2006年11月28日
11月17日夜私は武道館の自衛隊音楽まつりという催しを見に行った。いままで毎年いたゞくのにムダにしていた招待状を今年は何となく連れが出来て出かけてみる気になって、熱のこもった内容を堪能した。とりわけあの広い会場に何百という大太鼓小太鼓が集められた一斉演奏にはひたすら驚いた。太鼓だけであれほど規模の大きい、音響とどろく合奏ができるとは!
自衛隊音楽祭だから当然私は耳に聞き慣れた楽しいマーチの数々を期待していた。かの大戦中の軍歌も心待ちにしていた。しかしそういうものはなかった。アイーダが頂点をなし、ラデッキー行進曲が結びをなしたのは少し残念だったが、まあ今の自衛隊はそういう性格のものなのだろう。あまり目鯨は立てないでおこう。
18日は午後3時から「福田恆存を語る」講演会を聴きに行った。「日録」で欄外に私も案内した通り、毎年恒例で行われている催しで、今年は作家の高井有一氏のお話である。主催者から送られて来た葉書には、「高井氏は、福田先生の國語問題の繼承者の一人である、また『キティ颱風』をはじめとする福田演劇の熱心な觀客でもあります」と書かれてあったが、高井さんのお話も劇作家でかつ劇団主催者でもあった福田恆存をめぐるテーマが主であった。
ご講演は話言葉に含みと微妙なニュアンスがあり、聞いているときは深くうなづかされるが、さて終って何が語られたか分り易い主題にまとめたり、要約したりできない。いい話とはそういうものである。録音でも手許にあればもう一度聴くが、何が語られたかははっきり覚えていないのに、氏の言葉に触発されてそれとは関係なしに自分の中に勝手にうごめいた想念だけは覚えている。
福田さんは言葉を信じた人、あるいは激しく信じようとした人である。それだけに言葉の限界、言葉の空しさをもよく知った人であった。
チェーホフの劇ではたいてい舞台上には何も起こらない。起こったことや起こり得ることが役者の台詞によって語られるだけである。しかもどの作品も上演すれば全部で大概3-4時間はかかる。長い時間役者の台詞が語られるのを、観客はたゞ耳を澄まして聴くだけであって、視覚的な面白さはほとんどない。福田さんはそういうチェーホフが好きだったし、創作劇『キティ颱風』もそういう芝居だった。
高井さんは昭和23年に三越劇場でこれを見たのが福田文学とご縁の出来た始めらしい。私より六年は早い。チェーホフの『かもめ』のフィナーレが自殺で終わり、台本では舞台裏で一発のピストルの音がするだけで幕となる。ところが現代の演出家は舞台上にピストルを手にした役者を登場させ、血を吹いた胸をかゝえて用意された水槽の中へ身を投じる、というシーンまで演技させる。演劇におけるこのような視覚化に疑問を呈したのが日本では福田恆存だった、と高井さんは仰言った。
私は覚えていないが、『私の演劇教室』で安倍公房が怪物を出したり山が動いて喋ったりするのを福田さんは批判していて、こういうことをやってはいけない、演劇のリアリズムはもっぱら台詞にある、台詞そのもののうちに演劇性をもりこむのが芝居というものだ、と仰言っていたらしい。福田訳・演出で芥川比呂志にやらせたハムレット、松本幸四郎が演じたご自身の創作劇の明智光秀が恐らく福田さんの求めた理想に近い舞台であったであろう、と高井さんは言っていた。
言葉を信じていた、あるいは文学を信じていた。それゆえに言葉の安易な用法も、言葉が写実を可能にするというリアリズムへの素朴な信仰も許さなかった人だ、といってもいいだろう。高井さんが最初に聞いた講演は高校時代の、早大文芸講演会だったそうだ。一つ覚えているのは「リアリズムという言葉を安易に使うな」だったらしい。
その頃早大は自然主義リアリズムの本拠地で、丹羽文雄のいわゆる「西鶴に学べ」が通り相場で、丁度40歳の福田さんは結果的に早大リアリズムに殴り込みをかけた形だった。講師は複数いたのに、福田さんの講演が終ったら公衆は7割がた帰ってしまったのを妙に覚えているという。福田さんは注目の的で、目玉だったのである。
高井さんはこのあと『芸術とはなにか』(昭25年、初版)で福田評論に初めて接した。「演戯」ということがしきりに論じられているあの本だ。言葉で写すことがそのまま真実になるのではない。美に向かって演じて確かめるのが人間が真実に向かっていくことに外ならない、たしかそういうことだったが、人間は若い頃に接した片言一句にどれだけ影響を受けるか。短い鋭いことばから何を受けるか。高井さんは若い日々を思い出すように語っていた。
教室風の会場に120人以上の人が一杯入って聴いていた。老人が多い。松本幸四郎といったって今は亡き先代の話である。リアリズムと反リアリズムの美学の対立で当時の人々は文学を越えて社会、政治、世界観を語っていた。昭和20年代は文芸講演会に人間の生き方を求めて人が集ったのだ。
福田さんが「文学の言葉で政治を語るセンチメンタリズム」を戒め、「政治の言葉で文学を裁くイデオロギー」を排しつづけたとはいえ、それが言えたのは、文学が広く信じられ、文学用語で政治や社会を語ることが可能な時代を生きていたからである。
福田さんは手ごたえのある時代を生きていた。自分の言葉が世間に反響する時代を生きることが可能だった。情報空間が限られ、一定の範囲内にあった。次のハムレットを誰が演じるかが週刊誌の関心事だった。芥川賞はつねに社会的事件だった。
福田訳シェイクスピアは格調が高い。劇団「雲」の役者は良くあれを覚えられたものだと思う。早口でしゃべるのを聴き取るわれわれ観衆の方も大変だったが、しかし舞台の話言葉によく合ってもいた。to be or not to beを「生き長らうべきか生き長らうべきでないか」などという冗長な訳を排して、福田さんは「生か死か」と端的に訳した。耳で聞いてすぐ分ることが肝心だからだ。
Whoではじまる英語で「そこにいるのは誰か」と訳したのでは行動と一致しない。日本語訳は「誰だ、そこにいるのは」としなければならない。
私のニーチェやショーペンハウアーの訳に、事情は少し違うが、福田さんから学んだ同じ精神を生かそうとした苦心の跡のあることを知る人は知っていると思う。欧文脈と和文脈は異なるのだから、語順は目で追う時間の順序に従うのが当然である。必要なら、同じ文節を二度訳してもいい。二語を一語にしても、一語を二語にしてもいい。必要なのは和文にしたときのリズムと明晰さである。
福田訳シェイクスピアは難しい言葉、高度な表現はあったが、耳で聞いて心地よく、分り易かった。デレデレしていない。小田島雄志訳という平俗低級な新訳が出現して、分り易い日本語だということで他の多くの劇団がデレデレした凡庸なこの新訳を採用するようになった趨勢を、福田さんはどんな思いで見ていたことであろう。
勿論、他の劇団が左翼傾向で、福田さんの政治発言が演劇の縄張りにも悪い影響を及ぼしたということはあり得る。芥川比呂志は今でいうリベラル左翼で、高橋昌也その他を引きつれて退会し、「雲」は分裂した。
高井さんは芝居をするのは血が荒れるといった久保田万太郎のことばを引いて、劇団だけでなく劇場までつくってお金の苦労や役者の身の振り方まで世話をした福田さんは、大才をあたら惜しいことに使ったのではないか、芝居好きはいいとして、劇団、劇場経営まで手を出す必要が果してあったか、つねづね疑問に思っていた事柄だったと言い添えるように語った。
劇団主催者はおよそ人格的に怪しげな、ズボラでいい加減な人でないとつとまらない。千田是也がいい例である。それに対し、潔癖といっておよそ福田さんほどに世に潔癖な人はいなかった。そもそも芝居の世界は潔癖な人格をおよそ必要としない。煙たがって遠斥ける。ここに福田さんの悲劇があったのではないか、と語った。
会場は質疑応答に入ってから、このテーマに大きく傾いた。会場からある人が、福田さんが劇作家として生きることに満たされず、劇場経営までしたこと、つまり芝居の世界にまきこまれてしまったのはかえすがえすも残念で、そうでなかったら今の言論界はもう少しましであったろう、この会場には西尾さんの姿が見えるが、別に他意はないから誤解しないでほしい、といってみなを笑わせた。たゞ自分は、福田さんにもっと評論でがんばってほしかった、そうすれば現在もう少し言論界の情勢は変わっていたのではないかと思う、と。
「芝居の世界にまきこまれた」という先のことばに高井さんは反応した。「まきこまれた」というような生易しいものではない、と少したしなめるように言った。
言葉は少なかったが、高井さんの気持を忖度すると、たしかに福田さんが演劇にあまりに時間と才能を奪われたのは残念ではあるが、ならばそうしなければ良かったかというとそうではなく、「まきこまれた」といういやいやながらの受動的な状況ではない。やはり好きで入った道だ。自分の運命を承知で自分で選んだ。ことばの半分は「惜しかった」だが、もう半分は「これはこれで良かった」である。もし芝居の世界がなければ評論の世界も生動しなかったのかもしれない、と。
高井さんは晩年の福田さんが「孤独の人、朴正熙」を書いて、今の韓国で、また当時の日本で評判の悪いあの大統領の孤独な生き方に共感を示した文章を残したことをことのほか重く見ていた。ここに会場からの質問への答を投影していたように思えてならない。
「福田さんがチェーホフが好きだったのは、チェーホフの生き方の自由に憧れていただけではないのだろうか。あれだけ政治的に論陣を張ると何を書いても悪くいわれる。とてつもなく窮屈だったでしょう。レッテルを張るな。自分は自由だ、そう言いたかったのでしょう。」
高井さんはまた次のようにも語っていた。
「あれだけ立派な全集を遺し、翻訳全集まで出して、生前にやるべきことはあらかたなし遂げたはずなのに、全集製作者――田中健五・元文藝春秋社長――が言っていましたが、福田さんほど不遇の意識を強く抱いている人はいなかった、というのです。」
私はこれを聴きながら思った。難しい時代を生きて福田さんは大変だったのではなく、枠があって、言論が反響する壁をもち、文学のことばだけで政治や世界を論じることが出来て、ある意味では羨ましい文学者としての完結性を誇ることが出来た最後の幸せな世代ではないかと思えてならない。
私はかつて文学者のまゝ政治を語ることが出来た人は江藤淳をもって最後とすると言ったことがあるが、どうもそれは間違いである。江藤氏の『閉ざされた言語空間』は今なお政治評論として秀れたものだが、いま論じるに値するのはあれだけで、夏目漱石論をはじめとする文学的業績の方は今や見る影もない。
