西尾幹二のインターネット日録

新刊について
2006年07月04日

近刊『「狂気の首相」で日本は大丈夫か』をめぐって(七)

SAPIO続き

「手袋をはめた全体主義」とは

――では「ポスト小泉」はどうなりますか?

西尾 「ポスト小泉」は「小泉」です。小泉さんの政府内政府=“竹中(平蔵)政府”がやってきた市場原理主義は続くと思う。「規制緩和」とか、今までの弱者切り捨て政策。格差をよしとする成果主義のサラリーマン生活と、それが評価される社会。医療や農業、初等教育にも競争原理が入るでしょう。明治以来の日本は、「公正」「公平」が道徳だった。どんな貧しい家庭の子でも勉強して有利な学校教育を受けることが可能だった。そういうシステムがあった。ところが今は初等教育に地方と中央との落差ができてきている。医療もアメリカの保険会社に有利なようなシステムに切り替わってくる。日本の国民皆保険制度は公平という点で世界最良の部に属すると私は信じていますが、病院に競争原理を導入すれば、保険患者が粗末に扱われる「不公平」と「不公正」が始まり日本のモラルを破壊する。

――国民は、「次の首相は安倍晋三さん」というムードだが、それでも、何も変わらないということになる?

西尾 小泉さんが敷いた手法は残るでしょう。ポスト小泉は誰か分からないが、次の人は、外務省を叩くかもしれない。弱腰外交の外務省に国民の欲求不満がたまっているでしょ。叩いておいて、外務省のなかに自分のための“外務省”を作る。これが小泉型独裁の手法です。

 「手袋をはめた全体主義」という・・・・チェコ共和国のヴァーツラフ・ハヴェル大統領が言い出した言葉ですが・・・・・全体主義は必ずしもハードな軍国主義ではない。ソフトなファシズムがあり得る。高級官僚が事務机であれこれ計算しながらことを決め、国民もものが言えなくしてしまう。

 その傾向は、小泉さんのキャラクターが火をつけたのかもしれないけれど、小泉さんが辞めても、続きますよ。「抵抗勢力」が叩き潰されたときに私たちが戦後得てきた自由主義や民主主義も、一緒に叩き潰されちゃったんじゃないか。

 

.今までの自民党を知る人はこんなはずではなかったとホゾを噛むだろうが、もう後の祭りである。米中の谷間で国家意志をもたない独裁国家、場当たり的に神経反応するだけの強力に閉ざされた統制国家、つまりファシズム国家らしくない非軍事的ファシズム国家が波立つ洋上を漂流し続けるだろう

(了) 
     

2006年07月03日

近刊『「狂気の首相」で日本は大丈夫か』をめぐって(六)

 SAPIO3月22日号に出た記事(書闘倶楽部)P.42~43を掲載します。

 かくて小泉首相は去り、残るのは意志をもたずに漂流する非軍事的ファシズム国家だ

  総理就任時の支持率は戦後最高。昨年9月の自民党の歴史的大勝によって、選挙後、衆参両院ともが郵政民営化法案を可決。「自民党をぶっ壊す」「変人」「抵抗勢力」「人生いろいろ、会社もいろいろ」「小泉劇場」・・・・そのパフォーマンスの多くが流行語となった小泉政権は、今年9月、佐藤栄作内閣、吉田茂内閣に次ぎ戦後3番目の長期政権として任期を終える。実質的にその政治使命を終え、“花道”を去る姿勢に入ろうとするこの首相は何者だったのか?そして、その長き政権を支えてきたこの国の気風とは?『「狂気の首相」で日本は大丈夫か』の著書、西尾幹二氏に、小泉純一郎その人を語ってもらった。(構成/春日和夫)

――「狂気の首相」とは刺激的な挑戦的なタイトルですが。

西尾 「狂気の首相」と世間で呼ばれている人、というのがカッコをつける意味で、私が「狂気の首相」と断言しているのではない。昨夏、衆議院解散時の小泉さんの発言は「官のものを民へ」の、いつもと同じことを繰り返し、中身はわずか5分間程度のものだった。「あの迫力に打たれた」という人もいるが、何十年も郵政民営化を考えてきて中身となると5分しか話せない、この小泉さんの詩人のような政治運営は果たしてどこまで正気なのか、狂気を装う「佯狂(ようきょう)」なのか・・・・・本当のところは見えないのです。

――その選挙の結果は、自民党の大勝でした。「私の内閣の方針に反対する勢力はすべて抵抗勢力だ」に続けて、「改革を止めるな」。白黒つけよ、と迫り、勝ってしまった。

西尾 この間までホリエモンに拍手していた人が、ホリエモンの逮捕で、同じ手で石を投げているわけだよね。片山さつきや猪口邦子に浮かれて深く考えないで投票をした同じ人たちが今度はホリエモンは悪者だと言い立てる。大衆社会の劣化ですよ。

〈パンは満ち足りているので、サーカスが見たい。できれば高いブランコから転落する失敗者を見たい。今度の選挙ほど成功者と失敗者の色分けがはっきりし、失敗者をめぐる面白い話題が提供された例は少ない〉

――「サーカスが見たい」というのは我々国民のことですね。そして本書はこうも書く。

〈日本人の心は変わったか、今度変えさせられた〉。〈負ける者はとことん負けるがいい。どんな策を弄しても強い者は結局は勝つのであり、彼らには何でも許されている。勝つ者はボロ勝ちするのが正しい。というのが日本国民の反応だった〉。
――「刺客」を送るという非人間的な党本部のやり方に反発する心は、選挙結果に反映しなかった。

西尾 小泉さんはこの間都内の一等地の公務員宿舎をけしからん、つぶすといって人気を博した。表に目立つ官僚を叩いて、他方竹中のような自分の身近な特定の官僚に権力を与えて自分の政府内政府を作る。「官僚は悪者だ」と言いながら、財務省は守っている。

――そして、叩かれたのが、郵政だった。

西尾 財政破綻にしか道が通じていない郵政民営化を、「すべての改革の本丸」だと小泉さんは言った。郵政と簡保に、国民から330兆円が預けられている一方、国債や、財務省への預託金、つまり国家への貸し付けが304兆円。うち100兆円は不良債権化して、ほぼ償還不能。貸し手である財務省理財局の責任も、借り手である特殊法人の責任も追及されず、郵政省ばかりが目の仇にされた。構造改革をやるなら、財務省や特別会計の特殊法人にメスを入れるべきなのに、それはやらない。郵政なんて、叩く理由は何もなかった。この官僚叩きが、政治の目を逸らして財務省という官僚を守ったわけです。

――そして「官」から「民」への郵政民営化はどうなる?

西尾 日本の「官」からアメリカの「民」へ資金が流動するだけです。郵政民営化で、郵便局は、窓口ネットワーク会社、郵便事業会社、郵便貯金会社、郵便保険会社の4つの会社に分けられ、さらに4つの会社を子会社とする持ち株会社と、国民から預けられた330兆円を保有する「公社継承法人」ができる。持ち株会社が、郵便貯金会社と郵便保険会社を07年から10年で売却し、民営化することになった。公社継承法人は金を外部委託で安全運用するというが、外部とは、政府の管理外の民間会社で、運用権を外国に売れる。

 アメリカも深刻な財政状況のなか、日本から何が吸い取れるかを必死に考えているわけです。財政の基盤である郵貯・簡保を取り毀して政府から切り離し、アメリカの市場開放要求にそのままさらしてしまう。「第二の占領政策」と言われた89年~90年の日米構造協議からつながる、アメリカの標的になった日本の姿です。


近刊『「狂気の首相」で日本は大丈夫か』をめぐって(一)()()()()はこちらです。

つづく

2006年03月05日

忘れることの大切さ

――拙著『人生の価値について』と10年前の自分――

 振り返ってみるとあんな難局を我ながらよく乗り切れたものだ、と思うことが人生にはよくある。体力のことを言っている。私の場合は10年前のことを言っている。これから10年先になると、今私が乗り切っているそれなりの現下の難局を思い出して、よくやったものだと思うようになるのかもしれない。

 『人生の価値について』は約10年前に、2年間に及ぶ北海道新聞の、毎日曜日3枚の連載を一冊にまとめたものだが、この2年の期間中に、私は死の淵に近く立つ二度目の大患をくぐり抜けている。その間に連載を中断してはいない。そのことをある人から葉書をいたゞくまですっかり忘れていた。

 記録によると不整脈悪化で榊原記念病院に緊急入院したのは、1994年12月12日である。連載は94年4月3日に始まっている。病気は過密スケジュールによるストレスが原因である。連載中の2年間は5冊の単行本を出している多産の歳月であった。そして入院はその中間で、「新しい歴史教科書をつくる会」を始める2年ほど前にあたる。

 1994年11月20日に福田恆存先生が逝去された。私は朝日新聞に追悼文を書いた。そして、月刊誌『新潮』からもより長文の追悼文を依頼されていた。先生の青山斎場での本葬儀は12月9日だった。私はその翌日から苦しみだし、12日に病状がにわかに進み、入院した。心室頻拍症という診断を受けた。心電図のモニターでしばしば脈の停止があった。メキシティールが注射された。すんでのところで心臓が止まる危機的状況だったと後で知った。

