日本人は反省好きで、とかくに先の大戦の原因は日本にのみあるように叙述されてきた。満州事変、国際連盟脱退、支那事変、三国同盟調印、インドシナ半島進駐、そして真珠湾攻撃……という順序で日本は国際秩序の撹乱者の役割を演じた、と日本人自らが思いこんでいる。
最近はそれが日本の不正だった、という見方では必ずしもなく、日本の誤算、失敗、相手国政府の意図の読み間違いだったという、日本人の情勢判断の甘さが指摘される傾向が強くなっている。それでも自分を過度に「反省」する性格は基本的に変わっていない。なぜ日本人はアメリカの強大さとその本心を読み間違えてこうなったか、と。
けれども、日本がこうなることを待ち受けていた側の戦意がなかったら、戦争には決してならなかったであろう。アメリカに西へ西へと拡大する好戦性がなく、寛容と忍耐への強い意思があったら、歴史は違った動きを示していたであろう。なるほど、戦争の原因の一つにはドイツと同盟を組むなどの日本政府の選択の間違いがあったかもしれない。
しかし、アメリカの「戦意」が戦争を成立させたもう一つの重要な要素なのである。そしてその戦意にもそれなりの「歴史」があるはずである。
私の言いたいのは両サイドの戦意の歴史を並立的に比較しつつ、叙述しない限り、公平な歴史叙述には決してならないだろうということである。その意味で日露戦争以後にアメリカに兆した反日感情は見落とすことのできない戦争誘因の発端である。
歴史の教科書にもそういう観点はどんどん書いていかなければいけない。それなのに不当にも干渉の手が入って、いぜんとして「自虐」教科書へと塗り変えられた、という事例紹介を前回ここで申し上げた。中韓両国への「自虐」は少しづつ消えつつあるが、代わりにアメリカへの「自虐」が増加している。
すでに見た通り、岡崎久彦氏はアメリカへの「自虐」の度合いを高め、アメリカ政府の立場から日本の教科書を監視することを、文科省教科書調査官にあらためて要請するというような倒錯心理を表明している。
初版本の削除と修正を行なったのは岡崎氏だが、それを承認し、第二版本を作り上げた責任者は藤岡信勝氏である。リライトに私は参加しなかったので、いつの間にか私の意志とは無関係に第二版本(現行教科書)ができあがった。
藤岡氏が教科書問題を立ち上げたのはそもそも「従軍慰安婦」への非難が全中学の教科書に記載されたことへの怒りからだった。「自虐教科書」ということばを流行らせたのも彼である。
最近奇妙な噂話をきく。扶桑社が「つくる会」理事会の意向と無関係に執筆者を一本釣りで選択して、会社の意志でフリーな新しい教科書をつくる。その際、代表執筆者は最初の噂では田中英道氏、最近の噂では岡崎久彦氏になる、というのである。
噂を信じても仕方がないが、岡崎氏が代表執筆者になれば、教科書の内容はすでに検証した通り「親米反日」というより「媚米非日」という方向に傾いて、アメリカへの「自虐」の度合いを一段と強める内容にならざるを得ないであろう。
前回のアメリカ国際関係委員会の報道に示された通り、アメリカは「従軍慰安婦」への学校教育への取り込みを要求し始めてさえいる。藤岡氏はこの傾向に敢然戦いを挑まねばならぬだろう。さもなければ、氏の運動家としての原点をなす根本動機の自己否定になること、必然の道理である。
藤岡氏はそれでもいい、とは言わぬだろう。「自虐」との戦いを捨てて、アメリカへの「自虐」に地辷り的に見境いのない岡崎久彦氏の軍門に下ってよいとは決して言わぬであろう。アメリカの主張なら「従軍慰安婦」は歴史として認めてもいい、とは言わぬであろう。
藤岡氏は事柄の必然の流れとして、反・岡崎ならざるを得ないのである。岡崎氏がいろいろな席で藤岡氏をもち上げ、喜ばせる言葉を述べているのは会に対する撹乱工作であることを見抜けぬような藤岡氏でもあるまい。
自分の原理原則を捨てて、怪し気な「権力」になびく、理のない行動は、言論人としての人生の放棄そのものである。
ところで、藤岡氏の一件とは別に、扶桑社が「新しい歴史教科書をつくる会」理事会の決定とは切り離して、一本釣りで執筆者を選んで、今までと別個のフリーな教科書を新たに作るという噂に関してだが、噂がもし万が一現実になった場合、会のとるべき態度はたゞ一つしかない、と私は勧告する。すなわち扶桑社と手を切ることである。扶桑社版教科書は世の中に残っても、それはもはや国民運動であった「新しい歴史教科書をつくる会」の教科書ではないことを、会は内外に宣言しなければならない深刻な事態になる。
しかしまた他方、扶桑社の側にもそんなに簡単に会社の都合だけで10年にも及んだ国民運動から離れて、自由に行動できると思って好き勝手な措置に走ったら、信用問題に関わるということを言っておかなくてはならない。
安倍晋三氏が新首相に選ばれることに決した昨今、安倍氏がどんな思いでこの教科書運動に関与してきたかを振り返っておく必要がある。新首相は「歴史教科書」の重要性をよく知っておられるだけではない。具体的に手をさしのべて協力して下さった。