福田恆存においては文学と政治が一体化していた。だから政治と文学を混同するなと言いつづけることも可能だったのである。ある意味で時代が一体化を許していたことは否めない。
講演が終って会食の席で、高井さんに最近私は次々と現われるテレビタレントの名前が覚えられないのと同じように純文学の作家の名前も覚えられない、と言ったら、自分もまったく同様である、と言っていた。
主催者団体「現代文化會議」の若いメンバーが同席していて、福田恆存を読む勉強会を恒例化しているとかで、近代日本の文学史や文学概念を駆使して議論を交しているのを聴いて、私はたゞひたすら懐かしさを感じた。彼らは文学研究の専門家では必ずしもないだけにかえって不審な印象をさえもった。
いまの時代は精神の運動を仮託する「地図」がない。だから政権政党の動きや靖国や皇室問題や拉致や北朝鮮問題などの現実の直接的タームにストレートに反応するしかなくなっているのであろう。
文学史や思想史で自己の位置を測り、現実に対し一歩距離を置いて思考を深めるということが精神の衛生のためにも、思考の自立のためにもむしろ必要であると私は日ましに強く感じるようになってきている。
2006年11月24日
私が福岡に出かけたその日に、文藝春秋出版局より『江戸のダイナミズム』の再校用の校正ゲラがどさっと届いた。月末までに全文を少なくとも二度は読みあげ、残った疑問点をことごとく解決しなければならない。
しかしその前に渡すべき「参考文献一覧」の原稿がまだ出来上がっていなかった。人には知られることの少ない秘かな困難事なのである。参考文献の著者名・題名・出版社名は大体今までにノート一冊に書き並べてあるが、それを写すだけでよいと安易に考えていたら、とんでもないのである。多岐にわたるので頭が混乱して収拾がつかない。分類を工夫して、目次風の方針を立ててみたら次のようになった。
Ⅰ.宗教、 Ⅱ.始源、 Ⅲ.学問、 Ⅳ.社会 Ⅴ.文字、 Ⅵ.全集の6つに大別したあとで、それぞれをさらに細かく分別した。
Ⅰ.宗教・・・・・神道、仏教、五経(六経)、四書、儒教、日本の儒教、キリスト教、テキストとしての聖書、ニヒリズム。
Ⅱ.始源・・・・・神話一般、日本の神話、中国の神話、ソクラテス以前、ホメロス、古事記、万葉集、ケルト神話。
Ⅲ.学問・・・・・アレクサンドリア、エラスムスとヴィーコ、西洋古典文献学、解釈学、清朝考証学、国学、国語学、仮名遣い、新井白石、荻生徂徠、富永仲基、契沖、本居宣長。
Ⅳ.社会・・・・・江戸一般、江戸の政治経済技術、中国史一般、中国の法と社会、東西交渉史、ヨーロッパ思想、歴史一般。
Ⅴ.文字・・・・・文字の歴史、文字と音、木簡とパピルス。
Ⅵ.全集・・・・・大系、個人全集。
一項目で30冊に達するものもあれば、3冊だけというのもあるから、見掛けの大袈裟に比べ、そんなに膨大量になるわけではないが、分類してみて私自身やっと落着いた。担当編集者は読者の便宜に適うだろう、と言ってくれた。
ⅠとⅡを区別したのがこの本の特徴である。Ⅱに到達するのを妨害するものが数知れずあり、Ⅰもひょっとするとその中に入るかもしれない。われわれはⅢの手段をもって何とかしてⅡに到達しようとする。宗教は阻害要因になり得る。
こんな図式的説明は予めしない方がいいかもしれない。著者の意図どおりに結果が出ているとは限らないからである。
福岡では11月12日の日曜日の午後、友人に案内され久山町の温泉で3時間ほど湯と酒をたのしんだ。田の中から突然湧き出した温泉だそうである。
入口で九百円払ってタオルと浴衣の入った袋を渡され、手荷物をロッカーに預けて一風呂浴びる。近隣からひょいと気楽に車で立ち寄る人のために大型の湯場が用意されていた。
湯をあがってビールを飲んで着換えて車で博多空港にかけつけて帰京した。件の「参考文献一覧」に漏れがないか機中でもくりかえし点検し、残務作業をつづけた。すべてを完了し、宅急便で文藝春秋に送ったのがその翌日の13日(月)夜だった。やっと山を越えたという思いだったが、私の毎日はこのように次から次へとやることに追われる。
16年使用した自宅のファクスの器械がこわれて、同じく老廃化したコピー器と一緒に廃棄し、ゼロックスのフルカラーデジタル複合機C2100型のファクス=コピーの一体器械に取り替える契約をすでに10日前に結んでいて、搬入の約束日は15日(水)午後2時だった。
器械の取り替え設置は業者がやってくれるので問題はないが、本と紙の山を片づけ、通路から室内までのスペースを作るのは私ひとりの仕事である。日頃書類の山に埋もれて暮らしているので、これが容易ではない。
いま私は約束どおり日記風に出来事を綴っているのである。14日午後4時スイスに住む若い友人平井康弘君が、夜久し振りに一緒に一杯やろうや、という約束で現われた。彼は見るに見兼ねて階段にまでぎっしり積まれた雑誌と本の山を移動してくれた。
平井君はスイスの世界有数の農薬会社の社員で、バーゼル本社から韓国出張を命ぜられて短期間日本に滞在する時間の空隙を見ての拙宅訪問である。
いつものように雑談しながら、私のパソコン指導を2時間たっぷりしてくれた。年賀状のシーズンが近づいている。まず何よりもその準備がなされた。今年は宛名だけでなく、裏面の挨拶文もパソコンでやることが可能になりそうだ。
15日ゼロックスの業者が出入りしている最中に東京新聞から「教育基本法が衆議院を通過することになりますがどう考えますか」という質問の電話がきた。私から「大歓迎だ」のことばを記者は多分予想していたのではないかと思う。
私はいつも考えている持論を述べた。
「昭和22年制定の現行教育基本法には悪いことは何も書かれていませんよね。たゞ〈個人の尊厳〉〈個性の尊重〉〈自主的精神〉〈自発的精神を養う〉などの美辞麗句に満ちているわけですが、これらの言葉の影、裏側が書かれる必要があったのです。
悪いことが何も書かれていないことが悪いのです。
〈個人〉や〈個性〉は求めて得られるものではありません。自然に生まれるべきものです。〈自主性〉や〈自発性〉は学校や親が計画して育てるべきものではなく、基盤となる精神が予め鍛錬されていることから自ずと生じるのではないですか。
その意味では教育は訓練であり、陶冶であって、そういう基盤を欠いた単なる〈個性〉や〈自主性〉は我侭や好き勝手を助長するだけです。教育基本法にはそういうことを書いて欲しい。それなのに〈愛国心〉がどうとかばかり言っている。
〈愛国心〉も悪いことではありません。善いことです。善いことばかり言っているのではダメだと私は言っているのです。
善いことばかり言って人をかり立てるのは政治です。〈個性〉や〈自主性〉ばかりを言い立てるのも政治であって、教育ではない。その逆も同様です。
教育基本法の改正は教育の基本に立ち還ってもらいたいと思います。」
新聞記者は私の反応が予想外だったらしく、あるいは理解を超えていたのか、要するに衆議院可決には賛成なのか反対なのか、と問うてきた。
「どちらでもありません。選挙法改正案とか郵政法案とかの是非ではなくて、教育の基本を正す法律案なら、教育の原理に立ち還ってもらいたいと言っているのです。」
翌日の東京新聞に私のコメントは掲載されたのか否かは、確かめていない。記者はどう書いてよいか分らず多分採用しなかったのではないかと思う。
11月中旬の私の生活をいま日記風に綴っている。二つの月刊誌の〆切りが残すところあっという間に2日間になり、シマッタと思ったが、時間的に押されて16日に『WiLL』に、17日に『諸君!』に約各10枚の、短文と思って不用意にも甘く見て、〆切りが目前に迫り蒼くなった。いつもの悪い癖である。
『WiLL』は「核論議私はこう考える」で中川昭一自民党政調会長の核武装発言について私見を述べる。『諸君!』は特集「もしアメリカにあゝ言われたらこう言い返せ」の中の「オレンジ計画は単なるプランでしかなかった。太平洋戦争の真因は日本の膨張政策にあり、と言われたらこう言い返せ」である。
『WiLL』は11月25日(土)に、『諸君!』は12月1日(金)に店頭に出るのでここで詳しくは書けないが、それぞれ小文ながら意を尽くしたつもりである。
私は日本人がアメリカの行動や決断を「運命」のごとくに受け入れていることに疑問をもっている。核実験にまでついに至った北朝鮮の今日の事態はアメリカの失政にある。北を「悪の枢軸」呼ばわりして寝た子を起こした以上、アメリカは中国に頼るのではなく、しっかり自己責任を果すべきである。
NPT体制は核保有の米露英仏中の5カ国の責任を前提としている。さもなければ不公平である。日本に核武装論議が起こるのは当然である。
「中川昭一氏は核武装せよ、と言っているのでは決してない。核攻撃を受ける可能性を今目前に見て、自ら核武装の議論一つできないことなかれの怠惰な精神は、生命の法則に反すると言っているのである」と私は『WiLL』に書いた。
20日ベトナムのAPECの会議後に安倍首相は日本政府は核保有論議をしないと記者団に語り、中川発言の鉾を収めようとした。アメリカの指示(あるいは暗示)に首相はここでも過剰に反応しているようにみえる。「日本政府は核武装する気はないが、与党内での自由な論議を禁じるつもりもない」くらいのことを言ってもいい局面であろう。
中川氏は6カ国協議を前にこれ以上の発言を封じられていると私は見た。安倍外交は「主張する外交」を自称するが、決してそうではない。アメリカに完全に仕切られている。
北朝鮮のではなく、日本の核保有の可能性を永久に封じ込めるのがそもそも6カ国協議の、他の5カ国の最大のテーマ、最終の目標であることは私がかねて指摘してきたことだが、いよいよはっきりしてきた。それが日本の同盟国の意志であることを他の4国はさんざんに利用するであろう。
つづく
読売新聞 11月24日付朝刊4面に以下の記事が掲載されています。
保守主義インタビュー
「日本の良さ 競争主義によって崩壊する」 西尾幹二
日本では「保守」といえば「反共」と思われがちだが、本来は違う。保守とは簡単に言えば「昨日までの暮らしを変えたくない」という「暮らしへの守り」のようなものだ。「保守的態度」というものはあるが、「保守主義」というものはない。「保守思想」というものがあっては逆にいけない。思想になった途端、保守は「反動」になる。