 私は『新潮』の追悼文を書くつもりだった。先生の訳業のイプセン『ヘッダ・ガーブラー』から書き出す野心的な組み立ての小論にする予定で、必要な本と原稿用紙を病院に運びこんでいたが、医師に制止され、諦めざるを得なかった。

 それでも産経新聞の正月用に予定される「正論」欄を、これは短文だということで、12月15日に完成させている。12日に入院して15日に書いている。よく気力と体力があったなァ、というのは一つにはこのことである。福田先生に関するエピソードの一つを紹介し、「私に踏み絵をさせる気か」という題で発表している。そして19日に退院し、私は自宅療養に入っている。

 わずか一週間の入院生活だった。が、心臓はこわい。あぶなかったのだ。それから2年ほど不整脈に悩んだ。血圧計を日に何度も使用していたが、いつしか完全に不整脈は治った。エパデールという、今も常用している青い魚のエキスの薬のせいかもしれないし、「新しい歴史教科書をつくる会」の活動――1996年12月2日に始まる――がストレスの解消に役立ったのかもしれない。(当時はそうだったが、最近は逆につくる会がストレスになっている。だから手を引いたのである。)

 『人生の価値について』の原稿は札幌の北海道新聞本社へ送るのに、ある通信社の手を経て、送付されていた。二年間お世話になった通信社のB.Hさんに今度出た再刊本をお送りしたら、次のような好意的な葉書のご返書をいたゞいた。

謹啓。御著『人生の価値について』の新刊を御恵贈いただき、謹んで御礼申し上げます。思えば10年以上も昔、電通大の先生のもとにこの連載原稿を頂戴に通いました。毎週いただく原稿を帰りの電車でむさぼるようにして拝読していたことが鮮やかに蘇えります。当時の私の仕事を離れた大きな楽しみであり、思索の羅針盤でもありました。新潮選書で一冊の本になったとき、一人でも多くの日本人にこの名著が広まるように念じたと同時に、読んだ人は必ず己の迷妄を振り返り、少し利口になったような気になるだろうと自身を棚に上げて思ったことであります。新版は廉価であります。さらに読者の輪が拡大して行くことだろうと信じております。日曜日、拝読し直しておりましたら、いつの間にか夜中近くになっていました。まさしく〈巻を措く能わず〉そのものでした。取り急ぎ御礼のみにて失礼いたします。敬具
 私は嬉しかった。かつて何度も読んだはずの方がまた読んで、また引きこまれて、つい夜中近くまで面白くて読んでしまったという、こういう率直なことばが、いつの場合にも作者を何よりも喜ばせる。

 あの本は読みだしたらじつは筋があって、次々と面白くて、先を読みたくなる構成になっている。じつはそうなのだ。そういう文章の組み立てになっている。B.Hさんがその点を再体験したと報告して下さったことが私には感激だった。

 再刊本を決定し、出版して下さったWACの編集者M.Mさんが「三分の二くらいまでは〈面白い本だな〉という印象でしたが、最後の三分の一に入るとオヤという印象で、〈感動させる本だ〉と分りました」と、出版前にわざわざ電話を掛けてこられた。私はこれも嬉しかった。

 「人を感動させる」は、ものを書く人間が密に心に期する最大の願望で、しかもそういう本は滅多に創り出せない。

 ある人が短章集なので一日一篇ずつ読みます、などと葉書をくれたのにはガッカリした。そういう本ではない。一気に読める推理小説のような仕掛けになっている本なのである。一日一篇ずつ読むなどという人は結局読まないでやめてしまうだろう、と思った。

 なぜ最後の三分の一は人の心を摑むのか。1981年のガン体験を15年たってやっと筆にできたのである。それもストレートではない。終りのほうにちょっと出しただけである。しかも書いている最中に二度目の大病を患っていた。

 とはいえこの本は病気がテーマではない。古代中国あり、ヨーロッパ論あり、インドの不可触民あり、オウム真理教あり、宗教・歴史あり、人生に評価はありや、のテーマがあり、母の死への思い出があり、内容は多方面にとぶ。読み直してみて、文章には暗い翳りはないことを再確認した。筆者の気力は充実していた。

 B.Hさんからお葉書を頂くまで、この連載の期間中に入院していたのだということを忘れていた。連載は中断されなかった。そういえばB.Hさんは病院にお見舞いに来て下さったな、と思い出した。病院で一回分の原稿を渡したのかもしれない。

 すっかり忘れていた。何でも忘れてしまう。とくに病気のことを忘れる。時期を忘れる。連載の苦しかったことと楽しかったことは覚えている。私が言いたかったのは「忘れる」というこのことである。10年をつと他人に言われて年号を合わせてみない限り、もう自分の歴史、二つの事件の重なりをすっかり忘れている。

 忘れたいのである。きっとそうだ。心の中から追い払ってあれから10年を生きてきた。だから今、私は生きているのだ。そうなのだ。そうだったのだ。とあらためて生と忘却の不思議について考える。

 生は未来を必要とする。だから忘れるのだ。私は次の10年に向けてまた走り出しているのである。きっと今日このことを書いたことをすっかり忘れるであろう。それでよいのだと思う。

2006年02月22日

近刊『「狂気の首相」で日本は大丈夫か』をめぐって(五)

 佐藤優氏は私の本に収録されている「ハイジャックされた漂流国家」を掲載当時の『正論』(2005.11)から引用しつつ、次のように自説を展開している。

 問題は小泉政権が新自由主義政策を軌道転換し「優しく」なる場合、もしくは来年(2006年)9月の自民党総裁任期終了後、小泉氏が党規約に従って総裁から退き、総理大臣の座から離れた後の与党が絶対過半数の議席を維持しながら国民に「優しく」なり、国民を束ねる新たな原理を見出そうとするときだ。この原理の内容如何によっては、日本にファシズムが到来する現実的危険が生じる。この点に関して、『世界』の読者は違和感をもたれるかもしれないが、小泉政権がファシズムに転化する危険性についての西尾幹二氏の指摘は傾聴に値する。少々長くなるが正確に引用しておく。

 〈(小泉総理は) 何をしでかすか分らない人である。国家観、歴史観がしっかりしていないから、この国は外交的に、政治的に、軍事的に、国際社会の荒波を右に左に揺れ動く頼りない漂流国家である性格を今以上に露骨に示すようになるだろう。しかも操舵席は暴走気味の人格にハイジャックされている。

 今までは政府内に右もいれば、左もいて、自由な発言や提案が飛び交い、首相の意志決定に一定の歯止めがかけられていた。しかしこれからはそうはいかない。首相の鶴の一声ですべてがきまる。党内に意見具申の勢力が結集すれば「親衛隊」に蹴散らされる。

 今までの自民党を知る人はこんなはずではなかったとホゾを噛むだろうが、もう後の祭りである。米中の谷間で国家意志をもたない独裁国家、場当たり的に神経反応するだけの強力に閉ざされた統制国家、つまりファシズム国家らしくない非軍事的ファシズム国家が波立つ洋上を漂流しつづけるだろう。

 世間はファシズムというとヒットラーやムッソリーニのことを思い出すがそうではない。それだけではない。伝統や歴史から切り離された抽象的理想、外国の理念、郷土を失った機械文明崇拝の未来主義、過度の能率主義と合理主義への信仰、それらを有機的に結びつけるのが伝統や歴史なのだがそこが抜けていて、頭の中の人工的理念をモザイク風に張り合わせたきらびやかで異様な観念が突如として権力の鎧をつけ始めるのである。それがファシズムである。ファシズムは土俗から切り離された超近代思想である。〉(西尾幹二「ハイジャックされた漂流国家・日本」『正論』2005年11月号)
 
 10月17日に小泉総理は靖国神社を参拝し、これに対して中国政府、韓国政府が激しく反発している。今後、マスメディアで現下日本のナショナリズム言説が、排外主義的傾向の言説を含め、結晶化する。その中で、近未来、国民を束ねる軸となる原理の萌芽が見られるかもしれない。今後、2、3ヶ月の総合誌、オピニオン誌に掲載される論文を精査した上で、連載最終回に再度ファシズムの誘惑についての情勢分析を行いたい。
 
 ファシズムの危険を阻止するためには、東西冷戦終結後、有効性を失っているにもかかわらず、なぜか日本の論壇では今もその残滓が強く残っている左翼、右翼という「バカの壁」を突破し、ファシズムという妖怪を解体、脱構築する必要がある。そのためには論壇人一人ひとりが少しだけリスクを冒して、「敵」陣営の有権者の言説でも評価できる内容はきちんと評価するという当たり前の対応をとることが重要だ。開かれた精神、私の理解では、新自由主義ではなく、他者危害排除の原則を唯一の例外として、個人の愚行を認めるという旧自由主義(オールドリベラリズム)的価値観の復活が重要だ。


 日本の論壇の悪弊、左だ右だという固定観念の「バカの壁」の打破が必要だという考えはまったくその通りと思う。いうまでもなく保守言論界にも「バカの壁」は張りめぐらされている。オピニオン誌の編集者が固定観念に囚われている。

 国民を「束ねる」方向として今はすでに道徳的秩序主義が強まる方向にあると思う。「個人の愚行を認めるというオールドリベラリズム」というのはいい言葉で「党議拘束」で反対を封じるなどは最低である。ポスト小泉に誰がなっても小泉の強権的手法へのしばりが強くのこり、小泉以前に戻らないであろう。東京都庁にまでそういう空気が及んでいる。精神的統制が強化され、ご清潔主義が横行するのはウンザリする傾向なのだ。

