
長谷川真美
愉しい語らいのひとときですが、ちょっとお耳を拝借します。皆さん、演壇にご注目下さい。お忙しいなかを駆けつけてくださった各界著名人の皆さんからお祝いのお言葉を頂きたいと存じます。
最初に平川祐弘(ひらかわ・すけひろ)先生に御願いしましょう。
和魂洋才の系譜 内と外からの明治日本 上
平川 祐弘 (2006/09/12)
平凡社
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ラフカディオ・ハーン―植民地化・キリスト教化・文明開化
平川 祐弘 (2004/03)
ミネルヴァ書房
この商品の詳細を見る平川先生は東大名誉教授、比較文学の草分けのひとりで、ラフカデオ・ハーンやマテオ・リッチの研究家としても著名な方です。
それでは平川先生、どうぞ。
平川祐弘氏のご挨拶
このたびは大著『江戸のダイナミズム』というまことに知的刺激に富む比較思想史と申しますか、一種壮大な精神のドラマを西尾さんは演出して明快な日本語で説き、著者生涯の代表作かと思われる大著をお出しになりました。西尾さん、よく聞いて。いささか感想を述べて、お祝いにかえさせていただきます。江戸時代の御上は専制的で抑圧的でしたが、日本国民の九割を構成した農商工の人々はフランス大革命以前の西洋の貧しい階級の普通の人間より、ずっとましな生活をしていたということは、ジェームズ・マードックが日本史で述べ、そういわれた事に明治以前の日本に劣等感を覚えていた夏目漱石は意外の感を覚え『現代日本の開化』を書きました。
私がその経緯を『漱石の師マードック先生』に書きましたら『文学界』誌上で早速からんだのが西尾さんで、「じつにいろいろな問題点が胸中に澎湃と湧き起こってくるのを、抑えることができない」と昭和56年に書かれました。
今回の著書は題は『江戸のダイナミズム』とあり、江戸時代に対する貧農史観の否定からはじまりますが、しかしご本は表題よりずっと広い内容が世界史的構図の中で書かれております。このたび638ページの大冊の中に澎湃として湧き起こって論じられているのは、江戸の文献学、ドイツの古典文献学、清朝シナの考証学を視野に収めて学問史やそこに示されたメンタリティー、そのなかには神道的メンタリティーをも肯定的に評論するという驚嘆すべき力業を演じられました。
しかしそのように解釈学に焦点が絞られましたから前著『国民の歴史』よりはっきりとオリジナルな切り口を具体的に示されました。そして実によく勉強し、読書し、考え、また筆を弛めることなく、この本の中でも盛んに論争を挑まれました。
専門外の陣地に切り込んで、上はトインビーも下は取るに足らぬ子安宣邦ごときも切りまくっている。これでは返り血を浴びることは間違いない。その知的エネルギーには感心いたしましたが、なるほどこの調子では西尾さんはいたるところで衝突するのも無理はないな、と思いました。しかしいまさら忠告しても人間70を越せば性格が変わるものでもない。
この本はかつては文献学であったニーチェを研究した西尾幹二という一個人が、江戸の白石・徂徠・宣長を踏まえて、片やいま申したドイツのギリシャ古典学、さらには中国の解釈学を一望の視野の中に引き入れて、同じ土俵の上にあげて論じたところが壮観でございます。この三者を比較測量するということは、西洋人にも中国人にもやりがたいことで、むしろ日本人にその可能性が多少開けてきた学問分野なのかもしれません。その三点測量の一大実験だと感じました。
もっとも日本人でも専門意識の強過ぎる学者にはおよそやりがたい仕事かと思います。それでは『江戸のダイナミズム』が学問世界で認められるか、というと私はその点が心配です。
一つには西尾幹二というとその名前だけで世間は色目で見る。その二に著者は論争を好むから切りまくる。「ああもいえる、こうもいえる」というところを一方的に断定する。どうしても勇み足を踏みがちになる。神野志さんなど西尾に悪口をいわれたから俺は学者として正しいのだと逆に思いかねない。西尾という行司が勝ち名乗りをあげても、信用はできないというので、それで取り直しになればいいが、折角のご本人が一人相撲に終ったりすると残念だと思います。
私は西尾さんが大学院生のころから存じ上げていて、ドイツへ留学して東ドイツ体験を同人誌のNeue Stimme などに書き、『ヨーロッパの個人主義』などは興味深い指摘が沢山あってパリ大学のピジョーなどと一緒に論じたこともありました。
ゲルマニスティークの人々は五人しかこの会に来ていない、とのお話でしたが、いちはやく東ドイツなども直接見た西尾さんは、言ってみれば竹山道雄氏などに近い立場に立たれた。するとあの頃の東大駒場のドイツ語教室は妙に進歩主義的でしたから、西尾さんは容れられない、そういう雰囲気でございました。
しかし私たちが東大の比較文学比較文化の大学院にお招きして、討論会に加わっていただきましたが、西尾さんは比較研究は両者の差異をことさらに言い立てることになるから学問の方法として問題があるという、それが当時の西尾さんの発言でございました。一面の真理を含む指摘ですが、今度の御著書もいろいろ比較して実は差異を強調しておられる。ああいえばこういう、という書き方は変わらない、と思いました。
一度西尾さんを拙宅に竹山道雄氏ほかと一緒にお招きした。すると西尾さんが遅れて到着したら、途端に「私帰ります」といって、別のお客さんが、左翼の人でもないのにすっと立って帰ってしまった。西尾さんはもちろん、そういうことには気づいてはおられなかったと思います。西尾さんはいい人なんだけれども、敵を作る人ですね。奥さんがもう少し、原稿を読んで、ここはいいんですかと、おっしゃればいいのではないかと、私は思います。
それが個人の次元の問題に留まっている間はまだいい。日本をとりまく国際的な情報環境の中で日本についての誤解を解く戦術を、私たちはもっと慎重に考えなければいけない。日本人としての「己ヲ主張スル」ことは大切ですが「己ヲ知リ敵ヲ知ル」ということがいよいよ大切で、自分達の正論を述べるだけでなく、相手に説得的に伝えることが必要かと思います。
私は評論家の皆さんが注をつけない書物を出し続ける限り、日本は自己の正当性を証明できない、説得力は無いと思います。本席に『熊本日日』の井上智恵氏がおられるが『熊日』に『国民の歴史』の書評を書かせてもらったおりに、歴史書に注をつけない点を批判したら、今度の書物には注がついていたので良かったなと思いました。
最後にご提案が一つ。西尾さんがこの本を博士論文として、丸山真男のお弟子筋のいる大学院に提出して、そこで公開審査で論争する。そうしたら学問的にも、ジャーナリスティックにも、さぞかし意義が深いだろうと思います。そのことを提案してご挨拶といたします。
本日はおめでとうございます。
平川先生、ありがとうございました。
つづく
平成14年(2002年)8月から平成16年11月までの過去録はこちら
Posted by Nishio at 2007年05月07日 09:01 | コメント (3) | トラックバック (0) | Clip!!









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