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西尾幹二のインターネット日録

2006年01月
2006年01月27日

むかし書いた随筆(七)

***買いそびれた一枚***

 どうしてもこの一枚のレコードが欲しいという執着が、私には昔からない。だから、所蔵を密かに誇りにしている名盤も持っていない。若いとき、レコードを愛玩する審美的な熱狂家たちに取り囲まれていて、癇に障って、あれは孤独な病だ、などと嘯(うそぶ)いては、抵抗を試みていたスノビズムの結果かもしれない。

 昭和40年代の初め頃、松本道介君(現中央大学文学部長)がボーナスをはたいて、クナッパーツブッシュ指揮の『パルジファル』を買った。ワーグナーのレコードはまだ珍しく、フルトヴェングラーの『リング』も出ていなかった頃だ。当時松本君は、レコードを聴いていた、というよりレコードを生きていた、と言った方が良いかもしれない。感性的に鋭く、潔癖な彼は、同じ『パルジファル』全曲を二揃い買った、と私に告げた。一つは自分の常用であり、他の一つはレコード針による摩滅を恐れての自分のための永久保存用だ、というのである。私はこれを聞いて、負けた、と思った。孤独な熱狂も、ここまで来れば見事である。

 しかし、間もなくミュンヘンに留学した私は、実際に音楽を聴く、ことにオペラを聴くということが、レコードを頼りにすることとは格段に差違のあることを、あらためて知った。当時ミュンヘンのレパートリーは58あったが、私はそのうち52に接した。毎晩のように出掛けて行ったある冬の経験もあるのだが、毎晩の舞台がどれも満足を与えてくれたとは限らない。素人耳にも歌手の良し悪しは判定がつく。

 一作品に目星い役柄が四人いたとすると、四人揃って歌手が魅力的である、というケースは絶無に近かった。うまいなァ、と思わせる歌手は、通例は四人のうち一人くらいなのだ。そして聴き手はそれを知っていて、拍手の量で歌手を評価している。抜きん出た歌手がアリアを歌い出す寸前には、客席に期待の余りの緊張が走るのを、私は自分の身体で感じとっていた。

 私はこれが本物のオペラに接するということだと思った。凡百の歌手の中にあって初めて本物の歌手は生きてくる。あるいは、本物の歌手は凡百の、才能も乏しい層に支えられて初めて成り立っているのである。名歌手ばかりで配役を組んだ特殊な一枚のレコードは、「抽象的」でありすぎる。私はそんなことを、得々として松本君に書き送ったが、二年後に留学した同君が、やがてこの自明の事実を、何倍もの規模で体験したであろうことは、およそ想像に難くない。

 そんなわけで、音楽が時間の芸術である限り、音楽の保存はあり得ない、は原則的に今でも成り立つと信じているが、しかし、すでに消えてしまった美の記憶を甦らせる手段として、美を仮定的に保存しようとする願いが人間にあることもまた、紛れもない。ことに日本人は帰国してしまえば、本物のオペラを滅多に見られないのだ。

 私の場合、「ベルリン国立歌劇場(東ベルリン)」が1977年に来日したときの『ドン・ジョヴァンニ』がそんな体験である。スウィットナー指揮で、テオ・アーダムが主役だが、とりわけドン・オッターヴィオを唄ったペーター・シュライヤーの全身に沁み入るような明澄な声がいまだに記憶の底に残っている。

 同じ配役のレコードが出ているよ、と友人が教えてくれたのだが、つい買いそびれてしまったのも、愚かなことに例のスノビズムのせいかもしれない。

初出(原題「買い落とした一枚」)「文学界」1986年10月号

2006年01月25日

むかし書いた随筆(六)

 末尾が切れて不完全な掲示となりましたので、完成稿をもう一度掲示します。なお、デューラー四使徒の絵も不完全掲載であったことをお詫びします。

***夜の美術館散歩***

 ヨーロッパの美術館はしばしば夜も開かれている。昨秋、私は久し振りに三ヶ月ほどドイツに行った。夜になると大抵オペラや芝居を見にいったが、毎晩というわけにもいかず、行く処がなくて困る夜もあった。そういうときに美術館が開いているのはじつに有難い。

 例えば、ドイツ中世絵画で名高いミュンヘンのアルテ・ピナコテークは、火曜と木曜の二晩だけ、午後7時から9時まで開かれている。館内には昼間のように団体の観光客はない。森閑とした巨大画面の谷間に、訪れた靴音だけが冷え冷えと響いていた。

 14-18世紀の西欧絵画を主に蒐(あつ)めた、おそらく目下西ドイツ最大のこの美術館に、昔私は飽きるほど足を運んでいたので、デューラーが何処にあり、グリューネヴァルトが何枚くらいあるかまで覚えていた。今度も私は疲れていない元気のいいときには、これらドイツ中世絵画に面と向かった。疲れているときには、どういうわけか、今度は色も線もどぎついまでに勁(つよ)いドイツ的世界を避ける気持が動いた。クラーナハの妖しい美、バルドゥングの怪異さ、グリューネヴァルトの精神性――どれ一つをとっても見る者の心に過度の緊張を強いて来ないものはない。一日の仕事を終えた夜の散歩者の気分にはそぐわない。

 どうせ夜の二時間くらいではこの大きな美術館を回り切れるものではない。私はそう考え、夜入ったときにはあちこち移動せず、一、二の部屋にじっと腰を落ち着けているのがいいように思った。

 そこでドイツの絵を避けた日には、私は好んで17世紀オランダ絵画の、穏やかな室内のリアリズムの傑作が並んでいる側面の小部屋に足を向けた。労働する女性の全身に射す明るい光と影、四角い窓や戸に区切られた室内の落ち着いた空間構成、糸の織り目の一本も見逃さない衣裳の襞(ひだ)の細密描写――フェルメールやテルボルフの代表するあのオランダ市民の日常生活を描いた数々の傑作は、神話や聖書にばかり取材したドイツ中世の、イエス・キリストや受難者たちを残酷陰惨に描いたあのもう一方の暗い世界とは何というへだたりがあるだろう!

