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西尾幹二のインターネット日録

2005年04月
2005年04月30日

「大学入試センター試験訴訟」のその後

お知らせ

 月刊誌6月号の私の評論は

(1) アメリカとの経済戦争前夜に備えよ
     『正論』(短期集中連載第4回終篇)45枚

(2) 韓国人はガリバーの小人
     『Voice』22枚

 
 (1)は私にしては珍しい経済文明論である。日本の資本主義は何であったか、またこれからどうあるべきか、というこのテーマは今後さらに切り拓いていきたい。さもないとわれわれの現代史は見えない。政治や外交だけがすべてではない。

 6月号各誌をみると、中国暴動への言及が花ざかりである。毎月みんなと同じ声をあげるのも芸がないから、連載の終回はきちっと自分のテーマで締めた。

 (2)は抱腹絶倒篇である。韓国人は怒髪天を突くかもしれない。でも、真実である。

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「大学入試センター試験訴訟」のその後

 平成16年の大学入試センター試験の世界史の問題で「日本統治下の朝鮮」において「第二次大戦中、日本への強制連行が行われた」を唯一の正答とする出題に対し、それは歴史事実に反し、受験生に不当な思想統制を行うものである、という疑問や批判が提出された事件があったことを覚えている人も多いだろう。

 この件では大学一年生になったばかりの7人の学生が同年7月7日、大学入試センターを東京地裁に提訴したところまでお伝えした。拙著『日本がアメリカから見捨てられる日』(徳間書店)所収の「受験生が裁判所に訴え出た大学入試センター試験」に詳しい説明がある。

 その後の状況を報告すると、裁判所では、原告本人の話を聞くことにしたいと3人の在京の学生を6月7日に召喚し、約1時間発言を許すこととなった。近頃の勇気ある学生の行動に拍手し、幸あれと祈りたい。

 「強制連行」は高校のすべての歴史教科書にのっているから出題は違法ではないと被告の大学入試センターは言い張っていたが、「新しい歴史教科書をつくる会」の調査で29冊のうち12冊の高校教科書に「強制連行」の記述のないことが明らかにされていた。

 すると入試センター側は主張を変え、受験生は中学時代にこの事実を教科書で学んでいたはずである、中学の教科書にはすべてのっている、だから自分らに責任はない、というとんでもない詭弁をひねり出してきた。

 悪いのは中学の教科書の検定にあり、国に責任があり、大学入試センターや出題者には責任がないという、これまた笑うべき遁辞を述べ立ててきているそうである。

 教科書が悪いのは検定のせいで、すべて国の検定に責任がある、とはつねづねの私共の主張ではあるが、それを理由に大学入試センターという「公」の機関が責任逃れを言い出すに至っては、小役人を風刺したゴーゴリの『検察官』をも思い出させる喜劇の一幕を見る思いがする。

2005年04月29日

船橋西図書館・焚書事件 最高裁で逆転勝訴の可能性が見えてきた(二)

 この事件については、私が『正論』平成16年新年号に、「船橋西図書館焚書事件一審判決と『はぐらかし』の病理」を書いている。同論文は昨年出版した拙著
日本がアメリカから見捨てられる日(徳間書店)に「あなたは公立図書館の焚書事件を知っていますか」と改題して、全文を掲載している。

 事件の説明はもとより、第一審の判決文からのかなりの量の引用と分析、裁判所へ提出した私の意見書の全文がこの論文に収録されている。

 私の判決文批判は痛烈である。例えば、「被告船橋市の法的責任が生じないことも前述のとおりである」という判決文に即応して、私は「あっ、いけない。いけない。とんでもない詭弁である。こういうことを言い立てるものを『法匪(ほうひ)』という。法律を操る盗賊のことである。」

 同論文をのせた『正論』新年号は証拠として提出されている。弁護士によると、最高裁の裁判長は必ず読んでいるそうである。

 これは楽しみである。口頭弁論の日が待遠しい。

 ところで当「日録」はこの案件を重視し、平成15年9月18日から全判決文と関連資料(事後報告)を掲示してきた。そしていま過去録の中にこれを収めている。

 詳細はここを見て欲しいが、あらためて簡単に経過をもう一度説明しておきたい。
 
 当件は、千葉県船橋市立西図書館の女性司書が廃棄基準を無視して著書など107冊を処分したため、精神的苦痛を受けたなどして、「新しい歴史教科書をつくる会」と、作家の井沢元彦さんら8人が司書と船橋市に計2700万円の損害賠償を求めた事件である。

 第一審の判決が平成15年9月9日、東京地裁であった。須藤典明裁判長は「蔵書の取り扱いは市の自由裁量。廃棄基準に該当しない書籍を処分しても、著者は法的責任を追及できない」と、請求を棄却した。

 廃棄された書籍は以下の通り。               
     
     氏 名     蔵書数  除籍数
     西部 邁     45   44
     渡部昇一    79   37
     西尾幹二    24   12
     福田和也    38   13
     高橋史朗     3    1
     福田恆存    24    1
     小室直樹    26   11
     長谷川慶太郎 56   14
     岡崎久彦    19    5
     坂本多加雄    8    2
     日下公人   34   11
     谷沢永一  102   17
     つくる会    3    1
     藤岡信勝    4    3
     井沢元彦   54    4   
       
合計蔵書519冊、除籍数176冊
 
 ただし、西部邁氏、渡部昇一氏、福田和也氏は訴訟に参加せず、谷沢永一氏は第一審まで参加し、そのあと降りた。各人の不参加の理由は分らない。船橋市在住者でもある井沢元彦氏が原告団の代表となって訴訟がなされ、今日に至る。

 東京高裁での第一審判決に対する各紙の見出しは以下の通りであった。

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 9月 9日 共同  「つくる会」が全面敗訴市民図書館の著書廃棄訴訟
 9月 9日 時事  「つくる会」の請求棄却=船橋市立図書館の蔵書
            廃棄訴訟―東京地裁
 9月10日 千葉日報 つくる会、全面敗訴、船橋市立図書館の廃棄訴訟
 9月10日 東京   船橋の市立図書館107冊廃棄、賠償請求認めず
           「つくる会」が敗訴
 9月10日 読売   図書館の蔵書廃棄「市の自由裁量」東京地裁判決
 9月10日 日刊スポ「新しい歴史教科書をつくる会」らが敗訴
 9月10日 毎日   蔵書廃棄、市の裁量権内 東京地裁
           「つくる会」側の請求棄却
 9月10日 朝日   藤岡氏らの請求棄却
 9月10日 産経千葉 船橋図書館の大量廃棄訴訟「実質的に勝訴」
 

つくる会千葉田久保支部長 一定の評価示す
「むなしい判決だが、実質的に勝訴だ」
「ここまで踏み込んだ内容ながら、作家らに対する権利侵害がないという理由で棄却される のはむなしい」
「公務員としての不適格を指摘された人物が子供たちに語りなどをしている。処分は形式だけだと言わざるをえない。」
 
9月10日 産経全国 「公務員精神が欠如」船橋西図書館の“焚書”
 
            東京地裁 請求は棄却
 須藤裁判長は、井沢さんらの著書を廃棄した司書の行為について「『つくる会』らを嫌悪し、単独で周到な準備をして計画的に行った。公務員として当然の中立公正や不偏不党の精神が欠如していた」と批判した。
 また、廃棄処分発覚後の一連の船橋市の対応を「廃棄の経緯を明らかにせず、責任の所在があいまいなままで幕を引こうとした」と指摘した。
 船橋市教委・石井英一生涯学習部長の話「正式な判決文を見ていませんが、市側の主張が認められた判決だと思う」
「司書の行為 文化的犯罪」原告側
 原告側弁護団は9日、つくる会などに否定的な女性司書の独断廃棄や、船橋市の対応のまずさを認定した判決に、一定の評価を与えた。
 しかし、船橋市民の井沢さんは「司書の行為は職権乱用で文化的犯罪。このようなことが行われて野放しになるのはおかしい。民主主義のルールをふみにじったまま、押し切られたのは残念」と語った。弁護団長の内田智弁護士は「社会的・文化的な問題を矮小化し、十分な審理を行わなかった裁判所の態度は批判を免れず、表現の自由に対する消極的態度は許されない」と指摘した。
 
