西尾幹二のインターネット日録

『男子、一生の問題』書評

男子、一生の問題』書評

P505iS0006816027.jpg産經新聞、「旬を読む」X氏の一冊より。
哲学者 中島義道《信念の男が古希の心境》

Posted by Nishio at 2004年08月08日 09:04 | コメント (3) | トラックバック (0) | Clip!!

この記事に対するコメント

応援掲示板http://bbs7.otd.co.jp/273430/bbs_plain
で、以下のようなやり取りをしています。
関連しているので、ここに転載してみました。

以下は中島氏の書評
http://www.sankei.co.jp/news/040808/boo015.htm

=================================
1770 『男子、一生の問題』の書評について 年上の長谷川 2004/08/08 10:32
女性 主婦 AB型 広島県
中島義道さんによる、書評はかなり手厳しいものです。

三点ほど、気がついたことが挙げられています。
(1)「淋しそう」なこと・・・これは仕方ないですね。
(2)「自画自賛」が多くなったこと・・・これも
そう感じられるのは仕方ないかもしれないと思います。
(3)「能力が硬くなってきた」・・・そうかなぁ?と思うので
以下に、私の感じた書評の書評?を書いてみます。

中島氏はこう書いています。
============

じつは、日ごろ思っていることだが、彼の主張の約8割は「普通のこと」である。「健全な常識」と言ってもいい。国家を、民族を、家庭を大切にすること、自分の信念に従って、どこまでも「ひとりで」戦い抜くこと、自他の嘘を見過ごしにせず、自他のごまかしを認めないこと・・・など、アリストテレスが言ってもプラトンが語っても正しいことばかりである。だが、なぜにこうまで誤解されるのであろうか?誤解されるというより、(ある種の人々に)毛嫌いされるのであろうか?

==============

と書いています。
評論の内容は正しいのだが、毛嫌いされているという。

ある種の?・・・左の人から毛嫌いされるのは当たり前でしょう。
そうではなく、保守系の人から嫌われているという事実はあるのでしょうか?西部邁、小林よしのり氏には嫌われていますが、それ以外人から毛嫌いされている事実というものがよくわかりません。
印象操作のようにも感じられます。

そして
============

それは、時折見せる氏のどうしようもなく「硬い」態度のためであるように思う。あれほど人間がよく見える氏が、日本近代史の話になるや否や、聞く耳を持たなくなる。それも致し方ないのかもしれない。それほど、氏にとって重大な問題なのであろう。だが、世の人々は、それがいかに「正しい」としても、そうした態度を嫌う。だから、氏もますます依怙地になる。

===============

もともと「無骨なまでに自分の信念に従って生き抜いてきた(中島氏の文章より)」西尾先生が、ここで「依怙地」で、「硬い」と言われて批判されている。

私は、西尾先生の信念において、「正しい」と信じ、重大な問題である「日本近代史」の話において譲歩しないということは、欠点ではなく長所であると思うし、中島氏もそれは致し方ないとさえ言っている。それなのに、頑迷であると書いている。

矛盾しているな~~~~と思うのは素人の私だけでしょうか?

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1771 寸評! 森英樹 2004/08/08 12:52
男性 A型
>長谷川さんへ
> そして
> ============
>
> それは、時折見せる氏のどうしようもなく「硬い」態度のためであるように思う。あれほど人間がよく見える氏が、日本近代史の話になるや否や、聞く耳を持たなくなる。それも致し方ないのかもしれない。それほど、氏にとって重大な問題なのであろう。だが、世の人々は、それがいかに「正しい」としても、そうした態度を嫌う。だから、氏もますます依怙地になる。
>
> ===============
>
> もともと「無骨なまでに自分の信念に従って生き抜いてきた(中島氏の文章より)」西尾先生が、ここで「依怙地」で、「硬い」と言われて批判されている。
>
> 私は、西尾先生の信念において、「正しい」と信じ、重大な問題である「日本近代史」の話において譲歩しないということは、欠点ではなく長所であると思うし、中島氏もそれは致し方ないとさえ言っている。それなのに、頑迷であると書いている。
>
> 矛盾しているな~~~~と思うのは素人の私だけでしょうか?

