余りにも課題は巨魁で、探査の行方は深海に下ろす錘のごとくである。われわれは水面に浮んでいる浮標のごとく呆然とするのみである。第一次資料を読むなどという処へはとうてい行かない。他人の研究成果を追いかける以上のことはできない。
それでも二つの裁判を重ねて見る、という方法と問題意識だけは最初から、そしてこの後も見失うまいと考えている。
幾つかの新しい疑問にぶつかったので、ここに簡単に個条書きにしておく。
(1) 「戦争犯罪」と「人道に対する罪」は別の事柄であると今ではやっと広く認識されるようになってきた。前者は戦勝国にもあり、後者はホロコーストを指す。ところがニュルンベルグ裁判ではこの二つは必ずしも明確に区別されていなかったのではないかと疑われる。
初期のナチ犯罪、テロ、人種政策、ユダヤ人迫害は、明かに「人道に対する罪」に結びついているが、戦争と直接結びついていないので、裁きの対象にはしないというのがニュルンベルク法廷の意見だった。この点は後日歴史判断にどう影響してくるだろうか。
そもそもドイツの再軍備はベルサイユ条約に違反していた。しかし再軍備も、オーストリアやチェコの奪取も、「侵略戦争」のうちに入れられず、「侵略行動」とされたのみだった。
(2) 共同謀議、国際法が認めていない個人の責任、戦争は犯罪ではないのを無視した侵略戦争の概念、侵略の定義の不可能、遡及法(条例の事後律法的性格)、等々の国際法上の矛盾として知られる東京裁判の諸問題は、ことごとくニュルンベルク裁判にすでに同じ矛盾した問題として提起されていた。
東京裁判はニュルンベルク裁判の結論をそのまゝ押しいたゞいている。前者は後者によって基礎づけられ、決定づけられている。
ニュルンベルク裁判は「ジャクソン裁判」といわれたほど一人のアメリカ人の検察官の理念と活動に支配された。東京裁判ではそれがキーナン検事に引き継がれた。そしてマッカーサーが最終決定権を握っていた。アメリカによる「人類の法廷」の性格は両裁判にきわ立っていた。
東京裁判ではフランスやオランダなどの欧州法との食い違いがたびたび露呈したが、ほとんどつねにアメリカによって押し切られた。人類の名における「アメリカの法廷」であったといっていい。
私が気づいた疑問の根本は、ドイツの戦争犯罪を戦後裁判で裁くという計画が最初に意識されたのは1941年秋であったことだ。真珠湾より前である。
日本が参戦するより前に、戦勝国による敗戦国に対する「裁判」が計画されていた。これは驚くべきことではないだろうか。
(3) 罪を問われた被告は両裁判ともに国家の行った戦争の正しさを主張し、個人に責任のないことを唱えたが、ニュルンベルク裁判の被告人には例外があった。
シュペアー軍需大臣(判決20年)は裁判の正しさを認め、「裁判は必要である。官僚制度の下でもこのような恐るべき犯罪に共通の責任がある」と語り、ナチズムとナチスの指導部をこき下ろした。シャハト財務大臣(判決無罪)もゲーリングを面前で批判した。
ドイツ人弁護人の中には犯罪の大きさと恐ろしさにショックを受け、被告のために最善の弁論を尽くせない人もいた。東京裁判ではこのような光景はみられなかった。日本人弁護人はけなげなまでに戦闘的に最善を尽くした。アメリカ人弁護人も、東京裁判の不成立である所以をくりかえし熱弁した。
ホロコーストは「自然法」に反する。それゆえに「人道への罪」という概念が出て来たといっていいが、ニュルンベルク裁判で初めからホロコーストと戦争犯罪を区別する意識があったかどうかは上記(1)(2)からみても不明である。
当時は勝者が敗者を裁くことに急だった。それは東京裁判だけでなくニュルンベルク裁判においても同様だった。
裁判にかかった巨額の経費を負担したのはアメリカ一国だったという記載をどこかで読んだ――未確認だが――おぼえがある。これが案外問題を考える決め手かもしれない。
Posted by Nishio at 2006年10月28日 09:38 | コメント (4) | トラックバック (0) | Clip!!







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