9月11日 東京  図書館の本廃棄賠償請求認めず「つくる会」が敗訴


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 その後東京高裁は東京地裁の第一審を支持し、本件を棄却したので、最高裁に上告されていた。この度、上告の一部が受理され、今まで歴史上提訴されたことのない新しい権利侵害に道が開かれようとしている。すなわち公立図書館の政治的意図をもつ本の廃棄処分が著作者の人権を侵害し、憲法違反になるという認定がなされるか否かという問題に外ならない。

2005年04月28日

船橋西図書館・焚書事件 最高裁で逆転勝訴の可能性が見えてきた(一)

緊急朗報

 4月19日付「日本経済新聞」朝刊は次のように伝えた。

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図書館蔵書廃棄最高裁が弁論へ
「つくる会」の訴訟で

 千葉県船橋市の市立図書館に蔵書を廃棄され表現の自由などの権利を侵害されたとして、「新しい歴史教科書をつくる会」と作家ら7人が同市に計2400万円の損害賠償を求めた訴訟で、最高裁第一小法廷(横尾和子裁判長)は18日、双方の主張を聞く弁論を6月2日に開くことを決め、関係者に通知した。

 弁論を開くことから「図書館がどのように蔵書を閲覧させるかについて、著作者は請求できない」などとして、同会などの請求を退けた一、二審判決が何らかの形で見直される公算が大きい。

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 同日「産経新聞」も類似の記事を掲げたが、異なるのは次の点である。

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 弁論が開かれることから、つくる会側の請求を全面的に退けた一、二審判決が何らかの形で見直される公算が大きい。廃棄を行った司書にも連帯しての支払いを求めていたが、第一小法廷は上告を受理せず、この点についてはつくる会側の敗訴が事実上確定した。

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 つまり、被告は船橋市と図書館土橋司書の両者であったが、最高裁は船橋市に関わる上告受理を決定し、土橋氏に関する上告を棄却して、前者に関する口頭弁論を6月2日に開くという呼び出し状を弁護士に送ってきたわけだ。

 分り易くいえば焚書事件を起こした司書個人はすでに減俸6ヶ月の罰を受けているのでこれ以上追及しない。しかし、船橋市の責任に関しては、審議を見直す必要があるので原告側の意見陳述を許すゆえ、6月2日に出頭せよ、という指示である。

 口頭弁論が開かれたからといって、ただちに勝訴になるとは限らない。けれども原審が覆る可能性は小さくはない。

 最高裁に上告されるほとんどの事件は門前払いである。ないしは審理の結果、原審維持の通達があるのみである。口頭弁論を開いて再審するというのは、よほどのことで、最高裁が憲法違反を訴えた本件の重要性を考慮したからであって、原審が破棄される可能性もきわめて大きい。

 私は弁護士からそういう期待を聞いた。6月2日の口頭弁論には私と作家井沢元彦氏が出頭する予定である。

2005年04月26日

「人権擁護法」という狂気の法案(その十二)

 26日午前8:00に法務部会が開かれた。今日の出席者は法案推進派は4人、反対派は16人で、明らかに大勢はきまったようだ。

 けれども今日これで終りにするというのではなく、国会会期切れまで反対派は議論をしつづけて、政策審議会に上げさせないようにするということらしい。

 与謝野政調会長は政策審議会に上げるようなことはしないと、25日党幹部に確約したそうだが、これは密室の確認で、正式には法務部会が審議を今後もつづけて、政策審議会に上げさせないように努力しつづけることが大切なのだという。

 昨日と今日とで分ったことは、法務省の中でも人権擁護局がつっ走っているだけで、省内にもかなりの温度差があることである。人権擁護局以外の法務省の幹部は慎重になっている由。

 人権擁護局はメンツもあって、いつもそうだが、今回も反論の文書を提出した。反対派からこんなのはダメだと一蹴された。

 人権擁護委員を選ぶ任にある市町村長に対するヒアリングを行っているか、という質疑も出された。

 平沢部会長は鮮明に反対派のサイドに立つようになった。

 特筆すべきは民主党も同法案に反対する会を起ち上げたことだ。

 国会会期ははたしていつ終るか。郵政がもめるので、7月まで会期延長も考えられるので、人権擁護法の反対運動の議員諸氏のご苦労もつづく。

 古賀議員がこのまゝ引き下がるとも思えない。たゞ補選のための公明党への御礼という議論はもう使えない。

 しかし明らかに法案の行方はコーナーを回り、危機は遠ざかりつつあるようにみえる。

 以上は二方面の情報を総合して記述した。

2005年04月22日

「人権擁護法」という狂気の法案(その十一)

22日午後、共同通信が次のような配信をした。以下に一部引用する。

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古賀氏に一任と判断 人権擁護法案で与謝野氏

 自民党の与謝野馨政調会長は22日午前、党本部で平沢勝栄法務部会長と会談し、今国会提出をめぐり党内調整が混乱している人権擁護法案の取り扱いについて、古賀誠人権問題等調査会長(元幹事長)が一任を取り付けたとの判断を示した。これにより、同法案は政調審議会と総務会で了承を求める手続きに入ることになり、国会提出に向け前進した。
 (中略)
 与謝野氏は平沢氏に「会議の座長は古賀氏だ。古賀氏が仕切ったという形にしてほしい」と述べ、平沢氏は「政調会長がそう言うならやむを得ない」と応じた。これに先立ち、古賀氏は与謝野氏や久間章生総務会長と会談し「21日の合同会議で一任を受けた」と報告、了解を得た。
(以下略)(共同)(04/22 14:26)

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 以上は午前中の出来事である。与謝野氏は平沢勝栄法務部会長を呼んで、抵抗をおさえ、裁断を下したそうだ。ところが午後反転した。

 古屋圭司、衛藤晟一氏ら反対派グループは午後2:30に平沢勝栄法務部会長に「そんなことではあなたは信用を失いますよ」とつめより、3:00に同グループは与謝野政調会長のもとに出向き直談判した。

 時間をかけてこの法案が自由社会の根幹を揺るがす危険があり、認めるわけにいかない旨、詳しく説明した。その結果、与謝野氏は「分った。私が納得しない限り、国会上程を許可しない」と明言し、逆転した。

 午後5:00古屋氏が政調会長は法務部会の内部の議論の決着がつくまで上にあげないことを確言したと、記者団に発表した。

 25日(月)に党の役員会が開かれそこでも再度、討議にかかる。

 26日(火)に法務部会が再度開かれ、そこで最終決着がなされる。古賀議員がどんな手を考えてくるか分らないので、まだ油断はできない。

 ただし自民党補選はもう終っていて、それにはついに間に合わず、公明党に尻尾を振ることはできないことになった。

 以上は二方面からの情報なのでまず間違いないと思う。

 ところで法案推進派は反対派に代案を出せとしきりに言うそうである。そこで人権侵害に苦しんでいる具体例を数多く出せ、その上で議論しようと反論するべきである。

 卒業式で国歌斉唱を強いられたのが「人権侵害」だというようなたぐいの事例ばかりではあるまいか。


別件追記


 船橋西図書館焚書事件が最高裁で一部見直され、将来、逆転勝訴にもなり得る可能性が出てきた。最高裁上告の一部が受理され、口頭弁論が開かれる異例の決定が出された。詳細は明日以降に「日録」にとり上げる。

