた事柄の中から選び、掴(つか)み出して、案外正確に黙って判定の根拠にしているのである。

 間違えないでいただきたい。棋士が将棋を指すときに「待った」は許されない。一度指した駒は元に戻らない。つまり行為の選択は、そのつどの決断である。そして決断は不可逆である。日本はその通過点をすでに通り越している。そのことは九歳の理性にも判然としている。いったん開戦した戦時下の日本には戦う以外のいかなる選択の道もなかった。その必然の中にしか自由はなかった。

 昭和19年には6月にB29による本土空襲が始まった。7月に東条内閣が総辞職した。南の島々の日本守備隊が相次いで玉砕した。間もなく一億玉砕、本土決戦が口の端にのぼるようになった。特攻隊員は「お先に行きます」の気持ちだった。無差別の行動ではない。イラクの自爆テロとはわけが違う。元に戻らない時計の針を自分の意志で少しだけ前へ進める。それは自由への跳躍だった。

 子供心にもそのことは分かっていた。

2004年08月19日

日本人の自尊心の試練の物語 (四)

――米国は日本攻略を策定していた――

 ペリーが浦賀に来航した19世紀中葉、アメリカはまだ当時の一等国ではなかった。アメリカが大国の仲間入りをしたのは1898年にハワイを植民地にし、フィリピンを領有して以来である。ほぼ同年にグアム、ウェーク、サモアを抑えた。アメリカが「モンロー宣言」を出したのは1823年だったが、南北戦争(1861-65)が片ずくと、太平洋に対しては遠慮のない進出を開始し、この宣言をアメリカの孤立主義の声明と解釈することはできない。

 南太平洋にじりじりとアメリカが北上し勢力を押し広げていくこの時期は、日本が日清・日露の戦いに向かい勝利を収め一等国に名乗りを上げる時代にほぼ相前後する。

 アメリカは20世紀初頭にハワイからグアム、フィリピンを結ぶ線を新国境と定めた。イギリスは西太平洋におけるアメリカの支配を認めて、その水域から英艦隊を撤収した。極東におけるイギリスの関心は日本ではなくロシアだった。イギリスは第一次大戦よりも前に世界に手を広げ過ぎたことを意識しだし、軍事力、財政力の限界に気がついた。中国における自国の権益を維持するのに、イギリスは日本の軍事力に依存する必要さえ感じていた。日英同盟(1902)はイギリスの利に適(かな)っていたのである。

 しかしアメリカはそうではなかった。アメリカはロシアを脅威とはみなさず、むしろ日露戦争後の日本の大国へのめざましい躍進ぶりに神経をとがらせていた。第一次大戦で日本が戦勝国として得た山東省の利権に反対してアメリカの上院はベルサイユ条約を批准しなかったし、ワシントン会議では日英同盟を破棄させその後日本を追い込む戦略に余念がなかった。

 われわれ日本人は太平洋でのアメリカとの衝突を顧みるとき、先立つ世界史の大きなうねりを再考する必要がある。ヨーロッパとアジアで起こった覇権闘争はまったく性格を異とする。ドイツが引き起こした戦争は、欧米キリスト教文明の「内戦」にほかならない。ヒトラーは欧米文明の産み落とした鬼っ子である。宗教史的文脈で考えなければ、ユダヤ人の大量虐殺の説明はつかない。

 それに対し太平洋の波浪を高くしたのは、一つには同時期に勃興(ぼっこう)した若き二つの太平洋国家・日米が直面した“両雄並び立たず”の物理的衝突である。二つには、白人覇権思想と黄色人種として近代文明を自力でかち得た日本民族の自尊心をかけた人種間闘争の色濃い戦争である(昭和天皇は戦争の遠因にカリフォルニアの移民排斥問題と、ベルサイユ会議における日本提出の人種差別撤廃法の米大統領による理不尽な廃案化をおあげになっている)。

 歴史家はいったいなぜ自国史を説明するのにファシズムがどうの帝国主義概念がどうのと、黴(かび)の生えた「死語」をもち出したがるのか。歴史を見る目は正直で素直な目であることが大切である。

 大東亜戦争は起源からいえば日英戦争であった。イギリスの権益は日本の攻撃でアジア全域にわたって危機に陥れられたからだ。しかるに実際に日本の正面に立ちはだかったのはアメリカだった。そこに鍵がある。ヨーロッパ戦線ではアメリカはどこまでも“助っ人”だった。しかし太平洋では“主役”だった。なぜか。