『新しい歴史教科書』の誕生時に外務省の陰湿な妨害工作が起こったことはよく知られていよう。安倍氏の副官房長官時代である。氏は自ら単独行動で外務省を制止した。さらに中川昭一氏と共に「教科書議員連盟」を起ち上げ、幹事長や官房長官になった後も、「顧問」としてこれを支え、守りつづけてこられた。
安倍新首相は『新しい歴史教科書』には格別の愛着があるはずである。この教科書は森内閣時代に検定を通過し、二度の採択の失敗は二度とも小泉内閣時代に起こった。安倍内閣になってもう一度蘇生する可能性があるのである。
そういうわけだから扶桑社が簡単に自社の都合だけで「つくる会」の運動から離れて、がらりと内容を変えた教科書を出そうとすれば、会員たちだけでなく、今までこれを支えて来た大きな政治勢力をも敵に回すことにもなるだろう。
それでも独立したフリーな執筆者を扶桑社が好き勝手に選んで別の新版を出せると思うのは、執筆者グループと理事会とが区別されていて、版権が前者にのみあると誤解しているからと思われる。そこで私にも関係があるので、版権のことについてひとこと言っておかなくてはならない。
現行のように執筆者グループと理事会とを別の存在と区別しているのは、一つには経理上の便法から、もう一つは採択運動家たちの行動の自由の必要からである。(経理上の理由はここではあえて詳しくは書かない)執筆者の選定、教科書の方針、内容の方向の決定、監修と承認は理事会が全責任を負い、執筆者グループには自由はなかったことを知っておいてほしい。
教科書の版権も半分は扶桑社、半分は「つくる会」理事会にあり、執筆者グループにはなんらの権限もないはずである。勿論代表執筆者にも権限はないはずである。なぜなら、教科書は会費を払って会を支えてきた会員の総意に基いて執筆され、出版されてきたのだから、責任と権限はまず総会にある。そして、総会は自らの意志を会長と理事会に付託している、というのがこのケースの実体だからである。法律的にも間違いなくそのように解釈されるべきである。さもなければ、何のために会員が存在するのか。会費に課税されない会員組織の存在理由の説明がつかないであろう。
初版本はすでに絶版になっているので、再出版権の事情は少し違うかもしれない。しかし第二版本(現行教科書)の版権が代表執筆者にあると考えるのは間違いである。半分は会社に、半分は理事会にある。
また、初版本に使われた原稿の一部利用は、初版本の各執筆者と代表執筆者の承諾なしではあり得ないし、あってはならない事柄である。例えば、初版本の原稿のうち故坂本多加雄氏記述分を他に転用することは、第二版本(現行教科書)においては承認されているわけだが、これとは別に第三者機関に当該執筆者と代表執筆者に対し無断で引き継がれることは許されない。
扶桑社のM氏が何を画策しているのかは知らないが、独自の新しい扶桑社版教科書を作成したいなら、初版本、第二版本のいずれをも利用することはできない。ゼロからお作りいたゞく以外にない。また盗作になる恐れもあるので、似せたものを作ることもできない。
以上のような憂慮を表明するのは、扶桑社において社長が交替し、「歴史教科書」が国際政治的に「靖国」と並ぶキーポイントをなす重要タームであること、そして「つくる会」運動が10年に及ぶ大規模な国民運動であったことへの出版社としての「初心」が忘れられているのではないかと心配されるからである。
安倍新内閣は小泉時代の目に余る逸脱や失敗をひとつひとつ取り除いて調整する役割を果してくれるであろう。「歴史教科書」の採択もその一つである。
採択の失敗は内容にあるのではない。扶桑社が誰かに入れ智恵されてあわたゞしく方針を替えることのないように切望する。
つづく
Posted by Nishio at 2006年09月24日 16:46
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今から10年程前、友人のアメリカ人家族と私の甥っ子で我家の夕食のテーブルを囲んだ。甥っ子は日本から仏国へ来てまだ日が浅い。わいわい言いながら飲んで食べて。
アメリカと日本の国のことが話題になり、甥っ子が「日本人はアメリカをパートナーと思っているよ」と。私も深くも何も考えずに「うん、そう思っているよ」と。
友人のアメリカ人は驚きの表情をさっと引っ込めて、しかし頬に緊張を残して恥ずかしそうに「パートナー? 本当にそう思っているのか?」と。今から思えば「ともだち」くらいに言って置けばよかったかなぁと。
その後、何度もお互いの家の夕食を行ったり来たり。
父上が戦争の時、パイロットだったと。「まさか B29で日本の上空を飛んで爆弾を落としたってことはないでしょう?」と軽いジャブを入れる。
そのうち分かってきたことは、一般のアメリカ人は日本を特別な国とは思ってないよということ、パートナーなんて言葉を軽軽しく言わないことですなと。言われた方がこそばゆくなると言わんばかり。一般のアメリカ人の中に「日本」が現れるときは、たとえば「車」で自国の経済が脅かされる時くらいなものであろうと。普段は要するに眼中にないのが彼らの日本なのだ、ということを教えられた。