保守的な暮らしは大事だ。日本には平等という観念はなかったが、公平という観念があった。小学校は公平でないといけないとか、医療体制が公平だとか、郵便局、鉄道が全国津々浦々に行き渡るというのも日本が持っている良さだ。
公平の観念とマーケット至上主義は、完全に逆の位置にある。日本が地域の文化を大事にするのは欧州と似ている。米国のような極端な平等主義、観念的な競争主義がないのも欧州と似ていた。米国は保守ではない。
ところが、米国は1980年代以降、民主主義の名の下で、極端な自由主義、平等主義、競争主義という自分の尺度をどんどん日本に持ち込んできた。防衛だけでなく経済まで抑え込みにかかっており、日本の良さがどんどん壊れている。終身雇用制、会社への忠誠心など日本が持っていたものが根こそぎつぶされている。
日本の保守はこの十数年で崩れ、今後はもっと崩れてしまう恐れがある。私たちの文化、暮らし、歴史を守ることと「アメリカニズム」は両立しないのだが、安倍首相は分かっていないのではないか。
首相は身内で固めた「党内党」のような内閣を作った。自分がやりやすいチーム編成で「真正保守」の政策を実行するのかと思っていたら逆で、おやおやと思っている。「村山談話」「河野談話」を容認し、祖父の岸信介・元首相の戦争責任を認める発言まであった。「憲法改正に5年かける」と言っているのも、「改正はやらない」と言っているのと同じだ。
村山談話などをめぐる首相の発言には「本心は別だ」との見方もあるが、大きな間違いだ。政治家が一度発言したことは元に戻らない。政治家は自分の発言に縛られる。今やいわゆる平和主義者の方が、首相を買っているのではないか。
2006年11月20日
急に寒気が押し寄せて来た。東京に冬のシグナルが灯ったのは二日ほど前からである。
今年の秋は長く、相当に気温が高かったので、11月に入ってもずっと初冬のイメージすらなかった。紅葉はテレビで知るが、公園の樹林の変化はまだ小さい。
私がこのところ何をしているか、時局のテーマについて何を考えているか、「日録」で報告してほしいと読者の一人からいわれたが、これが案外にむつかしい。他人に見せる日記をつけるむつかしさは誰にでもあろう。問題はそれだけでなく、文章を書くことを仕事にしている人間にとって仕事以外の文章は、も抜けの殻の自分を外にさらすことなのである。
かいつまんで報告をするのは不本意だが、やむなく文字通りかいつまんで11月中旬の出来事を語る。
11月8日に荻生徂徠『論語徴』を読む研究会に午後いっぱい参加し、談論風発を楽しんだ。読み進めた分量は少いが、やはり徂徠は凄いと三人で感銘。三人とは直木賞作家の佐藤雅美氏と愛知教育大の北村良和氏である。北村氏は中国文学者で、師範格である。吉川幸次郎や貝塚茂樹ほかの現代の論語解釈にまるきり反映されていないことにあらためて疑問をもった。
同日夜、路の会例会で田久保忠衛氏の「北をめぐる日米中のせめぎ合いを考える」が開かれた。
6カ国協議の協力を理由に2002年10月に江沢民が米国に台湾の武器売却を停止させた。米国の台湾政策がぐらついたのはあれ以来である。同時多発テロ後の米国のテロ優先政策も対中政策をぐらつかせている。米国はカードを次々に切っては捨てた。本年7月の北のミサイル発射と核実験で、こうした犠牲的な米国の努力もすべてフイになった。
田久保氏はこう語り出して、北が時間稼ぎに成功、みんなコケにされ、米国の失敗があからさまになった、と語った。こうなると北に核廃棄を約束させるのは至難の技だろう。代償は高くつく。
中国は何を考えているのか。北が民主主義国家になることは中国にとって悪夢である。台湾と朝鮮半島という二つの民主政権を目前に見ることは中国崩壊の起爆剤になる。これは何としても避けたい。人民解放軍の8万余が中朝国境に展開していて、いつでも介入可能な状態にある。
北の自滅的崩壊はあり得ない。中国が鍵を握っている。金正日の息子たちへのバトンタッチは彼等にカリスマ性がないのでむつかしい。クーデターを日本人は期待しているが、内乱が起こると核がテロリストの手に渡るのを恐れて、米国も介入するだろう。中国、韓国の軍隊も踏みこむだろう。
いま半島は日清戦争の直前の状態にあるが、日本はプレイヤーではない。米中どちらがリーダーシップを握るかだが、韓国に危機感がほとんどない。日清戦争の直前の朝鮮半島もそうだった。
中韓両国にとっては今の侭が一番いい。両国一致して国連決議(制裁案)の空洞化をはかっている。海上臨検はいやだ、など。
しかし中国も試されている。北をこのまゝ扶けつづけることができるか、それとも日米中心の半島政策に従うのか、ライスに短刀をつきつけられている。北は中国にとって生命線である。半島が民主化するか否かということは台湾の運命にも関わっている。
そこで民主、共和のいずれかという米政権の行方の問題があらためて重要になる。ニクソンとキッシンジャーが中国と手を結んだように、民主党は悪魔とでも手を結ぶ。目的のためには手段を選ばぬ傾向がある。
ブッシュは演説の中でfreedomを何回も唱えたように、イデオロギー、道義性を重んじる。民主主義を叫ぶモンゴルやインドとも呼応している。中国に追い討ちをかけている。
東アジア共同体を唱える中国の政策に、麻生外相は豪州、ニュージーランド、インドを加えようと提案した。これは中国封じ込めの共和党政権の中長期的目的、民主主義国でかためて北朝鮮問題をも解決しようとする目的に沿うよう、日本から協力の意志を示したものである。
田久保氏の以上の談話に数多くの質疑応答がつづいて、全体で討議は3時間以上をも要した。出席者は黄文雄、高山正之、木下博生、大塚海夫、萩野貞樹、入江隆則、田中英道、大島陽一、藤岡信勝、東中野修道、佐藤雅美、北村良和、山口洋一、中澤直樹(Voice)、湯原法史(筑摩)、力石幸一(徳間)の諸氏であった。
11月10日から福岡に旅行した。私はほとんどすべての学会から退いているが、日本ショーペンハウアー協会だけはまだ参加している。独文科同級生のワーグナー研究家の高辻知義君が会長をつとめている。前会長もまた駒場同級生の哲学者山崎庸介君である。
11日(土)に九州産業大学で第19回目の総会があり、一年も前から公開講演をたのまれていたのを果たした。公開だったが、一般からの参会者は少なかった。
私はショーペンハウアーの研究をいまほとんどしていない。仕方がないので『江戸のダイナミズム』の第9章を利用して「富永仲基の仏典批判とショーペンハウアー」と題する比較論を試みたが、同時代という以外に、両者の間に直接の関係はない。たゞ、両者ともに東と西の端から革命的なインド像を提出したという点で共通している。自分の置かれている宗教的前提をくつがえした二人だ。
両者ともにそのラディカルな批判精神には魅力がある。ことに仲基が龍樹(ナーガールジュナ)の自己欺瞞、大乗経典をより上位に置くための詭弁に近い「教相判釈」のロジックを見破った論法はじつに面白い。空海の「十住心」の教えも間接的には否定してしまっている。
仲基は鎖国時代を生きて、サンスクリットも何も知らなかった。漢訳仏典しか知らない。それなのに中国以北に伝来した数多くの仏典がすべて釈迦の直説であるとする既成宗門の安易な惰性を打ち破った。
ショーペンハウアーも同様にサンスクリットを知らなかった。『ウプネカット』というウパニシャッドのペルシア語訳のそのまた重訳であるラテン語訳を眼光紙背を徹して読んで、インドの何たるかを掴んだ。ヨーロッパの東洋研究はショーペンハウアーの出現の前と後でくっきりと区別されている。
思想の方向はむしろ逆だった。仲基は歴史を求めた。仏典の成立の納得のいく歴史的説明を求めた。その意味では18世紀前半に生きて、すでに西洋よりも100年も早く聖典の「原典批判」を実行した点で、彼の頭脳は西洋人よりも西洋的だった。
それに対しショーペンハウアーは東洋の宗教の非歴史的性格に魅かれた。インドには歴史がない。いつ、どこで、何がという簡単な記録にさえインド人は関心をもたない。
二人の知性のあり方は逆で、それだけにそれぞれが自己否定において徹底していた。仲基は東洋の不合理な曖昧さを嫌った。ショーペンハウアーは西洋の主我的な、歴史に文明の自己実現を見るたぐいの傲慢さを憎んだ。ショーペンハウアーのヘーゲル嫌いは衆知のことである。
それでいて仲基とショーペンハウアーは互いに案外に近い地点に立っていたのではないか、というのが私の推理である。仲基は大乗非仏説論者では必ずしもない。ショーペンハウアーはキリスト教的隣人愛を最後まで手離さなかった。どちらも既成の宗教に対し破壊的ではない。思想的に中後半端だといわれればそれまでだが、彼らは破壊や否定それ自体を求めていたのではなかった。
福岡では最初の晩は友人たちと、二日目は友人たちも含めて学会の懇親会をかねて楽しい夜をすごした。最初の晩はふぐ刺し、二日目の晩は鳥鍋だった。どちらも福岡の名物らしい。
食べ終わって中洲のスナックでカラオケに興じた。二晩もつづけて同じスナックで唄った。折角なじみのつもりで二度目も同じ店に行ったのに、二度目は明らかに不自然な金額を求められた。
中洲の名誉にならない思い出を残して去ったのは残念だが、旧友にめぐり合い、学ぶことも多い良い旅であった。
つづく
2006年11月02日
いま保守とは何か?というテーマが関心を呼んでいる。安倍内閣がスタートして、「真正保守」と期待された新首相の予想外の姿勢の崩れ、ブレないはずの人がこんなにもブレた態度の甘さに失望が広がると共に、あらためて保守とは何であるかが問われている。
いままで保守言論界は靖国、愛国、防衛、歴史問題の一点張りで、反中国、反韓国、反北朝鮮の方向にだけ引っぱられて、それだけ言っていればよい一枚岩であった。しかし保守の言論はいま間違いなく二つに割れ始めている。
相変わらずこの方向を重視する姿勢に変わりはないが、ただそれだけでは不十分だという新しい認識が生まれ始めていて、そのことに気づかない旧態然たる勢力と、気づき始めている勢力との二つに分れかけている。
切っ掛けをなしたのはやはり昨夏の「小泉選挙」であった。前首相が叫んだ「改革!」は保守のことばではない。考えてみれば自民党はずっと改革路線を歩み、アメリカの市場競争原理に合わせるということでやって来た。前首相は突出して危険なまでにそれをやっただけである。そして、現首相はその路線を踏襲することで権力の座についた。保守らしからぬ姿勢の崩れをみせるのはじつに当然である。
