当節言論人の「自己」不在――猪口邦子氏と大沼保昭氏とPosted by Nishio at 2005年11月12日 09:18 | コメント (1) | トラックバック (2) | Clip!!私が60年代の中頃にミュンヘン大学に留学したとき、同じゼミに若いインド人学生がいた。10代の前半から西ドイツに暮らし、ドイツ的教育を受け、当然だが、話す・書く能力はドイツ人に遜色(そんしょく)がなかった。
私はドイツ語を読むのはともかく、文法書から外国語を学び始めた日本の外国学者の典型というべきか、話す・書く能力において終始自信がない。ところが、間もなく、不思議なことに気がついた。私の拙(つたな)い言語の駆使力で伝える感想、つまり教授の授業内容への批評や教授の出した新刊書への寸感や助手の誰彼の評価、等々が、大体においてドイツ人の同僚学生を納得させ、共感をよぶのに比べて、件(くだん)のインド人学生の発言は何となく軽んぜられ、無視されるのである。彼が立派なドイツ語で、それなりに立派な内容を語っているのにどうしてか、と思った。
彼は学問的能力において劣っていたわけではない。もし劣っていたら、ドクター志願者ばかりのこのゼミに入ることは出来なかった。間もなく気がついたのだが、そのインド人学生は、ドイツの学問と大学と学者を尊敬する余り、平均型もしくは優等生型ドイツ人学生の意見内容をほぼ口移しにおお鸚鵡返(おうむがえ)ししている趣きがあり、面白味もなんともない。
雑多な個性を持つ学生たちの目から見ると、ドイツに忠実でドイツをいわば信仰(傍点)しているこのインド人学生は、個性を欠いた無思想の人間のように見えたのではないかと思う。そして彼ほどドイツ滞在を経験していない私の、従って日本での人間批評をそのままドイツ人教授に当て嵌(は)めた程度の悪口や皮肉が、ドイツ人学生たちからは、「そうだ」「その通りだ」「君の言う通りだ」といった共感と賛意を惹(ひ)き起したのではないかと思う。勿論私の意見に賛成しただけでなく、刺戟を受けて、反論した者も少なくなかった。
見失われた「自分というもの」
精神形成にとり重要な十代を異国で過ごし、人間としての貴重な何かを見失うことの危険という教訓を、ここから引き出すことも出来ないわけではないだろう。しかし私が今言いたいのはそういう教育上の問題ではない。
そもそも自分というものがなくては、他者に出会うということも起らないのだ。他者もまたこちらを理解してはくれない。ある人を理解するということは、その人と同じような考えを持ち、同じような意見を展開することではない。理解できないものを相手の中に見出し、理解してもらえないものを自分の中に信じる、そのような断念、もしくは危険を、自明のことのように引き受けていないような自己理解は、結局は他者に出会えず、他者を見失うだけであろう。それは個人と個人との関係においてだけでなく、国家と国家、民族と民族との関係においても共通して言えることではないかと私は思う。
最近は長期の外国経験をする人も珍しくはなくなった。どういうわけだか、自分が慣れ親しんだ外国を基準に、日本の不足をあれこれ言う人、自分の知っている外国とそっくり同じような国に日本を仕立てようとして、嵩(かさ)にかかって日本人を叱る人、等、枚挙に遑(いとま)がない。加えて、日本の国内では、自民族中心主義を何か頭から悪いことのように言う声が圧倒している。
外国人嫌悪や人種差別は、今日では道徳上の最高の欠陥と考えられている。なぜならそこから、迫害や圧制や戦争が生じたし、現に生じてもいるので、そういう傾向を自分から遠ざけ、自分の体内に宿っていないかのごとくに装うことが、道徳家たらんとする現代人のいわば遵守(じゅんしゅ)規定の第一項である。
世界は多様で、その民族の文化も等価値であり、どんな小国をも偏見なしに評価するのが、人間としての最も正しい態度だとされる。価値のこの相対主義が、より善きものへの探求という動機を殺し、かつて日本に根強かった優れた外国文化への憧憬と情熱を消滅されつつあるというもう一つの弊害は、いつしか忘れられている。
成程、自民族中心主義を相対化する知性は、ギリシアの昔から尊重されてきたことをわれわれは知っている。自分自身の善を善一般と同一視することを進んで疑う懐疑主義は、ギリシア的知性の最も美しいあり方であった。しかしギリシア人は、強く信じる自分を持っていたが故に、強く疑うことも出来たのである。
歴史家ヘロドトスは、自民族の外にあるあらゆる文化の豊かな多様性を知っていた点で、確かに現代の日本人と同様だが、しかし多様であることに彼は冒険の魅力ある動機を見ていたわけだし、各民族文化の価値を吟味し、ギリシア的価値を一段と磨くことにこれを役立てたのである。それに反し、現代の日本人が各民族文化の多様性を口にするとき、最初から全体を概念化して考えているのであって、われわれは地球上のすべての文化を平等に尊重しなくてはならない、という一つの信条を表明しているにすぎないのである。
世界の多様な文化との「協調」とか、その「理解」とか、あるいはそれに基づく「国際化」などは、耳に胼胝(たこ)が出来るほどさんざん聞かされてきたスローガンだが、現代の日本人が知っていることといえば、たかだか地球上には多くの文化が存在するという事実、われわれは皆仲良くしなければならないといった程度の甘ったるい道徳にすぎない。こうした意味で語られる「理解」とか「協調」とか「国際化」とかは、結局のところ、他者はもう要らない、という思想を披瀝(ひれき)しているにすぎないともいえよう。







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