2005年04月21日

「人権擁護法」という狂気の法案(その十)

 《緊急掲載》

 本21日午後4:00から開かれた法務部会は古賀議員が法案推進派議員を多数動員して、かなりきわどい場面になった。法案の修正もなされていたが、反対派の強い姿勢をどうすることもできなかった。

 古賀氏がそこで「十分にもう議論を尽くした。一任してほしい」と言ったが、ダメダメという強い反対の声があがり、また時間をへて、もう一度「一任してほしい」の言葉がくりかえされた。それでも反対派のダメダメの怒声が粘りづよくつづき、とりあえず排撃した。

 こうしたことの応酬の後、古賀議員と同調者の法案推進派の大多数が会場を退場した。了承を得た、と言いはるつもりらしい。

 しかし法務部会長の平沢勝栄氏が部屋に残り、反対派の議論をつづけさせた。そしてそのあと平沢氏は記者会見(ブリーフィング)をして、「古賀先生には後で叱られるかもしれないが、本日は了承されたわけではない。」と明言した。

 来週もう一度法務部会が開かれるかどうかは分らない。来週なければ今国会ではもう上程されない見通しとなる。

 以上はA氏から得た情報だが、ところがその後古賀議員は一方的に了承をとりつけた、と言い張っていて、状況は分裂し、二股になったとの追跡情報がB氏から入って、私はびっくりしている。

 平沢勝栄氏は法務部会長、古賀誠氏は人権問題調査会長。後者の方が立場が強いそうである。

 B氏は曰く、分裂は混乱を生み、マスコミの注目を浴びる。混乱は歓迎である。最重要の問題なのに、郵政にばかり目が行って、マスコミがあまり書かないので困っている、と。

 法案には今度若干の修正がなされていたそうだが、人権擁護法案は修正してどうなるものでもない。人権擁護委員という思想統制の取り締まり機関をつくること、そしてこれが政府の権限の及ばない独立機関であることこそが恐ろしいのである。廃案以外に道はないのである。

 同法案は法制局の承認を得ているという。憲法違反ではないという。憲法九条に関しては、何かというと左に味方してうるさいことを言う法制局が、こんなあらさまな民主主義体制の否定に対し寛大で、許容的である。

 これから法務省はあらゆる官庁の中で最も危険な官庁となるかもしれない。B氏も言っていたが、人権擁護法のモデルは韓国の盧武鉉政権にあるのではないか。

 私は『諸君!』5月号で、国家の中に党を置くナチスや旧ソ連の体制の考え方が北朝鮮をへて、韓国、野中広務、公明党へと流入していると観察している。

 以上とは別に、昨日私がある自民党議員から直かに聞いた話では、この件は24日の山崎拓氏の福岡補選に公明党の協力を得るための布石とみられている。法案への協力のいかんで何千票だかが動くのだ、福岡に自民党は敗けてもよいのか、というたぐいのおどしめいた言葉が古賀氏の口から出ていたそうである。

 山崎拓氏の復権と秤りにかけるようなレベルの問題ではあるまい。何を勘違いしているのであろう。

 推進派議員の名前を調べて、どうして自由社会の原則に反するこんなバカげた法案に賛成するのか、問責するべきだろう。(メールなどをしらべる必要がある)

 反対派議員、古屋圭司、衛藤晟一、古川禎久、城内 実、亀井郁夫他多数の方々の努力をねぎらい、ひきつづき支援の声をゆるめないようにしよう。

前橋講演における皇室問題への言及(六)

●日本の皇室

 日本の皇室というのは神主の代表で、言ってみれば神話の系譜を継承している神主の代表でありますから、祭司やお祭りの主でございまして、外交なんて関係ないんです。従って皇室外交という言葉を作った人は罪が深いと思います。皇室に外交を求めてはいけないのです。皇室外交を期待して嫁がれたりすると、それは小和田家の雅子様の父上が誤解、誤認を与えて嫁がせたことになるのではないかと私は思います。

 皇室外交。それは存在しないのです。社交はありますけど。社交と外交は別ですから。それらのことを考えますと、それでもなお皆さんはこうおっしゃると思うのですよ。「なぜ男系でなければいけないのか。」説明がつかないではないかと現代人は言いたがりますが、天皇制度そのものの説明がつかないのではないですか。そんなことを言い出したら歴史史上のことは何でも説明がつかない。「なぜ男系でなければいけないのか」に説明はいりません。なぜ理由説明がいるのでしょうか。いらないんです。それが歴史というものなのです。歴史というものは説明を超えているものなのです。

 それからこういう人もいますね。古い時代のことなのに正確に系譜をたどれるのか。途中でいろんなことがあったじゃないか、と。血筋について正確かどうか分からないじゃないか、と。そうです。それは分かりませんと申し上げるしかない。そんなこと正確かどうか議論する必要はない。そういうものなんですよ。

 ですから過去にそういうことがあったということと、我々がそれを継承してきたということがあるだけです。それに違反する事実はひょっとしてあるかもしれないが、言い出せば切りのない屁理屈であって、疑い出せば「解釈」が生じるだけだというふうに申し上げるしかない。「解釈」は人間の数だけあり得るのです。だとしたら過去に起こったことはそのまま尊重しなければいけません。そこでそれは終わるということを意味するだけなのです。

 非常に大事なことを申し上げますが、皇室を崇拝している方にもかなりセンチメンタルな人がおられまして、皇室というファミリーが大事だと思っているのですが、歴史が大切なのです。歴史は皇室というファミリーをさえ超えているということを認識してみる必要があるのではないでしょうか。確か水戸学でもそういうことを言っていましたね。

 いろんな問題がございますが、今日私は初めてこういう意見を公的な場で自分の考えとして述べたのでございまして、実際にはまだそれほど深く勉強している訳ではないので、これからもうちょっと研究します。でも私の見通しは大変困難な今日の時代に関するものです。津波に押し寄せられる防波堤の一角が戦後ぼやぼやしているうちに破られ、本当に取り返しのつかない事態、そして左翼の憲法学者たちが何十年か後に嘲りの声を上げるのを黙って指をくわえて見ているほかないような時代を少しずつ迎えつつあるということに、皆さんの注意を向け、ちょっとギョッとする話で本日の講演をスタートさせてもらいたいと思った訳であります。


(追記)なお、これで終わらず『正論』4月号の私の詳しい皇室論を読んでください。同論は5月刊行予定の新刊『民族への責任』(徳間書店)にも入っています。

2005年04月20日

「人権擁護法」という狂気の法案(その九)

 心配されている「人権擁護法案」の行方は、21日(木)午後4時からの法務部会でいよいよ黒白つける最終局面を迎えるという情報が入っている。

 法案の推進派は、自民党が24日の補欠選に公明党の協力を得ようと努めている状況を利用して、それ以前に一気に決めようとしているようだ。郵政民営化をめぐるドサクサも利用されるかもしれない。

 修正案ではわざと国籍条項を外しておいて、最後の段階でこれを入れて、採決に持込む可能性があるとみられている。

 しかし、あの法案は国籍条項さえ入れればそれでいいという内容ではない。そもそもどう修正しても、直しようのない法案、成立してはならない法案である。

 反対派の議員諸氏の息切れが心配である。次の反対派の議員にメールで応援をお願いする。

【反対派】
古川禎久(衆・宮崎3区) FAX:03-3506-2503
城内 実(衆・静岡7区) minoru.kiuchi@nifty.com
亀井郁夫(参・広島) FAX:03-5512-2634
衛藤晟一(衆・比例九州) info@eto-seiichi.jp
柴山昌彦(衆・埼玉8補) info@shibamasa.net
谷 公一(衆・兵庫5区) info@tanikouichi.jp
佐藤 錬(衆・九州比例) satoren@isis.ocn.ne.jp
小林興起(衆・東京10区) FAX:03-3597-2888
山谷えり子(参・比例)eriko_yamatani@sangiin.go.jp
荻生田光一(衆・東京24区) hagiuda@ko-1.jp
早川忠孝(反対派・参・北関東[埼玉4区])info@hayakawa-chuko.com
森岡正宏(衆・近畿比例) webmaster@m-morioka.com
古屋圭司(衆・岐阜5区) furuya@ka2.so-net.ne.jp