小泉氏の民営化の前に中曽根氏の民活があった。安倍首相の学校バウチャー制度や学校評価制度の導入の提案は、中曽根臨教審の「教育の自由化」の流れに沿うている。公教育に市場競争原理を導入するという方向である。
私は「新しい歴史教科書をつくる会」に関与する前に、中曽根臨教審の「教育の自由化」、小学校中学校を互いに競争させるアイデアに最も激しく抵抗した論者である。臨教審に対抗して打ち出された第14期中教審の委員になったのもこの路線の修正のためだった。
加えて私は中曽根内閣、竹下内閣のあとの海部内閣の時代の「日米構造協議」に、正面切って反対の論陣を張った数少ない論者の一人である。
その頃は経済評論にも筆を染めていた。しかしそれから日本の論調は変わった。湾岸戦争とソ連の崩壊が起こった。と同時に、戦争が終わって半世紀たつのになぜか大東亜戦争をどう評価するかが、にわかにわが国の新しい重要課題になって立ち現れた。
1995年(平成7年)の村山政権の登場と国会謝罪決議をめぐる保革の激しい争いが生じた頃である。私は自民党に乞われて、謝罪決議のナンセンスたる所以を述べる意見陳述の場に出たこともあった。
1998年末に「新しい歴史教科書をつくる会」の必要が生じたのは歴史問題が国の内外でホットになったこの流れと合致している。中国と韓国が繰り返す「過去の反省」の要求に日本国民の怒りの感情が少しつづ高まった。従軍慰安婦、戦後補償、個人賠償、歴史認識が大きなタームとなった。
日本の経済はその間低迷し、後に「失われた10年」と名づけられた最中にあった。初めのうちは日米貿易摩擦といわれていたが、やがてその時代は過去になり、知らぬうちに摩擦ということばさえ使われぬほど、日本経済はアメリカにしてやられて、「日米構造協議」の毒がしだいに全身に回わり始めた。
「大店法」などというのを覚えておられるだろう。地方都市の郊外に大型スーパーが出現し、駅前商店街がシャッターを下ろしてびっくりする格差の露骨化は、アメリカ化の、目に具体的にはっきり見える症例の一つである。
「失われた10年」といわれた経済の低迷期に私は経済をどう考えてよいか分らず、筆を押さえていた。靖国、愛国、防衛、歴史問題の一点張りで、反中国、反韓国、反北朝鮮を論じていれば済む保守言論界の十年一日のごときマンネリズムに私もひたっていたが、これではいけないと気がついたのは昨年の「小泉選挙」だった。
民活化路線、教育の自由化路線、レーガニズムとサッチャリズムに日本の行くべき方向を一方的に合わせた中曽根元首相の「改革」路線がはたして「保守」の歩むべき方向なのか、という疑問をもともと抱いていた私は、小泉選挙の少し後で、『Will』2005年12月号に「保守論壇を叱る」という自分には曲り角をなす重要な論文を書いた。これには「経済と政治は一体である」という副題をつけている。冷戦時代の遺物のような、リベラル左翼のイデオロギーを叩く日本の保守言論者の硬直ぶり、靖国、愛国、防衛、歴史問題の一点張りの硬い姿勢ではもうやっていけないという警告をこめた評論だった。(この論文は『「狂気の首相」で日本は大丈夫か』の巻頭に収め、近く別の人の注目するところとなり、ムック本に再録される。)
「改革」は果たして「保守」のやることか。自民党はすでに保守政党ではないのではないか。共和主義的資本主義政党でしかないのではないか。日本の資本家に愛国心も国境意識もない。このまゝでは果てしなくアメリカ化の泥沼に足をとられ、併呑されていくばかりである。
靖国、愛国、防衛、歴史問題といえども、日本がほんとうに日本であるためには、アメリカの指し示して来た方向と一致するはずがない。ことに歴史問題において、「アメリカの正義」は過去において「日本の正義」と正面衝突をした。
そのことがだんだん分ってきて、反中国、反韓国だけでこと足れりとする保守言論界のマンネリズムに最近ようやく変化の萌しがみえかけている。安倍首相の煮え切らない心の迷いの正体が何であるかを考えると、この問題にぶつからざるを得ない。経済問題で小泉路線を引き継ぐ安倍氏は、アメリカに屈服するのは安全保障だけでなく、経済政策と二重になっている。事実上手足をもがれている。
中国と北朝鮮が綱引きをしている核問題の現場外交に日本がみじめなほど無力なのは、防衛をアメリカに依存しているからだけではない。
日本の保守政党は守ろうとする自分の文化価値を掲げない。持たないから掲げようがない。日本の伝統文化、国語と国史を守ろうとなぜしないのか。
「改革」は経済にとどまらない。教育をも、医療をも、農業をもむしばむ。鉄道も郵便局もダメになる。地方は疲弊し、不公正が広がり、国民のモラルをどんどん低下させることとなろう。
以上は「序説」である。ここから先は『諸君!』12月号の佐伯啓思、関岡英之の両氏と私による鼎談「『保守』を勘違いしていないか」にそのままつなげて読んでもらいたい。
「勘違いしている」人は勿論安倍首相を指す。われわれ三人の討論を本日の「日録」につづけておよみいただき、考える内容は豊富なので、両方についてコメント欄で言及していたゞければ有難い。
お こ と わ り
「秋の嵐」と題した「日録」の今の連載は、既報の通り9月末から10月6日までの身辺の出来事を綴って感懐を述べる内容を予定してきた。
『諸君!』12月号の上記鼎談は出席者の日取りの事情で10月4日に行われた。安倍訪中以前だったので、後日加筆した。内容は本質論であるから討論者の基本の考えに変更はない。
「北朝鮮核問題」の出現のおかげで「日録」にも急遽、掲載の順序に変更が生じた。そのため今日の分は雑誌発売日に追い抜かれてしまった。
10月5日に路の会で上智大学教授鬼頭宏氏を迎えた。10月6日に直木賞作家の佐藤雅美氏、愛知教育大学の北村良和氏と始めた「徂徠『論語徴』を読む会」があった。この二つの出来事を書くつもりだった。秋の嵐に出会ったのは10月6日だった。
しかし掲載の予定が狂ってまた月の上旬に入り、路の会も徂徠を読む会も次の11月例会が近づいている。
「秋の嵐」と題した連載はここでいったん打ち切り、個別の話題に切り換えることにしたい。
お 知 ら せ
11月11日(土)に公開講演をいたします。
「富永仲基の仏典批判とショーペンハウアー」
日本ショーペンハウアー協会第19回全国大会
場所:九州産業大学(1号館2階S201大教室)
福岡市東区松香台2-3-1
問い合わせ先:日本ショーペンハウアー協会事務局
(日本大学文理学部哲学研究室内)
020-4624-9462
午前中は研究発表、午後私の公開講演、そしてシンポジウムがある。
13:40~14:40 公開講演
14:50~17:15 シンポジウムショーペンハウアーと日本の思想
公開講演は無料シンポジウムに私は参加しません
2006年10月28日
余りにも課題は巨魁で、探査の行方は深海に下ろす錘のごとくである。われわれは水面に浮んでいる浮標のごとく呆然とするのみである。第一次資料を読むなどという処へはとうてい行かない。他人の研究成果を追いかける以上のことはできない。
それでも二つの裁判を重ねて見る、という方法と問題意識だけは最初から、そしてこの後も見失うまいと考えている。
幾つかの新しい疑問にぶつかったので、ここに簡単に個条書きにしておく。
(1) 「戦争犯罪」と「人道に対する罪」は別の事柄であると今ではやっと広く認識されるようになってきた。前者は戦勝国にもあり、後者はホロコーストを指す。ところがニュルンベルグ裁判ではこの二つは必ずしも明確に区別されていなかったのではないかと疑われる。
初期のナチ犯罪、テロ、人種政策、ユダヤ人迫害は、明かに「人道に対する罪」に結びついているが、戦争と直接結びついていないので、裁きの対象にはしないというのがニュルンベルク法廷の意見だった。この点は後日歴史判断にどう影響してくるだろうか。
そもそもドイツの再軍備はベルサイユ条約に違反していた。しかし再軍備も、オーストリアやチェコの奪取も、「侵略戦争」のうちに入れられず、「侵略行動」とされたのみだった。
(2) 共同謀議、国際法が認めていない個人の責任、戦争は犯罪ではないのを無視した侵略戦争の概念、侵略の定義の不可能、遡及法(条例の事後律法的性格)、等々の国際法上の矛盾として知られる東京裁判の諸問題は、ことごとくニュルンベルク裁判にすでに同じ矛盾した問題として提起されていた。
東京裁判はニュルンベルク裁判の結論をそのまゝ押しいたゞいている。前者は後者によって基礎づけられ、決定づけられている。
ニュルンベルク裁判は「ジャクソン裁判」といわれたほど一人のアメリカ人の検察官の理念と活動に支配された。東京裁判ではそれがキーナン検事に引き継がれた。そしてマッカーサーが最終決定権を握っていた。アメリカによる「人類の法廷」の性格は両裁判にきわ立っていた。
東京裁判ではフランスやオランダなどの欧州法との食い違いがたびたび露呈したが、ほとんどつねにアメリカによって押し切られた。人類の名における「アメリカの法廷」であったといっていい。
私が気づいた疑問の根本は、ドイツの戦争犯罪を戦後裁判で裁くという計画が最初に意識されたのは1941年秋であったことだ。真珠湾より前である。
日本が参戦するより前に、戦勝国による敗戦国に対する「裁判」が計画されていた。これは驚くべきことではないだろうか。
(3) 罪を問われた被告は両裁判ともに国家の行った戦争の正しさを主張し、個人に責任のないことを唱えたが、ニュルンベルク裁判の被告人には例外があった。
シュペアー軍需大臣(判決20年)は裁判の正しさを認め、「裁判は必要である。官僚制度の下でもこのような恐るべき犯罪に共通の責任がある」と語り、ナチズムとナチスの指導部をこき下ろした。シャハト財務大臣(判決無罪)もゲーリングを面前で批判した。
ドイツ人弁護人の中には犯罪の大きさと恐ろしさにショックを受け、被告のために最善の弁論を尽くせない人もいた。東京裁判ではこのような光景はみられなかった。日本人弁護人はけなげなまでに戦闘的に最善を尽くした。アメリカ人弁護人も、東京裁判の不成立である所以をくりかえし熱弁した。