 当時日本軍がアメリカ本土の安全保障を脅かす可能性がないことは、情報宣伝局は別として、アメリカ政府はよく分かっていた。ハワイは当時アメリカの州ではない。日本軍が米大陸に最も接近したのはアリューシャンの二、三の島を占領したときだが、それとて約四千キロ離れていた。アメリカはイギリスの“助っ人”という程度をはるかに超え出て、全面関与してきた。明らかに過剰反応である。

 日露戦争の日本の勝利以来、アメリカは日本を標的とし始めた。日本がちょっとでも動き出せば叩(たた)き潰(つぶ)そうと待ち構えていた「戦意」の長い歴史が存在した。

 アメリカの目的は最初から明白に日本の攻略であり、太平洋の覇権であった。

2004年08月16日

日本人の自尊心の試練の物語 (三)

――不可解な19~20世紀前半の世界――

 大東亜戦争の開戦間もない昭和17年(1942)2月15日のシンガポール陥落の報は、日本だけでなく、世界中をあっと驚かせた。日本の同盟国ドイツ、イタリアは歓声をあげ、イギリスは狼狽(ろうばい)、アメリカは沈黙、他の国々で日本との国交断絶を計画していた国は次々と見合わせる方針を発表した。電光石火日本軍に席巻されたイギリスの不甲斐(ふがい)なさにアメリカは失望の意をあらわにした。イギリス海軍はその少し前、目の前のドーヴァー海峡をドイツ艦隊が通過するのを阻止できなかった。アメリカはこの件にも失望していた。

 戦争の行方は分からなかった。アメリカにもイギリスにも恐怖があった。終わってしまった結果から戦争を判定するのは間違いである。未来が見えない、どうなるか分からない、その時代の空気に立ち還って考えなくてはいけない。

 19-20世紀前半は今思うとまことに不可解な時代であった。世界政治の中でどの国が覇権を握るかをめぐるテーマが最大の関心事で、列強とよばれる国々では、世界に膨張しなくてはその地位を維持できず、小国に転落するという論調が堂々と罷り通っていた。

 各国は簡単に銃をとり、一寸(ちょっと)したことで感情を高ぶらせて戦争に訴える計画に走った。故高坂正堯氏によると、19世紀末にはイギリスとアメリカがすんでのところで戦争になるという局面さえあったそうだ。それはイギリスの植民地ガイアナが隣国ベネズエラと国境紛争を起こし、ベネズエラがアメリカに仲介を頼んだことによる。調停案を持ち出したアメリカを大国イギリスは相手にしなかった。アメリカはそんな役割を果たせるだけの大国になっていなかったからだ。イギリスはアメリカを生意気な子供扱いにしたために、アメリカの感情が激化し、英米戦争の可能性が取り沙汰(ざた)されたのだった。

 19世紀末にアメリカはまだ実力のない新興国だった。太平洋の緒戦でイギリスがシンガポールを落した1942年までに、イギリスからアメリカへの覇権の移動が徐々に進んでいた。イギリスの歴史教科書は、「第一次世界大戦で世界に二つの大国が出現した-アメリカと日本」と書いた。ガイアナとベネズエラの国境紛争があわや英米戦争になりかけたのは、アメリカの覇権獲得までの小さな途中劇であるが、イギリスに負けまいとする若いアメリカの意地のドラマでもあった。

 20世紀前半まで、このように列強は自尊心のためとあらばときとして自分を危険に陥れる冒険をいとわなかった。大東亜戦争もある程度までは、というよりかなりの程度まで、日本人の自尊心が絡んでいる。主たる交戦国アメリカを戦前において心底から憎んでいる日本人はほとんどいなかった。シンガポール陥落の日、朝日新聞ベルリン支局が各国の特派員に国際電話した「世界の感銘を聴く」(17日付夕刊)の中に、ブルガリアの首都ソフィアの前田特派員からの次のような言葉が見出せる。

 「最近こんな話があるよ。ブルガリアの兵隊二人が日本公使館を訪れて突然毛皮の外套二着を差出しこれをシンガポール一番乗りの兵隊と二番乗りの兵隊に送ってくれといふんだ。山路公使は面喰(めんくら)って御志だけは有難(ありがた)く受けるが、シンガポール戦場は暑くてとてもこの外套を着て戦争は出来ないからと鄭重に礼を述べて帰らせた」と、同盟国ブルガリアの歓喜の声を伝えている。まるでオリンピックのマラソンの一着、二着が報ぜられたかのごとくである。「一番乗り」「二番乗り」から私が思い浮かべるのは現代の戦争ではなく、むしろ、あえて言えば、『太平記』や『平家物語』に近いといってよいだろう。