 また、20日9:45~10:00、次のような反対デモが計画されている。詳しくは以下を見てください。積極的なご参加をお願いする。

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4月20日 水曜日 デモ と 集会

9:30 憲政記念館集合

 憲政記念館は、国会議事堂正面に通りをへだててある公園(右側)の隣(皇居より)です。最寄り駅は地下鉄国会議事堂前駅②出口。桜田門駅①出口。永田町駅②出口。何れも歩10分程度。または、JR有楽町駅からタクシー。

 9:45 デモ出発
10:00 デモ終了

★大きい紙に反対を表明する文章を書いて 集まってください。

2005年04月19日

前橋講演における皇室問題への言及(五)

●皇室の婚姻

 しかしはっきり言って、戦後60年放置していた、そして必ず皇子様がお生まれになるだろうと何となくみんなそれを期待してきました。私は宮家の問題に関しましては、今の陛下が美智子皇后様、つまり民間人と結婚なされたときには旧宮家の中で憤慨の声を上げていたのをテレビで覚えていますよ。当時。ところが皇太子殿下がハーバード大出、東大出の学歴エリートと結婚なされたときには、すべての旧宮家、旧華族は寂として声なく、結構でございますということでした。もう時間がたって、諦めてしまったのだと思います。

 天皇制度というのは、みなさん、民主社会の持っている日本の競争原理から離れているものではないでしょうか。競争社会、近代社会で出世して戦って、そういう競争原理から遠いところにあるのが天皇家だと思うんですね。地位は隔絶したものだと思うのですよ。ところが、東京大出、ハーバード大出の学歴エリートというのは言ってみれば近代競争社会の頂点を形成するもので、そうした方と婚姻が行われたというときにですね、すでに危機が胚胎したと私には思えてなりません。

 つまり天皇家自身が万世一系の天皇制度を無力にする皇位継承を繰り返されているのではないのか。それをお諌めるものもおられませんでした。園遊会で日の丸、君が代普及への努力を進言する者がおられた時に、陛下が即座にネガティブな反応をなさったご発言をニュースで知って、ああ何か恐れておられるものがある、陛下は何かをこわがっておられるという胸が痛む思いが致しました。つまり陛下のご意思がそういうものであるならば、もはや我々の手に負えるものではないが、しかしながら聞くところ陛下は女帝でいいと必ずしもおっしゃっていないという話でございます。何か期待するものがあるようなことをおっしゃっているという風にも伺っております。詳しいことは分りませんが。

 いずれにしましても、この問題を長くお話しても私にも専門でないのでどんどん動いていくこの時代が怖いものですから、その象徴的な一例としてこの国が津波に脅かされてあっという間にこの危険な時代にたちいたってしまうのではないかという不安を申し上げる上で、皇位継承のテーマがその不安の最初の表現なのでございます。

 皆さんはきっとそこまで考えなくていいのではないかと仰言るでしょう。イギリスやヨーロッパの王室を見たらいいじゃないかと、こう新聞は書きますよね。そういう意見は圧倒的に多い。ところが、日本の皇室とヨーロッパの王制とは違いまして、古代から連綿と続いている王家は日本しかないですよね。それ以外は中世末からですから。もう一つ大事なことはイギリスの王室、オランダの王室、スウェーデンの王室はみな相互に婚姻を重ねます。国民は国境を画していましたが、王家だけは国境を越えて昔から自由に婚姻関係を結んでいるのはごらんの通りでございます。それに対して、日本の皇室が外国人を迎えるということは考えられません。

 それは日本が島国で閉鎖しているからでしょうか?そうではない。ヨーロッパの王家は日本の旧大名と思えば分りやすいのです。旧大名は互い藩を超えて婚姻を結び合い、それから改易されて城替えがよくありましたよね。例えば、熊本城は加藤清正の城でしたが、細川家に改易されたとか。そういうことであり、それからお興入れも国境を越えて自由に行われた。ちょうどヨーロッパ全体と日本列島というのがパラレルであると考えると分り易い。日本をイギリス、オランダ、スウェーデン、スペインという国と一つ一つパラレルと考えるのではなくて、ヨーロッパ全体と日本が一つだとこういう風に考える。歴史的にそういうことが言えます。

 そういう風に考えれば、法王というのが向こうにいましたが、日本の天皇というのは法王のような役割を一方では果している訳でございます。政治権力は別の者が権威を握るというのが日本の天皇制度ですから、法王みたいなものです。もっとも法王はヨーロッパではすごい権力を持っていましたけどね。ですからそういう風に考えますと、どうもイギリスの王室がどうだとか、オランダの王室がどうだとか比較に出すのは」当を得ていない。

2005年04月18日

前橋講演における皇室問題への言及(四)

●30年後を憂慮する

 そんなことを考えますと、万世一系の天皇制度が危いところに来ているということが今分ります。このことを非常にいろんな方が言い出しています。高崎経済大学の八木秀次氏、若い憲法学者が言い出していますし、小堀桂一郎氏やその他いろんな方が発言なさっておるのですが、私が実はこのことで心を痛め始めたのは左翼の論客が、マルクス主義の憲法学者がこのことに気が付いていることです。

 すでに私は論文を二つ三つ読んでいます。憲法学者は圧倒的に左翼の人が多い。保守の憲法学者というのは本当に数えるほどしかいないのです。保守系の思想家というのは概して文学者が多いのですよ。私みたいに。ですから気が付かないですね。普通の人は皇室典範を読みませんし、あまりそういうことを日常的に考えませんから。

 こういう時局になってみて初めて法律学者が役割を果たすべき時ですが、その時ちゃんと敵には凄い法律学者がいるのです。共産党系の憲法学者が「万世一系の天皇は男系であって、もし女帝ままでいけば30年後はしめたものだ」ということを何となく臭わせるようなことを言っている訳ですよ。「しめた」という言葉は使っていませんけども。

 つまり、天皇制をなくそうと思っている勢力にとって、時期が到来したと。これはなし崩しにこのままいってしまったら、みんな国民は深く考えないから「女性天皇万歳」と言っているうちに30年たち、天皇否定論者が一斉に「ああ今の天皇制度はもはや歴史上のものではない。万世一系とは言いがたい。形骸化している、にせものだ」という批判を必ず言い出すに決まっています。

 その時、保守側が守ると思ったって、もう間に合わない。守ろうと思ったって打つ手がない訳ですよ。それらのことを知っている学者、あるいは宮内庁の長官をなさっていた方や皇室関係の学問を積んでいる人や古代史に通じている人が日本にはいっぱいいますが、政府の今の懇話会の中には入っていないのですよ。

 ですから「30年後を憂慮する」というのが、私が今一番考えている不安です。しかし非常にこれは難しい問題だということです。理由を申しますと、宮家は4つしか残っていなくて、ご承知のように大正天皇には男子のお子様がおられます。昭和天皇以下、秩父宮、高松宮、三笠宮でございますが、秩父宮、高松宮家にはお子さまはなく、三笠宮は今の世代のあと、女のお子さんがおられるだけです。それ以前の天皇、明治天皇のお子様はみな内親王であられる。そうしますと、男系というのを遡ると、江戸時代に遡らないと見つからないということになる。