私達がアメリカに対して持っている情報量(質は問わない)に比べたらホントに少ししか持ってない。まさしく興味関心の問題であろう。日本という国が有ってもなくても彼らの生活は何の影響もないというところだろう。
彼らはアメリカ人、日本人の私に「目を覚ましなさい」という、啓蒙は勿論してはくれない。しかし、彼らの驚きや質問の仕方や内容で、私は十分に学ばせてもらった。
日本の片思い。惚れた弱み。惚れたが最後、全財産貢がされ。は世間でよく聞く話。
そして、なんかお尻がもぞもぞくすぐったいなぁという言葉を何度も聞くうち彼らはちゃんと学習して、「私がくれって、言ったのではないよ。あなたが喜んで私にくれたんでしょ」というように事を運ぶのが「男も女も」の常套手段でしょう。
今もそのアメリカの友人とは、意が通じ合う仲です。しかし、いざとなったらお互いに自分の国を守ってこそ紳士淑女と言うことを解り合えているように思っています。
>>あきんどさんの説<<
【では何時からアングロサクソンは日本人を信頼したと言うのでしょうか。こちら側が勝手に「夫婦」だと主張しても、相手が「そんなハンコは押した覚えが無い」と言い出したら、はたしてどう説明出来るのでしょうか】
涙を目に一杯ためて、私がバカだったと思えばまだいいほうでしょう。
分けがわからず、すがりつかないように・・・
西尾先生と岡崎久彦氏は だいたい同世代である。終戦時10歳と15歳。
岡崎氏の第二版リライトの文章は第一、味がない。日本語の表現で言えば味気ない文章である。
西尾先生の文章には、味がある。旨味があります。つい文章に引き込まれます。
これは文学をたくさん読んだ人とそうでない人の差かもしれない。人の悲哀や苦しみ喜びを文学を通して身体にしみこませ、解ろうと内なるご自分と対話のできる男性のような気がします。
政治家では西村眞吾氏はものすごい読書家。彼も内なるご自分と対話のできる情け深い男。彼の文章もいいですね。物事の捉え方が明快。常に基礎になるものがしっかりしている。そして人に「優しい」。男は優しいだけではダメである。「強さ、闘う気概」がなければ・・・。そして「優れた知性」。
これが男の三つの勲章だとしたら、西尾先生も西村眞吾氏も持っている。
岡崎氏には「強さ、戦う気概」を感じない。ネゴシエーターを感じてしまう。
私は、男は「優しさ」と「強さ、戦う気概」だけでもいいと思う。皆がみな優れた知性を持ってないのを知っているから。
トップの言論人であれば、国の歴史教科書を書こうという意思を持つものであれば、自国から見据えた目で世界を見れなければダメです。絶対に阿いた心を、ふっとでも起こしたらいけません。教科書は日本男子、日本女子を育てる元なのですから。
布袋和尚さんも書いておられますが、
【歴史を学ぶとは、過去の事実について、過去の人がどう考えていたかを学ぶことなのである】が初版本の精神であると。初版本が2001年にでき、そして遡ること2年の1999年に西尾先生は「国民の歴史」を全力を挙げて(雑誌連載中断、他にもいっさい断筆して)お書きになられた。
その「国民の歴史」のあとがきに、
【私はこの運動と本書の関係を次のように考えている。教科書はたしかに改められねばならない。しかし、日本の根っこのところを変えないと、一冊の新しい教科書が新芽を出しても、日本は本当には変わらない。私は歴史の素人である。それでもこんな夢は見る。本書をたまたま読んだ高校生や中学生のなかから、歴史学者になる人が出てこないとも限らない。そして日本の歴史学会をリードする人にならないとも限らない。そしてその人がつくった教科書で、日本の次の次の世代が生い育つということがないとも限らない。これから50年も先の話である。会はとうに解散しているし、私もとっくにこの世にはいない。・・・】
【本書を私は、ほとんどどうなるか分からない日本の未来へ向けて投じた「捨て石」だと思っている。「新しい歴史教科書をつくる会」が平成14年度春使用の中学校歴史・公民の教科書をつくるのも、その採択のために努力しているのも、日本の遠い未来へ向けて「捨て石」を投じているのだ、という覚悟をもってやっていることで、この点ではおなじである。そのことはみな承知している。私もそのひとりである。そして、その覚悟において本書と会の精神はひとつなのである。私はそのように理解している。
私たちは見えない未来の闇を切り拓くために、心をひとつにしている。ただ私は本書を書き始める前よりは、日本の未来に少し期待がもてるような気持ちになっている。】 ここまで抜粋。
そして最後に・・・扶桑社の方々とひとつのグループとなり「国民の歴史」と言う本が出来上がったことに先生の喜びを感じる文章があとがきに続きます。
その頃の「新しい歴史教科書をつくる会」にも「扶桑社」にも勿論西尾先生にも、渦のような凄いエネルギーを感じます。
人間には才能も大切かもしれませんが、ひとつのことをあきらめない、それにむけてエネルギーを燃やす、執念、がもっと大事に思えます。
誰が日本の将来のために「捨て石」を喜んで投じましたか? 今もそのエネルギーを持ち続けているのは誰ですか? 「日本の根っこところを変えないと・・・」と闘っているのは誰ですか?