 私はグリューネヴァルト、バルドゥング、クラーナハ、アルトドルファーといったドイツ中世画家たちの作品に取り巻かれ、ベンチに座って、独りじっとしていることがあった。すると画家たちの宗教的幻想が、まるで異様な一大音響となって、私の身の周りに飛び交い、もつれ合い、降りかかってくるように思えた。それらの絵は神秘的で、超俗的で、物語性に富み、日常にはないものを現実化してみせる、中世絵画に特有のメルヒェンめいたファンタジーに満ちあふれていた。

 私はそういう画家の幻覚の数々――底知れぬ絵画的豊かさだと言ってもいいのかもしれないが――に当てられ、言いようもない不安を覚えることも少なくなかった。それは形のない玩具を与えられてどう扱ってよいか戸惑う子供の心理にも似ていた。

 そういうドイツ中世画家の中で、明確な形、均斉のとれた即物的描写という点で、私の心にただひとり例外をなす画家がいた。幻想ではなく、厳密に規定された調和と法則の美において秀で、しかも、宗教的情熱を決して表立てては主張しない男性的な禁欲の画家。いうまでもなく、デューラーがその人で、ミュンヘンのこの美術館にも、代表作「四使徒」がある。

 、聖書を手にした四使徒の立像、その忘れ難い眼光は、一度見た者の心を去らないだろう。しかしデューラーは決して分かり易い画家とは言えない。秀(すぐ)れた作品は肖像画に多く、地味で、文学性に乏しい。いま述べたドイツ画家の特有の、宗教的幻想を述べる率直さが彼にはない。『人体比例論』という書物を著した理論家が彼の中には住んでいる。

 初め私も彼にはなじめなかった。オランダの画家のあの家庭的な優しさも彼にはない。イタリアの画家のような絢爛(けんらん)たる色彩美も彼には乏しい。しかし私は今度の旅で、ドイツそのものに疲れたときに、この最もドイツ的な画家にかえって癒(いや)された。「ドイツ的」とは、ドイツ的情緒を否定し、これに打ち克とうとする精神の方向を指しているからであろう。

初出(原題「美術随想 ドイツの美術館」)「産経新聞」1981年9月4日夕刊

2006年01月24日

川田正子さんを悼む

 川田正子さんが急逝され、しばし言葉もなかった。今年も年賀状の交換があった。

 平成14年8月3日につくる会・夏の祭典の第一部にコンサート「教科書から消えた唱歌・童謡」が企画され、川田さんと森の子児童合唱団にご出演いただいた。子供の頃ラジオで毎日のようにその歌声を耳にしていた、私には懐かしい人だ。五十数年をへて実際にお目にかゝれる人になるとは夢にも思っていなかった。

 あの日の出来事を通じて川田さんを回想する文章を日録に記していたので、その一部を追悼の意をこめて再掲示する。

 舞台の上に緑の服に、白い帽子を冠った20名の可愛い森の木児童合唱団の子供たちが「待ちぼうけ」「故郷を離るる歌」を、それから「おぼろ月夜」を歌った。さらに「夏は来ぬ」「われは海の子」「村祭」がメドレーで歌われた。

 そこで川田正子さんが登場、「みかんの花咲く丘」を歌った。

 川田さんがデビューしたのは昭和18年だが、戦時中も疎開せずにJOAK(今のNHK)のマイクの前で歌いつづけた。終戦前でも「空襲のない日はあっても川田正子の歌声の聞こえなかった日はない」とまで言われたほどである。

 戦後最初にヒットしたのは「里の秋」で、つづいて昭和21年「みかんの花咲く丘」(加藤省吾作詞・海沼実作曲)が空前の大ヒットとなった。あの前奏のメロディーも私は口をついて出てくるほどに愛唱したものだ。

 ラジオの二元放送というのがあって、伊東市の国民学校の講堂で、8月25日彼女が歌う予定の前の日になってもまだ歌ができていない。作詞の加藤は故郷の静岡のみかん畑を思い浮かべながら原稿用紙をうめた。作曲の海沼は歌詞を受けとるや、曲を作るより前に、大急ぎでCIE米民間情報局とCCD米民間検閲部が陣取っていたJOAKへ、まだ幼い川田さんの手を引っぱって連れて行った。当時出版物や歌などは、発表する前に必ずGHQの審査を受けなければならなかったからである。

 勿論「みかんの花咲く丘」の歌詞に問題はなく、すぐ許可が下りた。大急ぎで二人は電車に乗ったが、当時伊東行きは一日に一本しか出ていなかった。海沼は車中必死に想をねって、音楽学校でよく弾いたオペラの曲を思い出していると、ワルツのようなあの前奏が閃いた。川田さんはすやすやと眠っていたという。

 こうして電車が伊東に着く頃にメロディーはできあがった。伊東の旅館で海沼は川田さんといっしょに風呂に入り、背中を流してやりながら、明日歌うことになっている新しい歌を教えたという。

 一度限りの放送用と考え、あわただしく作られたこの歌は予想を越え、空前の大ヒットとなり、童謡歌手川田正子の人気は大人のスター歌手をも圧倒するほどとなった。

 昭和21年は大量の餓死者が出ると予想されたほど、国内の食糧が完全に底をついた暗い年であった。

 あの年の夏、私は国民学校の五年生で、茨城県の那珂川上流の寒村に疎開していた。農家から畑を借りて、父母が慣れない手で芋をつくり、野菜を育てていた。

 歌の祭典が始まる前、私は楽屋に川田さんを訪ねて挨拶した。昭和21年から、56年の歳月が流れている。私とほぼ同世代の彼女はまだ若々しく、美しかった。小学生のときラジオで毎日聞いていたあの歌声の持ち主に、67歳にして出会えたのである。

 舞台の川田さんは声に張りがあり、艶もあり、衰えを感じさせない。「赤い靴」「十五夜お月さん」「この道」「浜千鳥」そして「月の砂漠」が次々と歌われた。

 川田さんには私のリクエストで「冬の星座」を歌ってもらった。私も舞台に上って「みかんの花咲く丘」と「ふるさと」を会場も含め皆で合唱したのを思い出す。この後書簡の往復もあった。

 川田さんの音量のある艶やかな声と若々しいお姿を思い出すと、急逝がにわかには信じられない。人の命の儚さと無常の思いはありふれた言葉ではあるが、今はただそうとしか言いようがない。同じ年齢の彼女の死はわが身に近づくものの跫音の響きをしかと感じさせる。