 つまり江戸時代に確立していた宮家をGHQが廃絶してしまいました。その宮家に復活していただかないと、男系はたぶん得がたいということになる。歴史を見ると、そういう風に思い切って幾代も遡ったことはいっぱいあります。7代ぐらい前に天皇家の血筋を遡るということに国民の理解が得られるか、という問題がもう一つありますね。いち早くそこまで気が付いた政府側は「国民の理解が得られる範囲で」ということで「女帝よし」としようと、押し切ろうとしているのではないかと。私が今述べたみたいなことは気が付かないはずはない。気が付いてあえて、ということではないでしょうか。

 さあ、僕は非常に不安です。というのは、方法としては宮家を復活して江戸時代につらなる旧宮家であろうとも皇統、男子系統の皇統の方々で「皇室に戻ってもいい」という方々を秩父宮家や高松宮家の養子に迎えて、そしてその方と最も皇統に近い秋篠宮の内親王様や雅子様の内親王様などに結ばれていただくというような、直系とそれから今の天皇家のファミリーの血のつながりとのバランスというのを考えるしかない。

 しかし、そういうことまでを画策してテニスの恋の物語とか、そういう物語を作らないと国民が納得しない時代ですから、うまくいくかなあ、遅すぎないかなあと、私は強硬な原理論を唱える人に対しては果してうまくいくものかなぁという不安を申し上げる。しかし、また、安易な女性肯定論を言う人には「いや30年後が怖いよ。これは天皇制がなし崩し的になくなるということを意味するのだからね」と言わざるを得ない。非常に難しい問題です。

2005年04月17日

前橋講演における皇室問題への言及(三)

●女性天皇について

 ところがここにきて面倒な問題が沸き起こっております。実は専門の法律学者が主に発言すべき問題かと思っておりますが、皇位継承を考えるための懇談会というのが開かれました。第一回の会議も行われたようでございますが、私の知るかぎりでは専門知識を持つ人は一人しか入っていないように思います。

 そして、「女性天皇を認めよう」という簡単な答えで決着をつけようという官僚サイドの意図が、あるいはまた小泉首相の意図が最初から見え見えであるという粗略な印象を抱いております。小泉さんは最初から思い込みの強い方で、北朝鮮との国交回復、郵政民営化、もう決めたらワンパターンのアイデアにこだわる人であります。しかもスタートを成すとき、起点を成す問題点にそれほど深い考察を加えておられるようにみえない。知識も持っておられない。 

 皇室の問題を素人ばかりの集団で、かのジェンダーフリーの専門家が一人入っているような懇談会で、官僚やその他の世界で功なり名遂げた方であるかもしれないけど、歴史のことはほとんど知らない方々を集めて押し切ってしまっていい問題だろうかと思います。時間も足りないのじゃないかと不安を抱いています。9月までに答えを出すなんていうのは拙速です。3回か4回の会議で答えを出して、それで来年法律を作って決めるなんというので果していいのだろうかと不安を抱かざるを得ません。

 その理由は、万世一系の天皇の系譜を維持するには男系でなくてはならないという原則です。それはみなさん、新聞で論じられていますからお耳にしていると思うわけですが、女性を天皇にするということと、女系、女性の系列を皇統にするということとは別のことです。

 過去にわが国には8人、10代の女帝がございました。古代史に6人、江戸時代に2人。その女帝の方々のお子様が帝位につく、すなわち皇統を継承した例は一つもないのです。夫君である天皇と死別したお后が、自分の子供、あるいは皇子が、あるいは甥が、大きくなって帝を継ぐまでの中継ぎ役として女性天皇があったというのが現実でございまして、女性天皇がヨーロッパの王室と比較してこうだとか、男女平等の時代になったからこうだとか、という風なことをいって、歴史の事実を覆していいのだろうかという疑問を強く抱かざるを得ません。

 その心配は強く国民の中の歴史を知る人、保守系の皇統を尊重する人々の中から今澎湃と沸き起こっております。私だけでなく多くの人がそういう声を上げておりまして、何とかして男系に戻さなくてはいけないのではないか、と。

 ご承知のように戦後GHQが11宮家を廃絶してしまいまして、以来、今の天皇家の直系だけが宮家に残っているということでございます。他の系列の宮家を復活して将来に備える必要はないのだろうかと、そう正論を唱える人は少なくないのでありますが、しかし私自身はすべては遅すぎるのではないかという不安も強く抱いているのでございます。

 と申しますのは、それでは女帝ではなぜいけないのか?女帝ではいいのですけども、女系ではなぜいけないのか?今まで女帝は先ほども言ったように何人もおられる訳ですけども、大体女帝でご結婚されている方はおられないのですよ。女帝はみな寡婦であるか、生涯独身であるかのいずれかでした。すでに夫が、まあ天武天皇と持統天皇の関係とかですねぇ、夫が亡くなられた後、継いだケースはもちろんあるのですけれど、それであってもあと独身で通されている。

 ですから、今もし愛子様が天皇を引き受けて、そして相手になる男性の人が何十年か後に選ばれたとしても、その方をお呼びする呼び名が日本の歴史の中にないのです。男性の、つまり女帝のお相手というのが今までないのですから、その方の呼称がないのです。そのことも我々が考えてみなくてはならない問題だろうと思います。

 つまり、すべての女帝は中継ぎ役であって、宮家から男性の、皇統の男系の方を内親王と結婚させて、そして次の天皇を生み出す。それまでの中継ぎとしての女性天皇、時間稼ぎの、それが江戸時代もそうでございます。

 あるいは、何世代か前の別系列の天皇の血筋を引き継がせる。江戸時代における最後のケースは光格天皇という天皇ですが、この天皇の系譜がまっすぐ今の昭和天皇まで続いているということになっております。

2005年04月16日

前橋講演における皇室問題への言及(二)


●強い危機感を抱く

 「国家解体をどう阻止するか」といういくらかおどろおどろしいタイトルでありますが、解体しかかっているし、すでにしているのではないかと、むしろ強い危機感を抱いていますゆえに、こういうタイトルにしております。この間津波が南アジアを襲い、町に大きな水が流れ込む光景をテレビでみました。一番烈しい画像では建物そのものや車が何台も水に浮かんで押し流されていく姿が見えまして、これはすごいものだなと思いました。引いたあとのつめ跡、残骸・・・・・まあ私、今の日本を見ていて、水際で津波を待っている心境というのがいわば、私の心境なのです。そういう津波にいつ襲われてもおかしくない、そういう状態ですよ、と申し上げたい。それに対し何の備えもない。色々備えがあるように聞いておりますけれども、実際に手が打たれていないし、考えは語る人はいるけれども間に合わないように思う。

 今日は一見して相互につながりのないいろんな種類の問題についてお話したいと思っております。一つは皇室の問題、二番目は南の島々の防衛の問題、それから三番目は、といっても全部底流ではつながっているのですが、国の外でなく内側の問題。つまり教育や少子化、そしてジェンダーフリーの問題など、これら全部がひとつながりであると私には思えてなりません。すなわち、内側がグラグラと解体しているときには、外から敵が忍び寄ってきても気が付かない。

 あるいは現にもう何十年も前から外から侵害されていても打つ手を打ってない。ですからもう間に合わないところに来ているという、その目の前にいて、しかも手足を動かそうとすると、足元の国民の心が麻痺したようになっている。そして麻痺させるような解体運動が繰り広げられていて、手足を不自由にする勢力が大きな力を国内で発揮している。こういう現実を目撃し、観察してきたつもりでおりますので、皆様に少しくはっきり見えるようにお話ししてみたいという風に思っているのです。


●皇室問題について

 最初のテーマは、非常に難しいテーマだとあえて申し上げるつもりでございます。つまり皇室の問題です。わが国のこの10年から15年の間に、経済の方面でバブル崩壊、そしてまた道徳の破局、様々な頽廃の姿をみました。すべて昭和天皇亡きあとに起っていることですね。この国民が自分たちを歯がゆく思っているゆえんはどこにあるか分かりませんが、ソ連の消滅で冷戦に終止符が打たれたあのときは、アメリカから「第3次世界大戦の勝者は日本であった」という、忌々しげな声があがったのを覚えておられると思います。これはつい15年ぐらい前の話です。