「何かやりたいことがある」のであれば、人のものを途中から、くじり取らないで、一から作ればいい。一から作ることは「生みの苦しさ」もありましょうが、それだけに喜び、充実感、達成感は、その人自身しか味わえない、それこそ身震いするような感動でしょう。
「新しい歴史教科書をつくる会」に手を出した伊藤哲夫さん、そして扶桑社さん、ご自分達で望むものを自分たちで作りあげてください。 それこそ、男の仕事でしょう。
この日本に、出版社は扶桑社だけではないのですから、歴史の本を出しているような出版社と組んで 真の「新しい歴史教科書」、すなわち 初版本をこの世にもう一度出すべきだと思います。
先生は「教科書は会費を払って会を支えてきた会員の総意に基いて執筆され出版されてきた」と。 ゼロから立ち上げてこられた先生だから言えるお言葉です。 会員が果たしてたくさん集まってくれるだろうか? というところから皆で作ってこられたのです。
人のものをくじり取るのは「卑怯」と言うのです。
総会といえば、一女性の涙声の訴えで、その場の雰囲気が一挙に日本会議の小田村氏を尊重することこそ全員の意見であるかのようになったと。
「つくる会」という「会」を泣くほどに、愛しておられたのでしょうか?
公共の場での訴えに、涙は、これも卑怯です。
私は同性として、私が泣いたわけではないのですが、恥ずかしいというか・・・彼女は確信犯ですねきっと。女の涙に男は(いや、女も)じっと耐えなければならない、特に大勢の前では手も足も出ないことをわかってて泣いたのでしょう。
ご主人か恋人の前でこころおきなく、お泣きになられたらいいのに。
「つくる会」の紳士の皆さん、女性の涙にも真偽があります。
見ず知らずの女性の涙にはくれぐれも気をつけてくださいね。
Posted by: その女 ソルベ at 2006年09月25日 11:37
その女 ソルベ様
正論!御意に存じます。いやはや男はつらい^^面目ありません。
しかし、男つうのは、つい我が身の栄達や利権を考えてしまう・・・
女房の為、家族の為としながらも・・・しかし、どこかで自己顕示欲に囚われてもいる。
少なくとも天下国家については無私無欲で考えたいと思う次第です。
しかし、久し振りに胸がすっとしました・・・ありがとう。
Posted by: 銀一 at 2006年09月25日 18:15
その女、ソルベさま
いつ読んでも、いいコメントですね。ほとほと感心させられます。いつもダラシナイ日本の男が叱咤激励されているようです・・残念ながらその対象には岡崎久彦氏も筆頭に入っているようです。
『国民の歴史』が発刊されたとき、雑誌『正論』の「読者の声」である老人が「・・生きているうちに、こんな素晴らしい本に出会えるとは夢にも思ってもいなかった。自分は幸せ者です・・」・こんな感想を読んだ覚えがあります。当時の『正論』を探して皆さんに紹介しようと思ったが、どうしても1999.12号が見つかりません(たぶんこの号に載っている筈)。大事にしまい過ぎました。どなたか全文を紹介してくれませんか。
その感想にこそ、発刊を待ちに待った当時の会員のドキドキする期待感と深い感動が凝縮しているのです。当時、多くの会員は『国民の歴史』に初版教科書のイメージを抱いていたのです!! 初版教科書ができたとき、なんとも幸せな気持になりました。皆さんも同じではないでしょうか。これが「つくる会活動の原点」でなくて何でしょう。
かくいう私も、『国民の歴史』を家内に内緒で、自費で100冊買い込み、興奮しながら関係者に配ったことを今でもはっきり覚えています。年配の先生がリーダーとなって、初版教科書を中心とした勉強会が1年以上の長きにわたって行われました。そのときのメンバーの感動と目の色は、まさに前記老人の感動に近いものがありました。
私は、年配者が纏めた毎月の教科書比較資料を本にすれば、あらためて、その時の感動が甦ってくるであろうことを確信し、近いうちに、西尾先生にもお見せしたいと思っております。
残念ながら第二版は感動が乏しくて、・・・これが皆の意見であり、ついぞ勉強会をやろう、という声はその後、一度も聞かれませんでした。
忘れてならないこと・・それは「運動を喚起するには“感動”が必要である」ということです。感動がなくては次の採択運動にも力が入りません。情熱も湧かないのです。アメリカに尾を振りなさい、とでも言いたげな執筆者が関与した教科書は、事実を知るほど、喧伝活動の情熱が湧きません。なんとかしてよ・・と言いたい気持です。
岡崎氏が指摘した靖国神社の説明文・・あれは、大東亜戦争の敗戦国・日本の立場で書かれたものである、という立場で書かれたことをいっときも忘れてはなりますまい。勝者の立場は別のかたちで表現すればいいだけのものです。まして他国の神域にまで口出しするなんぞ許されません。代弁した岡崎氏の「正論」を読み返すと、なんとも傲慢な媚米の匂いがいたします。皆さんも再度読み返してみてください。次の執筆者に岡崎氏を関与させるべきか否か・・ここはつくる会にとって、踏ん張りどころであり、決して妥協できない一点かと思います。
