伊藤悠可
記者・編集者を経て編集制作プロダクトを営む。
易経や左伝の塾を開講
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Posted by Nishio at 2006年12月06日 09:19 | コメント (7) | トラックバック (0) | Clip!!
産経新聞の「正論」欄は私たちの周辺には馴染みの紙面である。しかしながら、近頃は本当に「馴染み」というだけが唯一の価値であって、書いているほうも載せているほうも、これで悲しくないのだろうか、という感想を禁じえない。ごく最近の論文を無造作に選ぶ。
新保祐司さんは、「蛍の光」に千島列島の歌詞があることを初めて知り、先人の辛苦を追憶して感動したという意味のことを書き、松本健一さんは、司馬遼太郎が三島自決を「さんたんたる死」と侮蔑し、その後も〈天皇の物語〉を書かなかったのは深い意味があってのことで、司馬一流のアンチ・テーゼ提出であると書いている。
少なくとも五十男の保守人士と胸を張るなら、「蛍の光」に千島列島の歌詞があるくらいは知っていてほしい。それよりも「今、時代は唱歌である」という保守論者が増えているらしいが、純情であっても衰弱的懐古だと私には見える。今、時代(のテーマ)は決して〈唱歌〉ではない。新保さんはこれを教育者として子どもたちに伝えたいのだろうか。土井晩翠あたりから詩論を展開すべきであって、文章からは氏の退屈しか伝わってこない。
司馬遼太郎は朝日などが〈大思想家〉としてキャンペーンを続け、産経もまたいつまでも司馬、司馬という調子だが、司馬遼太郎は「空海の風景」だけを読んでも、皇室を疎ましく感じた人であることが読み取れる。なお、主観的直感だが、実は日本も嫌いな人だと私は思っているのである。松本さんだけではなく、多くの保守論者から反論されるだろうが。
かつて、といってもわずか三十年の昔である。福田恆存は今月何を語るのだろう、江藤淳と本多秋五が新聞で論争をはじめたがどう決着をつけるのだろう、西尾幹二が次に書くのは東西の精神史だろうか、それとも人生についてだろうか、と私は限られた小遣いを持って論壇誌の発行を毎月心待ちにしていた。
「碑のように堅い言葉」という表現があるが、そのような言葉を待っていた。私たちが聞きたい言葉、私たちが目に刻みつけたい言葉のために一冊何百円でも惜しくはなかったのである。論争はどちらかを贔屓するために読んだのではなかった。むしろ、福田恆存の場合などは「この人をやっつけられる人が出て来ないのは淋しい」と思いながら両者の剣の切っ先を見ていたのである。
今はどうか。例えば、西尾幹二と論争(対決)しなければならない知識人は、すでに保守陣営に五人はいる。テーマは置き去りにされているのである。論壇もまた衰微していると言われて久しいが、小林秀雄が言うように言葉は精神である。投げかけられ応えるのは知識人の義務である。
ベルジャイエフは『社会哲学について論敵に送る書簡』の中で、こう書いている。
保守主義的原理の本質については、その敵だけでなく、別の味方からもよく理解されていない。ここに一つの保守主義のタイプがある。この連中はあらゆる保守主義の名誉棄損のためにいろいろなことをやっている。
真に保存され、防衛されなければならぬものは、変貌するエネルギーである。もし、そのなかに単に惰性と停滞だけが存在するならば、それは悪であって善ではない。
嘘の、沈滞した保守主義は過去のもつ創造的神秘と、それが未来の創造的神秘との間にもっている関連性を理解することはできない。したがって過去を滅亡させる革命(進歩)主義は、沈滞した保守主義の裏返しである。革命(進歩)主義は嘘の保守主義、創造的伝承を裏切る保守主義を待ち伏せている懲罰である。(以上、永淵一郎訳)
まだある。ベルジャイエフの洞察は怖ろしい。「諸君は下賤にも、諸君の父祖が地中に、墓のなかに横たわっていて、自分の声を発することができないのをよいことにしている。(中略)自分の仕事をうまくやるために、また父祖らの意志を尊重することはせず、その遺産だけを利用するために、彼らが不在であることを利用している」。
小林秀雄が言うように、「諸君が注意して周囲を見渡されたならば、眼を覆はんとしても不可能な現実の姿がある」というのっぴきならぬ事情は、平成の今でも何ら軽重を問うことはできない。私たちの国家や社会はあまりにも、戦後の手抜かりと晦渋の念と内外の悪意とに包囲されている。
たしかに教育問題も「待ったなし」であろう。だが、教育は六十年間違ってきたなら、善くするには六十年かかる、という考え方がまず正しい発想である。愛国心教育が必要かという世論調査では、必要と答えた人が八割にのぼるといい、或る保守陣営の知識人が機は熟してきたと喜んでいた。世論調査で八割を達成したなら、それは危険な兆候ではないのかと、私などは思う。
小林秀雄は伝統を、伝統主義によって捉えることは不可能だと言い切っている。今、私たちが見聞きしている数々の運動は、伝統主義の突出ではないと言えるだろうか。







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