 そのころは小中学生の数学と理科の国際学力はつねに日本が一位でした。治安もよかった。犯罪検挙率も高かった。中学生の校内暴力は既にありましたが、不登校とか引きこもりとか、援助交際などということは、そんな言葉もなかった。政治への不満は強かったけれども、「官僚が一流だからこの国は大丈夫だ」という声が世上を覆っておりまして、事実その通りであった。官僚は何よりも愛国心があった。

 対米自動車輸出の自主規制で指導力を発揮した通産省は、産学協力の見事な見本としてアメリカの嫉妬を招いたほどでした。これは遠い昔の話ではない。1989年、ベルリンの壁の崩壊から起った世界の激変、それが昭和天皇の崩御となった年と重なります。すべて悪いことは平成になってから起ったことなのです。だから私たちは確実でしっかりしていたつい先日までの日本をなぜ今取り戻すことができないのか。そのことについて考えざるを得ない訳です。昭和天皇が亡くなられたら、何かがありゃしないかという国民の不安はずっとございましたが、まさか、という思いが私はしています。

2005年04月14日

前橋講演における皇室問題への言及(一)

 2月10日に群馬県前橋市の正論懇話会で、「国家解体をどう阻止するか」といういささか仰々しいタイトルを振り翳した講演をした。

 皇位継承問題、南西諸島と台湾をめぐる中国との摩擦、男女共同参画や過激な性教育のことなど多方面にわたる話題だったが、天皇制度についての数少い私の発言が講演の冒頭でなされている。

 11日の産経新聞の講演要旨にこの冒頭の部分だけが取り上げられた。

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 日本解体に警鐘
 群馬「正論」懇話会 西尾幹二氏講演

  第6回群馬「正論」懇話会(会長・金子才十郎群馬県商工会議所連合会名誉会長)が10日、前橋市内のマーキュリーホテルで開かれ、評論家の西尾幹二氏が「国家解体をどう阻止するか」と題して講演した=写真。

  西尾氏は、国家解体につながる動きとして女性天皇論の台頭、防衛政策の無策、ジェンダーフリーの流行を指摘。「日本は解体してしまっているという危機感を抱いている。手を打たないと間に合わない」と訴えた。

  特に、「女性天皇」容認論について、「天皇は、万世一系で男系でなければならないとある。過去の女性天皇は中継ぎ役だった。歴史の事実を覆していいのか」と強調。「(女性天皇が誕生すれば)天皇制否定論者が、『万世一系ではない』と言い出すはず。30年後を憂慮する」と述べた。

 産経新聞2月11日付 2面

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 翌日、畏友小堀桂一郎君――私の大学時代の同級生であることは知る人は知っていよう――から、心強い応援だという葉書をもらった。

 私は小堀君ほど天皇とその制度について詳しい知識を持たない。普段法制的な面にはあまり関心もない。私がどう考えているかを多分彼はそのころ知らなかったし、自分と相容れないと思っていたかもしれない。

 前橋に行ったのは2月10日で、それから丁度一週間で『正論』4月号の拙論「中国領土問題と女帝論の見えざる敵」(短期集中連載第二回)を書いた。

 例のライブドアがニッポン放送株の買い占めを始め(2月8日)、マスコミが騒然となっていた頃である。

 『正論』4月号が出た3月初旬に小堀君から良く言って下さったという感謝と喜びのことばを綴った書簡をいただいた。彼が最近同誌5月号でこの問題をあらためて歴史を掘り下げて徹底して論じたことはご覧の通りである。私にその根気も知識もないが、私には私に特有の論法がある。今の日本人を説得するにはどうしたらよいか、という文章上の戦略がある。

 前記「中国領土問題と女帝論の見えざる敵」で皇位継承問題について言及したのはわずか20枚弱だが、「女帝でいいじゃないか」という小泉首相と同じような考えの人が日本国民の大半であることを私は知っている。

 保守層でもそうである。「路の会」でもそうだった。天照大神が女神なのだから女帝でいいのではという人さえいた。そういう人々を前提にして説くほかないというのがこのデリケートな問題のむつかしさだと思っている。

 だからこのテーマに関しては頭ごなしに、叱りつけるような調子で言っても説得力がないのである。未来への不安と予想を先取りするようにして、手遅れの意識を共有しながら語りかけるしかないのだ。

 私の言わんとする本意はどうか4月号の拙論を見ていただきたい。また説き方にすべて賭けた論述の仕方に目を向けてほしい。たゞ、丁度これを書く直前に、私は前橋で同じテーマについて簡略に語った。本当に簡略に、である。

 皇室問題についての私の発言は少い。たまたま乞われて講演録をまとめたので、この部分だけ掲示することとした。

2005年04月11日

東大文学部への公開質問状


 八木秀次さんとの共著
『新・国民の油断』(PHP研究所)に、「上野千鶴子」問題で、付録3として東大文学部に対し公開質問状を掲げている。

 同書は現在のところ三刷で1万3000部である。今の時代に多いといえば多いが、人が気づくには少いといえば少い。インターネットの伝播力を期待してここに再掲示する。

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 公開質問状

 「上野千鶴子」問題(本文169~178ページ、212~217ページ、225~232ページ参照)については、東京大学の社会的責任を問う必要があると考えます。

 『女遊び』(口絵6上、本文172~178ページ参照)は、上野千鶴子氏が東京大学文学部教授会に迎え入れられる前、平安女学院短期大学教員の名で出された本で、東京大学の資格審査の際の参考文献に当然なっていたはずですから、同書と同書著者を受け入れた社会的責任が、東京大学文学部長と社会学科主任教授とにあると思います。もちろん、それに先立ち、文学部教授会全体にも社会的責任があります。

 憲法で「表現の自由」と「学問の自由」は保障されていますが、表現の「評価」は無差別ではありません。社会的影響力の大きい機関は「評価」に対し、当然、社会的責任を有しています。

 『女遊び』がどのような文献であるかは本書中で紹介したとおりで、必要なら古書でなお入手でき、再調査が可能でしょう。関係各位はご調査のうえ、判断や評価が適切であったか否かを、いまあらためてマスコミにおいて公表してほしい。

 もちろん機関としての判断決定の見直しは、いかに失敗であるとはいえ、もう時機を失しているでしょう。けれども、文学部所属の教授たち、ことに社会学科所属の関係者が上野千鶴子氏の「評価」の見直しを、己の学問的良心に照らして再度ここで行うことは可能です。私たちのこの提案に対し、開き直って彼女を礼賛するか、賛同して彼女を批判するか、いずれも自由ですが、沈黙するのは社会的無責任の表明と見なします。開き直って礼賛する人の論法は見物で、いまから楽しみにしています。

 なお、『女遊び』は学術的著作ではないので、審査対象からは外していたという見え透いた逃げ口上は慎んでいただきたい。業績の少ない若い学者の資格審査においては一般著作も参考にすべきで、それを怠ったとすれば、かえって問題です。

 まして『女遊び』は、上野氏のその後の反社会的思想と日本社会に及ぼしている悪魔的役割と切り離せない関係にあるだけに、見逃したという言い方は弁解としても成り立たないと思います。