ホロコーストは「自然法」に反する。それゆえに「人道への罪」という概念が出て来たといっていいが、ニュルンベルク裁判で初めからホロコーストと戦争犯罪を区別する意識があったかどうかは上記(1)(2)からみても不明である。
当時は勝者が敗者を裁くことに急だった。それは東京裁判だけでなくニュルンベルク裁判においても同様だった。
裁判にかかった巨額の経費を負担したのはアメリカ一国だったという記載をどこかで読んだ――未確認だが――おぼえがある。これが案外問題を考える決め手かもしれない。
つづく
2006年10月25日
東京裁判が最近も日本の国会では、首相答弁に出てくるほどホットなテーマであるのに、ニュルンベルク裁判のことは、ドイツ人の大半が問われて学校でさえ習った記憶がないと答えるそうである。ましてや東京裁判についてほとんどのドイツ人は存在自体すら知らないらしい。ドイツ在住のエッセイスト、来日中の川口マーン恵美さんから10月3日に聞いた話である。
日本では東京裁判については今でも新刊本が相次ぐ。ニュルンベルク関連の本はたまに出るが、これはこれまですべて翻訳ものであって、日本の研究者によるニュルンベルク裁判の秀れた研究書が出たとは寡聞にしてきかない。東京裁判に関するアメリカ人の研究書はあるが、ドイツ人の研究書はこれまた私は耳にしていない。(間違えていたらどなたか教えてほしい。)
戦争責任や戦後補償をめぐって世界の目はかってドイツにのみ厳しく、今は逆転して不当なまでに日本に厳しくなった、そしてドイツに優しくなった、とどなたかが書いていた。しかし本当にそう言えるのかどうか、まだ私にははっきりは分らない。新聞のトピックスに出てくる話題では多分そうなのかもしれない。中国人ロビーがアメリカ政府内で暗躍していろいろなことが起こっているということはあると思う。
ニュルンベルク裁判では三人無罪だった。東京裁判では全員有罪だった。しかし終身刑まで含めて日本人のA級戦犯は講話締結後に釈放されている。
国内でこれは国民挙げての要望であった。外交手続きを踏んでの措置ではあっても、不満や非難が国際的に起こって当然であった。なのに、不可解という声は少しは起こったらしいが、海外から目立つ批判や抗議は起こらなかったようだ。
このことは謎である。東京裁判そのものへの戦勝国側の後めたさが反映しているのではないかと私は推量している。ニュルンベルク裁判の法的手続きと同じ鋳型を嵌めるような、「共同謀議」などといった乱暴な措置をしたのは間違いだった、という内心の気まづさが作用したと考えるのはいささか甘いだろうか。
釈放のときの不問が今頃になってまだごたごた言われる原因になっていると考えることが出来るかどうかもよく分らない。ニュルンベルク裁判がナチスの犯人を裁いてナチズムを弾劾し、国家としてのドイツを免責したのと違って、東京裁判は「一億総懺悔」の日本人を問責し、国家としての日本を裁いている。その不当さに日本人は納得しないから、裁判に対する不服従はドイツ人よりも頻繁に表に出る。それが今でもごたごた言われる原因だろうか。
とにかくドイツと日本は歴史上後にも先にもない異例中の異例の国際軍事法廷の裁きを受けた。東京裁判史観の克服をとかくに口にする人が多いが、ニュルンベルク裁判をよく知り、両裁判を比較研究しなければ、われわれの認識が新しい地平を拓くことはこのあと決して起こらないだろう。
私は『異なる悲劇 日本とドイツ』の著者としてずっとそう思ってきた。しかしどこから手を着けてよいか分らなかった。
私は1992年を最後にドイツに行っていない。98年を最後にDer SpiegelやDie Zeitや Frankfurter Allgemeineを読まなくなってしまった。信頼できるドイツ在住の、同じ問題意識を持つ日本人の協力を得なければドイツの州立図書館や公文書館の窓を開くことももうできない。
そう思いつつ半ば諦めていた処へ『ドイツからの報告』(草思社)の著者川口マーン恵美さんと出会う機会に恵まれた。われわれはたちまち肝胆相照らし、共同研究への意志が固まり、メイルで文献や書物の情報交換をした。
そして10月3日に二人だけの第一回の討議を行った。
つづく
2006年10月22日
9月の末から10月6日までの私の身辺の出来事を「秋の嵐」と題して綴り始めたところ「北朝鮮核問題」が発生し、(一)を出した直後にすぐ中断せざるを得なかった。
本日は(一)(二)の両方を一緒に掲示することで連載を再開したい。
秋の嵐(一)
晩夏から秋に入っても、今年は雨が多かった。10月6日には関東は嵐に襲われ、ある会合に出ていた私はタクシーを拾えず、ずぶ濡れになって帰った。
9月は月の半分を軽井沢で過したが、雨ばかりだった。一夕知人を迎えて草津の温泉宿に遊んだ。が、その日も強い雨だった。
浅間山の稜線がくっきり美しく明晰に見えたのは滞在も終りに近い最後の二、三日だけだった。私は山荘で独居し、読書ばかりしていた。選んだのはゲーテだった。暫らくして当「日録」のゲストコーナーに伊藤悠可さんが登場して下さって、書かれた文章の主題をみたらゲーテだったので私は偶然に驚いた。
このところ私が日々何を勉強し、誰と会い、どういう会合や対談に参加しているか、「日録」らしい記録を提示していなかったので、9月末から10月6日の嵐の日までに身辺に起こった毎日の出来事を少し丁寧に語って、報告を兼ねて、近事の感懐を述べておきたい。
今年の6月イギリスを旅行したときにエミリー・ブロンテ『嵐が丘』の古跡を見る予定になっていたので、この長篇小説の新潮文庫訳を持参し、往路の機内とバスの車内で全巻を読み切った。むかし子供向きのあらすじを綴った簡略本でしかこの小説をまだ読んでいなかったからである。
しかし感動は乏しかった。30歳で病死した若い女性の頭の中の妄想がこの小説の内容のすべてではないかとさえ思った。最後まで読ませるのは構成がよく出来ているせいである。登場人物がすべて異常人格で、語り手の老女だけが僅かに人間としてまともである。こんな世界はどうみても不自然である。
昭和の初期に西洋の長篇小説に対抗できない日本の文壇は、「私小説」は小説でないといって自嘲ぎみに自信を失っていたが、誰かある作家がこう言ったものだ。「西洋の長篇小説は要するに偉大な通俗文学である。」
『嵐が丘』は復讐ドラマとしてみても観念的で、一本調子で、この世にあり得ない話である。あれだけ長い作品の中に、人間や人生に関する深い観察のことばがまったくといっていいほど出てこない。全篇これ若い女の妄想の域を出ていない、と言ったのはそのような意味をこめて言った積りである。
軽井沢で読んだゲーテはドイツ語の格言集や日本語翻訳の長編小説などいろいろあるが、『親和力』を望月市衛訳で久し振りに読み直した。私も年をとって発見したのだが、小説の上手下手、出来映えの良し悪しではなく、人間や人生に関する含蓄のある観察のことばが随所にあるか否かが、作の魅力のきめ手である。
ゲーテは人間をよく観ているな、とたびたび思う。が、意地悪な眼でじろじろ見ているのではない。何処を引用してもいいが、こんな例はどうか。
「それはたいへん結構なことです。」と助教は答えた。
「婦人はぜひとも各人各様の服装をすべきでしょう。どんな婦人も自分にはほんとうはどんな服装が似合い、ぴったりするかを感じ得るようになるために、誰もがそれぞれの服装を選ぶべきでしょう。そしてもっとも重要な理由は、婦人が一生を通じてひとりで生活し、ひとりで行動するように定められているからです。」
「それは反対のように考えられますわ。」とシャルロッテは言った。
「わたしたちはひとりでいることは殆どありませんもの。」
「確かに仰しゃるとおりです!」助教は答えた。
「他の婦人たちとの関係においては、そのとおりです。しかし愛する者、花嫁、妻、主婦、母親としての婦人をお考えになって下さい。婦人はいつも孤立し、いつもひとりであるし、ひとりであろうとします。社交ずきな婦人もその点では同じです。どの婦人もその本性からして他の婦人とは両立できません。どの婦人からも女性のすべてが果さなくてはならない仕事の全部が要求されるからです。男性にあってはそうではありません。男性は他の男性を必要とします。自分がほかに男性が存在しなかったら、自らそれを創造するでしょう。婦人は千年生きつづけても婦人を創造しようとは考えないでしょう。」
よく日本の小説について女が描けているかどうかが取沙汰される。例えば漱石の『明暗』は男を全然描けていないが、女は良く描けている、などと。しかしゲーテが何げない登場人物に語らせているこの対話は、女が描けているかどうかの話ではない。
私は詳しく解説する積りはない。読者はオヤと何かを感じ、考えるだろう。ことに女性の読者は大概納得するだろう。否、男性の読者もわが母、わが妻、わが娘を見て、あるいは職場における同僚の女性の生活を見て、正鵠を射ているなときっと思うだろう。
女性の強さも、悲しさも、けなげさも、そしてその確かさも全部言い当てていると恐らく思うだろう。女性を突き離しているのではなく、包みこむようにして見ているゲーテの大きさをも感じるだろう。
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秋の嵐(二)
『親和力』はゲーテの作品の中では珍しく小説らしい首尾の整っている一作である。ほかに、『若きヴェルテルの悩み』くらいしか小説として迫力のある作品はあまりないといっていい。
物語としての出来映えを言い出したらゲーテの小説は大概落第である。舞台作品だって迫力の点でシラーにかなわない。『ファウスト』は舞台にかけるとあまり面白くない。ことに『ファウスト』第2部の上演はいつもそれ自体が問題である。
ゲーテは作品に結晶度が現われる作家ではなく、彼の人生そのものが作品だといえばいちばん分り易いかもしれない。『嵐が丘』の作家とは丁度正反対である。ゲーテの作品の中では失敗作も十分に魅力ある構成要素をなすという意味でもある。
なぜこんなことを今日しきりに言うのかというと、私が急にゲーテを読み出したことも関係があるが、ゲーテの生涯の中で失敗作が山ほどあって、しかも彼の文学全部を象徴するような位置を占めるある重要なテーマが、十分に扱われないで今まで放置されてきているからである。
10年ほど前に私が関心をもって、「私の書きたいテーマ」というアンケート誌に答えていたのを『諸君!』編集長が覚えていて、「次の連載にあれをやってみませんか」と誘われた。そして私は今にわかにその気になり出している、そういうテーマがある。