 他方、竹中やホリエモンの「新自由主義」はファシズムとは逆方向で、国家が「負け組」に配慮のある新政策を示すときにかえって危くなるという佐藤氏の指摘は新鮮で、面白い。それこそポスト小泉に誰がなっても、人気取りは必ず「負け組に優しく」の方向に転じざるをえまい。

 ナチスもたしかにドイツ民族の平等と福祉には特別の意を用いたのだ。国民の関心を買うために、ポスト小泉内閣は弱者保護に乗り出すかもしれないが、しかし、財政が果してそれを可能にするだろうか。

 次に「排外主義的ナショナリズム」の強化ということがくりかえし指摘され、ファシズムの要因として強調されている。佐藤氏は「日朝関係について言えば平壌宣言(2002年9月17日)の廃棄という形で、国交正常化を断念するという形で現れよう。」という大胆な予測を書いている。

 これはあり得ることかもしれない。また、「関係悪化という観点では、潜在力をほとんど用いていない日米関係が今後悪化するかもしれない」と言っている。基地問題や財政問題で気になる諸点が現存しているのは事実である。

 しかし「排外的ナショナリズム」の語で指摘されている内容は日本の独立自存への意志と切り離せない。精神的な日本の自立は私の目指す方向でもあり、ファシズムといわれても困る。

 米中の谷間にある日本の外交は財政面でアメリカに好き勝手されない防御法を身につけ、軍事面でアメリカに依存せざるを得ない現実を知った上で自存の道をさぐり、基本において「親米」、しかし歴史研究においては自国の戦争の正しさを再認するためにも基本において「反米」にならざるを得ないであろう。

 中国・北朝鮮・韓国のうち韓国への外交は関心のレベルが下がり、中国に対する最大限の警戒の必要はさらに強まるであろう。以上の情勢から、佐藤氏の言う「排外的ナショナリズム」がすぐ結晶するとも思えない。

 たゞ市民生活における道徳的秩序主義や官僚統制の外から見えない強化、表向きの弱者への「優しさ」を装った首相を取り巻く一部の人間の独裁というソフトファシズムの進行には、佐藤氏の言う通り注意しなくてはならない。次の政権においてさらにそうである。小泉内閣はやがてくるものの露払いの役割を果しつつあることは十分に考えられ得る事柄なのである。

2006年02月19日

近刊『「狂気の首相」で日本は大丈夫か』をめぐって(四)

 自民党は2月9日に来夏の参院選の候補者選びにいち早く着手した、という報道がなされた(「朝日」10日付)。予定を前倒しにする手回しの早さである。「小泉首相や執行部が昨年の総選挙の再現を狙って候補者の公募や現職優先の見直しを進める考え」とみなされている。

 小泉政権は果たしてファシズムの先駆形態か、という議論はじつは私だけでなく、言論界の一部ではすでにいろいろな形でなされている。統制の強化が著しいことがその徴候とみられている。参院選のこのような早めのしばりも前例がない。

 小泉政権を評価する人の中には、旧田中派に代表される自民党内の古い体質の大掃除が果された、という実績をあげる人が多い。この件は私も前回の参院選の直後に「評価に値する」と書いた覚えがある。しかし、前回の郵政選挙(衆議院解散)は大掃除の程度をはるかに越えていた。

 古い体質の改革ではなく、日本人の道徳の根幹にある地域の義理人情や保守政党としてのアイデンティティの元となる民族主義的愛国感情までをも破壊してしまった。そして、それを能率本位の市場競争の理念、アメリカニズムに取って替えようとした。

 あの頃から政界ではなく日本の一般国民生活に、さまざまな道徳主義的ご清潔主義がはびこりだしていることにお気づきだろうか。東京都が旗を振り出した迷惑防止条例というのがある。ポルノなどの性の自由を抑える規制も知らぬうちに強化されている。

 検察が何となく力をもち出し、国民感情をうまく利用して、秩序と道徳の先導役を果たして一般の人の喝采を浴びているというのもどことなく気にかゝる所である。小泉政権の大掃除は旧田中派だけでなく、大切なものをも一緒に掃き出してしまっていないか。

 ファシズムというと軍事パレードと独裁者の怒号のような演説を思い出す人が多いが、そういうものばかりではない。チェコの元大統領ハベル氏が、「手袋をはめた全体主義」と言ったように、高級官僚がソファーに坐って、事務机の前で手袋をはめたまゝ行うソフトな全体主義があり得る。国家統制だけ強まり、その中味は北朝鮮のイデオロギーだったりするのが一番恐ろしいのだ。

 『「狂気の首相」で日本は大丈夫か』で私が抱いた未来への不安は果してただの杞憂だろうか。小泉政権は過渡期の政権、次の新しい体制への橋渡し役にすぎないといわれてきた。小泉政権はファシズムの露払い、その先駆形態ではないかという疑問を私は本書で述べているが、知友の多くは私の本の題名に首を傾げ、「どうせ9月にやめてしまう人だから心配ない」とか、「小泉さんはいささかクレージーだが、ファシズムとは思えない」などと反応を示す人が少くなかった。

 しかしここへ来て急に私の本に注目する人が出て来たようだ。SAPIOからの同書をめぐる一ページインタビュー記事の依頼があり、マスコミの人がこの題名に怖がらないことを証明した。来週にも会うことになった。

 さて、それに先立ち、昨年の暮のうちだが、『国家の罠』と『国家の自縛』の二冊で話題になった佐藤優氏が『世界』(2005.12)に私からの長い引用も含めて、小泉政権はファシズムか? をあらためて問う論考を掲げているが、さすがに見るべき人はちゃんと見ている。

 佐藤氏の短期連載の第6回しか私は読んでいないが、重要な判断が示されている。氏の考えを私なりに要約すると次のようになる。

 小泉政権がファシズムかという問いに対する佐藤氏の答えは「ノー」だが、しかしファシズムの前提条件は整いつつある。与党が議会で三分の二以上を占めているので憲法第58条の規定を援用すれば、与党が全議席を獲得することも理論的に可能である。

 しかも小泉首相への権力の集中も進んでいる。ファシズムの特徴は官僚支配の打破を唱えることによって、実際は官僚支配を強める結果をもたらす逆説にある。たゞし、支配力を強める官僚は総理に直接任命された新官僚である。例えば竹中平蔵のようなテクノクラートに代表される総理直属の官僚である。(過日も都内の一等地の公務員アパートの取りこわしを首相が命じたとの報があり、国民の人気を博しているが、このように外側から見える処で官僚打破を叫び、見えない処で官僚支配が強まる現象はファシズムの近さを暗示している。)

 そして既成の官僚が力を失い、新しい特定の官僚の元に外側からは見えにくい小政府が生まれる。しかし佐藤氏は、小泉政権にはファシズムに不可欠の要素、自国民に対する「優しさ」が欠けているという。ファシズムの語源となった「ファシオ」はイタリア語で「束ねる」という意味、国民を束ねる手段には二つあり、第一は排外的ナショナリズム、第二は社会的弱者、競争社会の「負け組」に対し国家が再配分を行う平等主義がそれである。

 ファシズムは「勝ち組」を国家の力によって抑えこむ傾向がある。竹中平蔵とホリエモンに代表される「新自由主義」はその意味でファシズムとは相容れないのだ、という注目すべき仮説を提起している。(そうなると今度のホリエモン逮捕はファシズムへの新しい段階ということになるのかもしれない。今回の皇室典範問題で小泉政権が露骨に示しつづけているのは君主制の廃止、共和制への指向である。これもファシズムに向かっていく薄気味の悪い徴候かもしれない。)

 天皇の制度は歴史概念で、ファシズムのような近代的概念とは一致せず、これをむしろ排除する役割を担ってきた。天皇の制度が廃止になったら、その次に異様な独裁体制が出現する可能性がなきにしも非ずと私は考えている。これは私の推理である。

 さて、佐藤氏によるとファシズム国家はその内側において国民の平等を担保するのが常であり、国民に対してのみ「優しい」のを戦略とする。この点において、「新自由主義」による競争肯定の小泉政権は「負け組」の面倒はみないのであるから、優しくなく、いまだファシズムとはいえないとの判定を下している。

 そして、私の論文からかなり長い部分の引用を含めて、思わぬ方向へ議論を次のように展開している。

2006年02月11日

近刊『「狂気の首相」で日本は大丈夫か』をめぐって(三)

 このあいだ九段下会議で人民日報の原文のコピーを解説づきで読む機会があった。その中の社説の一つに小泉首相の靖国参拝は中国にとって「寒風」だという表現があった。

 何のかの言っても、参拝は中国に対する圧力になっている証拠といえるかもしれない。今までの首相にできないことを小泉氏はやってのけたではないか、という評価の声がこのときもあがった。保守派の中の根強い小泉評の一つである。

 政治効果という点でこの事実は認められてよいのかもしれない。しかしどうしても私が素直に認められない気持にもなるのは、心の内実が透けて見えるからである。寒々とした首相の心の中が覗けるように思えるからである。