 昨日高校時代の私の友人の一人がガンで入院したとの報せを受けた。人が去るだけでなく、私の生きた「時代」が去って行く。

 『諸君!』3月号に「誰がホリエモンに石を投げられるのか」(18枚)を書いた。動いているニュースなので、容易でなく、ホリエ逮捕のあった23日の夜中に加筆校了とした。

 人は生きている限り、生の法則に従い、自分の仕事に忠実に従事する。しかし人の世の争乱と紛糾を人の世を超えた視線で突き離して見ることも必要で、この論文の題名は期せずして私の心境を反映していたように思える。題名は勿論、三日も前に決定されていたのではあるが・・・・・・。

2006年01月21日

むかし書いた随筆(六)

  「皇室問題の論じ方」(五)(六)がこの後つづくが、仕事上の時間の都合で、閑話休憩します。

***夜の美術館散歩***

 ヨーロッパの美術館はしばしば夜も開かれている。昨秋、私は久し振りに三ヶ月ほどドイツに行った。夜になると大抵オペラや芝居を見にいったが、毎晩というわけにもいかず、行く処がなくて困る夜もあった。そういうときに美術館が開いているのはじつに有難い。

 例えば、ドイツ中世絵画で名高いミュンヘンのアルテ・ピナコテークは、火曜と木曜の二晩だけ、午後7時から9時まで開かれている。館内には昼間のように団体の観光客はない。森閑とした巨大画面の谷間に、訪れた靴音だけが冷え冷えと響いていた。

 14-18世紀の西欧絵画を主に蒐(あつ)めた、おそらく目下西ドイツ最大のこの美術館に、昔私は飽きるほど足を運んでいたので、デューラーが何処にあり、グリューネヴァルトが何枚くらいあるかまで覚えていた。今度も私は疲れていない元気のいいときには、これらドイツ中世絵画に面と向かった。疲れているときには、どういうわけか、今度は色も線もどぎついまでに勁(つよ)いドイツ的世界を避ける気持が動いた。クラーナハの妖しい美、バルドゥングの怪異さ、グリューネヴァルトの精神性――どれ一つをとっても見る者の心に過度の緊張を強いて来ないものはない。一日の仕事を終えた夜の散歩者の気分にはそぐわない。

 どうせ夜の二時間くらいではこの大きな美術館を回り切れるものではない。私はそう考え、夜入ったときにはあちこち移動せず、一、二の部屋にじっと腰を落ち着けているのがいいように思った。

 そこでドイツの絵を避けた日には、私は好んで17世紀オランダ絵画の、穏やかな室内のリアリズムの傑作が並んでいる側面の小部屋に足を向けた。労働する女性の全身に射す明るい光と影、四角い窓や戸に区切られた室内の落ち着いた空間構成、糸の織り目の一本も見逃さない衣裳の襞(ひだ)の細密描写――フェルメールやテルボルフの代表するあのオランダ市民の日常生活を描いた数々の傑作は、神話や聖書にばかり取材したドイツ中世の、イエス・キリストや受難者たちを残酷陰惨に描いたあのもう一方の暗い世界とは何というへだたりがあるだろう!

 私はグリューネヴァルト、バルドゥング、クラーナハ、アルトドルファーといったドイツ中世画家たちの作品に取り巻かれ、ベンチに座って、独りじっとしていることがあった。すると画家たちの宗教的幻想が、まるで異様な一大音響となって、私の身の周りに飛び交い、もつれ合い、降りかかってくるように思えた。それらの絵は神秘的で、超俗的で、物語性に富み、日常にはないものを現実化してみせる、中世絵画に特有のメルヒェンめいたファンタジーに満ちあふれていた。

 私はそういう画家の幻覚の数々――底知れぬ絵画的豊かさだと言ってもいいのかもしれないが――に当てられ、言いようもない不安を覚えることも少なくなかった。それは形のない玩具を与えられてどう扱ってよいか戸惑う子供の心理にも似ていた。

 そういうドイツ中世画家の中で、明確な形、均斉のとれた即物的描写という点で、私の心にただひとり例外をなす画家がいた。幻想ではなく、厳密に規定された調和と法則の美において秀で、しかも、宗教的情熱を決して表立てては主張しない男性的な禁欲の画家。いうまでもなく、デューラーがその人で、ミュンヘンのこの美術館にも、代表作「四使徒」がある。

 、聖書を手にした四使徒の立像、その忘れ難い眼光は、一度見た者の心を去らないだろう。しかしデューラーは決して分かり易い画家とは言えない。秀(すぐ)れた作品は肖像画に多く、地味で、文学性に乏しい。いま述べたドイツ画家の特有の、宗教的幻想を述べる率直さが彼にはない。『人体比例論』という書物を著した理論家が彼の中には住んでいる。

 初め私も彼にはなじめなかった。オランダの画家のあの家庭的な優しさも彼にはない。イタリアの画家のような絢爛(けんらん)たる色彩美も彼には乏しい。しかし私は今度の旅で、ドイツそのものに疲れたときに、この最もドイツ的な画家にかえって癒(いや)された。「ドイツ的」とは、ドイツ的情緒を否定し、これに打ち克とうとする精神の方向を指しているからであろう。

初出(原題「美術随想 ドイツの美術館」)「産経新聞」1981年9月4日夕刊

2006年01月18日

名誉会長辞任の新聞報道について

 1月17日の私の決定(日録参照)について、18日付日刊三紙が報道した。各紙ともに誤報はないが、取材に対する私の電話回答と少し違う所があるので補っておく。電話回答は記事より文字数が多いので、違う所が出てくるのは当然である。

産経新聞

西尾幹二氏が名誉会長辞任
教科書をつくる会
 
 新しい歴史教科書をつくる会名誉会長の評論家、西尾幹二氏(70)が17日、八木秀次会長に名誉会長の辞意を伝えた。西尾氏は「会の新しい指導体制が確立したため書斎に戻ることにした。教科書の執筆者は、要請されれば続ける」と話している。

 西尾氏は平成9年1月の発足時から会長を務め、13年10月から名誉会長。

 私は現行教科書の執筆者の一人であるから、教科書が使用される限り私が執筆者であることは当然続く。それ以上の意味ではない。私が新たに教科書を執筆することは要請されてもない。

読売新聞
西尾氏、つくる会離脱
 「新しい歴史教科書をつくる会」(八木秀次会長)の創設、運営に携わってきた評論家の西尾幹二氏は17日、同会の名誉会長の称号を返上し、完全に同会から離れたと発表した。西尾氏は「若い人と言葉が通じなくなってきて、むなしい。これからは自分の著作に専念したい」と話している。