これは僕の感想なのですが中島氏は「哲学!哲学!」している人なんです。彼の専門はカント哲学ですから仕方ない面もありますが未だ認識の方法に拘り過ぎです。
実は「認識」という作業はそれほど難しくはないのです。人間は自分の許容量の範囲でしか認識する事が出来ない。中島氏は認識の迷路からまだ出ていない。
一番重要なというか困難な作業は自分の納得し得る「認識」を得てからどのように自分の立場を固めるかという事です。西尾先生はおそらく既に「認識ゲーム」から抜け出し先生自身の堅固な立場から発言されている。哲学者あるいは思想家ごっこから既に離れておられる。中島氏は逆に哲学者ごっこをしているのです。
これが二者の相違点であると思います。

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1772 付け足し! 森英樹 2004/08/08 13:07
男性 A型
中島氏は空疎な形而上学をしている。自己満足度が高いという意味で!
西尾先生は実りある形而上学=人間論を展開しておられる。成熟した眼を持っている。成熟した眼とは一度未熟を経験していないといけない。一度大人になってからの幼児の眼だけが本質を見抜く。

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1774 Re:『男子、一生の問題』の書評について 桜子 2004/08/08 15:17
女性 東京都

このような書評、気がつきませんでした。
とりあえず、その箇所を東京支部板
http://www.e-towncom.jp/iasga/sv/eBBS?uid=5428&aid=2
に掲載致しました。投稿[211]です。
今日こそ、仕事をしなければなりませんので、その感想がかけません。
でも、ファン以外の多くの人も読んでみようかな、という気分になる書評ではないでしょうか。

私がみました2カ所の本屋さんでは、まだ(1週間くらい前)山積みになっていました。
うち1カ所は、前に見ましたときよりも多くなっていまして、23冊でした。(o ̄∇ ̄)o

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1775 中島義道 吉之助 2004/08/08 16:08
男性 会社員 39歳
産経を買って読んだ。
中島が最後に言っていることは正しい。
中島はスケールの小さな「哲学者」なのである。
「カントの自我論」等、彼の最良の書は別として、新書として出されてもいる彼の一般向けの本は、一冊や二冊ならともかく、何冊も続けて読むには値しない。
(中島の“ファン”などになってはいけない。)
中島は、問題意識が微視的なのである。けっして国家とか歴史に向かって行かない。

スケールの小さいのは彼の美点でもある。ヘンに元気で、空疎な言説が飛び交う中で、彼のようにチマチマと「繊細な精神」をもって卑近な現実を観察し続ける存在は貴重だと思う。

Posted by: 年上の長谷川 at 2004年08月08日 17:09 at 2004年11月30日 00:40

応援掲示板から関連投稿を転載しました。

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1777 中島氏の書評について 吉之助 2004/08/08 17:32
男性 会社員 39歳
じつは最後の段落をのぞいて、中島氏の書評はまったく意外というか、納得できない。
西尾先生の「能力が硬く」なったとは、まったく感じられない。
人には年老いて頑迷固陋になるタイプと、反対に「好爺」というのか、明るくユーモアに充ちた人物になるタイプとがあるが、西尾先生はどちらかといえば、後者のタイプではないかと思う。
「男子、一生の問題」は自画自賛だけでなく、自分で自分を笑うユーモアにも溢れている。
まだ大学教授でおられた時代に書かれた「ニーチェとの対話」より、ずっとストレートに自分の思いを語っておられるという印象を受ける。

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1778 Re:中島義道 吉之助 2004/08/08 18:25
男性 会社員 39歳
自分の嗜好を語り過ぎてるな...とぼくは中島義道の通俗本にうんざりしはじめていたが、
当の本人も反省しているらしく、今年に入って「カントの自我論」という本格的哲学書を世に出している。これは俗受けしない難しい書である。中島のこういう本こそ、読むに値する。

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1788 中島義道氏の書評 今西宏 2004/08/09 10:25
男性 自営業 63歳 A型 大阪府
 中島義道氏の『男子、一生の問題』の書評の中で、年上の長谷川さん
が引用された2番目の文章のつづきは、次のようになっています。

 ときどき、本書の行間からニーチェの「臭い」が立ち上ってくる。
 若いころあれほど柔軟だった西尾さんも、晩年のニーチェのように頑迷
 になったなあ、と思う。

 『男子、一生の問題』は、西尾先生の自伝とも言える作品です。ひょっ
としたら先生は、『わたしの昭和史』の続編が書けなかったときのために、
これを書いておられるのではないかと私は思ったぐらいです。

 だから読みながら、これは西尾先生の『この人を見よ』だなあ、と感じ
ていました。中島氏の「臭い」という下品な表現はふさわしくありません
が、ニーチェの雰囲気を感じさせるのは確かです。

 ニーチェの『この人を見よ』は、
 ・なぜわたしはこんなに賢明なのか
 ・なぜわたしはこんなに怜悧なのか
 ・なぜわたしはこんなによい本を書くのか
などの章題がならぶ一見傲慢に見える本ですが、つらぬかれているのは、
ニーチェの自恃です。

 およそ自伝である限り、どんなに注意深い書き方をしても、出てくる挿話
を自慢と受け取られるのは避けられません。謙遜や自虐にすら自慢の臭いを
嗅ぎ取られます。そんなことは西尾先生は、百も承知でしょう。