すでに一部の浅はかな会員は「あの表現はたしかに指摘されても仕方がない・・」などと情けない戯言を吐いています。あの表現は靖国関係者確認の下、正式に承認されて展示されたものでしょう。
Posted by: 皇都衛士 at 2006年09月25日 20:31
その女 ソルベさん
イヤぁ~、銀一さんに先を越されました。
私もいつもソルベさんの文章を拝読いたしますと、私の胸の奥底の魂に反響して、グ、グット引き寄せられます。スパツと、直球が胸を一撃して、とても感銘を受けます。
有難う、ソルベさん。
ソルベさんのような方が居られると思うと、同性として大変誇らししいです。現代を生きる女性が持つべき理想の特性といったものを、ソルベさんはお持ちだと。
私は、まだまだ修行が足らなぞと、大いに啓発されております。
日常の生活実感から生まれる想いを源流にして、そこから発展的に思考を深めるから、ソルベさんの文章は、力があり、勢いがあるのですね。
異国の地で生活なさっておられるからこそ、「日本とは何?」、「日本人とは何?」といつも問いながら、生活を見詰めておられるからでしょうか。
これからも、益々、「パリの日本のおっかさん」、「パリの日本のいい女」ぶりを拝見させて下さいませ。大いに勉強になります。
その女 ソルベさんファンのレベッカより。
Posted by: レベッカ at 2006年09月25日 23:55
銀一さん、皇都衛士さん、レベッカさん、
ありがとうございます。
日本男児の銀一さん、貴方のコメントの言葉には、いつも「真」を感じます。
「男はつらいよ、女房の為、家族の為としながらも・・・」
だから日本の男は世界一ステキなのだと思います。
【『国民の歴史』を家内に内緒で、自費で100冊買い込み、興奮しながら関係者に配ったことを今でもはっきり覚えています。】
皇都衛士さんの「100冊買い込み」のところで、目に涙が・・・泣いてしまいました。
あぁ~久しぶりに レベッカさんのお名前を・・・
「力があり、勢いがある・・・」なんて言われると、私は女の癖に変に嬉しいのです。
皆でかっこいい日本の若者を育てましょう。
そのためにはよい歴史教科書が必要です。
【 我らが西尾幹二先生を応援しましょう 】
Posted by: その女 ソルベ at 2006年09月26日 09:32
「新しい歴史教科書をつくる会」の運動とは、失なった言葉を取り戻す事であり「失われた言語空間」の克服である。
61年前、日本民族は大御心に従って静かに武器をおいた。放心状態にあった日本人の心には「戦闘には負けたが、戦争では負けていない」という思いが強かった。
民族の再起を心に秘していたからこそ、敗戦による混乱は殆どなかったのだ。
戦勝国は、日本が未曾有の混乱に陥り革命でも起こるのではないかと期待したが、国内は水を打ったように静かであった。それが理解できなかった彼らは、日本民族が再び不死鳥のように蘇り、アジアを糾合して世界を搾取する西欧文明に立ち向かう事を怖れた。
戦勝国は、日本民族が戦争を反省していないことに驚き、徹底して日本民族の改造を決心した。それを(War Guilt Information Program)と称し、大東亜戦争を平和と人類への反逆として、日本民族がその罪過を受け入れるよう洗脳したものである。
「日本国民に罪はない、悪いのは政府指導者と軍人だ」という軍民分離を謀り、公文書、新聞、雑誌の検閲のみならず私信まで徹底的に検閲し、戦勝国にとって有害な書籍を廃棄させ、公職追放令で指導的立場に在る者を排除したのは、紀元前の野蛮な焚書坑儒に匹敵する暴挙であった。民族の主権を排して憲法を押しつけ、世界に誇るべき教育勅語を葬り去った。日本が戦争の大義の一つに掲げた人種差別撤廃は、戦勝国によって完膚無きまでに打ち砕かれた。
これらの国際法にも違反する暴挙は、自由と民主主義を旗印に掲げた戦勝国が為し、日本は最低限の抗弁する意志と希望を表現する言葉を奪われた。
言葉を失った日本民族は戦勝国の意のままに洗脳され、國に命を捧げた己の父祖を憎むところまで堕落してしまった。堕落したのは国民だけではない。日本政府は「村山談話」と「近隣諸国条項」を基本スタンスとし、拉致犯罪国家北朝鮮に米50万トンをくれてやり、中国から言われるままに不発弾処理に1兆円を出そうとしている。自虐史観に蝕まれた日本は、未だに歴史に基づいて自身を主張する言葉を失ったままなのだ。
平成9年、自虐史観を排し日本民族が失った言葉を取り戻すため「新しい歴史教科書をつくる会」が設立された。平成13年、念願の「新しい歴史教科書」が世に出た。
それにはこう書いてあった。
「歴史を固定的に、動かないもののように考えるのをやめよう。歴史に善悪を当てはめ、現在の道徳で裁く裁判の場にすることもやめよう。歴史を自由な、とらわれのない目で眺め、数多くの見方を重ねて、じっくり事実を確かめるようにしよう。」
長い間日本の子供達に「戦争犯罪国家日本」というありもしない原罪を押しつけてきた従来の教科書とは全く異なる何とも清々しい教科書であり、子供達に胸を張って渡せる教科書だった。全国1万人の「つくる会」会員も長年のボランティア活動が実った瞬間であった。
