入試シーズンが近づいている。私の文章もしばしば入試問題に使われる。これは名誉なことなのか、不名誉なことなのか分らない。オヤと不審に思う使われ方もあるからである。
内容の一部に手を加えて使われても、入試問題に限っては、多分法律できまっているのだと思うが、何も文句が言えない。出題したことを私に伝えてくるケースもあれば、何も言ってこないこともある。何年かして入試問題収録集を出版する会社から知らされて、初めて出題されていたことを知る場合もある。
入試に使用したことを感謝してお礼にお菓子を送ってきた大学もあったが、最近はそういう例も少くなった。農学部で製造したスパゲティソースの缶詰を謝礼だといってドンと大量に送ってきた大学もあって、そういうのは微笑ましい。
私の本で出題例が一番多いのは『ヨーロッパの個人主義』からである。1969年刊の処女作で、何回使われたか調べることもできないほどに多く、ほとんどあらゆるページが利用されたのではないかと思うくらいである。
二、三年前に国立法科大学院の第一回の試験問題に採用されてからは、各種の問題集やテキスト集への収録がまた数を増した。これは一般の出版物だから必ずそのつど2000円か3000円かの使用料が支払われる。
しかし、愕然とした出題例もなかにはある。出題者の常識をちょっと疑わざるを得ないというのは平成16年度の上智大学のケースである。
読者の皆さんはどう思うか、ここに問題をその侭ご紹介する。
上智大学(2006年度)Posted by Nishio at 2007年01月06日 21:47 | コメント (11) | トラックバック (0) | Clip!!
入試種別:海外就学経験者入学試験(1月実施分)
学部学科:総合人間科学部 心理学科1.以下の文章を読んで、各問に答えなさい。
数年前、私は近所の小学校の運動会を見物していて不思議に思ったことがある。
「駆けっこ」の競争で一等賞になった子供に賞品が与えられない。子供はなにか紙切れのようなものをもらって、それでお仕舞いである。不思議に思って、そばに立っている先生のひとりにわけを尋ねたら、賞品を出すと生まれつき足の遅い子供にかわいそうだから、あとで生徒全員にノート2冊の参加賞を与えるのだというのである。私はおかしくて、傍に人がいなかったらたぶん涙が出るほど笑ったことだろう。
私自身、「生まれつき足の遅い子供」であった。運動会が嫌いで、いつも劣等感に歯を食いしばっていた思い出がある。私が敗戦を迎えたのは小学校四年だが、したがってそれまでは、運動のへたな子供は良い兵隊になれない子供とされ、どれほど惨めな、つらい思いをさせられたかわからない。だが、人間とはそうやってだんだんに育っていくものなのではないか。私とは逆に、運動会は大好きだが、学芸会や展覧会のときには隅のほうで小さくなっていなければならない子供もいる。
こういうさまざまな経験をつんで、子供はしだいに自分の適性を知り、自分の能力の限界を知り、現実に耐える訓練をつんでいくのである。
たとえ「平和で民主的な社会の担い手」を作るというのがいまの教育の徳目であっても、子供は国家間の「平和」のために具体的に何をしたらよいのかわかるわけがないし、「民主的」とはせいぜいホーム・ルームの話し合いぐらいの意味にしか理解できない。つまり、それは「忠君愛国」という抽象的な終身の徳目とたいした変わりはないのである。子供の生活とかけはなれた、上から与えられた抽象的な徳目であるという点では同じことだからである。
だが、じっさいの子供の世界は、現実世界の縮図である。スポーツやけんかの能力が子供の世界に序列をつけている掟である。これは今も昔も変わらない。大人の世界よりもっと原始的な弱肉強食の法則が支配している。こういう子供の世界に対して、生まれつきの頭脳の差、体力の差、才能の差をことごとく抹殺したきれいごとのことばを並べたところで何の意味があるだろう。賢い子供ならそういう大人の甘やかしに虚偽を感じるだろう。だが、それほど賢くない子供は、学校社会という温室がそのまま現実の社会だと思いこんで、いかなる保護の手も差しのべられない現実社会に出たとき、困難をひとりで切り抜けていく忍耐力をもうもってはいないのである。そういう教育は洋裁店をやめてくにへ帰ってしまうような子供をふやすだけである。
運動会に賞品を出さないとか、優等制度をやめるとか、先生と生徒は人格的に対等であるから友達のように接するべきだとか、受験競争は子供の精神を歪める社会悪であるとか、こうした一連の戦後教育家の、子供に被害妄想を与えまいとまるではれ物にさわるような気の遣い方は、それ自体、教師の被害妄想のあらわれでしかない。その結果、先生は自信を失い、子供は気力を失う。なんの得るところもない。
毎月三月になると「受験地獄」のことが飽きもせずにジャーナリズムの話題になるが、競争をまるで悪であるかのように書き立てていることは大きな間違いである。試験の内容や制度に問題はあるにしても、競争それ自体はけっして悪ではない。むしろ門閥や権閥が崩壊して、社会階層の平均化が進めば進むほど、「試験」への必要度はましてくるし、戦後の大学や高校への競争の激化が、民主主義観念の普及のせいであることは明瞭であろう。民主主義が進めば進むほど、競争は激化する。どんな世界にも指導する人間と指導される人間との区別が存在する。階級差がなくなり、人間が平均化すればするほど、エリート養成法としてもっとも安易で人工的な「試験」への要求度が高まるからである。一部の民主教育理論家がいうように、試験によって人間の能力を判定している価値観は、人格に格差をつけようとする思想の反映である、などという理屈はまるで民主主義の正体がわかっていない。民主主義というものは、どこかで、いつか、「完成」するものだという思いつめた信仰があるからである。愛の原理だから完成すると思っている。とんでもない思い違いである。
(西尾幹二「ヨーロッパの個人主義」講談社現代新書1969年より)
問1 この筆者が主張したいことを要約して下さい(300字以内)。
問2 この筆者の主張に反論して下さい(800字以内)。







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