伊藤悠可
記者・編集者を経て編集制作プロダクトを営む。
易経や左伝の塾を開講
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Posted by Nishio at 2006年10月04日 08:54 | コメント (6) | トラックバック (0) | Clip!!
田中卓氏は皇位継承問題にからんで、神宮祭祀の一般に知られざる伝統を持ち出して、男系でなくてもよいと説いた。私はめまいがした。氏は伊勢神宮の斎宮制の研究のほか、建国史のほうでは〈二大巨頭〉と仰がれる泰斗だそうである。私もこの人の古代史に関する本を何冊か持っている。『諸君!』(3月号)の「女帝天皇で問題ありません」という文章は二度読んだ。「私は誰よりも皇室を尊敬している。しかし天皇陛下も偉いが伊勢の神様のほうがずっと偉いので、その専門では最高峰の私の言うことを聞け!」と行間にはそう書いてあった。
ややこしい人だ。この人は神や神の事蹟を調べるのが職掌である。半世紀も学問をしておられてどうしてこの過誤なのか。氏は神様を引っ張りだして皇室をいじったのである。
また最近、生長の家の運動家といわれる人たちの信仰と政治的活動とが話題になった。その人たちの精鋭は政権中枢に近づいていろいろな改革や再生をめざしていると聞く。それはそれでいいではないかとも思う。
信仰を捨てて政治的運動に参画しているのか、信仰のままに世界を動かそうとしているか、そんなことはわからない。慧可は自分の腕を切り落として達磨に入門を乞うた。信仰とはそれほど真剣なものだ、とは私に言えない。ただ、信仰に人が必要なのだろうか、政治が必要なのだろうか、と単純に思うだけだ。
人の職業や信仰をとやかく言うことはない。私にはゲーテの神に対する考え方、態度のほうが、前述の日本人より身の丈にあっていて、そこへ帰りたくなる。ドイツ語が読めない私には、一知半解の勉強だが、ゲーテの神観はおおむね次のようにとらえられるのではないか。
ゲーテはキリストを神のひとつの表現として見るにとどめている。そこから越えなかった。キリストが唯一、神のすべてを体現した存在という意味ではなく、神が表現するためにキリストを必要としたという見方になると思われる。したがって神は同時にイスラム教の神であることもみとめた。神はキリスト教専用の神ではない。「専用されるものは神ではない」という立場を貫いた。
ゲーテはまた、「自然」をほとんど「神」と同義語のように用いている。「自然のうちに神を、神のうちに自然を見る」(『年代記』1811年の項)という言い方をした。「神」がそのまま「自然」であり、「存在」がそのまま「神」と見るところから、そこからもゲーテは汎神論者と呼ばれる。六、七歳の頃に「自然の偉大な神」を愛慕したあまり、自分なりに工夫して部屋に祭壇をこしらえ祈ったことも知られている。
神性は自然の「根本現象」の中に啓示されている、とゲーテは言う。この世界で起きる多様な現象は一つの神性の本質であり、啓示や象徴にほかならないというのである。『ファウスト』の「神秘の合唱団」は「すべて過ぎゆくもの(すなわち現象一般)は神の似姿にほかならぬ」と歌っている。
キリストより前に生きていた偉大な人々、ペルシャにもインドにも中国にもギリシャにも生まれた偉人は、旧約聖書の中の数人の猶太人と同じように神の力が働いていたと、見るのがゲーテであった。それが彼の「原宗教」というものに基づく神の見方であった。
岡潔さんががよく使う「造化」というのも、ゲーテの神に通じるところがある。そう勝手な解釈をしているが、それほど間違っていないという気がする。「造化」は地上の至るところに、色とりどりの花を咲かせるようにして或る人たちを降ろした、という譬喩を岡さんはよく用いた。
エッカーマンにゲーテはこう告白している。
「宗教上の事柄でも、科学や政治のことでも、私がいつわらないで、感じたままを口にする勇気を持っていたということが、いつも私をやっかいな目にあわせた」
「私は神や自然を信じ、高貴なものが悪いものに打ち勝つことを信じていた。ところが、善男善女には、それが不満で、彼らは私に三が一であり、一が三であるといったことを信じなければいけないというのだった。しかし、そんなことは私のこころの真理に対する感情に反していた。そのうえ私は、そんなことでいくらかでも助かるだろうなどとはどうしても思えなかった」(秋山英夫訳)
三が一であり、一が三であるというのは、キリスト教のいわゆる三位一体説のことである。創造主としての父なる神と、キリストとして世にあらわれた子なる神と、信仰体験として聖霊なる神とが、一つであるという教えで、これは広く日本人も学校でならったことだが、所詮は勝手にあつらえた教えにすぎないと、ゲーテは与しなかった。
キリストに対しても恭順畏敬をささげることができるし、同様の意味で太陽を拝むこともできる、とゲーテはどこかで言っている。これは驚くべきことだ。なぜ、ゲーテが日本に生まれなかったのか、と不思議に思うことがある。
ゲーテはまた、寡黙がちではあったが「デモーニッシュなるもの」に言及し、その存在を信じていた。古代ギリシャ人が考えていた人間にひそむ神的存在「ダイモーン」。神のようであって神ではないものである。人間に似ているが人間的なものでもない。悪魔に似ているが悪魔的なものでもない。天使に似ているが天使的なものでもない。
ゲーテは「自然のうちに、ただ矛盾の姿であらわれ、どんな概念でも包括できないようなあるもの」があると告白しているのだが、「ファウスト」におけるメフィストフェレスは別のものらしい。メフィストフェレスは「もっとネガティブな存在」だと言い、ダイモーンは「徹底的にポジティブな実行力のうちにあらわれる」として、ダイモーンとメフィストフェレスとを区別している。
デモーニッシュな人々の代表は、絵画ではラファエロ、音楽ではモーツァルト、あのナポレオンも断然、デモーニッシュな典型とゲーテはいう。「私にはそういう資質はないが」とゲーテは否定しているが、ゲーテ自身がデモーニッシュな人でないわけがないと思う。
私がとくに面白いと思うのは、ワイマル公国のカール・アウグストを評した部分だ。「無限の実行力にみち、安閑としていられない性分だったから、自分の国も小さすぎるくらいだった」。こういう人はホラッ、私たちの意外なほど近くにもいるのではありませんか。
つづく







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