毎日新聞
 「つくる会」西尾初代会長が退会 新しい歴史教科書をつくる会(八木秀次会長)の中心メンバーで初代会長を務めた評論家の西尾幹二氏が17日、名誉会長の称号を返上し、退会したと発表した。西尾氏は「若い世代とは話が合わなくなった。個人の著作に専念したい」と話している。

 毎日は「退会」と書いているが、年会費を払う「会員」であることに変わりはないので、読売の「離脱」のほうが適切である。

 両紙の記者に言ったと思うが(あるいは詳しく言ったのは片方の記者にだけだったかもしれないが)、私は私の思想活動においてつねに「個人」であった。『国民の歴史』も個人の著作であった。それがたまたまある期間、つくる会の組織の精神と一致した。組織は時間が経てば変容する。そこにはズレが生じる。

 私は今年『江戸のダイナミズム』という700ページ余の大著を刊行するが、マスコミから「またまたつくる会の打ち出した新しい手か」とこの本が評されるのはたまらない。私は個人として活動し、個人として書いてきた。つくる会の始まる前から、そして今も同じ「個人」でありつづけていることに変わりはない。

 「なにか会の内部に思想上のトラブルや路線対立があったのか」という質問を各紙から受けたので、「それはまったくない」と答えた。「なにもないのに辞めたのか」と重ねて尋ねられたので、「その精神活動をよく知らない新しい理事が最近多数入ってこられて、立派な方も勿論おられるが、私とは話が合わなくなってきた人が増えてもいる。言葉が通じなくなってきた。会議などでの論の立て方、合意の仕方が理解できない。私が苦労しつづけるのはだんだんバカらしくなってきた。そういうことはある。歴史観が大きく違うということはない。」

 私と記者との対話は大体以上の通りである。

 このあとに書くのは今日の若干の感想である。私は自分が研究上の場所とした日本独文学会を60歳で退会した。私は「個人」として生まれたのだから「個人」として死ぬ。どんな学会にも属する必要がないと思ったからである。そのあと新しい歴史教科書をつくる会に参加したのは矛盾と思われるかもしれないが、参加したのも「個人」としてであり、そこから離脱するのも同様に「個人」としてである。

 しかし私はいうまでもなく「個人」ではない。私は父と母の子であり、日本国民である。私は日本の民族文化と歴史の一部にすぎない。歴史や民族は私を超えている。しかし「新しい歴史教科書をつくる会」は私を超える概念ではない。それだけの話である。

2006年01月17日

お知らせ

「つくる会」退会の挨拶文

 前略
  私は「新しい歴史教科書をつくる会」の創設に携わり、平成13年10月まで同会の会長、さらにその後も 名誉会長の名で今日まで9年余り会の維持と発展のために微力を尽くして参りました。昨年私は古希を迎え、同会の新しい指導体制も確立した潮時でもあるので、このたび名誉会長の称号を返上して、名実ともに完全 に同会から離れ、書斎にもどることといたし度、同会幹部の合意をいただきました。

  もとより私の思想活動に変更はなく、著作面でもやらねばならぬことが山積している事情を顧みての措置です。
 
 今後も関係各位におかれましてはひきつづき会へのご理解とご支援を賜るよう、切にお願い申し上げます。

                                
                                           西尾幹二

2006年01月15日

皇室問題の論じ方(四)

 『正論』2月号(今店頭にあるもの)で私は再び皇室典範改正問題をとりあげた。朝日新聞に書いたものと同内容を3倍の字数に拡大し、少しゆったりと述べたのだが、今まで言わなかった次のような新しい観点をもとり入れた。

 天皇制度はなぜ必要なのか。正面からそう問われて、確信をもって答えるにはどうしたらよいか、私はずっとそのことを考えて、いまだに適切な答え方を見出せないでいるのである。

 天皇制度は絶対に必要であるという命題をあたかも自明のごとくに考える人にとっては、疑問そのものが成り立たないだろう。また必要ではないと頭からきめつけている人にとっても問いの起こる余地はない。しかし大半の日本人は、天皇制度はなぜ必要なのか、と問われて、何となく必要と思うものの、きちんと答えたことはない。大切なものだと思っているが、なぜ大切なのかと問われて、やはり答えることができない。

 かく言う私自身がそうである。歴史を学んで天皇制度の絶妙さ、古代から現代まで権威と権力を二分してきた中国とも西洋とも異なる王権の独自性の価値を知り、それが失われた後の歴史の死を恐れてはいる。けれども歴史の死の姿はどうしても想像の域を越えない。日本人は誰も天皇のいない歴史を経験していない。未経験に属することはすべてこうなるであろうという推測であって、確実な知識たり得ない。

 少くとも自由とか、平等とか、人権といった価値の尺度では測れないもの――それが天皇の制度である。国際化とかグロバリゼーションとか世界史的普遍性といった概念にどうしても一致しないもの――それが天皇の制度である。

 私は『正論』2月号に次のように書いている。

 

 天皇家のような神聖家族にあっては、婚姻で神聖でない血脈が入ることによる神聖性の稀薄化は神秘の消滅、権威の失墜、そして連続性の死を意味する。

 私は平等とか人権とかいった近代の理念のまったく立ち入ることのできない界域が社会の中に存在することの必要について今語っているのである。個人がどんなに努力しても及ばない世界が存在することの意味について今考えている。人間は決して自由ではない。歴史は個人の自由を超えている。天皇にも自由意志はない。それを無言で教えているのが近代史の届かない所にある王朝の歴史である。歴史の短い民族には欲してもこれが得られない。日本民族には稀有な天与の宝が授けられているといっていい。

 私たちの伝統は私たちが意識し得ないなにかである。天皇個人の努力や意図をもはるかに超えている。天皇は神ではない。神を祭る祭祀継承者であり、いわば神主の代表である。


 平等とか人権といった近代の理念の立ち入ることのできない界域が社会の中に存在する「必要」と私は書いた。個人がどんなに努力しても及ばない世界が存在することの「意味」とも記している。けれども自由とか平等とか人権とかいった近代西洋の概念に日本人は一方では身をさらして生きている。だからここで「必要」とか「意味」といったものの、本当は私にはこれが分らないのである。