平成16年12月8日
                               西尾幹二・八木秀次

【東京大学文学部 学部長および社会学講座教員】
●平成4年 文学部長 柴田翔 /社会学教授 庄司興吉 /助教授 盛山和夫/似田貝香門
●平成5年 文学部長 西本晃二 /社会学教授  庄司興吉 /助教授 盛山和夫/上野千鶴子/武川正吾/似田貝香門
●平成6年 文学部長 藤本強 /社会学教授 庄司興吉/ 似田貝香門/稲上毅/盛山和夫/助教授 上野千鶴子/武川正吾
●平成7年 大学院人文社会系研究科長・文学部長 藤本強 /社会学教授 庄司興吉/似田貝香門/稲上毅/盛山和夫/上野千鶴子/助教授 武川正吾/佐藤健二
『全国大学職員録 国公立大学編』(廣潤社)より

上野千鶴子氏・略歴
昭和23年(1948)年7月12日生まれ。石川県立二水高等学校卒業。昭和47年、京都大学文学部哲学科社会学専攻卒業。昭和52年、同大学院文学研究科博士課程単位満期退学。同年、京都大学大学院文学研究課研究生。昭和53年、日本学術振興会奨励研究員。昭和54年、平安女学院短期大学専任講師。平成元年、京都精華大学人文学部助教授。平成5年、東京大学文学部助教授(社会学)。平成7年、東京大学大学院人文社会系研究科・文学部教授(社会学)

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 以上の通りである。広い読者の注意を喚起したい。ここで取り上げている『女遊び』がどういう本で、なにゆえに公開質問状で関係機関の責任を問うまでしたかは、『新・国民の油断』を見て、判断していただきたい。

 同書は1月26日刊で、年初に東大文学部長と社会学科主任教授には版元より贈呈されている。

 あらためて彼らの社会的責任を問いたい。

2005年04月08日

『人生の深淵について』の刊行(五)

 日垣隆さんが『人生の深淵について』を、ご自身の会員制のホームページで取り上げてくださっていることを知った。関連部分が知人から送られてきたからである。

 有料サイトを無断で引例するのは失礼かもしれないが、拙著に関連する部分だけなのでお許しいただきたい。

 日垣さんは1954年生、初期の作品『〈檢証〉大学の冒險』を拝読した覚えがある。その後随分本を出されている。文藝春秋読者賞、新潮ドキュメント賞などの受賞者でもある。近作では『世間のウソ』(新潮新書)、『売文生活』(ちくま新書)が話題である。

 ことに後者は漱石の時代以来の作家の原稿料の研究を通じて、日本の著述世界の特徴を描いた作品だとの紹介があったので、面白そうだな、読んでみたいなと思っていたところだった。

 日垣氏は私について次のような記憶を語っている。

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 『日本の教育 智恵と矛盾』(中公叢書)で臨教審を批判した氏が、その後、中教審のメンバーを引き受けたこともちょっとした事件であったが、そのなかで果たされた努力と孤軍奮闘は、それ以上に鮮烈な出来事だった。中教審での役人に対する絶望の深さと、転んでもただでは起きぬ強靭な論理的提言力は『教育と自由』(新潮選書)と『教育を掴む』(洋泉社)に結実する。
(中略)
 氏の名を知る若い人は、せいぜいかつての「朝まで生テレビ」でのやや頑迷な物言いや、「新しい歴史教科書をつくる会」での抗争を思い浮かべるかもしれない。私にとって西尾氏は、思索の人であり、数少ない論理的な日本語の書き手である。

 以下、最新刊『人生の深淵について』(洋泉社、2005年3月刊)から引用する。

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 私は自分の本の中から自分で引用して、これは名言だろう、ここをぜひ読んでくれというわけにはいかない。しかし日垣さんのような人が抜き書きしてくれた箇所を引用することは許されるだろう。

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 《生産的な不安を欠くことが、私に言わせれば、無教養ということに外ならない。それに対し絶えず自分に疑問を抱き、稔(みの)りある問いを発しつづけることが真の教養ということである。》(「教養について」同書P198)
 
 《退屈は苦痛であり、退屈をなくすために人類は暴動を起したり、わざと自分の身を傷つけたり、果ては自殺するようなことさえ敢えてして来た。退屈がわざわいの根源であることは、古今の知恵者が倦(う)むことなく語って来た通りである。けれども、もし人が目の前に起こるたいていの出来事に退屈を感じないでいられるとしたら、その人の精神がむしろ貧弱であることの現われだし、いかなる事柄もいっさい退屈を感じないのだとしたら、痴呆にも近い。人間が退屈を感じるということは、まさに、知的活動をしている証拠なのである。
 
 知性の中には人間を複雑にし、不活性にする要素もあるが、また人間を冒険に駆り立てる要素も含まれている。知的冒険ほどスリルに満ちたものはなく、いったんこの味を覚えた者は、他のどんな仕事も、労働も、単調に見え耐え難いであろう。(中略)
 
 たしかに世の中には、自ら退屈することを知らぬほどすこぶる精力的で、忙しく立ち働き、この人生が面白くてたまらぬという顔をしている、じつに退屈な人種がいる。自ら退屈しない人間は、いつの世にも、他人を退屈させる存在である。》(「退屈について」同書P88~91)
 
 《すべての人間に人間としてのぎりぎりの自尊心が保障されたことは、いわば「近代」の証しであり、文明の勝利であろう。しかしそこにまた別の問題が生じた。万人に等しく自尊心が保証されたときに、自尊心の質も下落し、これだけはどうしても譲れないという自分に固有の領分に、誇り高い孤高の薔薇が開花することは難しくなった。
 
 人間がみな隣人仲間と同じように扱ってもらうだけで満足するのならば、ひとり高い自尊心を掲げ、それゆえに深く傷つき激しく怒るという人間の情熱は、尊重されなくなるだろう。しかしこれまで偉大な思想を生み、偉大な業績をあげて文化に貢献して来たのはこうした孤高の自尊心の持ち主たちに外ならないのである。》(「怒りについて」同書P14)
 
 《一般にマスコミ関係者や大学の知識人や評論家やジャーナリストは、政治や経済の実験から切り離されている。収入も低く、知的にのみ秀れていると自惚(うぬぼ)れている人が多い。そのために、概してこの内向的復讐感情(ルサンチマン)の虜(とりこ)になりやすい。新聞・週刊誌・テレビなどのなんとなく反体制的に偏向した編集の仕方を、そうした背後の心理原因から眺めてみる心掛けも大切である。
 
 人間にとってどうにも解決のできない困難な相手は、社会的・政治的な課題ではなく、自分という存在に外ならない。自分ほどに困った、厄介な相手はこの世にいない。〔中略〕
自由を妨げているのは自分であって、自分の外にある社会的障害ではない。》(「宿命について」同書P170~171)

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 日垣氏は同文の他の個所でこの本は「名著」だと言ってくれている。

 しかしなかには三木清の「人生論ノート」を思い出させて、しゃら臭いと言わんばかりの皮肉を言う友人もいる。人さまざまである。三木清とは似ても似つかぬ心の世界を展開していることは、読んだ人には誤解の余地はあるまい。

 徳間書店の元編集長の松崎さんが良質の短編小説集を読んだときのような読後感がある、と言ってくださった。つまり、読み易い一冊であり、哲学書ではないのである。

2005年04月05日

『人生の深淵について』の刊行(四)

お知らせ

 ★出版 5月号の月刊誌の私の仕事は次の二作である。

(1) ライブドア問題で乱舞する無国籍者の群れ
  『正論』45枚 短期集中連載「歴史と民族への責任」第3回

(2) 日本を潰すつもりか――朝日、堀江騒動、竹島、人権擁護法――
  『諸君!』45枚

 ★出演 4月8日(金)午後9時~10時 日本文化チャンネル桜 
 私が次のトーク番組に単独出演します。ミュージック・スペシャル(第一回)
  司会 烏丸せつ子(女優)、扇さや(ジャズ歌手)

 私の少年時代、喧嘩、初恋、好きな女優、好きな音楽、好きな映画、カラオケなどを語る。そして私も一曲歌います。
(チャンネル桜をごらんになりたい方は Tel 03-6419-3911へ)