 自尊心、功名心、忠勇無双-世界中どこでも当時戦争に対する国民の意識は同じようなものだった。空中戦で敵機を百機撃ち落した「撃墜王」は日本にもアメリカにもいたはずだ。例の「百人斬り」も、勇者を讃(たた)える戦意高揚の武勲譚(たん)で、戦後になってこれをことごとしく問題にする方がおかしい。

2004年08月14日

日本人の自尊心の試練の物語 (二)

――100年経たなければわからない――

 ことに対中援助の実情を見る限り、戦後の日本は泥沼にはまりこんで身動きできない戦中の日本にある意味で似た状況に陥っているようにみえはしないだろうか。三兆円にも達するといわれる外務省管轄の対中ODA(政府開発援助)とは別枠で、大蔵省が管轄してきた旧日本輸出入銀行を通した中国向けのアンタイドローンというのが存在する。これらがどうやらODA総額を軽く上回るほどの不気味な巨額をなしているらしいことを最近われわれに教えてくれたのは、古森義久氏の『
日中再考』であった。

 知らぬ間にどんどん増えた援助の実体は中国国民に感謝されていないし、知らされてもいない。これで道路や空港を整備した北京がオリンピック主催地として大阪を破り、毎年の援助額程度で相手は有人宇宙衛星を飛ばして、日本を追い抜いたと自尊心を満たしている。それでも日本は援助を中止できないという。そのからくりがどうなっているのかは素人には分からないが、まさに泥沼に入り込むように簡単に足が抜けないのが、今も昔もいつの世にも変わらぬ、日本から関与する中国大陸である。いま競って企業進出している産業界も、付加価値の高い上位技術で利益をあげ、有卦(うげ)に入っているが、やがて戦中と同じ「手に負えない」局面にぶつかる日も近かろう。

 朝鮮半島も中国大陸も、昔から日本人には理筋の通らない、面倒な世界でありつづけた。日本を「倭奴」とか「東夷」といって軽く見て、欧米人の力には卑屈に屈服しても日本人の力には反発し、恭順の意を表さない。

 こうして今のわれわれが依然として半島にも大陸にも「手に負えない」ものを感じ苦しんでいるのだとしたら、先の大戦での日本の政策や行動をどうして簡単に「あれは失敗だった」「ああすりゃ良かった」「手出ししなければ良かったんだ」など小利口に批判することができるのだろうか。

 窪地に水を流し込むように、日本を含むあの時代の国際社会は競って中国に兵力を投入した。日本を含む今の世界各国の企業が、窪地に水を流し込むように、競って資金を投入しているさまにも相似ている。今の産業界にも「手出ししなければ良いんだ」とうそぶいて、小利口ぶりを発揮する企業があれば見たいものだ。日本経済が今これで上向きになっているのだから、進出企業は聞く耳を持つまいが、だとしたら成功と正しさを信じた軍の華北進撃を批判しても、当時の軍に聞く耳がなかったことは、いかんせん止むを得ぬことではなかったのか。

 今のわれわれに未来がはっきり見えないように、当時の日本人もまた見えない未来を必死に手探りしつつ生きていたのであって、愚かといえば確かにどちらも愚かであるが、健気(けなげ)で無我夢中で、我武者羅(がむしゃら)に前方ばかりを見て、哀れなほどに愚直に生きているのだといえば、戦中も今も、日本人の生き方はどちらも似たようなものではないだろうか。

 われわれは過ぎ去った昔日の行為を、現在の感覚や判断であれこれ同義的にきめつけて、「反省」しても、さして意味のないことにもっと深く思いを致すべきだろう。過去に対する現在の人間の自由な批判は、むしろ横暴で、傲慢(ごうまん)で、浅はかであることを肝に銘じておくべきだろう。

 「歴史を学ぶ」とは歴史の失敗に関する教訓を、現在のわれわれの生活に活用するというような簡単で分かりやすい話ではあるまい。失敗かどうかさえも本当のところはよく分からないのだ。そんなことをいえば現在のわれわれの生活だってすでに失敗を犯し、取り返しのつかない選択の道を潜り抜けているのかもしれない。

 ある人は大東亜戦争は侵略であり、犯罪であるという。別のある人は愚行であり、過信の結果であったことだけは間違いないと反省する。負けた戦争は成功とはいえないから、後者に一応の理はあるが、どれが本当のところ正しかったかはあと百年経ってみなければ分からない。

2004年08月12日

日本人の自尊心の試練の物語 (一)

新・地球日本史」という歴史ものの連載が「明治中期から第二次世界大戦まで」の副題をつけて、いま「産経」文化面に連載中である。毎週一人が担当する。すでに西尾幹二、八木秀次氏、加地伸行氏、田中英道氏、鳥海靖氏の五人が登場し、各担当分を完了している。今は弁護士の高池勝彦氏が「大津事件―政治からの司法の独立」を掲載中である。