 必要とか意味とか言っているのは、別のことばでいえば「信仰」ということだろうか。そう考えればよいのだろう。私はそういうつもりで「必要」とか「意味」ということばを用いていることに自ら気がついた。

 そうはいっても、本心をいうと、ここでいう「必要」や「意味」を確信をもって、緻密に分析的に語る自信がいまだに私にはない。「あなたは信仰を持っているか」と問われて、けれんみなく、堂々と自己の信仰を披瀝できる人は幸わせである。信仰は懐疑を伴って初めて誠実になる。懐疑を深めることで、信仰も深まる。

 そう考えれば、天皇の制度は日本人にとって道徳や歴史の起源であると明言するよりも前に、信仰の世界であるとためらいがちに言った方が正しいだろう。なぜ必要なのかと問われて答えられない。しかし必要なのである。なぜ大切なのかと問われるとやはり答えられない。しかし大切でないとは大概の日本人は思っていない。そう国民が無意識に考えているとしたら、これはなんといっても信仰の領域であろう。

 日本人には信仰心がないとその昔、西洋旅行をした知識人はよく口にした。教会の暗い座席で西洋人が祈祷している姿を垣間見て、信仰心の篤い西洋を羨み、現世的な日本人を蔑むように語る日本人が多かった。私はそのとき正月に神社の社殿に向う日本人に宗教心がないなどとどうして言えるだろう、と訝しんだ。

 皇室典範改定の議論が湧き起こって以来、人々の心に火が点いて、ゆっくり野火が燃え広がるように、ミニコミ紙やオピニオン誌から、テレビや新聞の討論を経て、国内を動かし、官邸を揺さぶる議論の大波がこの国を蔽い始めた。女性天皇と女系天皇は違うと、巷でひとびとは囁きだした。少しづつその規模は大きくなっている。

 昨日私の家に来た大工さんが「先生、女系と女性はどう違うのか教えて下さい」というので、私は大きな女系の略系図を図解して説明し、即座にわかってもらった。「なるほど、系図をつくると皇室はどんどん遠くへ行っちまう。とんでもねえや。」

 これはほかでもない、日本人の信仰の姿でなくて何であろう。天皇の問題はすぐれて日本人には宗教の問題なのである。中国も韓国もこれには干渉できない。靖国の問題に干渉しても、天皇の問題に外国人は手を触れることはできない。

 天皇の制度はなせ必要か、なぜ大切かに関して大抵の日本人はうまく答えられなくていいのである。信仰や宗教の問題に簡単に、割り切った答を出せないのが当り前であるのと同様であると考えていいだろう。

 
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 付記
 これ(Age of infomationのブログ)は日比谷の集会に参加した人の報告です。

  日比谷野外音楽堂での14日の催しにご参加くださり、寒い中で、雨にふられつつ写真までとってくださりありがとうございました。私は日録の「皇室問題の論じ方」(四)で述べたような、懐疑的な内容、天皇制度はなぜ必要で、なぜ大切なのか自分でもうまくいえないといった内容の話をしました。大工さんの例もだし、たぶんこれは信仰の問題なのだろう、ともいいました。もっとも地味な内容でした。おとりあげになっていた話題は私のではありません。 

 会場には1500人以上いました。デモが始まると街中からの途中参加者が増えました。約2000人が日比谷から銀座通りをデモ行進し、東京駅をこえて、私はズボンがひざから下すっかり濡れて、それでも最後までついていきました。5,6歳の幼い子もいました。皇室典範改悪ハンターイとシュプレヒコールにもずっと参加しました。デモは旗と傘と雨合羽の長蛇の列で、けっして小さなデモではありませんでした。空中写真があればいいな、とだれかいっていました。登壇者で最終地点までいったのは私だけだったらしく、マイクを持たされ挨拶しました。しかしすでに散会後で、半分の人は立ち去っていました。靴の中に水がはいっていました。
 
  学生時代に絶対にデモに行かなかった私が、どいう風の吹き回しになっているのでしょう。
 
  残念ながら、この日の行事もデモも産経にさえ報道されませんでした。チャンネル桜は放映するでしょう。

2006年01月13日

皇室問題の論じ方(三)

 いうまでもないが、今の天皇家が30-50年後に左右両翼の政治勢力から挟み撃ちになるかもしれないという辛い、やる瀬ない「歴史の復讐」に言及したのは、恐らく私が初めてだろう。この小さな一文で人々の意識に問題の新しい相を映し出すことができたのであれば望外の幸せである。しかしそれには、小堀氏との対話や岩井氏の論述などに接して、私には私なりの思念の変転を潜り抜けていた背景がある。

 保守系の人は朝日をバカにするが、口惜しいけれど、効果は抜群なのである。次に例示するのは、国語学者の萩野貞樹氏である。萩野氏は私が参加していない反対集会(渡部昇一氏が主催した11月30日ニッショーホールの)で名論卓説を述べた方である。私はテレビで拝見したが、「血統」だけがすべてだ、「字が読めない人でも目が見えない人でもいい」と言って「あゝこれは言い過ぎかな」と口ごもった、面白い方である。

 天皇の歴史事情に詳しく、身分の低い地位に落とされていた十親等も離れていた人物が、歴史の闇から拾い出されて天皇に即位した例などをいくつも語った。「血統」以外に天皇になれる根拠はなく、有識者会議が幼い頃からの「帝王学」の必要を言うのは笑止千万である、教育などなくても「血統」さえ正しければそれで十分、明日からでも天皇になれる、などとかなり過激なことも仰言っていた方だ。14日の日比谷野外音楽堂の大集会にもスピーチされるお一人である。