「ゲーテとフランス革命」がそれである。
フランス革命はゲーテの後半生を蔽った大事件であった。彼は心を強く揺さぶられ、いつまでもこだわりつづけた。
彼は革命を嫌悪し、否認した。ゲーテは恐らく近代史において最も高貴で、最も深慮に富んだ、言葉の最高の意味における保守主義者であって、エドマント・バークの比ではない。
革命をめぐる数多くの散文や劇を書いたが、ことごとく失敗作である。時代とどうしても一致しない何かがあった。彼は18世紀を生きた人で、19世紀以後を拒絶した。しかし、自分の目の前で起こる秩序の破壊に深く傷つき、いくどもそのテーマに立ちもどって、文学上の失敗を繰り返した。
彼はナポレオンに会って救われる思いがした。秩序を回復してくれたからである。彼は革命だけでなく、ナショナリズムも嫌いで、ドイツの解放にも同情的でなかった。むしろウィーン会議でヨーロッパの秩序を再び建て直したメッテルニヒに期待し、好意を抱いた。
ゲーテにとって「秩序」とは何だったのだろう。単純に政治的な「反動」の意味にこれを解釈したならば、今までのゲーテ論の過誤を繰り返すことになる。
ゲーテの往きつ戻りつした文学的失敗の反覆の中に、恐らく問題を解く秘密がある。
フランス革命との格闘の歳月は、ドイツ文学史によってゲーテが道を踏み誤った一時期として切り捨てられ、顧みられなかった。日本のドイツ文学者に至っては問題それ自体に気がつかなかったほどだ。まさにそのように隠されてきた心の秘密を私は知りたい。
研究書めいた書き方ではなく、自由評論めいた書き方で展開したいのだが、それでもいざ始めるとなるとこれは容易ではない。時間がかかる。
私の準備は始まっている。(1)このテーマに関するゲーテの作品、箴言、書簡、当時のワイマル宮廷とドイツの状況の調査・文献を蒐める。(2)フランス革命の歴史研究書を蒐める。(3)ゲーテの全体像を深める。(4)フランス革命からロシア革命をへてソ連崩壊の今日までの歩みをみて革命とは何であったかを考える。
以上のうち(1)(2)(4)は比較的簡単である。もう半ば揃え終ったともいえる。考えも重ねてきた。しかし(3)がむづかしい。
(3)は私の文章の背後からにじみ出るもので、それだけに付け焼き刃はきかない。「秩序」という概念も、ゲーテにとっては政治的な意味ではあり得ない。
一見政治的にみえても――政治的側面も持ってはいるが――そこには彼の自然観や宗教観が反映しているはずである。18世紀にあって19世紀以後になくなった秩序。うまく言葉ではいえないが、人間と自然、人間と人間との間にあった自足的で、調和的な、個人の節度と社会の位階序列と宇宙感情がほどよく釣り合った関係の全体である。
ヨーロッパ文明はフランス革命以後、200年間この「関係」を破壊しつづけてきた。日本もその潮流に棹さしている。
そして200年たった今、18世紀人ゲーテの、フランス革命拒絶の意味が感覚的にも、思想的にもずっとわれわれの身近になってきたように思えるのである。
ゲーテ以外に他のドイツの同時代人は、ヘーゲルも、フィヒテも、ヘルダーリンも、みなフランス革命に熱狂し、興奮した。
ゲーテの心も震えていたが、逆の方向へ向けてであった。彼の抵抗と冷静は半端なものではなかった。
そこにわれわれが今共感し、心をひそめて向かっていくべき「高貴とは何か」の鍵がひそんでいるように思えてならないのである。
つづく
2006年10月10日
晩夏から秋に入っても、今年は雨が多かった。10月6日には関東は嵐に襲われ、ある会合に出ていた私はタクシーを拾えず、ずぶ濡れになって帰った。
9月は月の半分を軽井沢で過したが、雨ばかりだった。一夕知人を迎えて草津の温泉宿に遊んだ。が、その日も強い雨だった。
浅間山の稜線がくっきり美しく明晰に見えたのは滞在も終りに近い最後の二、三日だけだった。私は山荘で独居し、読書ばかりしていた。選んだのはゲーテだった。暫らくして当「日録」のゲストコーナーに伊藤悠可さんが登場して下さって、書かれた文章の主題をみたらゲーテだったので私は偶然に驚いた。
このところ私が日々何を勉強し、誰と会い、どういう会合や対談に参加しているか、「日録」らしい記録を提示していなかったので、9月末から10月6日の嵐の日までに身辺に起こった毎日の出来事を少し丁寧に語って、報告を兼ねて、近事の感懐を述べておきたい。
今年の6月イギリスを旅行したときにエミリー・ブロンテ『嵐が丘』の古跡を見る予定になっていたので、この長篇小説の新潮文庫訳を持参し、往路の機内とバスの車内で全巻を読み切った。むかし子供向きのあらすじを綴った簡略本でしかこの小説をまだ読んでいなかったからである。
しかし感動は乏しかった。30歳で病死した若い女性の頭の中の妄想がこの小説の内容のすべてではないかとさえ思った。最後まで読ませるのは構成がよく出来ているせいである。登場人物がすべて異常人格で、語り手の老女だけが僅かに人間としてまともである。こんな世界はどうみても不自然である。
昭和の初期に西洋の長篇小説に対抗できない日本の文壇は、「私小説」は小説でないといって自嘲ぎみに自信を失っていたが、誰かある作家がこう言ったものだ。「西洋の長篇小説は要するに偉大な通俗文学である。」
『嵐が丘』は復讐ドラマとしてみても観念的で、一本調子で、この世にあり得ない話である。あれだけ長い作品の中に、人間や人生に関する深い観察のことばがまったくといっていいほど出てこない。全篇これ若い女の妄想の域を出ていない、と言ったのはそのような意味をこめて言った積りである。
軽井沢で読んだゲーテはドイツ語の格言集や日本語翻訳の長編小説などいろいろあるが、『親和力』を望月市衛訳で久し振りに読み直した。私も年をとって発見したのだが、小説の上手下手、出来映えの良し悪しではなく、人間や人生に関する含蓄のある観察のことばが随所にあるか否かが、作の魅力のきめ手である。
ゲーテは人間をよく観ているな、とたびたび思う。が、意地悪な眼でじろじろ見ているのではない。何処を引用してもいいが、こんな例はどうか。
「それはたいへん結構なことです。」と助教は答えた。
「婦人はぜひとも各人各様の服装をすべきでしょう。どんな婦人も自分にはほんとうはどんな服装が似合い、ぴったりするかを感じ得るようになるために、誰もがそれぞれの服装を選ぶべきでしょう。そしてもっとも重要な理由は、婦人が一生を通じてひとりで生活し、ひとりで行動するように定められているからです。」
「それは反対のように考えられますわ。」とシャルロッテは言った。
「わたしたちはひとりでいることは殆どありませんもの。」
「確かに仰しゃるとおりです!」助教は答えた。
「他の婦人たちとの関係においては、そのとおりです。しかし愛する者、花嫁、妻、主婦、母親としての婦人をお考えになって下さい。婦人はいつも孤立し、いつもひとりであるし、ひとりであろうとします。社交ずきな婦人もその点では同じです。どの婦人もその本性からして他の婦人とは両立できません。どの婦人からも女性のすべてが果さなくてはならない仕事の全部が要求されるからです。男性にあってはそうではありません。男性は他の男性を必要とします。自分がほかに男性が存在しなかったら、自らそれを創造するでしょう。婦人は千年生きつづけても婦人を創造しようとは考えないでしょう。」
よく日本の小説について女が描けているかどうかが取沙汰される。例えば漱石の『明暗』は男を全然描けていないが、女は良く描けている、などと。しかしゲーテが何げない登場人物に語らせているこの対話は、女が描けているかどうかの話ではない。
私は詳しく解説する積りはない。読者はオヤと何かを感じ、考えるだろう。ことに女性の読者は大概納得するだろう。否、男性の読者もわが母、わが妻、わが娘を見て、あるいは職場における同僚の女性の生活を見て、正鵠を射ているなときっと思うだろう。
女性の強さも、悲しさも、けなげさも、そしてその確かさも全部言い当てていると恐らく思うだろう。女性を突き離しているのではなく、包みこむようにして見ているゲーテの大きさをも感じるだろう。
2006年04月01日
三月は人の亡くなることが多い。桜の咲く少し前によくある。今年もドイツ文学の恩師登張正実先生が89歳で逝った。先週護国寺で葬儀があった。
先生はご長寿で、東大をやめてから20年近くになる。成城大学をおやめになってからもかれこれ10年になるのではないか。
若い頃よくお宅に伺ってお酒をいただいた。先生は酒豪だった。奥様のお手ずからのお料理でご接待いたゞき、学生の頃から先生を囲む若い人の輪ができていて、私もその仲間に入れてもらっていた。
先生ご夫妻は私が結婚したときの仲人でもある。今から14年前までは普通にご交際はつづいていて、そして、突然切れた。切れた、というより私が遠ざかった。平成4年(1992年)夏のことである。
私はマックス・ウェーバーをめぐる勉強会の席で丸山真男氏に二度ほどお目にかかったことがあり、登張先生のことが話題になった。格別に政治的な話題ではない。お互いに知人の動静を語り合うざっくばらんな雑談である。私はこのようにいわゆる左の知識人とも隔意なく附き合っていたし、向うも私に気兼ねする風はなかった。彼らは今では左翼知識人として名だけ有名なかたがただが、大抵はもう死亡されたか、第一線から退かれている。
ところでゲーテの研究家、ドイツ教養小説(Bildungsroman)を専門とされた登張先生は左翼などというものではまったくない。いわゆるノンポリである。人柄の良い、穏やかな方で、普通の程度の「進歩的」考え方の持ち主であった。
平成4年は天皇訪中の是非をめぐって世論が湧いていた。私は訪中に反対だった。大概の知識人はそうではなかった。天皇は中国に行って自らのことばで謝罪すべきだ、という考え方に立つ人が圧倒的に多かった。
登張先生もそうだった。今でこそ天皇の訪中反対は普通だと思うが、私の異論は当時は少数派だった。司馬遼太郎氏に対中謝罪の名文を書いてもらってそれを天皇にもたせて中国で謝らせろ、などという「大胆な」意見を申し立てる人もいたほどの時代の空気であったから、平均的な登張先生が訪中賛成の論に傾くのは当然だったかもしれない。