 靖国参拝には至誠、まごころがなによりも求められる。首相は昨夏発表した談話で「戦争によって心ならずも命を落とされた多くの方々」との表現を使った。自ら進んで戦場に赴いた将兵たちの心がまったく分っていない証拠を、期せずして漏らしてしまったのである。

 靖国参拝は拉致被害者を一部取り返した実績とも併せて、小泉純一郎という政治家が国民に最大の目くらましを食らわせている、戦術に長けた、微妙な言動の空間であると私は考えている。

 本書の61~62ページに私は次のように記している。

 「心ならずも命を落とされた多くの方々」という表現に、今夏、激越な調子で反駁し、自ら進んで国に殉じた往時の将兵の心のわからない首相への痛憤の念を靖国の演説で吐露した方がいる。小野田寛郎さんである。小野田さんは別の所で、政府主導の、戦没者慰霊の追悼・平和祈念のための記念碑を以て靖国の代替にすることがもし決まったら、英霊はこの国を「敵国」と見做すであろう、と断固たる発言をされている。

 ところが奇妙なことに、別にこれに答えてではないが、首相はつねづね代替施設が仮りにできても、靖国に代わるものではないと語り、保守サイドの人々を喜ばせるのである。それでいて、「心ならずも」を含む今夏の首相コメントは平成7年の村山首相の侵略戦争謝罪談話の域を越えていない。

 首相の言葉は靖国を大切に思う人たちにフッと近づき、そしてまたフッと離れる。行動も同様である。最初に8月15日に参拝して、毎年堂々と続けていれば中国は沈黙した。スキを見せるから政治的に利用価値があるとみられるのである。それなのにまた今回は、登壇せずに一歩尻ごみした祈祷態度に出たので、再び中国につけ入られるであろう。

 このように中途半端で、曖昧で、それでもほんの少しだけ国民に理解されやすい言葉を並べたり、行動したり、靖国関係者に「参拝して下さるだけで有難い」と言わせるかと思うと、小野田さんのような人を激怒させる。

 このフッと近づきフッと離れるやり方こそが、ほかでもない、「左翼」の常套手段なのである。形だけの参拝で、靖国を大切に思う人々に、まるで乞食にものを投げ与えるように恩着せがましい言動を重ねる首相に、私はいい加減にもうやめろと、言いたい。

 しかしここにこそ、この政治家の国民的人気を博している煽動家としての独特な心理誘導の極致がある。ナチス時代のドイツ国民は総統演説の熱っぽさに酔ったのではない。そのつどそのつどほんの少しだけ理にかなった言葉が並んでいることに引きずられていったのである。


 私あての私信で、この部分に共鳴して下さったのは国語学者の萩野貞樹氏であった。

 かういふ書物を読んで反撥できれば気楽でせうが共感せざるを得ず、その共感なるものは即ち現首相への苛立ちであるわけですから読者としては辛いところです。62頁「首相の言葉は靖国を大切に思う人たちにフッと近づき、そしてまたフッと離れる」のご指摘は実に印象的ですが、首相のこのとりとめなさに、われわれはきりきり舞ひさせられてゐるわけです。それなのに取り敢へずはこの人を兢々の思ひで見守るしかなく、思へばわれわれは不思議な地点に立たされたものです。
 たしかにそうなのだ。この厄介な首相に私たちはキリキリ舞いさせられてきたのである。なかでも最近の、皇室典範改定のテーマはその最たるものであった。秋篠宮妃のご懐妊のニュースで全国民がやっと愁眉を開いたなどというのはおよそあってはならないことなのである。

 それでもなお2月9日から10日にかけて私は首相の本意を測りかね、TVのニュースのたびに彼の言葉に注意を向けつづけた。そして、皇室典範改定の法案の国会上程を取り止めた、という首相じきじきの言葉が、ついに口から出ていない事実に、いまだに一抹の不安を抱いている始末なのである。

 タイミングよくご懐妊のニュースが飛び出たから良かったものの、そうでなかったら皇室に関わる国会内の衝突は不可避だっただろう。しかもあれも、なぜか宮内庁というお役所をとびこえて宮家からダイレクトに陛下への奏上がなされ、同時にニュース公開となった経緯に、政府に対する宮家の警戒心、あるいは不信があってのことと思わずにはおられない。ひょっとすると妨害をかいくぐってのスリリングな発表だったのではあるまいか。憶測かもしれぬが、悪しき政治家のために宮家に心を煩わしめて、お気の毒にと私は一瞬心をくもらせたのである。

 小泉とは何という人物であろう。許しがたい政治家ではないか。「至誠至純」が求められる靖国参拝にもなにか説明のできない不純で不誠意で場当たり的なモチーフを同様に私は感じつづけてきた。

 大学と政界を通じての友人の栗本慎一郎氏の「パンツをはいた小泉純一郎」に次の証言がある。

 

 靖国神社参拝問題で、小泉は中国、韓国の怒りを買っていますが、靖国神社に対して、彼は何も考えていないですよ。

 私はかつて国会議員として『靖国神社に参拝する会』に入っていた。そこで、小泉に『一緒に行こうぜ』と誘ったのですが、彼は来ない。もちろん、靖国参拝に反対というわけでもない。ではなぜ行かないのかといえば『面倒くさいから』だったのです。
 
 ところが、総理になったら突然参拝した。きっと誰かが、『靖国に行って、個人の資格で行ったと言い張ればウケるぞ』と吹き込んだのでしょう。で、ウケた。少なくとも彼はそう思った。
 
 それに対して、中国、韓国が激しく抗議するものだから、彼は単純に意地になった。批判されるとますます意地になる人がいますが、彼はまさにそのタイプです。

 だから、中国や韓国がこの問題を放っておけば、小泉も靖国参拝をやめますよ。もし私が中国、韓国の首脳なら、靖国のことなんか忘れたふりをして、「いい背広ですね」とか、関係ない話をする。そうしたら、次の年には行かなくなりますよ。小泉は、その程度の男なのです。こうして彼は自意識の劇場を演じているのです。

 こんな男がこの国の総理です。注意すべきではないでしょうか。」


 これを読むと私の口から何たることよと深い溜息が出て、ただ空しい思いに襲われるのみである。

2006年02月10日

近刊『「狂気の首相」で日本は大丈夫か』をめぐって(二)

 さて、拙著の題名の「狂気の首相」に括弧がついているのには意味がある。いわゆる「狂気の首相」とみなされている人、噂されている人という趣旨であって、私が「狂気」と断定しているのではない。先週もTVタックルで出演者のお一人が「小泉さんは頭がおかしい」という意味のことを言っていた。そういう声があちこちで聞える概念の総称を括弧づけで表現したまでである。

 それを証明する一例を少し長くなるが引用させていたゞく。

 栗本慎一郎『週刊現代』(2005.12.24)巻頭記事よりの引用で、Speak Easy社会というブログの「パンツをはいた純一郎」というタイトルの記事からとびとびに転送させてもらう。 栗本氏は人も知る首相のきわめて近い慶応大学在学中の同級生で、その関係は
 

 「小泉の同級生のなかで、大学出てから小泉と同じ職場で働いた人間なんて私以外にいません。追って詳しく説明しますが、私は代議士として自民党に入ってしまった期間があり、そのとき、同じ職場で働いていました。ですから、客観的に見て私には小泉に関するものすごい証言能力があるでしょう。

 栗本氏の証言は次のように展開される。
 
 彼は一対一では誰とも話ができない。『コミュニケーション不能症』です。人間と普通に話すことができないのです。彼が人と付き合うには、立場が必要なんです。言葉を知らないから、友人としての話というは成立しない。だから「立場」しかない。
 
 「オレが会長だ」「オレは何かを代表している」という立場なら演じることができる。ですから、彼は自分の性格上、権力は絶対に欲しい。権力欲がないようなことを言っていますが、それは大間違いです。

 「小泉は通常の意味で、とにかく頭が悪かった。本当は頭がいいんだけど、成績が悪いといったパターンがありますが、彼の場合、ただわかんないだけ。理解カゼロなんです。
 
 彼がいかに頭が悪いか。私が'95年に衆議院議員として自民党に入党したときに、一時期彼の『押し掛け家庭教師』をやったことがあります『金融市場をどうするのか』、『戦後の日本経済のなかで、現在はどういう位置にあるのか』、そういったことについて、すでに名の知れた若手リーダーなのにあまりにとんちんかんなので、教えてやろうということになったわけです。
 
 それで、最初は私がやったのですが、あまりにダメなので、懇意にしている別の有名教授に応援を頼んだ。先生と生徒があまり親しいとうまくいかないことがある。それを心配したのです。
 
 それで某教授を呼んで、
 『ひょっとしたら総理になるかもしれない男なのに、こんなんじゃ困るから』
と依頼したのです。

 某教授も小泉がそんなバカとは知らないので、日本のためにと、やってきた。でも、講義は、まったく前に進まない。しかたがないから、私が司会のように横についた。『これは○○のことを話しているんだよ』と、解説した。家庭教師に司会が必要だったわけです。

 ところが、それでも話が進まない。私がそばにいるせいで格好つけているのかと思って、行きたくもないトイレに立って席を外してみました。しかし、戻ってきても進んでいない。結局、3時間ほどやって諦めました。