 萩野さんは拙文を次のように評する。

 『朝日』の「私の視点」のご論考は、今度の問題の骨格を簡潔に、かつ完璧に剔抉したものですから、落ち着いて読むぐらゐの人なら皆我が党に附いたのではないかと思ひました。(例によって私の楽観論ですが)。  ご文章は「例示」的な部分で多少「朝日」による削除部分があるやうに感じましたが骨組は完全に伝はつたと思ひます。なにしろ他の議論は(本日の「正論」を含めて)「だからどうなの?」と言ひたいものばかりで、あまり影響力はないでせう。来月14日には、予定ではまた私もひと言だけ言はせてもらへるやうですが、先日と同様「天皇の根拠は伝統だけなんだ」といふことを何とか訴へたいと思つてゐます。
 本日の「正論」とあるのは桜田淳氏のそれである。そしてじつは、これにつづけて萩野氏は誰もまだ考えていない次のような推量を述べられた。ウーンと私は唸った。
 ところで、今権力側がやたらに急ぐのは、「立太子礼」の所為ではないかと気づいて愕然としました。天皇崩御となれば数年のうちには立太子礼が執り行はれます。昭和天皇の場合は大正5年、元皇太子殿下のときは平成3年でした。たしかに彼らにしてみれば急ぐ理由があるのです。これは恐怖といふべきです。全く猶予ならず、全力を執注しなくてはなりません。先生には本当にお願ひです。いや、ひとりで皇室を背負つてゐるやうな言ひかたですが、実際そんな気分です。 どうもあれこれ申し上げて失礼しました。この度はありがたうございました。                                        萩野貞樹
 このことはまだなんびとも論っていない。余り表立って口にできない事柄が前提とされているので、ことの葉にのぼるということもない。が、なるほど、たしかにその通りかもしれない。

 「立太子礼」はそんなに急ぐ必要があるのだろうか。先例においても3-5年の期間があると書かれているが、予め決定されていないと何かと不都合という理由があるのであろうか。

 現行の皇室典範でいけば立太子は秋篠宮である。それではいけないのだろうか。皇太子と年齢差が大きくないという問題はたしかにあるが、――

 女系天皇、長子優先の有識者会議の思想を推し進めてきたのは一説には必ずしも小泉首相ではなく宮内庁の官僚たちだという見方もある。「立太子礼」とこれはなにか関係があるのだろうか。

 私には分らない。知っている人は誰か教えてほしい。こういう秘儀めいた事情になると、私などでは考えの及びもつかない。


2006年01月11日

皇室問題の論じ方(二)

 私自身は一昨年まで皇位継承問題に関心もなく、小堀氏のように研究会を開いて予備勉強を重ねておくというような勤皇の士でもなかった。ただ継承問題が世に提起され、いろいろな人がこれを論じるにつれ、論じ方が次第に気になり出した。そこに例によって現代知識人の迂闊さが現れているからである。保守派には今言ったように保守派に特有の迂闊さがある。

 強大な敵が見えないこと、歴史の枝葉末節にこだわって歴史を大づかみにできないこと、それから皇室を今や畏れおおいとも思っていない一般国民の白けた空気を意識していない宙に浮いた語法や説明の仕方、伝統を大切とも思っていない大衆に伝統を声高に語る観念性、など目に余るものがある。よく勉強している人も「皇室学」をひけらかす閉鎖的独善性から免れていない。

 その中で例外的に立派だったのは朝日新聞編集委員の岩井克己氏である。ことに紀宮さまと黒田康樹氏とのご結婚を機に「黒田家」を一例に説明された『週刊朝日』(2005年11月11日号)の記事は説得力があった。ご婚礼より前に女系天皇を認める改正がなされたと彼は仮定して、民間人黒田氏が皇族になり、その子が皇位継承権をもち、やがて黒田家が天皇家の中心の座を占める可能性について語った。「黒田家」という具体名を出した遠慮のない説明の仕方に私はハッと気づくものがあった。

 畏れおおいと思っていては筆が進まない。このようなあからさまな書き方でなければダメだと私も考えた。しかしさしもの岩井氏も新聞に書くときにはここまで大胆ではない。なにしろ朝日の社説は女系容認である。岩井氏は新聞で社論に同調しない、レベルの高い解説を書いているが、やはりこれ以上無遠慮になれない縛りがあるらしい。

 そう言っているうちに私に朝日新聞(12月3日)に3枚と5行(1300字)でこの問題を論じるチャンスが与えられた。字数が余りに少ない。しかし何とかして岩井氏より一歩でも大胆に踏み出す効果的な文章を書けないものかと私は思案した。そうして書き直しを二度求められてやっと仕上がった文章は日録のここに収録されている。

 私は自分で言うのも妙だが、成功したと思っている。三人の異なるオピニオン、女系論者と天皇制廃止論者と私の三つの意見が並べて掲載された。次に幾つかの葉書きなどに書かれてきた知友の批評を紹介する。

 

土曜日の朝日の「女系天皇論」読ませていただきました。出色の出来です。
今、女性天皇論には、言うべきことを言わない雰囲気がありますので、先生の文章は朝日の読者には、目からウロコの思いがあると思います。広く読まれて反響が広がればと期待しています。

 これを書いているのはある革新系の出版社の編集者Oさんである。ひごろ天皇が大嫌いと言っている人で、酒を飲むと昭和天皇のことを「あいつのおかげで・・・・・」というような言い方を平然とする人だったが、気っぷのいい快男児なので、永年私とはウマが合う仲の良い友人である。「彼も年をとって少し変わったかなァ」と私はニヤニヤしながらこの文章を読んだ。

 次は私の大学時代の友人で、ある中央官庁の幹部となり、今はリタイヤしているF氏である。

 

貴兄の評論活動はできるだけフォローさせていただいておりますが、12・3・A紙の三者オピニオンにて、貴兄がパンチのきいたキーワードを提起されていたのは感銘いたしました。「○○家」や「△△家」でなく、天皇家を崇敬していくことが日本人の心情であります。この辺にも、戦後の日本の歴史教育が浅かったことを思い知らされます。ご健勝を祈ります。

 3枚と5行(1300字)にこめた私の文章上の戦略意図は奏功したのではないかと秘かに考えている。今年の年賀状にも、必ずしも保守的でない知友に類似の反応があった。

2006年01月09日

皇室問題の論じ方(一)

 今では数少ない皇室問題の専門家でもある小堀桂一郎氏――私にとっては旧クラスメイトなので「氏」ではなく「君」と呼び慣れているが――と昨年の春ごろに次のような対話を交したことがある。

 私が『正論』(4月号)に、皇室には強大な敵がいることをみな忘れている、とくに皇室に近い人に警戒心がない、最大の敵は共産党系の知識人であると述べ、奥平康弘氏を例に挙げたのを小堀氏は読んで、「仰る通り敵が見えないんだよ。今の保守派は甘いんだなァ。君を頼りにしているよ」と言った。丁度そのころ例の有識者会議に幾人かの外部の知識人が招かれて、意見を具申した。小堀氏は会議に招聘された幾人かの保守系の知識人を「今風の小ぶりの保守派」とそのとき不満を漏らしていた。