「新しい歴史教科書をつくる会」と「拉致被害者を救う会」が日本と国民を覚醒させたとはよく言われることである。中韓にとっては日本が自己主張する言葉を取り戻すのは何としても避けたい。中韓が「新しい歴史教科書をつくる会」を目の敵にして採択の妨害をしてきた事実は、何よりも雄弁に中韓の意志を物語っている。私達の地道な運動が日本を覚醒させ、日本民族が活力と誇りを取り戻し、半世紀以上の洗脳から醒める切掛けとなっているのは、「つくる会」が誇って良いことである。
一方で、未だに洗脳から醒めずに自虐史観に苛まれ中韓に阿る知識人や学者が存在している。彼らの自虐史観の免罪符となっているのは「友好」であり「平和」であり「経済」であったりするが、本質的には「強者への恐怖」であり「理解者であろうとする偽善」である。始末が悪いのは「新しい歴史教科書をつくる会」に関係しながらも、究極のところでは自虐的に行動してしまう人達がいることだが、長い間外国に向けての自己主張の言葉を失った後遺症と言うしかない。
一体、個人として他国を好み愛する心と自国への愛国心とが両立しないなどと言うことがあるだろうか。如何に日本にとってアメリカが大切だとしても、大東亜戦争の歴史認識をアメリカ人に委ねて靖国神社の記述を書き換えさせるなどと言う行為は、歴史教科書に携わる者の採るべき態度ではあるまい。その様な行為は、それを要求するアメリカ人からも、実は唾棄すべき行為だと内心軽蔑されるだけである。
そればかりか、我が国との歴史認識の違いについて、他国の是正要求を認めざるを得ない前例を作ったことになる。国益の観点からもこの行為の罪は重い。
日本を愛し日本の理解者と言われる外国人は幾らでもいるが、自国に関わる歴史認識となると決して日本には阿らない。それこそが本当に信頼できる国際人であり理解者である
「新しい歴史教科書」は常に前進しなければならない。
21世紀の到来と共に世界各国で秘密文書の公開が進んでいる。今まで歴史事実と思われていたものが、ある日突然新事実が明かされ、歴史認識がひっくり返るような事態が頻繁に起こるだろう。だからといって如何なる事が起きようとも、現在の規範で過去を裁くような歴史教科書であってはならない。何故ならば、それが歴史教科書に於ける世界のデファクトスタンダードだからだ。
「倦まず弛まず諦めず」
これこそ「つくる会」を支援する会員のスローガンであり、行動と認識の指針である。
歴史認識に於いて、私たちは物事を相対化する安易な思考を止めよう。
原則を外すことなく初心を貫徹する強い精神と歴史に基づいた適切な言葉を取り戻すことこそが、日本民族が61年に亘る洗脳から解き放たれ、国際社会に於いて日本を確立する唯一の道であるからだ。
Posted by: でじゃ・ぶ at 2006年09月27日 14:43
私は10年前、本屋に置かれていた「教科書が教えない歴史」シリーズを読んで強い感銘を受けた人間です。
西尾先生は、小泉前首相の靖国神社参拝を強く批判なさいましたが、それは小泉氏の参拝方法と歴史観が問題だったからですよね。
それは、岡崎久彦氏による教科書の書き換えを批判なさる理由と、同じだと感じます。
結局、小泉氏も岡崎氏も、昭和戦前・戦中期の日本に対して、自国の歴史だという愛着の念がないのです。
だから私は、岡崎氏のような人間に歴史教科書を執筆してほしくないし、する資格もないと思います。
扶桑社が、「つくる会」理事会における決定とは別に執筆者を一本釣りするとすれば、それは岡崎氏の考える媚米反日史観の内容と、八木秀次氏の言う「朝日新聞にも批判されない」中韓両国に阿る内容の両方が入った内容になるはずです。
どうなるにしても、「つくる会」は岡崎氏と袂を分かたなければならないし、八木氏らと復縁しようと考えてもいけません。
日本の立場から見た歴史叙述を貫こうとした旧版の内容に近い形に戻す必要があると思います。
Posted by: 海谷 at 2006年09月28日 23:43
でしゃぶ様 海谷様
御説ごもっともだと思います。
それに関連して、「文明地政学協会」機関紙「みち」の「常夜燈」というコラムから下記、引用させていただきます。
「・・・その後の大きな流血は、第二次世界大戦とそれに伴ふ大空襲である。これによって、われわれは大きな損害を蒙った。人的・物的に蒙った。だが、それといふのも、植民地支配者である欧米諸国が、決して指導者ではなく巧妙なる支配者であったため、アジア諸国が真の独立を達成できず、いたづらに悲惨を繰り返したためであった。このときに、真の解放者として求められたがゆえに起こった行動の結果が、第二次大戦における「敗戦」であった。「敗戦」はすべての論理を逆転させた。敗者の小さな善も、勝者の大きな悪にすり替えられる。日本帝国の支那防衛、アジア防衛の意図は、連合国側に支那南侵と誘導された。そして日本の敗戦。無謀とも言える逆転価値の上に、戦後日本の文化が急ピッチで建設される。連合国側の、いや、正確に言えば、世界支配を目論むユダヤ世界支配体制の計画は、ここ日本において着実に身を結ぶ筈であった。従順で勤勉なる人民、彼らを支配下に置くこと。それには一部を選良(エリート)として育てるほかは、大多数を汲々として自己のために働かさせるためであった。彼らの計画は戦後数十年で半ば実現したと言える。半ば成功したと言えるのである。洗脳の成果には凹凸があるけれども、もはや日本が「アジアの盟主」になろうとはしないであろう。そのために支那や韓国その他アジア諸国に布陣されてゐて、監視の網が取り巻いている。一方で、「独立国」といふ美辞を與へてある。アメとムチが用意されてゐる」