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 『人生の深淵について』の刊行(四)

 私は道徳というものが嫌いである。正義も嫌いだが、道徳が顔を出すと、人間を考えるうえですべてが台無しになる。

 この本の冒頭は「怒りについて」と名づけられている。怒りは恐しい。人は怒りに駆られると何をしでかすか分らない。自分を制御できなくなった怒りは身を亡ぼす。現代では犯罪の現場以外に、そのような怒りの爆発の機会はない。

 怒りは文明のオブラートに包まれて、個人生活の奥の方にそっと隠される。この自己隠蔽は、現代人が自尊心を失っていることとある意味でパラレルである。

 大きな自尊心を持った人だけが後世が驚く大きな業績を達成する。しかし大きな自尊心はまた同時に一身を破滅させる危い感情と隣り合わせでもあるといっていい。

 つまり真に価値のある行為は危険と一体で、道徳とは関係がないということを私は言いたいのである。道徳は人間の行為を小さくする。

 自尊心を傷つけられ、怒りで判断を失うようなことは、誰でも人生のいろいろな場面で遭遇するだろう。が、それを恥じてはならない。それくらいの愚かさを持たない人間の自尊心はたいしたものではないのだ。

 「道徳的」であることや「社会的に正しい」ことはこの場面では次元が低いのである。高い宗教心を持つ者も道徳を決して尊重しない。道徳は信仰の妨げである。信仰は危険に生きることを内に含むからである。

 さて、私の本が人生の「深淵」についてと題した理由はここから察していたゞけよう。「深淵」とはきわどい場所であり、辷って足を踏み外したら、あっという間に奈落へ落っこちてしまうこわい場所である。

 私の本は「怒り」につづけて、「虚栄」「孤独」「退屈」「羞恥」「嘘」「死」「宿命」「教養」「苦悩」「権力欲」についてそれぞれ考察している。どの語もきわどい場所を示している。「人生の深淵について」という言葉の意味が何となくお分かりいたゞけるだろう。

 完本作成のための試みなので、一般誌紙の書評の対象にはならないと思っていたら、『週刊文春』(2005、3、31)に小さな記事が出た。

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 昨今流行の浅薄な人生相談の類ではない。個人的体験と歴史の相関をふまえ、内省を重ね抽出した“モラル”の本である。保守思想家として有名な筆者の、厳しい精神修養の足跡も感じさせる。

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 それからAmazonのレビュー欄(2005、3、16)に書評(筆者kitano daichi)が出た。その一部に次の言葉がある。

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 この本が解き明かしているのは、人生の様々な問題の結論や解決では決してない。生きることのどうにもならない理不尽さ、生きる意味を知らない苦しみ、死の恐怖・・・・・軽薄な励ましに満ちた人生論が多い中、本書の人生を誠実に見つめる姿勢に深い共感を覚えた。

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 どちらも読者に甘いことばを囁くたぐいの人生論ではないと言ってくれているのは有難いし、当っている。

 その意味でこの本のカバーに大きい文字で「生きることに不安を感じ、迷ったとき思わず手にとる本がある。それが西尾人生論だ!」は必ずしも正確ではない。むしろ「生きることに自信を感じ、気力充実しているときに手にとるべき本がある。それが西尾人生論だ!」というような言葉を掲げてくれた方がこの本の実際に近いだろう。

 この本を読むにはそれなりの勇気が要るからである。おどかしているのではない。心の奥に「驚き」を感じて欲しいからである。弱い心はただ読み過ごすだけで、驚いて立ち停まることを知らない。プラトンは「驚き」こそがものを考える泉だと言っている。

 その意味で宮崎正弘さんの「国際情勢・早読み」(2005.3.11)に付記された書評は、拙著が氏の心の奥に触れたことを示す文言があって嬉しかった。

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 本書に収録された文章の幾つかは扶桑社版『西尾幹二の思想と行動』で一部読んだ記憶があるが、こうやって定本となって新しいかたちにまとまると、ああなるほど、こういうかたちに結局は落ち着いたのだと一種不思議な感慨にとらえられる。
 大方の文章は、しかも四半世紀前に或る雑誌に四年間に亘って連載され、それから二十年間、単行本にされなかった理由こそが、本書をよむ愉しみ、本質的な人生論になる。
 小学生時代のささいな友人との衝突や、疎開先でのいじめや、青年時代の友情と破裂と嫉妬のなかで、微細な風景画をみるような、詩を書く少年のごとく、感受性に富んだ心理描写が随所に出てくる。
 西尾氏が人生にもとめたもの、友人のうちの何人かが、結局はつまらぬ人生を送った経緯などを対比されながら、やはり公表を今日までひかえた人間的な動機も読みすすんでいく裡に深く頷けるのだ。
 批評家の顔、翻訳者の顔、哲学者の顔、そして「行動者」の顔をあわせもつ近年の氏の複雑な思想の軌跡は、単なる保守哲学をもとめたのではなく、モラリストとして人生の真実を求める営為であったのか、とこの作品を読むと得心がいくのである。
 嘗て『テーミス』誌が西尾さんを「保守論壇の四番バッター」と評したことがあった。この希有の行動をともなう知識人は、しかし何故に書斎から飛び出したのか?
「言葉は何千キロをへだて、何百年をへだててわれわれに伝えられるとき、どんなに厳密な仕方で再現されても、万人に等しく、同一の内容が、そのままに正確につたえられるというものではない。受け取るわれわれが千差万別であることに左右されるからである。言葉の理解は受取手いかんに依る。われわれは誰でも自分自身の背丈でしか相手をはかれない」。
だから書斎にこもりがちの「読書する怠け者」を遡上にのせて、
 「もうひとつ大事なことがある。遠い異国や遙かな過去の詩人、哲人、聖者たちの遺した言葉が、よしどんなに魅力的で、深い内容をたたえていたとしても、それらの言葉は彼らの行為に及ばない。彼らの体験に及ばない。言葉は行為や体験よりも貧弱なのである。」
 ここで西尾氏は『ツァラトゥストラ』の次の言葉を引用されている。
 「いっさいの書かれたもののうち、私はただ血で書かれたもののみを愛する。血をもって書け。そうすれば君は血が精神であることを知るだろう。他人の血を理解するなどは簡単に出来ることではない。私は読書する怠け者を憎む」。
 三島由紀夫の檄文を思い出した。
 「行動」についても次のように考察されている。
 「行動とはーーたとえいかように些細な行動であろうともーーおよそ事前には予想もしなかった一線を飛び越えることにほかならない。事前にすませていた反省や思索は、いったん行動に踏み切ったときには役に立たなくなる。というより人は反省したり思索したりする暇もないほど、あっという間に行動に見舞われているものなのだ」。
 執筆時期とは関係なく西尾さんの人生の本質をめぐる行動哲学の源泉が四半世紀前にこのように開陳されていたのだった。

       3月11日 宮崎正弘の国際情報・早読み より

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 これを読んでいて、氏はあのプラトンの「驚き」を感じて下さったのだと思った。そして、書き方から感じたのだが、氏は文学者だということである。毎日のように綴られる「国際情勢・早読み」のグローバルな情報把握力にすっかり感服しているが、根はもともと浪漫派、詩人的なところのある人なのである。

 私は宮崎さんにメイルで書評のお礼を言ったら、折り返し次の返信が来た。

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 拝復 いただいた『人生の深淵について』は、古典的名作だと存じ上げます。
 アフォリズムに溢れ、しかし実体験からの箴言がまぶされていますから感動が深い
と思います。
 じつは家内も徹夜で読んで、次は娘が読みたいと言っております。
 月末「路の会」でお目にかかるのを楽しみにしております。
               宮崎正弘

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 奥様までが熱心に読んで下さっているというのである。これには感激し、心から感謝の思いを新たにしたのだった。

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