 後で某教授に『どうですか』と聞いたら、『ダメだねえ』と言って困ってました。そして彼がこう断じたのです。

 『これがわからないとか、あれがわからないということじゃなくて、問題がわかっていない』
 小泉は採点のしようがないぐらいバカだというのが正しい評価です。前首相の森喜朗さんも頭が悪そうですが、彼は、自分がわかっていないことがわかるようだ。だから森のほうが少し上です。


 皇室のことも、歴史のことも、経済のことも、結局首相は何も分らないで政治をやっているということになるのだろうか。栗本氏のあけすけな証言を読むと私は思い当るものがある。そのまゝ私が一年半前に予言的に書いておいた「小泉純一郎“坊ちゃんの冷血”――ある臨床心理士との対話」(『VOICE』2004.8)、これは上掲書にも収録した論文であるが、ここですでに指摘した問題点と、栗本氏の証言内容とはほゞ一致していることが分るからである。私は首相の一連の政治行動から推量しただけだが、栗本氏は実体験でこれを裏づけている。
 
 なぜ郵政事業をこれほどまで犠牲を出しつつ民営化しなければならないか、何度小泉の演説を聴いても単純すぎてさっぱり理解できない。民間のできることは全部民間でと言うのなら、道路公団についてなぜあんなに適当にやるのかわからない。彼は郵政民営化について、中身はせいぜい5分しか話すことができないのです。何十年とそればっかり考えてきて、5分しか話せないんですよ。これは問題でしょう。
 
 ところが、テレビに出るときは5分で十分なんです。発言が放映される時間は、せいぜい5分ですから。しかし、議論はまったくできない。だから、突然の断行強行になってしまうのです。

 この内容は私が近刊の前掲書の「序」に書いたこと、衆議院解散の夜の首相のテレビ演説から私が直観的に感じ取ったこととぴったり同じである。栗本氏はさらに、
 
 私は、一、二度、彼と二人だけで新幹線に乗りました。東京から京都まで、あるいは大阪まで、隣に坐ったわけですが、あれほど退屈な時間はなかった。彼はとにかく普通の話ができない。議員同士の世間話をしても、前日の国会の話をしても10分で終わってしまう。だからしょうがない。二人とも寝るしかない。
 
 小泉の発言は明確だと言われますが、真相は長いことを喋れないから、話が短くて明確そうに聞こえるだけです。話がもたないから、すぐ結論を言ってしまうわけです。」

 栗本氏の指摘は証言力に富み、説得力がある。郵政から皇室まで、というより子供時代から今日まで小泉氏は何も変わっていないのである。当然だが、同一人格である。いわば裸の王様である。

 右往左往している国会がみっともない。危険にさらされている国民はたまらない。


注:なお近刊『「狂気の首相」で日本は大丈夫か』をめぐって(一)の文中の皇族の尊称については、曾孫からみた未来の物語なので誰にでもピンとくるように、あえてこのような書き方とした。

2006年02月09日

近刊『「狂気の首相」で日本は大丈夫か』をめぐって(一)

 2月7日秋篠宮妃殿下の御懐妊の朗報があって、全国民は湧き立ち、皇室典範改定問題の国会上程はこれで沙汰止みになったのではないかというような希望的観測を誰しもが抱いている。

 同日声明文を出した団体の中で皇室典範を考える会の代表の渡部昇一氏は、「男子御誕生がありうるのに典範改正を強行するとすれば、それはもう狂気の沙汰と言うほかない」と声明文中において語っている。

 国会議員の中でも慎重派の声が一段と高まり、さしもの小泉首相も一歩退くであろうという観測が7日夜から強まっている。私が8日午前中の国会中継をテレビで見ていたら、首相は強気一点張りの言い方をたしかに少し改めていた。しかし、国会上程を当分見合わせるのかという野党の質問に対して、決してそうは答えなかった。「慎重に審議を進める」という言い方をくりかえすばかりで、法案の審議を打ち切るとは最後まで言わなかった。

 国民の中で最も思慮深くあるべき日本国の総理大臣、しかも国家の最高案件に関して最も保守的であることが当然視されている保守政党の党首が、御懐妊の報があって、いぜんとしてこういう姿勢、こういう配慮を欠いた対応を示していること自体がすでにして「狂気の沙汰と言うほかない」であろう。

 いったい首相は何を考えているのか。このところ日増しにひとびとの疑念は高まっていた。首相は記者団に1月27日「女系天皇を認めないという議論は、仮に愛子さまが天皇になられた時に、そのお子さんが男でも認めないということをわかっていて反対しているんですかね。」(朝日2月4日記録より)と語って、自ら「女系」と「女性」の決定的違いが良く分っていないことを暴露していた。愛子天皇のお子さまがたとえ男子でも「万世一系」にはならないから認められないのだ、ということはテレビの次元でも、最近は国民に分りかけているというのに、である。

 首相は口ぐせのように皇位継承が安定するようにするために「女系」も容認するのだと言い出しているが、話は逆である。「女系」できまって、もはや絶対に「男系」にもどれない、となった段階で取り返しがつかないと判明すれば、30-50年後の話だが、そのとき何が起こるか分らない。「歴史の復讐」と私が呼んだことが起こるだろう。皇位継承は安定するどころではない。「女系」の天皇家は崇敬の対象にならなくなる。権威も神秘性もなくなる。廃絶が必然的になる。

 少し考えてほしいのだが、愛子天皇の配偶者が民間人である場合、そのお子様にとって祖父は二人、祖母は二人いるとしても、父方の祖父母は未知の民間人である。母方の祖父が皇太子浩宮であり、祖母が雅子妃である。そこでさらに進めてお子様のお子様にとって、曽祖父母は八人いて、皇太子浩宮は母方の曽祖父にすぎない。

 一般の家庭を考えても分るが、母方の祖父母の氏姓は辛うじて知っていても、母方の祖母の実家の氏名は知らない人が大多数ではあるまいか。皇太子浩宮、平成天皇、昭和天皇、大正天皇とさかのぼる皇統の系図はかくしてはるか遠くへ消えてしまうのである。

 ここにくるまでに天皇の制度はついに消滅したことを国民は否応なく認識することになるだろう。小泉首相が慌てて、あわたゞしく手を着けようとしてきた改革はこのような国体の破壊にほかならないのだ。

 この他にも、永田町では天皇に対する首相の唖然とするような非礼な言動の数々が噂されてきた。『週刊文春』最新号(2006.2.16)は新聞にすでに報道されてきた「小泉首相不敬言行録」をまとめている。 その中の一例は、

 

皇室も改革だ! 
 有名な話が「電気をつけろ」事件である。毎年11月23日に行われる新嘗(にいなめ)祭でのことだ。神嘉殿で行うこの神事は、天皇陛下が新穀を皇祖はじめ神々に供えられるもので、数ある宮中祭祀の中で最も重要な儀式の1つである。
 神事はしんと静まりかえった真っ暗な中で行われるのだが、参列した小泉首相はこう言い放ったという。
 「暗いから見えないじゃないか。電気をつければいいじゃないか」

 2月7日の国会中継で秋篠宮妃ご懐妊のニュースを耳打ちされた直後もなお首相は慶賀のことばを述べる前に典範改正案の国会上程に変更のないことをあえて述べ、自己のプランへのこだわりを祝意に先行させた。むしろ慶賀のことばを先に述べたのは野党の質問者だった。

 自己へのこだわり、思い詰め、柔軟さの欠如、そして頑迷さを行動力と勘違いする自己錯覚は間違いなく生来のものである。近刊の拙著『「狂気の首相」で日本は大丈夫か』ですでに私は心理分析を終えているので、驚かない。郵政民営化と衆議院解散劇で拍手を送り、皇室典範改定問題でにわかに困惑し、オロオロしている言論界の人士のほうがおかしいのだ。

2005年12月17日

年末の新刊(再掲)

都内12月2日店頭発売、地方都市は3日発売
『狂気の首相で日本は大丈夫か』
は政局論ではない。この本は小泉論でもない。今夏の総選挙の研究書でもない。

 総選挙は今日の日本人の紛れもない新しい、昨日とすでに変わった顔を示していた。あの狂熱の中に今の、そしてこれからの日本の運命が予示されている。

 同じことは再び繰り返されるし、すでに繰り返されてもいる。なぜいち早く気がつかないのか。

小泉首相は来秋やめるからもうどうでもいい、と思う人は考えが足りない。やめないかもしれないし、やめたとしても後遺症は深い。やめてもやめなくても愚かだった日本人の体質は変わらずに残る。

 郵政民営化のときはろくに深く考えないで小泉に賛成し、皇室典範改定問題が浮上して小泉はけしからんと、にわかに言い出す保守のおじさんたち、お兄さんたちの何という頼りなさ、浅墓さよ。郵政民営化も、皇室問題も、北朝鮮との国交回復も、憲法案文の歪曲も、自分の在任中だけ増税を逃げるいい加減さも、みんな根は一つである。

 小泉氏が知識を持たないことは許されてよい。知識を持たないことに恐怖のないことが許されないのだ。自分は知らないということを知らないことに対し恥を知れ。財政の内情にも、皇室の歴史にも、世界の動向にも無知のまゝ強権を押し通そうとする臆面のなさが問題なのだ。

 日本国の総理の選び方に欠陥のあることが判明した。一総理の問題ではない。今の自分と闘わず、明日の自分に課題を先送りする日本国民全体が今、自分の不始末の付けを払わされているのである。