 たしかに意見具申者は八木秀次氏を除いて必ずしも明確な男系継承の主張者ではなかった。なにかバイアスがかかっていて中途半端な方針を語っている保守派知識人が選ばれていたが、今にして思うとこの人選も有識者会議の意図的戦術の一つだったのかもしれない。

 「強大な敵が見えないだけではなく」と私は言った。「穏健な保守派、ことに皇室崇敬の傾向の強い人は、畏れおおくて皇室のことはみだりに口にしてはいけないと思いこむ余り、主張が内向きになり、日本の広い国民大衆に訴える力がないのではないか。」

 「そうなんだよ。」と小堀氏は即座に応じた。「神社の連中はことにそうなんだ。余りに遠慮しているので彼らの言っていることは世間に通らない。遠慮するな、って僕はいつも言っている。畏れおおくなんて言っているうちに、敵にやられちまうよ」

 それから彼はこうも言った「歴史をちゃんと勉強していないから、いざというとき歴史の細部に目が行って、足を取られてしまう。」

 「いや、歴史は勉強しすぎるほどしているんだよ、彼らは。ただ、歴史を大づかみにする力が弱いのは別の理由だな。いざというときに大づかみにする常識が発動しないのは、勉強の不足ではなく、気力の不足、あるいはつい人間としてのひごろの弱さが露呈してしまうのだよ」と私は答えた。

お知らせ

日比谷野音へ集合!  皇室典範改悪阻止!!
  
平成18年1月14日 12時30分開場 
13時開演(14時30分終演予定) *入場無料
  デモ出発 14時30分

日比谷野音 国民総決起集会

すべての国民は「草莽崛起」して日比谷野音へ集ろう!
  
【場 所】:日比谷野外音楽堂(東京都千代田区日比谷公園1-3)

【登壇者】:井尻千男、伊藤哲夫、伊藤玲子、遠藤浩一、大高未貴、小田村四郎、加瀬英明、河内屋蒼湖堂、小堀桂一郎、田久保忠衛、中西輝政、名越二荒之助、西尾幹二、西村幸祐、萩野貞樹、平田文昭、宮崎正弘、三輪和雄、百地章、八木秀次、渡部昇一(50音順・敬称略)
その他多数の識者の先生方がご登壇予定

【主 催】:「皇室典範改悪阻止」草莽崛起の会

【共 催】:皇室典範の慎重審議を求める全国地方議員の会、神奈川草莽議員の会、日本政策研究センター、日本世論の会、建て直そう日本・女性塾、新日本協議会、英霊にこたえる会、(社)国民文化研究会、チャンネル桜草莽会、日本会議東京本部 他

【後 援】:皇室典範問題研究会、皇室典範を考える会

【報 道】:衛星報道スカパー!767ch「日本文化チャンネル桜」

【連絡先】:皇室典範の慎重審議を求める全国地方議員の会
      TEL&FAX03-3311-7810
E-mail matsuura◎joy.ocn.ne.jp(アットマークを変えています)


今年の私の計画

 「今年の計画」を立てても実行できないことが多いので、年頭に大口は叩くまいと禁欲的になっていたのだが、本欄の「特設掲示板」に次のように書いて下さる人がいたので、あゝそうか、そういう方もおられるのかと感謝の念を新たにしたことから話を始める。

■81 / 親記事)  西尾先生の今年度の計画を教えていただけませんか □投稿者/ j 一般人(1回)-(2006/01/07(Sat) 19:30:30) [ID:MXCszFYq] 西尾先生は昨年、確か年頭において一年の計画・目標を日録において発表なさったと思います。

先生の一年の計画・目標を見ると、なにかこう、やる気というか勇気が湧いてまいります。

ぜひとも先生のこの一年の目標を教えてください。

 今年の最初の課題は『江戸のダイナミズム――古代と近代の架け橋――』(文藝春秋)の出版である。約700ページの大著となる予定だが、『諸君!』連載の稿は書きっ放しなので、まだ幾つも越えねばならぬ資料文献上の山がある。

 この本を出さない限り、別の次の本は出さない。本当は昨夏にもそう決意していたのに、小泉政変が起こって心が乱れてしまった。この本が私の手を離れたら、遅れに遅れている次の二つの仕事を必ず果す。

 翻訳 ニーチェ『ギリシア人の悲劇時代における哲学ほか』(中公クラシックス)

 ちくま新書『あなたは自由か』

 以上二点は年来の約束である。前著は旧訳の再刊だが、ニーチェの少年期の小篇を新訳で追加しようと計画している。後者は三分の一ができあがっているのに中断し、担当編集者にご無礼のしっぱなしである。

 これとは別に絶版の旧著『人生の価値について』がWACより同標題のままに今年の春に改版刊行される。川口マーン恵美さんが解説を書いて下さる。川口さんは今ドイツのシュトゥットガルトにご在住で、昨年末に『ドレスデン逍遥』(草思社)という歴史と現代を織り絵にしたような美しい、深い内容の本を出されたので、これも読んでいただきたい。

 雑誌のほうではようやく決心がついて、というより制限時間いっぱいになって、追われるような雑誌の事情があってのことだが、「わたしの昭和史」の『正論』連載を初夏までにはスタートさせる。

 これとは別に二つの共同研究を実行する。インテリジェンス研究家の柏原竜一さん(ハンドルネームは無頼教師さん)と二年つづけている戦間期以後の世界史と日本史の関係究明がその一つである。もう一つは年末にお会いした作家の佐藤雅美さんと、専門家に就いて、荻生徂徠の『論語徴』の講読を開始する。

 以上は必ずやらなくてはならない。これをやり遂げるためには、今年は激動の年と分っていても、言論誌への寄稿は最小限に控えることが必要である。雑誌原稿を書いていると、歳月はあっという間に過ぎる。まとめて本にしても、充実した本にはなかなかならない。

 私には残された時間は少い。執筆に追われていると学習の時間が足りなくなる。書く方を少くして読む方を多くしたい。今年は次の歳月の表現のために蓄積の年にしたい。したいというより、そうしないわけにはいかないほどに文献や書籍の山にとり巻かれているのである。

 仕事場を三つに分けることとする。書籍の置き場をさらに工夫することとする。それが忙しい日々における今の私の目前の課題である。

2006年01月03日

謹賀新年 

安倍晋三氏よ、いざとなったら職を賭して闘ってほしい(二)