 このあと福地惇「日本の大陸政策は正攻法だった」、北村稔「日清戦争―中華秩序の破壊」、平間洋一「日露戦争―西洋中心史観の破壊」、三浦朱門「明治大帝の世界史的位置」、入江隆則「日清日露の戦後に日本が直面したもの」、田久保忠衛「ボーア戦争と日英同盟」・・・・・・という具合につづく。

 私は全体の総論を書く必要があるので、明治を離れ、あえて「新・地球日本史」の中心部分ともなる1930年~45年の頃のテーマ、及び現代のわれわれのそれへの意識を語った。題して「日本人の自尊心の試練の物語」である。新聞でお読みいただいた方も多いと思うが、ここに再録させていたゞく。

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――歴史に学んで自己を改められるか――

 先の大戦で日本が中国大陸にさながら泥沼に入りこむように深入りして、抜け出そうにも出られなかった状況について、われわれはここ半世紀、「あれは失敗だった」「ああせずに、こうしておけば良かった」「日本人は道を誤った」と反省と悔悟の声を上げることしきりであった。

 勿論、日本は近隣国とは干戈(かんか)を交えないほうが良かったに違いない。地球の裏側に回って戦争をしかけたり植民地を作ったりすることが日常茶飯事であったのが20世紀の前半までの世界だった。日本はその仲間入りはしなかったし、できなかった。それならいっそのことどことも戦争をしなければ良かった。否、欧米とは戦っても、中国とだけは戦わなければ良かった。そう考える人が今の日本にはことのほか多い。

 自分の過去の失敗や踏み外しを反省することはもとより悪いことではない。けれども反省したからといって現在の自分がほんの少しでも利口になったといえるのかどうかは、まったく次元を異にする別の問題である。歴史に学んで自己を改めるとか同じ歴史の過ちを二度と繰り返さないとか、よく人はそういう言葉を簡単に口にするが、人間は過去において失敗や過ちを犯すつもりで生きてきたわけではない。成功と正しさを信じて生きていたのである。従ってそのときの心の真実をもう一度改めて蘇らせ、同じ正しさを再認識し生き直さない限り、それが失敗や過ちであったかどうかさえ分かるわけがない。

 過去の行為の間違いを正すことにおいて、現在の人間は果てしなく自由であるが、現在の行為の間違いを正すことに、それがほんの少しでも役立つと考えるのは、ほろ苦い自己錯誤であろう。

 例えば、いま日米韓の三国は金正日の国をソフトランディングさせたい、なるべく禍(わざわい)を自国に及ぼさないで解決したいと考え、この国の生き延びを許してしまっている。日米韓それぞれの事情があって自由に動けない。ことに日本は無力である。その結果、拉致された自国民を救出できないばかりか、北朝鮮の人民が日々飢餓にあえいで惨死しているのを黙視している外ない。日本人は自分の道徳感情に従って自由に行動できない現実を目の前に見ている。

 われわれはいま本当は重大な過誤の入り口に立っているのかもしれない。できるだけ平和的に解決しようとする思いが大きい余り、朝鮮半島への今後一世紀の経路を間違え、とんでもない運命を選択しようとしているのかもしれない。それはずっと先になってみなければ分からない。しかし人間はつねにそのとき最善と思う道を選ぶ。今度の件もどうなるかは分らないが、それなりの成功と正しさを信じて、日本人は新しい政策を選ぶであろう。

 かつて中国大陸に泥沼にはまるように行動した悪夢のような選択を今の日本人はしきりに「反省」するが、呼べども叫べどもどうにもならなかった、手に負えない厄介な世界があの当時の大陸だった。過去の日本の間違いを正すことにおいてすこぶる自由な今の日本人は、それなら目の前の政治の選択においても間違いがなく、自由で賢明であり得るのであろうか。

 人はいつの時代にも不自由で、見えない未来を日々切り開いて生きているのではないのか。

 朝鮮半島という、われわれがいくら声を張り上げて叫んでも言葉の届かない、手に負えない世界を前にしている今の日本人と、大陸政策で批判ばかりされてきたかこの日本人と、不自由という点で原理上どんな違いがあるというのだろう。

 勿論、過去の日本は軍事進出していた。今の日本は資金投与の方法以外に他国を少しでも動かす方法を他に知らない。そのように行動の種類は異なっているが、力の行使という点では同じであり、しかもその力がもたらす結果の見通しの不透明という点では、きわめてよく似ているのである。このようにいくらこうしたいと自分で思ってもそうできない現実はいつの時代にも存在する。

(8/14誤字修正)

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