 これから起こる日本の悲運のすべてをこの一書で語ったつもりである。

» 続きを読む
2005年12月08日

年末の新刊(再掲)

都内12月2日店頭発売、地方都市は3日発売
『狂気の首相で日本は大丈夫か』
は政局論ではない。この本は小泉論でもない。今夏の総選挙の研究書でもない。

 総選挙は今日の日本人の紛れもない新しい、昨日とすでに変わった顔を示していた。あの狂熱の中に今の、そしてこれからの日本の運命が予示されている。

 同じことは再び繰り返されるし、すでに繰り返されてもいる。なぜいち早く気がつかないのか。

小泉首相は来秋やめるからもうどうでもいい、と思う人は考えが足りない。やめないかもしれないし、やめたとしても後遺症は深い。やめてもやめなくても愚かだった日本人の体質は変わらずに残る。

 郵政民営化のときはろくに深く考えないで小泉に賛成し、皇室典範改定問題が浮上して小泉はけしからんと、にわかに言い出す保守のおじさんたち、お兄さんたちの何という頼りなさ、浅墓さよ。郵政民営化も、皇室問題も、北朝鮮との国交回復も、憲法案文の歪曲も、自分の在任中だけ増税を逃げるいい加減さも、みんな根は一つである。

 小泉氏が知識を持たないことは許されてよい。知識を持たないことに恐怖のないことが許されないのだ。自分は知らないということを知らないことに対し恥を知れ。財政の内情にも、皇室の歴史にも、世界の動向にも無知のまゝ強権を押し通そうとする臆面のなさが問題なのだ。

 日本国の総理の選び方に欠陥のあることが判明した。一総理の問題ではない。今の自分と闘わず、明日の自分に課題を先送りする日本国民全体が今、自分の不始末の付けを払わされているのである。

 これから起こる日本の悲運のすべてをこの一書で語ったつもりである。

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2005年12月01日

年末の新刊

 都内12月2日店頭発売、地方都市は3日発売
 この本は政局論ではない。この本は小泉論でもない。今夏の総選挙の研究書でもない。

 総選挙は今日の日本人の紛れもない新しい、昨日とすでに変わった顔を示していた。あの狂熱の中に今の、そしてこれからの日本の運命が予示されている。

 同じことは再び繰り返されるし、すでに繰り返されてもいる。なぜいち早く気がつかないのか。

小泉首相は来秋やめるからもうどうでもいい、と思う人は考えが足りない。やめないかもしれないし、やめたとしても後遺症は深い。やめてもやめなくても愚かだった日本人の体質は変わらずに残る。

 郵政民営化のときはろくに深く考えないで小泉に賛成し、皇室典範改定問題が浮上して小泉はけしからんと、にわかに言い出す保守のおじさんたち、お兄さんたちの何という頼りなさ、浅墓さよ。郵政民営化も、皇室問題も、北朝鮮との国交回復も、憲法案文の歪曲も、自分の在任中だけ増税を逃げるいい加減さも、みんな根は一つである。

 小泉氏が知識を持たないことは許されてよい。知識を持たないことに恐怖のないことが許されないのだ。自分は知らないということを知らないことに対し恥を知れ。財政の内情にも、皇室の歴史にも、世界の動向にも無知のまゝ強権を押し通そうとする臆面のなさが問題なのだ。

 日本国の総理の選び方に欠陥のあることが判明した。一総理の問題ではない。今の自分と闘わず、明日の自分に課題を先送りする日本国民全体が今、自分の不始末の付けを払わされているのである。

 これから起こる日本の悲運のすべてをこの一書で語ったつもりである。

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2005年11月08日

改題新版『日本はナチスと同罪か』

 WACから出た『日本はナチスと同罪か』は1994年の文藝春秋刊の文春文庫版(1997年)を底本にしている。

 何が新しく付け加わっているかに関しご説明しておく。文春文庫版『異なる悲劇 日本とドイツ』には、「文庫版のための新稿  本書がもたらした政治効果とマスコミへの影響  私の自己検証」というかなりの量の新しい論文が付け加わっている。また、故坂本多加雄氏の「解説――恐るべき真実を言葉にする運命」も加えられている。

 文春文庫版を底本にしているWAC版にも上記二篇は勿論収録されている。WAC版『日本はナチスと同罪か』の巻頭には「新版まえがき――90年代以降の戦後補償問題」という最近書いた新稿が付せられている。これはここ10年くらいの新しい展開を解説した文章で、サンフランシスコの日本企業への米兵による強制労働訴訟の結果にも説き及んでいて、それなりに重要な新しい指摘と発見を述べたつもりである。

 「90年代以降の戦後補償問題」は本書の元版が出版された94年から2005年までの同種のテーマを追跡したもので、本書の元版における私の最初の指摘の正しさがあらためてこの10年間に証明されたことを記しておきたい。

 元版しかご所持でない方には坂本さんの解説を含む三篇の新稿が付け加わった本書(WAC版)は、新しい関心をかき立てるのではないかと期待している。

 この本の議論の進め方に接してもらうためにWAC版の新版まえがきの冒頭の1ページ余を紹介しておこう。

 

新版まえがき――90年代以降の戦後補償問題

 日本はサンフランシスコ講和条約を昭和26年(1951年)に結んで、翌年これが発効し、国際社会に復帰することができた。ドイツは日本に匹敵するいかなる講和条約をも国際社会とまだ交わしていない。というと誰でもみなエーッとびっくりした顔をする。ドイツは近隣諸国と法的にはいまだに交戦状態にあるのである。

 講和条約を結んでいないのだから、ドイツは戦勝国にいかなる賠償も支払っていないし、犯した戦争犯罪に対し償いも謝罪もしていないのだ。そんなバカなことをいうな、ウソいうんじゃないと叱られそうになるが、じつはそうなのである。なにしろ日本に比べドイツは理想的な戦後補償をはたし、模範となる謝罪を重ねてきたという「ドイツ見習え論」を、日本人は耳に胼胝(たこ)ができるほど聞かされてきたのでなかなか信じてもらえない。

 もっとも、この本の末尾の「文庫版のための新稿 本書がもたらした政治効果とマスコミへの影響」で明らかにしたように、「ドイツ見習え論」は近頃やっと少し下火になり、日本の戦後補償は完了している事実が国内ではだんだん分ってきた。ただし、代わりに、中国や韓国の首脳がドイツに比べ日本は過去への反省が足りないなどとデタラメなことをことさらに声を高めて強調するようになり、町村外相が国会でドイツと日本とでは背景の事情が違う、と反論する一幕もあった。外相が自信をもって語るようになる程度には日本国内のこの件での認識は進んだといっていい。

2005年07月04日

新刊『民族への責任』について(十一)

お知らせ

 つくる会のホームページでは、文部科学省の許可を受けて、教科書採択の透明化の一環として明朝より教科書の一部を公開します。(約100ページ)

 なお、市販本については、現在扶桑社が諸手続きをしているところであり、時期については未定です。

==========================

 本日は三氏からいたゞいた拙著の書評と感想を紹介する。

(1) 力石幸一氏(産経新聞平成17年6月11日)
 

 本書が取り扱う問題は多岐にわたる。扶桑社版の『新しい歴史教科書』に対する中国、韓国のヒステリックな反応、ジェンダーフリーという歪(いびつ)なフェミニズムの存在など、何年も前から顕在化していたテーマもあれば、日中中間線付近での中国のガス田開発や竹島問題、そしてホリエモンによる敵対的企業買収と新会社法への疑義など、この半年あまりの間に急激に浮上してきた問題もある。内と外から日本を揺るがすこれら一連の出来事は、一見すると相互に関連がないように見える。しかし、その背後には「日本人の弱さ」が見え隠れしてはいないだろうか。

 対立を避けようとソフトでつつましい性格は、日本人の美質と言っていい。日本の住みやすさはこの性格に大きく依存している。しかしその美質は、外国からの攻撃の前には自我の弱さとして現れてしまう。敵は外だけとはかぎらない。国家を内側から食い荒らすシロアリのような勢力の跋扈(ばっこ)を許してきたのもこの日本人の弱さではなかったか。敵を見ようとしない弱さこそが、戦後60年の空白の中心に横たわる問題なのだと説く本書の指摘は鋭い。

 じつは本書の企画は4年前に遡(さかのぼ)る。当時、西尾先生からタイトルを聞いたとき、「民族」という言葉にどこかどぎつい印象を感じて、反対した覚えがある。しかしいまその印象はなくなった。そのことがこの4年間の危機の深まりをよりいっそう強く感じさせる。問題はさまざまである。しかしそれを受け止める民族の性根は変らない。そこを見据えることからしか、民族の再生はありえないはずだ。本書のテーマは深く重い。

                    徳間書店 一般書籍編集長 力石幸一


(2) 小堀桂一郎氏(私信)
 
 『民族への責任』御恵興にあづかり御芳志忝く、厚く御禮申し上げます。今回はその標題からして、文字通りの並々ならぬ責任感を讀み取って、襟を正す思ひでした。就中、皇位継承問題にも立言して頂けたこと甚だ嬉しく存じます。保守を自称する小粒の言論人達は「敵」の手強さを知らないのです。その他の諸々の問題にしても、小生から見て、これだけ言はれてもまだわからないのか―と言はずにゐられない現在の亡状に憮然とするばかり、とにかく頼りにしてゐます。