私が言いたいこと、それは岡崎久彦氏の戦争認識と「常夜燈」執筆者との戦争認識との間に大きなギャップがあることです。雑誌『諸君』11月号の記事「米中の靖国 遊就館 批判に応える」(永江太郎vs高橋久志)にもあてはまるものです。
歴史教科書の記述はいったいどちらが正統なのか。世界各国の常識はいったいどちらなのか。答えは決まっているのではないでしょうか。当時の日本はいかなる状況下で戦争に臨んだのか・・・
パソコンで「チュウキョウ」と入力しても「中共」と変換されません。こういう偏屈な文化意識も洗脳の結果ではないでしょうか。「稟とした」日本人が居なくなったのも、外国の批判にすぐ呼応して国民におかしな説教を垂れる卑屈な輩が過去60年間、国内の言語空間を支配してきたからです。『国民の歴史』はそれを打破する役割を果たしたのです。あらためて同書を読み返す運動をいたしましょう。
その女 ソルベさん,でしゃぶさん、海谷さんのように確かな判断力を有する「稟とした」日本人を育てること、それが我われに課せられた使命かと思います。
Posted by: 皇都衛士 at 2006年10月05日 07:21
安倍政権が八木さんを選ぶようなら安倍政権に大きく失望するところでしたが、今のところそれはなさそうですね。私は八木さんに恨みはありませんが、「八木さんととともに教育を語る会」とか、安倍政権誕生後に官邸に行ってタウンミーティングの話をしたりと事前運動まがいの行動でいやになりました。
八木さんのような人物を、大物にしたのは、やっぱり産経新聞であり、西尾さんらではありませんか?八木さんの話をある人物にしましたら八木さんが産経新聞の新風賞をとるために審査員に受賞を働きかけていたという話も聞きました。
それと扶桑社というのは、資本的にはフジテレビの子会社ですからお間違いなく。フジテレビの日枝は八木さんが好きなようですね。八木さんというのはちょっとずれてて、自分で安倍政権のブレーンといわれて喜ぶ人です。日枝が自分を支持していると自分で言ったと聞いて最初は信じられませんでしたが、安倍政権のブレーンだと自分でいっていうのを聞いてなるほどと思いました。扶桑社のM氏も上の雰囲気を敏感に察しているだけかも知れません。まあ、こんな話はどうでもいいことかも知れませんが・・。
Posted by: たろう at 2006年10月10日 00:36
10月10日に閣議決定された首相の諮問機関「教育再生会議」の有識者メンバーには、八木氏やその「日本教育再生機構」の関係者は入っていなかった。これで八木氏等の「安倍首相の厚い信任」の誇示を背景にしての産経新聞や扶桑社に対する影響力にも翳りが生じ、「つくる会の教科書」を「扶桑社の教科書」に変えさせてその執筆・監修権を強引に簒奪しようとした彼らの目論見も頓挫する流れになるのではないか、と一安心したところである。
しかし、有識者メンバーの顔ぶれを見渡すと文科省と気脈を通じる方々が少なくないようであり、かつ「つくる会」を目の敵にしたといわれる小野元事務次官もしっかりと入っておられることから、「つくる会」にとってはあまり期待の持てそうな存在とはなりそうもない形勢である。「可はなく不可はややある」といった感じである。
この成り行きに八木氏は深く落胆されたことであろう。西尾先生が徹頭徹尾「思想家」であられるのとは対照的に、この御仁は学者に似合わず骨の髄からの「政治屋」さんでもあるようである。「思想家」がその生命として重んずる「理念」や「節操」というものも、たろうさんも言及されたとおり、この御仁にとっては、世俗に通ずる目的を達成のためには如何様にも変容・変節させ得るものであることを演じて見せてくれた、というところであろう。
しかし、そこまでしても「予定の一歩」が進まなかったわけであるから、その対極にいる「つくる会」の側としては大いに意を強くしてよいわけである。
勿論、でじゃ・ぶさん、皇都衛士さんたちのような頑固なほどに真摯な会員の方々は勇気凛々武者震いされたところであろう。
そして、扶桑社の側と手を結び「つくる会」に揺さぶりを掛け続けていると聞く八木氏に対しても「つくる会」のトップたる指導者は、この機をとらえ、毅然たる態度を示すべきであり、扶桑社に対しても、従来からの関係、即ち「本来の関係」の維持を堂々と要求してもよいのではないか。
そのトップたる指導者が(元「政治家」としてのホビアが骨の髄まで染み込んでいるが故に)、どうしてもそれが出来ないと言うのであれば、最早「つくる会」のトップたる地位に相応しからず、潔く退陣していただいた方がよろしいのではないか、私も、皇都衛士、でじゃ・ぶさんたちに続く会員の一人として、とくそのように思うのである。
Posted by: 布袋和尚 at 2006年10月11日 18:37
管理人 殿
