西尾幹二のインターネット日録

むかし書いた随筆(七)

***買いそびれた一枚***

 どうしてもこの一枚のレコードが欲しいという執着が、私には昔からない。だから、所蔵を密かに誇りにしている名盤も持っていない。若いとき、レコードを愛玩する審美的な熱狂家たちに取り囲まれていて、癇に障って、あれは孤独な病だ、などと嘯(うそぶ)いては、抵抗を試みていたスノビズムの結果かもしれない。

 昭和40年代の初め頃、松本道介君(現中央大学文学部長)がボーナスをはたいて、クナッパーツブッシュ指揮の『パルジファル』を買った。ワーグナーのレコードはまだ珍しく、フルトヴェングラーの『リング』も出ていなかった頃だ。当時松本君は、レコードを聴いていた、というよりレコードを生きていた、と言った方が良いかもしれない。感性的に鋭く、潔癖な彼は、同じ『パルジファル』全曲を二揃い買った、と私に告げた。一つは自分の常用であり、他の一つはレコード針による摩滅を恐れての自分のための永久保存用だ、というのである。私はこれを聞いて、負けた、と思った。孤独な熱狂も、ここまで来れば見事である。

 しかし、間もなくミュンヘンに留学した私は、実際に音楽を聴く、ことにオペラを聴くということが、レコードを頼りにすることとは格段に差違のあることを、あらためて知った。当時ミュンヘンのレパートリーは58あったが、私はそのうち52に接した。毎晩のように出掛けて行ったある冬の経験もあるのだが、毎晩の舞台がどれも満足を与えてくれたとは限らない。素人耳にも歌手の良し悪しは判定がつく。

 一作品に目星い役柄が四人いたとすると、四人揃って歌手が魅力的である、というケースは絶無に近かった。うまいなァ、と思わせる歌手は、通例は四人のうち一人くらいなのだ。そして聴き手はそれを知っていて、拍手の量で歌手を評価している。抜きん出た歌手がアリアを歌い出す寸前には、客席に期待の余りの緊張が走るのを、私は自分の身体で感じとっていた。

 私はこれが本物のオペラに接するということだと思った。凡百の歌手の中にあって初めて本物の歌手は生きてくる。あるいは、本物の歌手は凡百の、才能も乏しい層に支えられて初めて成り立っているのである。名歌手ばかりで配役を組んだ特殊な一枚のレコードは、「抽象的」でありすぎる。私はそんなことを、得々として松本君に書き送ったが、二年後に留学した同君が、やがてこの自明の事実を、何倍もの規模で体験したであろうことは、およそ想像に難くない。

 そんなわけで、音楽が時間の芸術である限り、音楽の保存はあり得ない、は原則的に今でも成り立つと信じているが、しかし、すでに消えてしまった美の記憶を甦らせる手段として、美を仮定的に保存しようとする願いが人間にあることもまた、紛れもない。ことに日本人は帰国してしまえば、本物のオペラを滅多に見られないのだ。

 私の場合、「ベルリン国立歌劇場(東ベルリン)」が1977年に来日したときの『ドン・ジョヴァンニ』がそんな体験である。スウィットナー指揮で、テオ・アーダムが主役だが、とりわけドン・オッターヴィオを唄ったペーター・シュライヤーの全身に沁み入るような明澄な声がいまだに記憶の底に残っている。

 同じ配役のレコードが出ているよ、と友人が教えてくれたのだが、つい買いそびれてしまったのも、愚かなことに例のスノビズムのせいかもしれない。

初出(原題「買い落とした一枚」)「文学界」1986年10月号

Posted by Nishio at 2006年01月27日 10:01 | コメント (1) | トラックバック (15) | Clip!!

この記事に対するコメント

近年は、時事評論を主とされていらっしゃいますが、西尾先生の文学芸術に関するこういったエッセイや評論も、面白く愛読しております。私見では、時事や政治の問題は、多数の人々が注目し、やがては大向こうに正誤が明らかになりますので、事が些か単純であるように思います。しかし文芸というものは、判定がし難い上に、先生の取り扱う問題が微妙で、だからこそ逆に熱い共感を覚えます。
例えば「複眼の欠如」「複眼の意味」での高橋英夫「偉大なる暗闇」への批判など、私にとって大変心強く、大きな影響を与えられたものでした。
以前先生に御教示戴いた「日本の根本問題」中「観念の見取り図」も拝読し、得心致しました。
これらは、特定のものへの批判を契機にしながらもそれを典型として、人間のひとつの知性のあり方、誰しも陥る可能性のあるひとつの思考活動のパターンへの厳しい批判となっており、我が身をも糺さずにはいられないものです。
ひとつ、ここでの随筆に関わるような関わらないようなことを加えさせて戴きますと、クナッパーツブッシュの「パルジファル」の、残された全曲録音は全てバイロイト音楽祭の実況録音のはずです。それでも歌手のレヴェルには大きな差は無い(と思うのですが)のは、そのために集う特別の音楽祭であることと、老巨匠の最晩年ですから、彼への敬意から比較的良いキャストが揃っているためであると思います。バイロイト詣でをお済ましの西尾先生には釈迦に説法ですが、念の為オタク風に補足させて戴きます。クナッパーツブッシュ、最高!

Posted by: 神戸人 at 2006年02月06日 02:50

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