(3) 大西裕氏(7月9日の私の鎌倉講演の主催者)
 
 民族への責任 読まさせていただきました。話題が直近の反日運動、領土問題、人権擁護法案から、皇位継承、アメリカとの経済戦争など、深みのあるテーマ、また、先般の教科書採択の生々しい実相など多岐にわたり、かつ、余計な遠慮のないタッチであるため、じつに迫真ある力に圧倒される思いです。
 
 最近いくつかの、活字にはふれておりますが、本書からはある感動が伝わってまいりました。

 勿論事象についての深いご理解があっての事でしょうが、いわば、論理的予言性とでもいうべき、将来への示唆を含みひさしぶりにある興奮を覚えています。
(歴史的証言の書として保存さるべきものですね)

 7月9日には、ぜひこれに基づき講演をお願いいたします。


 ついでに講演の日時をお知らせする。

 7月9日(土)午後2:00~4:30
 鎌倉鶴岡八幡境内 直会殿

2005年07月02日

新刊『民族への責任』について(十)


 この本の中から、あまり人の気がつかない、しかし本人は気が利いたことを言ったと少しだけ得意に思っている文章をひとつ引用させていただく。

 

戦闘において無類に強いアメリカは、イラクで戦術の甘さを露呈した。戦闘の終了後、50万人の大軍を派遣して国境封鎖と武装解除を徹底すれば、イラクの今の不始末はない。そう進言した武官の提案を退けたラムズフェルドの誤算である。

 「次第に明らかになってきた事実だが、米国はフセイン政権を倒した後のイラクをどうするかについて、明快な青写真を描いていなかった」(江畑謙介『日本防衛のあり方』KKベストセラーズ)

 戦後のイラクに第二次世界大戦後の日独方式が当てはまるだろうとの幻想を脱していなかったからである。アメリカのような用意周到な国も過去のイドラにとらわれている。アメリカだけでなく、どの国も過去の幻想に生きている。北朝鮮が半世紀前のソ連製の武器と地下壕だけで重武装のつもりでいるのも、イラクがアメリカ軍との開戦でフセインに勝ち目はないのに、湾岸で生き残った「フセイン政権自身は生き残れると考えていた」(江畑前掲書)のも、みんな過去のイドラにとらわれている自己幻想の姿である。ソ連消滅後に日米安保はもう日本防衛用ではなくなっているのに、北朝鮮問題がある限り、あたかも安保が有効であるかのように信じている日本も、過去のイドラを抱えて生きている。

 今の世界はどことなく箍(たが)が外れて、いささか滑稽である。そういう言い方は流血の犠牲者には相済まぬが、各国は互いに尻尾を出し、腹を見せ、間が抜けている。アメリカといえども例外でないのは今見た通りである。

 物事を少しばかり斜めから見ると、喜劇に見える。こんな風にも見えるではないかと、書いた本人は少し得意になっている。笑いながら読んでいただきたい。しかし笑わせておいて、ヒヤッとさせようと、私はすぐつづけて次のように書いた。

 

であるとすれば、北朝鮮に対してもアメリカは「明快な青写真」なしで、いきなり軍事行動に走らないとはいえない。海兵隊の上陸作戦と平壌の占領がない限り、空爆を始めてもらったら困る。日本が一番困る。

 アメリカが海兵隊を上陸させて平壌を占領してくれないと、本当になにも解決しない。空爆だけされたら、半島は反米一色になり、おいしいご馳走は全部中国の頂きである。日本は困ったことになる。

 結局、中国の体制が崩壊し、ソウルに軍事クーデターが起こらない限り、何も当分動かない。

 私の目にはだから今のところはすべてが喜劇的に見える。喜劇と悲劇は紙一重である。

 私の本にはこんな観察もあるということをお伝えしておく。

2005年06月17日

新刊『民族への責任』について(八)

 今度の本は私が15年ぶりに本気になって経済評論を書いた点に新しい特徴があることにはたして気がついてくれる人がいるか、エコノミストはどう考えるか、ずっと気になっていた。

 PHPの編集者の丸山孝さんは経済畑の本も出している方だが、今日、6月16日にファクスで個人的な書評を書き送って下さった。

 謹啓『民族への責任』をお送りいただき、ありがとうございます。 

 今回もたいへん面白く拝読いたしました。個人的には、特に私の興味の強い分野である第一部の「第四章 ライブドアー騒動の役者たち」から「第六章 アメリカとの経済戦争前夜に備えよ」の部分が、単行本では通読できることもあって、再読の印象は一段と切実かつ興味深い内容でした。

 タイトルの「無国籍者の群れ」や「アメリカとの経済戦争前夜に備えよ」というコピーに現われた明快な内容に、まったく賛同します。アメリカが日本を「自分に都合のいいように組み変えた後で、利益を吸引」しようとしているのは明白で、なぜエコノミストがこのことに警鐘をならさないのか、それのみならず、なぜむしろアメリカに加担しているのか、かねてより不思議でなりませんでした。

 今から書くようなことは邪推であるため、マスコミにはもちろん登場してきませんが、どうも一橋大学の経済学部、社会学部出身者(あるいは同程度の大学の出身者)に、そういった「アメリカ賛美派」が多いように感じています。その代表が竹中平蔵氏と中谷巌氏ですが、要するに国内では東大でないとワンランク低く見られるので(・・・・それもどうかとは思いますが)、一橋経済学部の人たちはアメリカに留学してドクターを取ってくるため、すっかり洗脳、あるいはトラの威を借りる、あるいは無国籍者となってリベンジ、ということになってはいないかと、かねてよりウガッています。

 もうひとつ気になっているのは、いわゆる「無自覚な内通者」とでも言うべきか、一般のビジネスマンを見ても、アメリカ流に加担することによって自分の利益を上げようとする人物が、ここ10年ほどずいぶん増えたように感じます。(特に金融とIT)。

 そういったことを思い出しつつ読み進めると、最初は『民族への責任』とはなかなか強烈なタイトルだと思っていたのですが、だんだん「なるほどその通り、実に、実に良いタイトルだなあ」と印象が変ってきたことも、付け加えておきたいと思います。

 確かに『民族への責任』という立場から本書を(私の場合特に第一部の第四章から六章を)読んでみると、日本人が真に何をなすべきかが見えてくると感じます。

 成程、そうか、そうか。やっぱり私の経済評論を評価してくれる人もいるのだ、と思うと嬉しくなり、ならばなぜ『正論』に出た段階で一般のエコノミスト諸氏がかくも完全に無視してかかるのか、ここに逆に、エコノミストの世界が今の日本で機能していない秘密があるのではないかとさえ思った。

 「グロバリゼーション」や「市場の自由化」を唱えるのでなければエコノミストの看板を張っていられないともひごろ聞いている。経済評論は日経が旗降る「大政翼賛会」になっているのかもしれない。

 

それから個人的には第二部「第五章 採択包囲網の正体」が収録されていたのも嬉しかったです。これでようやく、この論文のためだけに保管していた『諸君』を、取り出しにくくてもかまわない場所に移動できます(笑)が、やはり単行本という形で一冊にまとまってくれると、何かと重宝で、改めて本の良さを感じたりしました。ここに出てくる長谷川さんが「インターネット日録」の長谷川さんと同じ方だと今頃気がつくとは、うかつの限りでしたが(笑)。

 丸山さんは私のたゞの担当者ではなく、昔からの根っからの愛読者であることが上記の前半の文からジーンと伝わってきて、あゝ、こんな風にして読んでくれていたのか、と知って、なにか胸に迫るものがあった。

 そして、そのような彼が、つい2、3日前の日録で管理人長谷川さんのアイデンティティに初めて気がついたというのも、不思議では決してなく、人は本を読んでいるときには必要のないかぎり固有名詞を読みとばしていることを裏書きしている。

 

タイトルといえば、「第三章 皇位継承問題を考えるヒント」というよりサブタイトルの「まず天皇制度の『敵』を先に考えよ」も、たいへんに印象深い内容です。特に、奥平氏の引用があることによって、きわめて効果的に問題の本質をえぐっていると思います。そのような感想は雑誌掲載時にも申し上げたかもしれませんが、読者によっては「本書の中でこの論文に最も感銘を受けた」という人も多いのではないでしょうか。

 それに比べると、私のように第一部の第四章から六章の経済評論に最も引かれるというのは、あるいは少数派なのか・・・・この点の議論が盛んになればと思うのですが、依頼するのに適当なエコノミストの著者を思いつかない次第です。

 初歩的な印象ばかりで恐縮ですが、たいへん興味深く拝読したことが伝われば幸いです。

 「天皇制度の『敵』を先に考えよ」のアングルが効果的と言っていたゞけたのも、うれしい。というのは、皇室問題を論じる人が概して穏健な保守派で、敵の巨大さを日頃意識していない穏和しい、呑気な人が多いことに私は的確な警告を発したつもりだったからである。皇室に近い人であればあるほど、この点では迂闊である。

 なにかを論じるには論じ方ひとつで論の内容は変わってくる。よく素人っぽいもの書きで、自分は誰それと同じことを考えてきたとか同じことを言ってきた、とか簡単に口にする人がいるが、月並みな語り口で平板に語れば、同じこともじつは違った内容になる。