 今の日本は米中の代理戦争の舞台となっている。旧田中派から福田、加藤、山崎(拓)氏に至るまでの親中派を小泉首相が押さえることに成功しているのはアメリカの力を背に負うているからである。しかしその分だけアメリカに屈服し、利益を奉納している。郵政民営化はアメリカへの日本からの富の移転であり、皇室典範改定による天皇制度のなし崩し的否定は日本の歴史を骨抜きにする「日本のアメリカ編入」の第一歩である。代理戦争において一方を抑えることに成功すれば、他方への屈服と譲歩が強まるのは理の当然である。

 われわれの思想の立場は米中のいずれにも与しない日本の立場の堅持であり、主張である。石原氏であっても、安倍氏であっても、麻生氏であっても、そのことをやってくれるなら誰でもいい。逆にそのことをやってくれないなら、どの名前の政権も最初から評価しない。

 言論界における思想家は政局占いみたいなことをすべきではない。オピニオン誌(言論誌)がこれら政治家をスター扱いにし、巻頭に掲げたりするのはおかしい。思想にとって政治家は思想実現の手段にすぎない。政権の顔色をうかがうような思想家のあり方、次の政権は誰かを探り、そこからものを考えるような言論誌のあり方は間違っている。言論誌にあってはどこまでも言論が主であって、政治は従である。

 政治は現実に妥協するであろう。それは仕方ない。しかし思想に妥協はない。政治家に対しては要求あるのみである。目的とする思想のために地位を捨ててでも奮戦してもらいたいと考える。そう願うのはわれわれの立場である。

 「たなからぼた餅」を狙っているだけの安倍氏などは見たくはない。伝えられる通りに安倍氏が政権に至近距離にあるなら、この二案件で後へは一歩も引かない勇者であってほしい。それでこそ次の世代の政治家の資格が保証される。

 かりに首相になれなくても、勤皇の士、真の愛国の士の実を残せば、凡百の政治家から群を抜いてその名が政治史に刻まれるだろう。

 私はそういう政治家を氏に期待している。言論誌、オピニオン誌の思想家諸氏よ間違ってもこの点で志の低い「政局評論家」になってはいけない。年頭に際しこのことだけは切にお願いしておきたい。

2006年01月01日

謹賀新年 平成18年元旦

謹賀新年 平成18年元旦

安倍晋三氏よ、いざとなったら職を賭して闘ってほしい(一)

 国会が始まると皇室典範改定がまっ先の課題になるだろう。首相はいよいよになったら事の重大さに気がついてとり止めるのではないか、という説と、いや予定通りどんどん進めるだろう、という説と二つある。誰に聞いてもどちらか分らない。

 ある人によると、安倍官房長官は「長子優先」の条項を外させようという、首相に対する条件闘争を始めているらしいから、安倍氏も首相の肚は決まっているとすでに諦めているのではないか。そして結局は自分の力の及ぶ範囲ではなかったと首相の言うが侭になる積りではないか、そう考える人が多いようだ。しかしこのまま実行されると恐ろしいことが起こるかもしれない。

 皇室典範改定が万一回避されたとしても、それは首相が追悼施設の件を政局にらみで――福田・山崎・加藤その他の反小泉勢力の結集を牽制するために――さっと取り止めたのと同じ何かの目論見があってのことで、思想から出ているのではない。首相には政局操作の目的はあっても、思想はない。何か別の目的で皇室典範から手を引くことはあるかもしれない。例えばこれを引いて、代りに金正日体制との不完全な条件を認めたままの国交正常化をしゃにむにやってしまうということなどである。

 皇室典範改定の有識者会議に首相は自ら出席していた、という情報が年末に私の耳にも届いている。とすれば、あのロボット工学専門の座長の傲慢さは首相のお墨つきがあってのこととわかる。知識の少いままに思い込みが激しい小泉氏、他人の意見に耳をかさない彼のことだから、皇室典範も北朝鮮との妥協も思い切ってやってしまうのかもしれない。どちらもアメリカの意向に添っている。アメリカは前者で占領政策を完成できるし、後者でアジアにおける力の政策をとる余裕のない現状の容認にもなる。

 いうまでもなく、皇室典範改定は30-50年後の天皇制度の消滅を意味する。このことを私は最近の二著(「民族への責任」 「『狂気の首相』で日本は大丈夫か」)にも書いたし、朝日新聞12月3日付の記事にも書いたし、年末に出た『正論』2月号でも言及したのでここでは繰り返さない。

 核開発の可能性を残したままで、しかも拉致問題の部分解決のままで北朝鮮との国交回復にあいまいな妥協をすることは日本の利益にはまったくそぐわない。しかしアメリカの当座の利益に適う場合もある。アメリカが中国と駆け引きする中で日本の立場を考慮しないケースである。

 皇室問題と北朝鮮問題で思想家の立場ははっきりしている。アメリカの利益ではなく日本の利益を追求することである。政治家がそれにどの程度歩み寄り、どの程度実現してくれるかは個々の政治家の課題であって、思想家のなし得る仕事の範囲を越えている。思想家は正論を言いつづけるだけでよい。

 政局は明日どうなるか分らない。思想家は自己の信念をできるだけ現実に役立つように主張するだけで、政局に直かに影響を及ぼせるかどうかはその先の問題で、結果でしかない。

 思想家は政局に自分を合わせる必要はない。思想はどこまでも思想であって、政権の動きとは別である。

 ところが自分の好みの政治家、支持したい政治家に対し、思想家が政治的に振舞いすぎるということはないだろうか。ひところは石原慎太郎政権を作りたいという思惑から言論誌がかなり一方的な応援議論を展開していたし、最近では安倍晋三政権を作りたいばかりに、しかも長期政権にしたいために次の次で良いとか、小泉との攻めぎ合いで傷を負わせない方がよいとか、まるでわが子を見守るPTAのような感覚で政局を考えている人々がいる。

 私は次のように考える。皇室典範改定と核つき金正日体制との国交正常化を阻止するのがさしあたりの国益を守る最大の課題である。安倍晋三氏はそのために地位を投げ打つ覚悟でいてほしい。いざとなったら首相に弓をひく決意をしておくべきだ。それくらいのことを彼は考えていると私は信じている。

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