10月11日午後6時半頃の私の投稿が掲載されておりませんが、これは私の送信ミスによるものか、それとも内容的に不都合があって掲載を差し止められたものか(その場合は、差し止めとなった理由を、一言で結構ですが)、或いはその他の理由・事由によるものか、私のメールアドレスあてに御通知いただきたく、よろしくお願い致します。
Posted by: 布袋和尚 at 2006年10月12日 12:31
>布袋和尚さま
当該投稿は管理サイドでは発見できませんでした。
送信ミス?あるいは、こちらの受信ミス?かなにかではないでしょうか。
内容による選別での拒否はしておりません。
もし、よろしければ、もう一度投稿してください。
Posted by: 長谷川 at 2006年10月12日 17:58
管理人 殿
初めてのケースではありますが、私の送信ミスであったかも知れません。
投稿の内容は「安倍首相の諮問機関「教育再生会議」が閣議決定され、委員(有識者メンバー)が公表され、その内に八木教授と日本教育再生機構の関係者が入っていなかったことを承けてのコメントでしたが、残念ながら内容の控えをとっておりませんでしたので、またあらためて別途投稿とさせていただきます。
お手数をおかけ致しました。あしからず
Posted by: 布袋和尚 at 2006年10月12日 20:37
布袋和尚様、びーちぇ様、神戸人様、Vagabond様の投稿が、迷惑コメントフォルダに入っておりましたので、反映させました。
びーちぇ様の投稿は、この上にあります。
スパムコメント(被リンク数を増やし、トラフィックを稼ぎ、検索結果を上位に持ってくるためのロボットによる迷惑投稿)対策のフィルターに引っ掛かっていたようです。
迷惑コメントが多いときには1日に100件ほどありますので、見落とす場合があります。
大変失礼致しました。
Posted by: 管理人 at 2006年10月13日 04:49
>布袋和尚さま
・・・・・・ということでした。ごめんなさい。
いやぁ~~~管理画面は複雑ナリ。
最近本当にサイバーアタック?が多いです~~
Posted by: 長谷川 at 2006年10月13日 09:20
「つくる会」に暗雲がたれ込めていると聞く。
又か、というやりきれない気分だが、教科書の次期検定の監修権に関わるトラブルだと聞けば、会員としては放ってはおけない。
もともと教科書の版権は「つくる会」と扶桑社が50%づつ持っているが、今までの慣習上、監修権はあくまでも「つくる会」にあり、代表執筆者の藤岡氏の専権事項だった。
「つくる会」が執筆と検定のための監修権を行使し、扶桑社が発行するというシステムは「つくる会」が発足して10年間、何の問題もなく踏襲されてきた。
ところが、このシステムを扶桑社が変えようとしているらしいのだ。
執筆者を一本釣りして扶桑社の意向に従わせ、最終的には「つくる会」から監修権を奪取して八木氏の教育再生機構に与えるという。これが実現すれば、八木氏は自分の思うままに「新しい歴史教科書」を作り替える事ができる。我々の「新しい歴史教科書」は、八木氏が明言した「朝日新聞から抗議されない歴史教科書」に変身するわけだ。
これで「つくる会」の10年の努力も水の泡となって消え去り、中国も韓国もさぞかし満足するだろう。
「つくる会」の乗っ取りに失敗して会を去った筈の八木氏が、前回は黒子で表に顕れなかった扶桑社を前面に押し立て、再び「「つくる会」の乗っ取りに動き出したのだ。
実際はどちらが首謀者かは不明だが、会員としてはこの様な謀略を黙って眺めているわけにはいくまい。八木氏や扶桑社の自己保身か、はた又、中韓に阿る国家的陰謀かは知らないが、子供達を再び自虐史観の泥沼に引きずり込む八木氏の「新しい歴史教科書」の出現は絶対に阻止しなければならない。
このほど政府の「教育再生会議」が発足したが、八木氏の「教育再生機構」にはお呼びが掛からなかった。あれほど意気込んでいた八木氏もがっかりしたことだろうが、「教育再生会議」のメンバーを見ると、八木氏もびっくりの左翼人士の集まりである。
メンバーから外された腹いせに、ならばと「「つくる会」を乗っ取って自虐史観教科書のスタンダード版を作ろうとでも考えたのではないかと勘ぐりたくなる。
問題は「「つくる会」の姿勢だ。理事達が日本の次世代を負う子供達の為に結束してこの謀略に立ち向かえるか、扶桑社を失う不安や一本釣りの甘言に負けて城を明け渡すのか、今問われている。叶うことなら、理事達や執筆者達には、中韓や左翼集団を敵に回して戦った「つくる会」10年の栄光を背負った誇りを感じて欲しいのだ。
実際のところ、この謀略話がデマであって欲しいと切に思う。
こんな与太話で世間の失笑を買うのは、会員としてはもはや耐えられないのである。
Posted by: でじゃ・ぶ at 2006年10月17日 18:12
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Tracked by: 調査分析報道・資料倉庫 BY オフイス・マツナガ at 2006年09月26日 10:03
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