 結論が同じでも経過が違えば、本当は結論も違っているのかもしれない。丸山さんは永年の編集者経験から、その違いのきわどさをすでに十分に肝に銘じておられるのだ、と私は思った。

2005年06月14日

新刊『民族への責任』について (七)

 お知らせ

日本文化チャンネル桜に出演します。

6月15日(水)22:00(一時間)   「大道無門」 渡部昇一氏司会 

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新刊『民族への責任』について (七)
民族への責任
 未知の女性からの手紙に私は次のような返事を認めた。私が未知の読者への返事を書くことはこれまで滅多にないことなのに、これは例外である。


 拝復

 あなたのお手紙を拝読して、妙に納得しています。少くとも不快ではありませんでした。罵倒されている趣きもあり、腹を立てるべきでしょうが、私が「日本国と日本民族が未だ存在している」という幸せな安心感の内部に包まれてこの本を書いているのでないことは、あなただってよくお分りのところでしょう。

 「貴方様は日本国と日本民族が未だ存在していると勘違いしているようですが」と書かれてありましたが、あなたがヨーロッパの大学の学位によって自分の人生を支えられると勘違いしている程度には、私も自分の住む国の歴史と文化がまだ辛うじて存在していると勘違いしても、そう間違っているとは思いません。私はあなたの雅子様への対抗心といささかの軽蔑感を興味深く思いました。そこからあなたのご出身の階級や郷土、ご両親のご身分など――まったく書かれていないだけに――いろいろ想像し、小説家的イマジネーションを働かせています。

 思い切って日本を切り捨て、外国で研究に打ち込んで、日本への幻想など露ほども抱かずに徹底して生きてみて下さい。その揚句の果てに、やっぱり日本に立ち還らなければ自分の存在を支えられないと思うか、そうならないで済むか、それは分りませんが、いや味なくらいの外国かぶれになることも、ひとつの生き方です。

 なにごとにつけ不徹底であることは稔りをもたらしません。私は足して二で割るものの考え方をするなとあの本の中で言いつづけましたが、今まで天皇について発言しなかった私の、今度の本における唐突なまでの皇室問題への言及が、あなたを刺戟したのかなと思いました。だとしたら、皇室はやはり鍵ですね。

 あなたが書いている内容よりも、私を侮辱するような言い方で何とかして私に噛みつこうとしているその動機にむしろ興味を覚えました。しかしよく分りません。もう少し素直に、普通に書いて下されば、もっとはっきり分るのにと残念でした。ただ『民族への責任』という近著に私は雅子さんのことをほとんど書いていないので少し変だな、という気もしています。

 外国で勉強をなさって「もう日本に帰らない」と断固意気がってみてもなにか心が満たされず、不安を未来に抱いて苛立っているお嬢さんという印象でした。

 どうかご自分の人生をもっと大事にしてやっていって下さい。
                                  
                                  不一

 もう一度この無礼な手紙を読み直してみた。それなりに筋が通っているのである。今の日本に非常に多い、独立心旺盛な知的女性の一人であることは確かだろう。そして、『民族への責任』を訴えた私の危機意識、最後の拠り所としての日本への熱い思いが、彼女をいたく刺戟し、立腹させたに相違ない。

 「日本と日本民族は、もはや存在しないのです」と繰り返されるリフレインが、なぜ西尾はこんな自明なことが分らないのか、このバカヤロと叫んでいて、今のこの国の知識層に例の多い典型的な反応の一つではないかとも思える。しかしそれでいて自分を必死に守ろうとしていてどこか痛々しさを感じた。

 普通のケースとは違った意味で私の心を打つものがあったので書き留める。

2005年06月13日

新刊『民族への責任』について (六)


 鎌倉市議を長くつとめた伊藤玲子さんが今度後進に道を譲り、人生最後の課題として、地方議員に保守系の新しい女性議員を次々と送り出したいと仰言る。自分の知っている議員になるためのノウハウを有能なご婦人に教えていきたい、ついてはそういう人を紹介しれもらえまいかといわれて私がすぐに思ううかんだのは、いうまでもなく長谷川さんである。

 伊藤さんにいわせると、世に議員になりたがる女性は多いが、大半が左翼である。これでは困る。保守系女性議員が増えないと、教育も行政も良くならない、と。

 この話を長谷川さんにしたら、保守系の女性はまず自分の家庭と家族を大事にするので、なかなか議員にならない。あるいはなれない。理由は簡単です、というのである。

 長谷川さんはお嬢さま育ちで、医者の奥様である。一男三女の母親である。家族と医院を支え、つくる会の広島支部事務局長をつとめてなおかつ「インターネット日録」によく時間が割けるものと感服する。

 さて、世の中にはさまざまな女性がいて、長谷川さんのような迷いのない強靭な人もいるかと思うと、迷いを見せまいとして迷っている、強気が表に露骨に出て、しかも決して愚かな人だとは思えないが自分の知力一筋に頼むあまり危くみえる女性もいる。

 未知の女性から一通の奇妙な手紙が来た。「本を読んでの感想」と封筒の裏に書いてあるので、期待をして開いたら、のっけから私をからかう言葉で始まる。何とかして侮辱しようと苦心している風が全文にみなぎっている。が、読み終わって、私はなぜか怒りがわいてこなかった。

 案外私と同じようなことを考えてもいる。私からそれほど遠いわけでもない。しかし書き方は徹底的に私を愚弄している。これは新しいタイプの女性かもしれないと思って、この手紙を紹介することとする。

 自著を出すと一つや二つ必ず面白いこういう手紙が届くものである。



 西尾博士殿

 貴方様ほどのエリートが皇室すなわち雅子様の虚像のキャリアや日本民族に関して完全な誤解をなさっておいでなのはもったいないことで貴方様ほどのエリートならば雅子様を本気で相手にするのも滑稽です。もっと狡猾にならなければなりません。

 雅子様は田園調布双葉編入、東大中退、オックスフォード大中退、外交官試験ノンキャリア受験、ハーバード大卒と言っても米国の大学の在籍期間は3年で学位は教養学位しかもらえないこと(ドイツの大学は卒業すると日本で言うならば修士号のレベルの学位が授与されますよね、私もドイツに留学していたので知っています)は皆が知っているしインターネットの掲示板では有名です。

 日本の一流大を卒業した雅子様より若い戦前の大地主などの旧家出身の女性達は皆海外の大学で博士号まで取得し様々な国際資格や難関の国家資格を取得すれば完全に雅子さまよりもキャリアが上になることを知っているので、もう誰も雅子様を相手にしていないし、地道に日々努力して自己研鑽しています。

 雅子様がドレスを着て華やかな皇室外交をしたいならしたいだけさせてあげればいいし、それで雅子様の虚栄心が満足させられ、戦後の米国による植民地化で肥え太らされた労働者階級(それは贅沢な小作人を意味する)が自分達の成功の象徴としてピザとティファニーを愛する雅子様が欧米できらびやかに活躍するのを熱狂を持って迎え、女系天皇が誕生して日本神話から連なる歴史が完全に途絶えれば雅子様は日本プロレタリア革命の女王として永遠に歴史に偉大なる功績を残すことになるのです。

 貴方様は日本国と日本民族が未だに存在していると勘違いしているようですが、日本国なんていう国は、もうずいぶん以前から存在しなかった。この国はナポレオン帝国下のワルシャワ公国と同じであり、戦前の地主などを支持基盤とする最も保守的であるはずの自民党、行政機関、皇室こそが最もワルシャワ公国なのであり、日米安全保障条約は双子の赤字を抱える偉大なる世界の基軸通貨ドルを外貨準備に持ち、そのドル資産で世界一の外貨資産の保有者だと誇る累積債務財政赤字国家日本と米国との間の連隊保証債務と同じです。

 連帯保証人は、金を借りたひとが金を返せなくなったら代わりに金を返してあげなければならない。二つの大学中退という華麗なるエリート・キャリアを持つ米国帰国子女雅子様は双子の赤字を持つ強い米国ドルの象徴であり皇太子は円の象徴であり二人の結婚はドルと円との完全な愛の結晶を意味し、この連隊保証債務によるオーストラリア・ハンガリー帝国は力強い米国株式相場に支えられて永遠に繁栄するのです。

 私は今二つ目の学位(一つ目はドイツ哲学、そして今は経済学)を取得している最中ですが、この後修士号を取得したらスイスのロザンヌ大学で博士号取得を目指し、もう日本には戻ってこないつもりだし、私の友人達にも米国以外の海外で博士号取得を目指して真の国際人になって二度と日本に戻ってこない方がいいと勧めています。

 連帯保証人には近づかない方がいい。私は靖国の英霊達が、もう自分達の郷土と自分の生家と自分の氏神と郷土の地主神だけを守って自由に羽ばたいてくれと言っているように思えてなりません。貴方様のようなエリートが幾ら頑張っても日本国と日本民族は、もはや存在しないのです。

 日本が再び生まれ変わるとき、それは米国ドルが暴落して米国株式市場が崩壊し、米国が世界の覇権国でなくなるときです。でも、そのときの日本は、もはや古代神話から続いた日本ではなくなるのではないかと私は思っています。大和朝廷による神話が成立する以前の、その郷土、その郷土の守り神と長い歴史を土台にした新しい国が生まれる可能性はあると思います。

                                (原文改行なし・適宜改行)