先生はとにかく天皇に中国に行って謝ってもらいたいの一点張りだった。私との間で数度に及ぶ往復書簡があった。私は先生に異論を申し上げるのにも、世の中に抵抗するのにも、緊張感とエネルギーを要した。先生と電話で論争したこともある。
「新しい歴史教科書をつくる会」の始まる5年前の出来事である。
私は朝日新聞論壇欄に天皇訪中に反対する意見を書く機会を与えられた。平成4年(1992年)7月17日付の次の記事がそれである。
いまは天皇訪中の時期ではない
東欧とソ連の共産主義体制が雪崩をうって崩壊した後、世界の人の目は中国、朝鮮民主主義共和国(北朝鮮)、ベトナム、キューバという残された国々の動向に注がれてきた。ことに中国の動きが焦点である。私は最近二ヶ月ほど東欧と旧東独を歩いて来たが、いまだに密告、秘密警察、強制収容所が支配するアジアの共産主義諸国のことは想像するのもいやだ、という人が多かった。東欧では過去を忘れたがっていた。過去を思い出すと頭がしびれるという人もいた。
ドイツでは、なぜアジアでは変化が起こらないのか、と問われた。ところが中国は近ごろ、海空軍力を増強し、これまでの領海防衛から一歩出て、外洋への前進作戦に転じている不気味な動きさえある。地図入りでこれを私が初めて詳しく知ったのもドイツの新聞でだった。台湾や東南アジアはすでに神経質になっている。世界から置き去りにされた唯一の大国である中国はいまいら立ち、焦り、次にひそかに何を画策しようとしているのか分らないのが恐ろしいと書かれていた。しかし中国が独り共産主義体制を維持できるわけもなく、変化は早晩、時間の問題であろう。
7月9日の本欄で、民社党国際局長の伊藤英成氏が、今こそ日中友好のために天皇陛下の訪中を実現すべきである、と書いているのを読んで、私は正直いってほとんどわが目を疑った。自民党内部でも天皇訪中問題が首相による最終決断の時期を迎えていると報じられているので、世界の常識と日本の常識とがいかにかけ離れているかをここでも痛感しないではいられなかった。いったい陛下のご訪中は今が果たしてその最適の時期だろうか。この際ぜひ、慎重に考えてみていただきたい。
私は欧米の中国政策がすべて正しいといっているのではない。天安門事件の直後、中国を見捨てなかった日本外交を私は理解した。天安門事件を人権侵害として非難したフランスは、ソ連がリトアニアに兵を入れても、ゴルバチョフを見捨てなかった。距離の近い者には特殊な事情がある。それを私は分っている。だから日本政府が欧米の反対を押し切って中国に経済援助を再開したことを私は是とした。
しかし、われわれが是とすべきはそこまでである。われわれが孤立する中国に同情の手を差しのべるのはいいが、世界から誤解されないのはそこまでである。われわれが友邦とする欧米各国、われわれと体制を共にする台湾や東南アジアが批判し、疑問とする現在の中国に、天皇が赴き、世界中の批判や疑惑をわが皇室がもろにかぶってよいのだろうか。天皇を政治にまき込まないのが、戦後日本の大切な約束だったはずである。
日本の政官界には、ロシアに対しては警戒心が盛んだが、中国に対しては心情的にのめり込む人々が少なくない。そして大局を見失う。2月に訪欧した銭其琛外相は、天安門事件を忘れていない欧州各国の外相から、握手を拒まれたといわれる。中国は今年、国防予算を12パーセントも増額した。パキスタン、アルジェリア、イランに原子炉を売り、シリアにも売ろうとしている。
中東から北朝鮮まで核武装地帯を作ろうと裏で画策しているという疑惑も、欧米にはある。中国の平和意図をもっと信じてもよいという人もいるだろう。私も中国を好戦国とは思いたくない。
ただここで大切なのは中国の評価ではなく、そういう疑惑や不安が世界に広がっている折にわざわざ天皇が訪中することの当否である。中国が共産主義体制を克服してから訪中されるのでも決して遅くはない。訪中を断って日中関係が一時的に悪化しても、長い目でみればその方が中国の民主化には寄与するはずである。なおこれまでに中国の現職の国家元首が来日した例はないことも付記しておく。
登張先生は私の新聞の記事内容に怒ったらしい。それからフツリと連絡がなくなった。記事のどこかが先生の逆鱗に触れているのである。それがどこかは分からない。
私の書いた文章は今でこそ当たり前の内容であり、穏和しすぎるくらいに思う人もいよう。しかし、時代の空気はまだこの程度の段階であって、これを書くのにも抵抗があったのだ。
人生は哀しい。恩師との関係はこれで切れた。私にも強いこだわりがあったからである。往復書簡の中の先生の片言が私を深く傷つけていた。私も沈黙しつづけた。そして歳月が流れた。
マックス・ウェーバーの勉強会からも私は次第に足が遠ざかり、会そのものも消えてなくなったのか、連絡もいつしか途絶えた。
興味深いことだが、平成4年のこの朝日への寄稿を私に取り持ったのが、明治神宮だったかの意を体して接触してきた高森明勅氏であった。このとき初めて聴く名で、お互いにまだ面識はなかった。高森氏がたしか「神社関係の保守派はかえってはっきり物が言えないから」と言っていたと覚えているが、明瞭には記憶していない。
私の個人のこの15年史の中にもこうして政治は激しく影響した。会って謝罪することもなく、恩師は逝去された。謝罪する理由はない、というかたくなな心が私の内部にもどっかり居坐っていた。
誰でもこのように歴史の中で個人の心が試されている。ひたすら自分の「神」のみを信ずればよい。それ以外にない。
天皇訪中に反対したこんな程度の政治的見解でさえ人々の心に亀裂を走らせた時代を私は潜り抜けて生きてきた。これからはきっと私の15年史には出てこないもっと新しい、未知の問いが日本に迫ってくるに相違ないのである。結局はそれぞれの心が試される。それに耐えられない人々が恐らく無数に出てくるに違いないと私は予想している。
何に耐えられなくなるかといえば恩師や先輩や同僚、あるいは組織の中の人間関係に過度に配慮して、妥協して、自分が自分でなくなるようなことをして、それでいてその自覚がまるでない性格障害者が急増することである。知能も高く、才能もあって、ただ自分でしていることが社会的に何であるかだけが分らない人を性格障害者というのだ。今の時代に早くも至る処で急速に増えているのがこうした人々であるのはじつに恐ろしい。言論人、知識人の世界にむしろ例が多いことこそ真の問題であろう。
2006年03月26日
たてつづけに二つの映画を見た。「男たちの大和」と「Always 三丁目の夕日」である。どちらもあと数日で上映が終わると聞いたので、都内でかろうじて上映されている場所と時間をインターネットで調べて、仕事のあいまを抜って見て来た。
呉に行って海事歴史博物館「大和ミュージアム」でこういう映画があることを知った。それでともかく見なくてはと思った。博物館にあった大型模型が映画にも使われたそうだし、あの近くに別に野外セットがまだ残っていて、そちらにも観光客が押し寄せているらしい。そんな噂話に私も釣られたのである。
でも、何だろうなと思った。あゝいう作り方をされるとかなわないな、と私は少しやりきれない気持だった。映画館の内部では終わりに近づくにつれすすり泣きで一杯だった。私も涙が溢れた。雪の降る中の母と子の別れ、岩壁に手を振る赤子を抱えた将校の妻、なじみの芸者に黙ってあり金を全部渡して立ち去る男、そして僅かな兵隊の給金の中から田舎の母に送金する15歳の少年兵、生き残ったもう一人の少年兵も父母兄をすべて戦争で失い恋人も広島の原爆で逝く。「私は何も守れなかった」と老いた彼は呟く。―――
私もたしかに涙を抑えがたかったが、後で考えると妙なのである。感傷的につくられていて、完全な反戦映画である。大和の最期については本も多く、私はあまり読んでいないが、こんな個人的なエピソード集にしてよいのだろうかなと疑問に思った。
映画は戦争の運命をぜんぜん描いていない。「亡国のイージス」という映画も肉親の愛憎のテーマにすぎなかったが、たしかにあれよりは歴史を扱っている分だけ現実感はある。けれどもイメージとして観客の心に残るのは巨艦の自爆出動という愚挙と若者たちの犬死のスペクタクルシーンにほかならない。いまだにこういう映画しか作れないこの国では九条改正ですら難しいのかなと思った。
けれども、あの映画の製作者は自分では真正面から戦争の運命を描いているつもりになっているのではないかとも思った。反戦映画の意図はなかったかもしれない。製作者の心事を私は測りかねて今でもいる。
最近つくられる戦争映画は軍人の動作が軍人らしくない。どことなく誇張されていて不自然である。兵役のない国でそれはある程度致し方ないとしても、問題はシナリオである。なぜ日本が戦争しなければならなかったのかが分らないストーリーである。運命感がにじみ出ていない。なぜ軍は自爆とみすみす分って一機の飛行機の護衛ももうなくなってから航行に向わせたのか。あるいは兵は承知で死地へ赴いたのか。
この「なぜ」を映画は語らないからリアリティがない。否、この「なぜ」はいまだに日本の国民が答えていないので、そもそも映画がトンチンカンになるのは仕方がないのかもしれない。というよりも、この手の映画はいまだに日本人の手では作れないし、作ってはいけないのかもしれない。
進歩のない者は決して勝たない 負けて目ざめることが最上の道だ
日本は進歩ということを軽んじ過ぎた
私的な潔癖や徳義にこだわって、本当の進歩を忘れていた
敗れて目覚める、それ以外にどうして日本が救われるか
今目覚めずしていつ救われるか 俺たちはその先導になるのだ
日本の新生にさきがけて散る まさに本望じゃないか
映画の中で白渕磐大尉が男たちの死ぬ決意の前の乱闘をおさえてこれを語るシーンがある。遺言からの再現らしい。この語は尊いし、重い。たゞストーリーの全体と画像の展開がこの語を生かす組み立てになっていない。突然この言葉が語られても、観衆には重さがよく伝わらない。
いったいいつ日本人は自分の戦争を正確に表現する映画を作り出す日が来るのであろう。
「Always 三丁目の夕日」は昭和33年の東京、私の大学四年生の頃の下町の舞台を再現し、なつかしい事物と風景に溢れていたが、ストーリーはやっぱり人情哀話である。庶民の笑いと涙の物語である。こういう話にしたてないと日本では映画はつくれないのだろうか。
二つの映画を見た日はどちらも寒く、私は帽子を吹き飛ばされるほどに風も強く、まさに「寒波襲来の早春」だった。