 中島義道氏は、西尾先生を「自画自賛が多くなった」と評していますが、
私は、西尾先生の自恃の表現だと思っています

===================================

1789 『男子一生の問題』に対する中島義道氏の書評について nemo 2004/08/09 12:20
男性 51歳 新潟県
 自画自賛が多くなっているという指摘と、淋しげであるという指摘は、まさに同感である。私の見るところ、これは表裏一体の現象ではないだろうか。

 新しい歴史教科書をつくる運動に身を投じたとき、古い友人たちが去っていったと西尾先生は書いておられる。漠然たるサヨクがかった「良識」の中に浮遊していれば安全だと思っている日本の知識人たち。そうした人たちからするとこの運動には「危険」印が貼りついていると感じられたのだろう。歴史教科書問題に限らないが、サヨク臭のない運動を嫌うのが戦後日本の知識人たちの風潮だからである。自分がどれほど「ブルジョワ」的な暮らしをしていようと、サヨク風の言動を保持することがいまだに知識人たちの掟なのである。最近で言えばこうしたハビトゥスは、イラク派兵問題とイラク人質問題で端的に現れている。
 西尾先生の主張の八割は普通のこと、という中島氏の書評は、したがって正しくもあり間違ってもいる。たしかに「普通の人」は西尾先生の主張を正しいと見なすだろう。しかし西尾先生が身を置いている「知識人」の世界では、「普通の人」はいまだに少数派なのである。「普通のこと」は、そこにあってはしばしば「非常識」になってしまう。
 小浜逸郎氏のように、直接「つくる会」の運動に参画せず距離をおきながらも、しかし決して単純な「アンチ」に陥らずに、いわば「好意を秘めた是々非々」といった態度で臨むこともできたであろうに――私は小浜氏の態度を良い意味で理性的だと思うが――その程度のバランス感覚も持たないほど知識人の「常識」は硬直しているのだ。それが個人的な友情にまでヒビを入れたとするなら、西尾先生の払われた犠牲は相当に大きかったのであり、そこから来る孤独を我々は正しく評価しなければいけないだろう。
 こうして西尾先生は否応なく孤独に陥るのだし、ご自身の業績を強調しないではいられなくなる。それは単なる自画自賛と言うより、成し遂げた仕事の代償として大きなものを失ったという嘆きの仕草のように思われる。

 閑話休題。西尾先生の旺盛なお仕事ぶりには驚嘆するばかりだが、『わたしの昭和史』の続編は大丈夫なのか、という危惧の念がわいてくる。村松剛が『三島由紀夫の世界』を著したのが61歳の時。彼は三島の自決以後沈黙を守り、三島に関する世間の喧噪から身を遠ざけていたが、これ以上待つと記憶が薄れる恐れがある、として旧友を論じた本の出版に踏み切った。最近は柴田翔もメモワールを出版したことではあり、西尾先生にもご一考いただきたいところだ。
 トーマス・マンの日記(没後20年は開封すべからずという遺言に基づいて1975年まで封印され、その後学者による注を付けて順次刊行され、数年前に完結。邦訳は現在刊行途中)にテクスト・クリティークを施し注をつけて刊行していたインゲ・イェンスは、ゴーロ・マン(トーマス・マンの次男で歴史家。日記完結の少し前に死去)からこう言われていたと、日記最終巻のあとがきに書いている。「あなたが知っていることを書き残しておかなければ、永久に失われてしまうのですよ。古い世代にとっては常識であることも、若い人たちにとってはそうではなくなってしまう。古い世代の知識を持ってしなければ、日記に注を付ける仕事もできないのですから」

Posted by: 年上の長谷川 at 2004年08月09日 14:56 at 2004年11月30日 00:41

人間味溢れ、著者との深い信頼感が感じられる書評であると思います。中島氏の照れも交じりましたが、好印象でした。

『・・・古希を間近にすると、どういう心境になるか・・・』という観点からの洞察は、敬愛する年輩者への「思い」が痛切に読み取れます。聡明なる西尾幹二でさえ、年齢を待つしかない。氏は『無性に寂しげである』著者を思って、ご自分も無性に淋しいのだと思います。『頑迷』も生き抜いてきた
著者への賛辞なのではないでしょうか。

『・・・思想は、これまで熱心に彼の著作をたどってきた者にとっては、取り立てて目新しいものはない。』にも同感しました。同時にわたくしは「男子、一生の問題」を読了後、後年の若い読者を想像したことを思い出しました。どこかの、見知らぬ図書館の一隅で、西尾幹二と同時代を生きているわたくしたちではない青年がふと手に取る光景・・・切望もしました。

どこか懐かしい、普遍の好著であると思います。

拙い感想、ご寛恕下さいますよう。

Posted by: 縄文ユリア at 2004年08月10日 07:36 at 2004年11月30日 00:42

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