2006年03月23日
日録のコメント欄に、ある人が拙論をほめて次のように書いてこられた。
西尾先生、諸君4月号-『かのようにの哲学』が示す智恵-、密度の濃い素晴らしい論文でした。皇統の問題は、日本人の実質的宗教的信仰心の問題であると同時に、近代合理主義に対する懐疑的態度としての保守思想の問題でもあるわけです。つまり日本人固有の問題であると同時に普遍的な問題でもある。この問題を同時に解決してくれる一つの在り方が「かのようにの哲学」です。本西尾論文がここ最近沸き起こった皇室典範改定慎重論の流れの中で達した結論ではないかなと思います。(以下略)
総合学としての文学 2006年3月1日
方向は大づかみされているが、こんな風に理路整然とまとめてもらえるような立派な仕上がりの論文では決してない。たゞ私は一寸考えてみて論じ尽くせなかった難しいテーマの入り口を示すことは出来て、探求はこれからだと思う一問題に突き当たった。それは日本、中国、西洋のそれぞれにおける王権と神格との関係の比較である。
西洋にはGODという、中国には「天」という絶対超越的な神がいて、代りに世俗の王権はいかに専制的であっても神格をもたないのではないか。ところが日本の天皇はカミである。神格をもつ御一人者である。たゞし、カミの概念が西洋や中国のそれとは異なる。
どう異なるかはむつかしい。あの論文では神話と歴史の関係で少し考察してみて、途中で深追いせずに引き返した。入り口を示すだけで終ってしまった。天皇はカミである代りに世俗の権力を持たない。一方武家のような世俗の権力には神格がない。こういう日本の歴史の二重性、いわゆる「権威と権力の分立」は、地上に神を持たない西洋や中国の権威と権力の構造とは自ずと別のはずである。
それはそうとして、鴎外の「かのようにの哲学」は今回の論文の中心主題では必ずしもない。論文の標題は編集長がつける。私が草稿に添えた原題は「皇室問題の本質は歴史にあらず信仰にあり」であった。長過ぎたので「かのようにの哲学」が用いられたのであろう。そのために誤解される可能性がある。
別の編集者の加藤康男さんが新刊の『人生の価値について』の礼状に添えて、次のように書いてこられた。冒頭に「書斎人」とあるのは、つくる会決別の挨拶状に私が「これからは書斎にもどる」と書いたことに応じている。
ご無沙汰しておりますが、「書斎人」として充実された日々をお送りかと拝察申し上げております。
さて、「諸君」の信仰論を拝読して、誠に腑に落ちていたら「人生の価値について」をご恵贈いただき、後半は特に一挙に読了させていただきました。先生ご自身が過去の病との戦いの中で、何か信仰にも似たものがあって、それが読み手の側にも伝わってきたのではないかと思えたからです。
信仰とは、例え神の存在を信じていない者にでも、伝わるのでしょう。ブログにも書かれていたご友人の病へのお気遣いの中にも、似たような一種の「信仰」が見えました。
この「信仰」なるものの正体は、小生には分かりませんが、こういうものが長い年月、日本人を繋いできた皇室問題と不可分であることはもっと多くの人に知って欲しい問題です。
「信仰」といわれるとたちまち照れ臭くなるのが私の常である。否、大概の日本人がそうである。が、皇室問題はつきつめるとそういう方向の問題ではないかと考える。それを勘違いして、歴史、歴史と人々が騒ぐので、女系でも皇統はつながる論拠が歴史の中にあるとかないとかいう横道にそれた議論(田中卓、所功、高森明勅諸氏の)になるのであろう。
「信仰」といわれて応答の言葉に困って私は加藤さんにすぐ次のように返書を認めた。
お久しぶりです。年をとると行動力鈍く、集中力も落ち、そのぶん一日が短く、せわしない日々をおくっています。
わたしに信仰はありません。どんな宗教もわたしには遺憾ながら単に文化的知識です。日本の平均的人間がそうであるように。しいていえば信じているのは亡き母の愛です。最近犯罪事件をみて、母に愛されなかったひとがあんがい多いのではないかと考えたりします。私はその点では幸せでした。
拙著「人生の価値について」をご一読賜りまことにありがたくぞんじます。
「諸君」4月号論文はいまの言論界に熱っぽい天皇論がおおいので、あえて声なき声をチラットだし、皆さん、ほんとうに天皇の存在をそんなに大事に思っているのは、それ本気ですか、って聞いて見たかったのです。あの論文には少し意地悪がこめられています。江戸前期の「大日本史」が古事記も日本書紀も認めていなかったのを知っていますか、なんてキザな知識をふりまわして、いまどきの保守派をからかって、ほんのすこし戦後の進歩的知識人めいたことをいって、おどかしてやりたいのです。これからもこの手を使ってみます。今の保守派はほんとうにダメです。戦後の進歩的知識人がダメだったのとよく似た意味でダメなのです。
つまり、みんな正しいことを言いすぎるのです。正しいことは犬に食われろです。正しいことの範囲が言論誌ごとに定まっていて、みんなその枠のなかで優等生です。編集者が悪いのか、読者の好みに原因があるのか。というようなことをまた一杯やりながら話したいですね。荻窪にいい店を三軒もみつけましたよ。
つくる会のことはいまあまり考えたくありません。自分から考えなくても、情報が忍びよってきて憂鬱です。今日は週刊新潮からの取材を受けました。記者は何人にも聞くのでしょうから、わたしの考えはどうせ落ち葉の中の一葉です
2006年03月21日
今月他の都市でした講演のテーマは皇室問題であった。1日に大阪倶楽部で、13日に時事通信社内外情勢調査会の鳥取支部で、14日に同会米子支部で同じテーマについて話した。
13日に鳥取は雪が降っていた。着陸できない可能性があると知らされたまゝに11:50に羽田から搭乗した。案の定鳥取上空まで行って30分も旋回して、伊丹空港へ戻った。ANAのリムジンバスで新大阪へ案内され、「超特急はくと9号」に乗って鳥取へ向った。さて、「はくと」って何だろう、と不審になりだすと、車掌さんが来るまで落着かなかった。
「白い兎と書くんですよ」と車掌さんにいわれ、「あゝ、そうか因幡の白兎ですね。」「そうです。」と笑顔で答えられ、やっと納得した。大阪も兵庫もずっと青空が見えた。2時間半の汽車の旅の終り約40分ごろに長いトンネルに入り、トンネルを抜けると外は一面に白い雪国だった。
駆けこむようにして間に合った駅前のホテルニューオータニ鳥取の会場で、用意されていた夕食会の私の食事は摂らないで早速に話を開始した。今まで雑誌などに書いてきたような内容を思いつくまゝに自由に語ったが、終って不動産会社の社長さんという70歳くらいの方が、米国の占領政策の完成がついに天皇制の破壊という形で到来した、と独り静かに語り出した。聴衆はみんな帰ったのに、彼はしばし席を立たなかった。郵便局のアメリカへの身売り、農地の解体、病院の株式会社化、そしてついに天皇制度のなしくずし的消滅に手をかけるに至って、アメリカの占領は満足すべき終結を見た、と怒りとも悲しみとも言い表せぬことばで語りつづけた。私の言いたいようなことはみんな心ある日本人には分っているのだなと思うと、胸を打たれもし、心強くもあった。
「あなたの周りの人はあなたの怒りを共有しますか」と私は聞いた。「いえ、ダメです。少数です。この間講演会で竹中平蔵さんの話を聴いて、アメリカにここまで奪われてよいのかと私は質問して食らいつきましたが、司会者に打ち切られました。わしらは無力ですよ。」
ニューオータニの最上階のラウンジから眺める鳥取の夜景は雪もやんでしっとりと静まりかえっていた。私の年下の友人、鳥取大学の武田修志教授が訪れて来て、夜景を見ながらウィスキーを飲んだ。武田さんは学生に本を読ませる教養の本道につらなる実践教育をすることでよく知られ、そういう体験の教育書も書いて、大学の教養部解体の波に抵抗している理想主義者である。いま小林秀雄に関する本を書いている。
「先生、驚かないで下さい。」と彼は突然思い出したように言った。「私はいま講義室の掃除を始めているんです。清掃予算が減ってペットボトルや紙屑で教室がよごれる。私が率先して始めてみたんです。手伝う学生もボツボツ出て来ています。教官で手伝う人はいません。こんなことから始めなくてはどうにもなりません。きたない講義室で教育はできないとだんだん気づく人が出てくるでしょう。」
武田さんは気負っているのでも、気取っているのでもない。質朴なお人柄である。彼は『諸君!』4月号の拙文「『かのようにの哲学』が示す知恵」にしきりに関心を示した。宗教心と皇室問題についてわれわれはしばらく話合った。香奠袋の買い置きをしない日本人の慣習に関する私の書き出しの部分が印象的だったようだ。
私は武田さんこそが日本人らしい宗教心の持ち主なのだと思った。率先して黙々と講義室の掃除を始めた大学教授。日本の現実のひどさを反映している逸話である。同時に日本人の本来の信仰心のようなものを強く感じさせる方だと思ったが、口には出さなかった。
西洋の旅をして、教会の内陣でひたすらお祈りをする西洋人を見て、日本人には宗教心がないと口癖に反省を語った一昔前の知識人のエッセーの底の浅さを思い出した。宗教心なんてそんなにご大層な、ことごとしいものだと考えるべきではないと私は思う。
70歳くらいの不動産会社の社長さんといい、武田教授といい、良い人々に出会って静かに更けていく鳥取の雪の夜の出来事であった。
2006年03月18日
私は翌7日の12時30分には、海上自衛隊から車が迎えに来た。羽田空港に向った。同行して下さる一等海佐の大塚海夫さん――いつ会っても爽やかで気持のいい紳士――に、プリントアウトしておいた「つくる会顛末記」を機内で読ませた。「まことに残念ですね、まことに。」が彼の口から出た唯一の言葉だった。彼にはそれ以外に言いようがないようだった。
その夜は呉に泊まり、江田島の副校長先生ほかから接待を受け、その後大塚一佐の昔仲間である艦長さんや軍医さんと一緒にカラオケを楽しんだ。私は「イヨマンテの夜」まで歌わされた。翌日午前中に講演。演目は「二つの前史」。江戸時代は近代日本の母胎であり、戦前・戦中は戦後の繁栄の前提である。歴史は連続していて切れ目がない。今の若い人を惑わせている暗い江戸時代像も、北朝鮮のような戦争時代のイメージもともに間違っている。明治維新も第二次世界大戦の敗戦も決してそれほど大きな切れ目で